漢字の間違い、言葉の用法の間違いはまだしも、ひらがなの間違いというのは、かなり恥ずかしいものだと思います。「は」を「わ」と書くのが典型ですが、しかし、言葉は間違いによって変化するという実証例であるかのごとく、「こんにちわ」は大手を振ってまかり通っています。遠からず「これわペンです」と書くようになるのではないでしょうか。
わたし自身、「ず」と「づ」はよくわからなくなります。そもそも、国語審議会もよくわからなかったらしく、理屈の上からは間違いとするべきものを正しいとし、正しいと考えられるものを間違いとしています。たとえば「跪く」は、言葉の大もとから考えていくと「ひざまづく」のはずですが、「ひざまずく」としなければいけないそうです。理屈に合わないことは不快ですが、ルールではそうなっているのです。
「大通り」はひらがなで書くと、「おおどおり」ですが、「おおどうり」と書く人もいます。まったくもって母音は面倒ごとのはじまりで、わたし自身も「扇」と変換するつもりで「oogi」とタイプしてから、ちがった、といってタイプし直したりします。
前々回の『ゴジラ』のときには、日本語のアルファベット表記の規則は変だ、あれでは読めないということを書きましたが、そのときに例に挙げたものの一部は、長音の対象外だということに、あとになって気づき、「こんにちわ」並みのひどい間違いだと赤面しました。
「i」は「a」「e」同様、長音の変則規則の対象外だということを、わたしはきちんと理解していなかったのです。知らなかったのはわたしだけでしょうが、「o」と「u」は長音も兼ねるという無茶苦茶な変則ルールをつくったために、こちらも勘違いするのだといいたくなります。
一国の言語の規則を定める機関がまじめに仕事をしないと、国民が努力しても、ごくごく基本的なレベルで大間違いをするわけで、これはルールのほうが間違っているのだ、といいたくなります。まあ、「ときょ」という首都をもつ国だから、しょーがネーか、と諦め気分ですけれどね。関西に行っても、「おさか」に「きょと」に「こべ」とくるのだから、逃げ場がない!
◆ 太平洋という名の密室 ◆◆
前回もタイトルがはっきりしない挿入曲でしたが、今回も、じつはサウンドトラック盤がないため(市川崑作品の音楽を集めた編集盤に数曲収められているらしいが、もっていない)、勝手にタイトルをつけました。また、スコアの作曲者としてクレジットされている人も二人いるため、作曲者も不明です。
いちおう、どういう映画かということを説明しておきます。わたしは子どものときもいまも、まったく関心がないのですが、堀江謙一という人がいます。この人物がかつて、ヨットで大阪からサンフランシスコまで行ったという出来事がありました。いつのことか忘れたし、調べる手間も省きますが、1960年代はじめのことです。
当時、これは大変な快挙と騒ぎ立てられました。わたしは子どもなので、さっぱり意味がわからず、なんの関心ももちませんでした。この年になっても、だからなんだ、としか思わず、この種のこと(「冒険」と当事者とメディアが呼ぶ行為)には価値などないという考えは一貫して変わりません。
しかし、石原裕次郎はセイリングを愛するせいか、この題材に執着し、日活とみずからの会社との共同製作で、映画化にこぎつけます。わたしは小学校四年だったことになりますが、たとえば、『愛と死を見つめて』とまったく同様に、この映画には興味ゼロでした。いや、年齢の問題ではなく、いまでも息苦しい映画は大の苦手です。
大人になり、監督が市川崑だというので、なかば義理で見たのですが、感銘が薄いだけでなく、ひどくテンポがのろくて、ヴィデオだったら、がんがん早送りするにちがいない退屈な出来でした。
