- タイトル
- Scotty Tails Madeline
- アーティスト
- Bernard Herrmann (OST)
- ライター
- Bernard Herrmann
- 収録アルバム
- Vertigo (OST)
- リリース年
- 1958年
このところ、記事と記事のつながりが変なぐあいになることがよくあり、われながら、もうすこしスムーズに行かないものかと、尻のむずむずする思いをしています。一応、計画は立てているのですが、材料が底をついて、あとで同系統のものをまとめてやるつもりでためこんでいたものを、やむをえず取り崩してしまうという、自転車操業状態になってきているのです。
他の東宝特撮ものや鈴木清順作品(この並記にはとくに意味はない。最近取り上げたものというだけ)へと行って行けないことはないのですが、ちょっとヘヴィーなので、ひとつ二つあいだをあけたいと思います。アルフレッド・ヒチコックおよびそのフォロワーの作品はまとめてやろうと思っていたのですが、手詰まりとなり、きちんと準備ができるまえに手をつけるため、飛び飛びでご紹介することになるやもしれないことをお断りしておきます。
◆ ソウル・バス ◆◆
ということで、今日はアルフレッド・ヒチコックの代表作『めまい』です。ほんとうは『ヒチコック映画術』、通称『ヒチコック=トリュフォー』を読み返してからと思ったのですが、どこにしまったか、見あたらず、アンチョコなしの無手勝流でぶつかることにしました。映像的なことについてきちんと知りたいという方は、まず『映画術』をお読みになるようにお勧めします。映画について書かれたもっとも重要な本のひとつです。
当家は音楽ブログなので、数あるヒチコックの秀作のなかから、いの一番に『めまい』を選んだのは、この映画のスコアがもっとも好きだからです。映画としても、というか、もっと狭く、「映像表現」の面からもすぐれた作品だとは思いますが、単純な好みの問題でいえば、もっとも好きなヒチコック映画はべつにあります。そちらも遠からず取り上げることになるので、その話は打ち切り。まずは、いつも興味深いタイトルをご覧いただきましょう。
タイトル
特異なセンスがはっきりとあらわれていて、クレジットを見るまでもなく、ソウル・バスのデザインだとわかるほどです。
映画の中身の紹介を書くかわりに、よろしければ予告篇をご覧あれ。こういうサスペンス・ミステリーの場合、肝心なことは書いてはいけないとは承知していても、プロットを書けば、ボロを出すに決まっているので、できるだけなにも書くまいという魂胆です。
予告篇
いや、プロットとしてそれほど際だったものだとは思いませんが、やはり謎があり、それが解決されるという話なので(ただし、解決されない部分もある。ポスト・プロダクション段階で、どこか肝心なところをカットしたために、ケリをつけそこなったのではないだろうか)、これからご覧になるなら、なにも知らないほうがずっと楽しめるでしょう。
◆ 華麗なる不穏 ◆◆
わたしは、大の映画音楽ファンというわけではなく、どちらかというとメイン・タイトルや主題歌、または挿入曲ばかり気にして、スコア、とりわけ古典的なタイプのものについては、多くの場合、いいも悪いもなく、それほど注意深く聴くことはありません。あんまり邪魔だといらだちますが、控えめなスコアを聴いて、細部の技に感心する、などということはめったにないのです。
でも、バーナード・ハーマンがこの『めまい』のために書いたスコアは、初見のときから、物語がおおいに引き立つすばらしい曲であり、すばらしいサウンドだと感じ入りました(ハーマンとはべつに、コンダクターとしてミューア・マティソンがクレジットされているので、サウンドのほうはマティソンによるものと見ていいのだろう)。もっとも印象的だったシークェンスのクリップを以下に貼り付けておきます。このクリップの後半、OSTではScotty Tails Madeline(「スコティー、マデリーンを追跡する」)と題された曲が流れます。
尾行(better version)
ジェイムズ・ステュワート扮するスコティーは退職警官で、妻が最近、おかしなふるまいをするという友人の相談を受け、その女性〈マデリーン〉(キム・ノヴァク)を尾行することになります。その下準備として、まず、友人が〈マデリーン〉をレストランに連れていき、ジェイムズ・ステュワートに姿を覚えさせます。このときにもう音楽はラヴ・テーマのようになってしまい、観客はスコティーが〈マデリーン〉に一目惚れしてしまったことを耳で確認します。
このへんの映像と音楽の関係というのはじつに面白いもので、サイレントにして見直すと、バーナード・ハーマンがここで決定的な役割を果たしたことがあっさり了解できるでしょう。ハーマンの代表作は『サイコ』あたりではないかと思っていましたが、四半世紀ほど前に後追いで『めまい』を見て(80年代なかば、まめに映画館やホールに通った、遅れてきたヒチコック・ファンだった)、脱帽してしまいました。「美しき怖れ」「華麗なる不安」とでもいうべきハイブリッド・サウンドで、だれにでもつくれる音楽ではありません。『めまい』はわたしが知るかぎり、バーナード・ハーマンのもっともすぐれたスコアです。
◆ 辻褄の向こう側 ◆◆
映画というのは強引なものだなあ、と思います。しらふで見たら、それは無理でしょうといいたくなるようなことを平気でやり、なおかつ、客に「金返せ」とはいわせない技というものがあるようです。小説だったら、プロットの穴は丸見えで、読者はせせら笑うものですが、映画では誤魔化しがききます。というより、映画ではつじつまを合わせることと、客の満足感とは無関係ではないかという気がします。
映画が小説とちがうのは、まず第一に、そこに美男美女がいて、喜怒哀楽をあらわに動きまわる、ということです。われわれはつい、美男美女に意識をもっていかれ、プロットのことを忘れてしまうのです。
また、本は立ち止まって、何ページでもさかのぼって確認できますが、映画では、ちょっと待って、とはいえず、話はどんどん先に行ってしまうということもあります。
そして、音です。近ごろのように、ドスンバタンと騒々しくやられると、いちいちものなんか考えていられません。派手な音を立てていろいろなものが破裂したり爆発したりしたら、とりあえず逃げよう、てなもんで、プロットの穴のことなんか気にしている余裕もあらばこそです。
なぜこんなことを書いているかというと、『めまい』は無理なところの多い話だと思うからです。いまだに、ボアロー=ナルスジャックの原作を読んでいないのは、きっと小説だったら種明かしで馬鹿馬鹿しくなり、腹が立つにちがいないからです(もともとボアロー=ナルスジャックは大嫌いだからでもある。タイトルは忘れたが、高校のときにひとつ読んだだけで頭に血が上り、こいつらの本は一生読まないと怒り狂った)。
プロットは見るたびにいよいよ穴が見えてきて、無理な話だなあ、という思いが強くなっていくのですが、それでも、視覚的、聴覚的快感のほうをとって、これはヒチコックおよびバーナード・ハーマンの代表作だと考えるのだから、おかしなものです。結局、力のある映画監督の手にかかったら、プロットなんて二のつぎ三のつぎということなのでしょう。ここに映画の映画たる所以があるのだろうと思います。
つぎはどこに行くかまったく考えていなくて、またヒチコック=ハーマンか、あるいはハーマンとだれかべつの監督か、それともまた東宝特撮や日活アクションにもどるか、はたまた、ぜんぜん違うところに行くか、まったく腹案がありません。お客さんからお題をいただきたいぐらいの心境で、ふーむ、どうしたものか、であります。