- タイトル
- Midnight Cowboy
- アーティスト
- John Barry (OST)
- ライター
- John Barry
- 収録アルバム
- Midnight Cowboy (OST)
- リリース年
- 1968年
- 他のヴァージョン
- The Exotic Guitars, Henry Mancini, Paul Mauriat, Martin Denny, Johnny Mathis, Ferrante & Teicher, the Mantovani Orchestra, the John Barry Orchestra
いつまでもペンディングというわけにもいかないので、途中まで書いた『真夜中のカウボーイ』の始末をつけようと思います。今回は、Everybody's Talkin'ではなく、ジョン・バリーが書いたMidnight Cowboyです。
『真夜中のカウボーイ その1』のときに、NYに行って金持ちの女性を相手におおいに稼いでやる、というこの映画の主人公の「大志」に、はじめてみたときは、そんなばかな、と疑問を感じたということを書きました。しかし、見終わったときはそういうことは忘れていて、なんともやるせない気分だけが残りました。そして、いい映画だった、という印象がずっと尾を引き、今回、ひさしぶりに見直しても、やはりその印象は変わらず、あの時代を代表する映画だと感じました。
なぜそう感じるのか、なかなか言葉にならなかったのですが、しばらく時間をおいてみたら、ひとつ見えてきたことがありました。ジョン・ヴォイト演じるカウボーイは、その奇矯な外見と馬鹿げた大望にもかかわらず、つまるところ、あなたやわたしと同じ、ふつうの人間だということです。彼の「志し」は、われわれのものとは異質かもしれませんが、彼にいわせれば、われわれの「志し」のほうが無意味で無益なのかもしれません。そして、われわれの人生は多数派に属すものかもしれませんが、要するにそれだけのことにすぎず、多数派だからといって正しいとはかぎらないのです。
ジョー・バックは少数派に属す人生観をもっていたかもしれませんが、結局、多数派と同じく、人間的な弱さ、すなわち思いやりとやさしさのせいで、故郷を出たときに夢見ていた大望を実現できず、傷つき、倦み果て、敗れていきます。わたしたちの大部分が経験するのと同じことを、彼は二時間の上映時間のなかで濃密に経験し、途方に暮れてしまうのです。
予告篇
子どものわたしは、まだこういうことがよくわかってはいませんでしたが、とはいえ、すでに高校生、希望と失意についてはいくぶんかの経験を積んでいたわけで、ちょっと考えは足りないけれど、人生をきわめてポジティヴに見ていた若者が、すべてを失い、なにも得ることなく、わずかに得たものすら、最後には理由もわからずに失ってしまうことに、やはり共感を覚えたのでしょう。
映画はいろいろなレベルで、さまざまなフェイズでわれわれに働きかけます。キャラクターやストーリー・ラインだけで語るべきものではありませんが、長い時間がたったとき、もっとも大きな意味をもつのは、結局、人物なのかもしれません。ジョー・バックは(そして相棒のラッツォーも)手放しで共感できるキャラクターではなく、共感と反撥を同時に感じるタイプであり、そのぶんだけ長く心に残るのではないでしょうか。
(長いクリップだが、後半にMidnight Cowboyが流れるシークェンスがある。初見のときは、このシークェンスがいちばん気に入った。)
◆ ジョン・バリー ◆◆
ニルソン歌うEverybody's Talkin'が、ジョー・バックの「希望」「大志」をあらわすものなら、ジョン・バリーのMidnight Cowboyは、カウボーイの「失意」「孤独」を象徴する曲です。
(テーマのクリップはいろいろがあるが、これがベスト。編集のリズムがいい)
メロディー・ラインもシンプル、当然、コードもシンプル、それでいて、目的は十分に達している効果的な曲で、そういってはなんですが、ジョン・バリーも練れてきたと感じます。むろん、映画の性質にもよるのでしょうが、それ以上に、経験による自信のほうが大きいのでしょう、この曲にはもはや人を驚かせるひねりはありません。ジェイムズ・ボンドの五作目、You Only Live Twiceのリフと同系統のメロディーをただ繰り返すだけで、当時のスコアとしてはきわめて単純なものでした。いや、スコアのつもりはなく、あくまでもテーマのつもりで書いたのでしょうが。
ジョン・バリーは、すくなくとも二度、この曲をセルフ・カヴァーしているようです。わたしが聴いたのは、ひとつは弦や管をリード楽器にしたストレートなオーケストラ・ヴァージョンと、OSTと同じようにハーモニカを中心としたコンボ・ヴァージョンです。しかし、どちらにもOSTほど哀切な響きはなく、悪くはないものの、とくにすぐれているわけでもありません。OSTのトゥーツ・シールマンスは、とくにすごいプレイをしているわけではないのですが、他のハーモニカ・ヴァージョンを聴くと、OSTの美点がはっきりします。