いま、具体的な例が出てこないのですが、「漂流もの」という「海洋冒険もの」のサブジャンルがあります。わたしにとっては天敵のようなもので、大好きなヒチコックの『救命艇』ですら、きっと漂流ものなのだろうと、いまだに見ていないほどです。なぜ嫌いかというと、あの閉塞感に耐えられないのです。
映画製作者は、ゴムボートや筏からカメラが動かない致命的欠陥に補いをつけようと、フラッシュ・バックを多用したりしますが、回想シーンのあいだも、ただの間借り、一時的な避難という感覚にとらわれたままで、意識は依然として「洋上の密室」にあり、フラッシュ・バックでは解放感、開放感は得られません。陸に着き、狭いボートから脱出しないかぎり、窒息しそうな気分から抜け出せないのです。
映画が舞台劇と異なるのは、編集によって、自在に、そして瞬時に時空間を移動できることです。しかし、海洋もの、とりわけ、漂流ものは、いつまでも同じ狭い空間から移動できず、わたしのようなタイプの観客は、この苦行から一刻も早く解放されたいと願うことになります。市川崑監督も、この窒息感をやわらげることにおいて特段の能力を発揮することはなく、『太平洋ひとりぼっち』は、この種のものの典型というべき、息苦しい映画です。
◆ 広々、はろばろのサウンド ◆◆
では、なぜそういう映画を取り上げたのかといえば、ひとつの法則を発見したような気がするので、そのサンプルになるのではないかと思ったのです。どういう法則か?
「ディンギーやヨットが出てくる日本映画は音楽が面白い」
という法則です。当家で過去に取り上げた映画でいうと、やはり石原裕次郎がディンギーで帆走するショットが山ほど出てくる『狂った果実』、東宝特撮ものの一篇、大型機帆船という正真正銘の「ヨット」が出てくる『マタンゴ』がこれに当てはまります(『マタンゴ』の登場人物の一部は、当時の有名人のカリカチュアで、そのひとりはほかならぬ堀江謙一だとか)。
ま、要するに、海に出て風を帆に受けたときの気分をあらわすような音楽をわたしはおおいに好む、ということをいっているにすぎず、それを「法則」というのは誇大もいいところですが、でも、「法則」なんてのはみな誇大なものですから、わたしが「ディンギー日本映画音楽よしの法則」を唱えたって、それほど無茶でもないでしょう。
前述のように、OST盤はリリースされていないため、すべて映画から切り出した音質の悪い断片、しかも、多くはセリフがかぶっていますが、すこしサンプルをあげておきました。じつは、すべてのサウンドトラックを切り出し、タイトルをつけて自家製のアルバムをつくったのですが、そんな大げさなものをお聴きになりたい方はいらっしゃらないだろうし、トラブルを招く怖れもあるので、控えめにしておきました。
以下はサンプル(ただし、ここで〈好天〉と仮に名づけた曲のタイトルは正しくは〈M6〉だということがわかり、改めて高音質のサンプルをアップしたので、この曲に関してはその訂正記事のほうをご参照あれ)
メイン・タイトル
北風吹く
嘆きの父
伊豆七島
好天
走れマーメイド
近くて遠き
◆ コンビネーション・プレイ ◆◆
武満徹が嫌いということはないのですが、いたって保守的な嗜好なので、グルーヴ、メロディー、和声という次元で音楽を捉える傾向があり、以上のサンプルもまた、保守的な意味で「いい曲」を拾ってみたものです。
〈メイン・タイトル〉は懐かしい手触りがあり、おおいにけっこうです。ほんの数小節で、昔の映画を見ている気分になり、リラックスしてしまいます。こういうすばらしい音ではじまった映画が、あれほど退屈なものになったのは信じられない現象です。
このメイン・タイトルなら、田坂具隆の『陽のあたる坂道』、滝沢英輔の『あじさいの歌』、中平康の『あいつと私』といった、石坂洋次郎原作、石原裕次郎主演、芦川いづみ共演の明朗青春映画のタイトルとして頂戴しても、ぴったりはまるでしょう。いや、わたしは『あじさいの歌』のメイン・タイトルは好きなので、べつにあのままでもいいのですけれどね(いま調べたら、『あじさいの歌』の音楽監督は小津映画の常連、斉藤高順だった。われながら好みが一貫している)。
