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Everybody's Talkin' by Nilsson (OST 『真夜中のカウボーイ』より その1)
タイトル
Everybody's Talkin'
アーティスト
Nilsson (OST)
ライター
Fred Neil
収録アルバム
Midnight Cowboy (OST)
リリース年
1969年
他のヴァージョン
Fred Neil, Spanky & Our Gang, the Exotic Guitars, Vincent Bell, Louis Armstrong, Willie Nelson, Harold Melvin & the Blue Notes, Stephen Stills, Crosby Stills & Nash, George Tipton
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生来のお調子者なので、新型ウイルス流行、というお題をもらうと、そうだ、『アンドロメダ病原体』だ、てえんで、さっそく見ちゃいました。よく見ると、映画のほうの邦題は、小説とは異なり、『アンドロメダ……』という踏ん切りの悪いものでした。この二倍三点リーダーはどういう意味だ、てえんでムッとなりましたよ。

いやまあ、それはいいのですが、これがとんだ当てはずれ。この映画、三〇年ぶりぐらいでみたのですが、テーマも挿入曲もあったものではなく、ミュージック・コンクレートというか電子音楽というか現代音楽というか、いっこうにつかみどころがなく、ガーン、ギー、ビローン、ブジーとかいっているだけなんですわ。コードをコピーとか、このメイジャーからマイナーへの移行とか、メロディー・ラインの半音進行が、とかなんとか呑気なことをいっている場合ではなく、当家の土俵にはぜったいに持ち込めないのです。これでは商売あがったり。

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かくてはならじ、しからば『アウトブレイク』か、とも思ったのですが、あれは去年見直したばかりで、また見る気は起きませんでした。そもそも、あの手の話がすごく好きというわけではないですしね。ヴァリアントとしては細菌兵器ものというのがありますが、これは山ほどあって、前回取り上げたMIシリーズの二作目もそれでした。未知ウイルス撃退ものにくらべ、細菌兵器ものはみなつまらないと思います。MI:2も、つくるほうはドカン、ドカンと大騒ぎしていますが、スクリプトとしてはスカスカで、緊密な構成とはいいがたく、索然たる後味でした。

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こちらは『アウトブレイク』のシーン。『アンドロメダ』ほどの衝撃はなかったが、これはこれで面白かった。

話をもどしますが、マイケル・クライトンは『アンドロメダ病原体』がいちばんよかったのではないかと思います。学生のときに読んだきりなので、後年の作とは比較できませんが、あのときはただびっくりして、奥行き、味わいといったこととは無縁、読後感が索漠としているというクライトンの欠点をまだ意識していなかったこともあって、ひどく感心してしまいました。

その『アンドロメダ病原体』をロバート・ワイズが映画化した『アンドロメダ……』(この幽霊みたいな、あるんだかないんだかハッキリしない尻尾はなんとかならんのか!)を見直して、それほど古びていない、よくつくってある、と思いました。

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『アンドロメダ』 なんといっても、死の町に調査に行くシークェンスが秀逸。遺体の状態から、ほとんど即死することがわかり、これまでの伝染性疾患とはまったく次元が異なることが明らかになっていく。

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人だけでなく、犬もハゲタカも死んでいる。

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60年代後半に流行したスプリット・スクリーンが、控えめだが効果的に使われている。

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生存者はわずかに二人。赤ん坊と年寄りの酔っぱらい。

結末が安易ですが、クライトンはウェルズの『宇宙戦争』のリメイクとして発想したといっていて、『アンドロメダ病原体』を安易というなら、ウェルズの『宇宙戦争』も安易、その結末をそのまま踏襲した二種の映画版『宇宙戦争』も安易ということになります。賛成多数だからといって、少数派が正しくないということにはならないので、全部まとめて、どれもこれもみな安易だ、といっておくべきでしょうな。ただ、ウェルズの原作が書かれたとき(19世紀末)、伝染性疾患というのが、現代同様、おおいなるアクチュアリティーをもっていたのかもしれません。

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ラットを使って病原体のサイズを特定していくこの作業がリアルだった。こういうリアリティーを小説や映画に持ち込んだことがクライトンの最大の功績だろう(いや、こういうことはつねに功罪相なかばしてしまうのだが)。

◆ 牛模様のトランク ◆◆
さて、そういうこととは、今日の『真夜中のカウボーイ』はいっさい関係ありません。二時間半もかけて見た『アンドロメダ』がハズレだったので、窮余の一策、よく知っている曲が登場する、よく知っている映画を選んだという、それだけのことです。

お話は、ジョン・ヴォイト演じるテキサスの田舎町の青年ジョー・バックが、皿洗いをやめ、上から下までビシッとカウボーイ・スタイルでキメて、ニューヨークに出発するところからはじまります。勤め先の仲間に別れをいうときに、ジョーは旅の目的を説明します。ちょっと、いや、かなり品がないので、英語のままでどうぞ。

Lotta rich women back there, Ralph, begging for it, paying for it, too. And the men, they're mostly tutti fruttis.

thereはNY、itはナニを指しています。下品なところを取りのけて簡単にいうと、金持ちの女性のお相手をしておおいに稼ぐつもりである、という上京目的を開陳したわけです。この映画を見たとき、わたしは高校生でしたが、それでも「そんな馬鹿な」と思いました。このジョーというのはよほどノーテンキな人物なのだということが、この冒頭でわかります(が、しかし、あれからウン十年、そういう生活をしている男たちが日本にもたくさんいるようで、うたた今昔の感に堪えず)。