◆ ギターもの、ピアノもの ◆◆
ギター・インスト好きのためには、エキゾティック・ギターズ盤があります。以前にもご紹介したとおり、このプロジェクトのLPリップが右のリンクから行けるAdd More Musicで配布されていますので、よろしかったらAMMへいらしてみてください。
結局のところ、ラウンジ・ミュージックというのは、最高点を叩き出すことを目的としているわけではなく、平均点を確保し、最低点を出さないようにすることを目的としているわけで、高望みをするのは間違いなのだということを思いだすのですが、エキゾティック・ギターズ盤Midnight Cowboyも、平均的な出来で、なにげなく聴いているぶんにはわるくない、というところです。
もっとも出来がいいのは、ファランテ&タイシャー盤かもしれません。ピアノでやるのに向いている曲だとは思わないのですが、全体のムードは彼らのヴァージョンがもっともいいのではないかと感じます。はじめのうちはコーラスはよぶんだと感じるのですが、途中にいいラインがあって、ほほう、と思います。難をいうと、ギターが動きすぎに感じますが、プレイヤーはヴィニー・ベルなので(わが家にあるのはオムニバスなので、ベルのクレジットはないが)、ゲストとして活躍させる必要があったのでしょう。
シャドウズ盤(オリジナル・リリースはハンク・マーヴィン名義だったらしい)は言葉に詰まります。わたしの頭のなかには「シャドウズはこうあらねばならない」「ハンク・マーヴィンはこうでなくてはいけない」というかなり強固なイメージがあって、そのスタンダードに照らし合わせると、Midnight Cowboyは平均点に達していません。
◆ オーケストラもの ◆◆
ジョン・バリー以外にもオーケストラものがいくつかあります。
ヘンリー・マンシーニ盤は、Six Hours Past Sunsetというタイトルのアルバムに収録されています。「日没から6時間後」というのですから、まさに「真夜中」がテーマなのですが、それでMidnight Cowboyはあまりにもそのまんまという感なきにしもあらずです。マンシーニ盤もイントロはハーモニカ、あとはピアノ、ハーモニカ、弦などというようにリードをまわしていきます。魅力的なのは、リードよりもホルンに弦を重ねたような音のカウンター・メロディーです。このハーモニカ・プレイヤーは、トゥーツ・シールマンスにまさるとも劣らぬプレイをしています。
マントヴァーニは、しばしばド派手なサウンドにしますが、Midnight Cowboyではフォルテはなし、弦の厚みだけで勝負したという印象で、そこが好ましく、リラックスして楽しめるヴァージョンです。
ポール・モーリアは、お得意のハープシコードをからめたアレンジで、これまたそこそこの出来です。ホルンのサウンドが好きなので、この曲でのホルンのカウンター・メロディーは、出来不出来とは関係のない次元で好ましく感じます。ただし、ドラムの16分はやや癇に障ります。ドラムは控えめにプレイするべき曲でしょう。
◆ 変わり種ふたつ ◆◆
ジョニー・マティス(マシス)は、シンガーだから、当然歌っています。でも、この曲の歌ものというのはどうでしょうかねえ。わたしはあまり感銘を受けませんでした。ハーモニカやギターでプレイしたときの哀切なムードは歌では出せないように思います。
歌詞も、どうかな、という出来です。「かつて彼は天ほど高い望みをもっていた、夢は簡単に手に入った、でも、あせって手ひどい目に遭い、孤独という人生のレッスンを学ばねばならなかった」って、そりゃあなた、歌詞ではなく、映画感想文じゃないですか、といいたくなります。ヴォーカル・ヴァージョンがほかに見あたらないのも無理はないと思います。
マーティン・デニー盤は、Exotic Moogという、70年ごろのシンセ・アルバムに収録のものです。シンセだからダメとはいいませんが、ドラムが派手にフィルインを入れるのも気に入りませんし、他のパートもいいアレンジとは思えません。
検索していたら、ジョニ・ミッチェルのMidnight Cowboy Songという曲のあることがわかりました。盤にはしていないそうで(ライヴでやったか、他人に提供した?)、音は聴かず、歌詞だけ読んでみました。オールナイトの映画を見た、とはじまり、「ジョー、ふるさとに帰りなさい、あなたが倒れるのを見るのはつらい、町から出て行きなさい」というコーラスが繰り返し出てくる曲で、明らかに映画『真夜中のカウボーイ』について歌ったものでした。
やはり、ジョー・バックのなかに自分自身を見て、つらくなったのでしょう。しかし、思うに、遅かれ早かれ、だれもが傷つき、倒れてしまうのが人生であり、それはNYでもテキサスでも同じことではないでしょうか。さらにいうなら、われわれが住む町でも村でも同じことであり、どこにも逃げ場はないと、年をとったわたしは思います。だから、ジョーの捨て身の努力もむなしく、彼とラッツォーは夢の国、マイアミにたどり着きながら、その瞬間に、じつはどこにも行き着けなかったことを痛切に思い知らされるのでしょう。