〈北風吹く〉は〈メイン・タイトル〉の変奏曲です。このシーンにおいてみると、いっそう、この曲に組み込まれた昂揚感が明瞭になります。
〈嘆きの父〉は、大の贔屓、森雅之のセリフ入りです。企画の推進者である裕次郎は、皮肉なことに、ひどいミスキャストだと感じますが(これほど大阪弁が不似合いな俳優はほかにいないのではないか?)、森雅之と田中絹代の夫婦はおおいにけっこうでした。長生きして、年老いた森雅之の演技というのを見てみたかったと、つくづくと思います。
〈伊豆七島〉はこの映画のスコアのなかで唯一の4ビートです。60年代前半から中盤の日本映画を見ていると、スコアのどこかに4ビートの曲を嵌めこむのは、ほとんど常識だったのではないかと思えてきます。時代の気分をあらわすものだったのでしょう。この部分は、芥川也寸志なのか、武満徹なのか、どちらなのだろうと首をかしげています。
〈好天〉は、この映画のなかでもっとも楽しい曲です。メロディー、パーカッションの使い方、アレンジ、いずれも好ましく、文句なしです。途中、ギター・コードのストロークが出てきますが、これまた盛り上がりますし、マイナーにいくところには、ホルンのサウンドのはろばろした感覚も相まって、心地よいセンティメントがあります。
〈走れマーメイド〉は、〈メイン・タイトル〉のアップテンポ・ヴァージョンで、直前の〈好天〉の一部に聞こえるようなアレンジが施されています。エレヴェーターに閉じこめられたようなこの映画のなかで、この2曲はおおいなる救いです。
〈近くて遠き〉は、いかにも武満徹、という曲を選んでみました。いや、シャレの好きな人間なら、お互いの役割を交換してみる、という悪戯をしかねないので、保証はできませんが、でもまあ、ふつう、武満徹の音楽といえば、だれでもこういうタイプの和声をイメージするでしょう。
だれのアイディアだったのか、たんなる苦肉の策だったのか、はたまた、なんらかのトラブルの結果だったのか、そんなことは知りませんが、芥川也寸志のオーソドクスな音と、武満徹の屹立した個性の組み合わせは、不思議な対比をなして、おおいなる魅力を発揮しています。こういうこともあるのだから、なにごともやってみないことにはわからんな、です。
◆ 出口なし ◆◆
こういう風に、映画にはまったく魅力を感じないけれど、音楽の出来は非常にいい、というのは困惑します。映画の出来を云々する以前に、音楽がひどくて怒ってしまう、というのは(そういうのは70年代以降の日本映画にかぎられるが)まだ始末がいいといえます。憤激というのはひとつの「出口」なので、「解決」がつくのです。
でも、「いい音楽だなあ」という気分と、「このストーリー、この絵では窒息してしまう」という閉塞感の組み合わせは、出口がなくて、結論のつけようがありません。製作者側としては、苦難の末にサンフランシスコに着いたときの解放感をカタルシスと考えたのかもしれませんが、もとが実話なので、ドラマティックなところはなく、ただ単に密室から這い出て、ばたりと倒れるような、カタルシスにはほど遠い終わり方です。事実は小説よりも奇なりかもしれませんが、小説より盛り上がるものなり、ではないことがよくわかりました。
ともあれ、今回は、「映画は退屈でも、音楽はすばらしい」ということは、やはりあるものなのだなあと、サントラ・ファンにいわせれば、当然かもしれないことを痛感しました。つぎも、映画の出来は『太平洋ひとりぼっち』をホコリのなかに置き去りにするほどの圧倒的なひどさなのに、音楽は楽しいという作品を予定しています。
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