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ただニューヨークにいくのではなく、カウボーイの格好をするところが馬鹿馬鹿しくて、ここがどうも日本の子どもにはすんなり理解できませんでした。なんたって、牛模様のトランクを提げているのだから、おまえはゲイトウェイか(IBM-PC互換機の黎明期を知らない人にはわからないが!)ってくらいです。いや、カウボーイはあの時代の(そしてたぶん現在も)アメリカ都市文化にあっては、セックス・シンボルだったのでしょう。他の文化に属す人間、それもティーネイジャーには感覚的に把握しにくかっただけだと思います。

◆ 軽快なグルーヴ ◆◆
さて、ニルソン歌うEverybody's Talkin'は、冒頭、カウボーイ・アウトフィットで身を固めたヴォイトが、自宅のスクリーン・ドアを蹴り開けて意気揚々と出発する、タイトルを兼ねたシークェンスで流れます。これが主人公の気分や画面のムードにぴったりで、じつにけっこうな滑り出しなのです。こういうふうにはじまる映画がつまらないはずがない、と感じさせるほどです。



その好調さは、主としてギターのアルペジオと、地味ながら正確なタイムに裏打ちされたブラシとベースのグルーヴによって形作られています。こういうグルーヴがつくれたら、楽曲としても勝ったも同然、そして、そういうグルーヴをもつトラックをタイトルバックにもってくれば、映画だって勝ったも同然なのです。それくらい気持のよいグルーヴです。

いちおう、パーソネルがわからないかと調べてみましたが、トゥーツ・シールマンス(ハーモニカ)、チャック・レイニー(フェンダー・ベース)、ウィルバー・バスカム(アップライト・ベース)の三人しかわかりませんでした。これはニルソンの主題歌とは無関係で、ジョン・バリーのスコアを録音したメンバーでしょう。

◆ もうひとつの主題歌 ◆◆
昔読んだ記事では、ニルソンはこの映画のためにI Guess the Lord Must Be in New York Cityをつくったけれど、ジョン・シュレジンジャーのお気に召さず、結局、Everybody's Talkin'が使われた、とされていました。



こちらはいきなりバンジョーが突っかけてくるところが楽しく、Everybody's Talkin'同様の軽快なグルーヴをもっています。当時は、作者が異なるのに、この二曲がこのようによく似てしまった理由を知らなかったのですが、改めて調べたところ、いつも参照しているニルソン・サイトに、明快に説明してありました。ちょうど『2001年宇宙の旅』のときにスタンリー・キューブリックがやったように、シュレジンジャーも、編集段階の「仮歌」として、ニルソンのEverybody's Talkin'を使っていて、こういうイメージの曲を、とニルソンに注文したのだそうです。

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なんだか妙にMidnight Cowboy風のセッティングで撮影されたニルソンのポートレイト。『真夜中のカウボーイ』の「見た目」のショットはエキゾティックで、イギリス人ジョン・シュレジンジャーの異邦人としての視線を強く感じる。

しかし、結局、Everybody's Talkin'のほうがいいという結論になり、I Guess the Lord Must Be in New York Cityはボツになりました。その原因は、楽曲の出来不出来ではないだろうと想像します。問題は歌詞です。フレッド・ニールがEverybody's Talkin'を書いたときには、『真夜中のカウボーイ』なんて映画は存在していないので、ただ自意識過剰の変な男の歌として書いただけでしょう。それに対して、ニルソンはラッシュを見てしまったのだと思います。それで、I Guess the Lord Must Be in New York Cityの歌詞が映画の説明のようになったのだと想像します。

監督としては気に入るはずがありません。I Guess the Lord Must Be in New York Cityで展開されるこの映画の「説明」は、たんにニルソンの解釈にすぎず、冒頭でそれを観客に押しつけられては、映画を見る興味がそがれてしまいます。

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ティファニーの前の酔っぱらい、ないしは行き倒れ。通りかかる人はだれも関心を示さないが、「異邦人」である主人公は、監督やわれわれ異国人と共通の反応を示す。

So tired of getting nowhere
Seein' my prayers gonna unanswered
I guess the lord must be in New York City

というセカンド・ヴァースなんか、意味としてもうなずけるし、言葉のリズムとしても面白く、昔からシング・アロングしてきたラインですが、映画の主題歌としては出しゃばりすぎです。主題歌というのは、映画に寄り添い、映画を象徴する必要がありますが、映画を解釈してはいけないのです。

Well, here I am, Lord
Knockin' at your back door
Ain't it wonderful to be
Where I've always wanted to be?
For the first time, I breathe free here in New York City

というコーラスもよくできているし、これまたシング・アロングすると気持のいいラインですが、単独の楽曲としてはよくても、映画の主題歌としては、やはり説明しすぎです。岡目八目、第三者の目には、ジョン・シュレジンジャーがI Guess the Lord Must Be in New York Cityをとらず、結局、「仮歌」だったEverybody's Talkin'を採用したのは、理の当然のことに思えます。

主題歌はどういう条件を満たしていなければいけないか、なんてことは改めて考えてことがなかったのですが、こういう格好の例があると、明快にイメージすることができて、ありがたいことです。

Everybody's Talkin'にはニルソンのヴァリアント、そして、フレッド・ニールのオリジナルや他のアーティストによるカヴァーなど、検討すべきヴァージョンがたくさんありますが、そのあたりは次回送りということに。

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by songsf4s | 2009-05-19 23:58 | 映画・TV音楽