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All for the Love of Sunshine by Hank Williams Jr. (OST 『戦略大作戦』より)
タイトル
All for the Love of Sunshine
アーティスト
Hank Williams Jr. (OST)
ライター
Mike Curb, Harley Hatcher, Lalo Schifrin
収録アルバム
Kelly's Heroes (OST)
リリース年
1970年
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f0147840_0395528.jpgたとえば、そうですねえ……『結婚しない女』という邦題の映画がありました。フェミニズム(というより、まだ「ウーマン・リブ」といっていたと思うが)の映画なのだと誤解され、そこそこ評判になりました。しかし、原題を見るとAn Unmarried Womanで、これをそのまま訳すと『未婚の女』『離婚した女』『連れ合いに先立たれた女』となり、内容に即していうと真ん中の『離婚した女』が正解。しかも、あろうことか、中身は一所懸命に再婚しようとする話で、タイトルとは正反対でした。もうウーマン・リブに力を借りる必要はないので、『結婚したい女』と改題したほうがいいでしょう。

かつて、邦題というのは、だいたい以上のような嘘っぱちと思っておけばまちがいありませんでした。羊頭狗肉、針小棒大、実質とは無関係なまがい物です。お茶の贈り物をいただき、ご大層な桐の箱を開けたらティーバッグが転がり出た、てなあたりだと思っておけば安全です。

だから、カタカナばかりになってしまったいまどきの邦題も困ったものだと思いつつも、昔のインチキ邦題にくらべればずっと誠実なのだと自分に言い聞かせ、腹を立てないようにしています。たとえば『コラテラル』というタイトルの意味がわかった人はほとんどいないでしょうが、それでかまわないのです。

f0147840_0402796.jpg子どものとき、じっさいには見なかったのに、ものすごく気になったタイトルがあります。『トプカピ』『トブルク戦線』『マラカイボ』などです(見たけれど、やっぱり意味がわからなかったものとしては『シャレード』『アラベスク』なんていうのもある)。地名などの固有名詞だから、子どもが知らなくても当然ですが、語感のせいで記憶に残り、空想を誘いました。

ほんとうは逆の例のほうがおなじみです。意味はわかるけれど、記憶できない、というタイトルです。いま、例として思い浮かんだのは、ブライアン・デ・パーマのObsessionの邦題です。調べてみたら『愛のメモリー』という、電卓が人間に恋をするファンタスティックな話かと思うような邦題だそうで、「メモリー」を忘れちゃしようがねえな、とは思ったものの、こんなひと山いくらのタイトルでは、またすぐに忘れてしまうでしょう。

f0147840_0423899.jpg愛のなんとか、恋のなんとか、青春のなんとか、哀しみのなんとかは、みな忘れてしまいます。ほら、シナトラ親子のSomething Stupidの邦題、なんていったっけ、愛のなんとか、ちがうか、恋のなんとかか、なんて会話をわれわれはしょっちゅうしています。たしかに「恋の」はすぐに記憶しますが、そのあとにつづくものは山ほどあって、記憶したと思った直後には、もうほかのものと紛れています。記憶のメカニズムからして当然ですが、「恋のひと言」のひと言がどうしても出てこなくなってしまうのです。

シドニー・ポラックのThey Shoot Horses, Don't They?という印象的な映画がありました。これも邦題を忘れ、たしか、青春のなんとかだったな、と思ったのですが、調べてみると『ひとりぼっちの青春』だそうです(このタイトルはすでに何度も忘れているので、またすぐに忘れ、また調べることだろう!)。「馬は撃ち殺されちゃうんでしょ?」という子どもの悲しい問いかけをタイトルにした、ホレース・マコーイの印象的な小説も、輸入会社にかかっては形無しです。さすがに当時の出版社は輸入会社ほど恥知らずではなかったらしく、小説のほうは『彼らは廃馬を撃つ』というタイトルでした(いや、それは雑誌掲載時のことで、文庫本は映画に合わせたかもしれない)。

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タイトルにおいては、意味はかならずしも最優先事項ではないのです。だいじなのはイマジネーション喚起力だけです。愛、恋、青春、哀しみ、という制服の帽子をかぶったとたん、その下の個性は消去されます。『愛と青春の旅立ち』と『ひとりぼっちの青春』という、共通点といえるものがまったくない映画が、同類のようになってしまい、われわれを混乱させることになります。

◆ 愛と青春の戦場のケイパー ◆◆
高校一年だったか二年だったか、学校で友だちから招待券をもらい、どういう映画か知らぬまま、その日の夕方、横浜・馬車道のロードショウ館に行きました。もう期限が迫っていたので、捨てるかわりにわたしにくれたのでしょう。

看板を見上げると『戦略大作戦』と書いてありました。クリント・イーストウッド、テリー・サヴァラス、それに中学のときに見た、ミュージカルのような、そうではないような変な映画『ジョアンナ』(ジョアナなのだが!)で一目惚れしたドナルド・サザーランド、というキャスティングはおおいに魅力的でした。



『戦略大作戦』というタイトルから想像するのは、『史上最大の作戦』とか、『トラ・トラ・トラ』とか、もうすこし小さくても『パットン戦車軍団』ぐらいのスケールで戦争を描いた映画です。映画輸入会社の無教養社員は知らなかったのかもしれませんが、クラウゼヴィッツのようなヘヴィー級を持ち出すまでもなく、「戦略」strategyというのは、サンダース軍曹あたりがあずかり知らぬところで決定される「国家規模のマクロな戦争プラン」のことです。サンダース軍曹は「戦術」tacticsのさらにサブ・レベルである「戦闘」combatの世界のキャラクターです。

昔はそんな呼び方はきいたことがありませんでしたが、現代では軍艦の艦橋の中心部分は「戦闘指揮所」(CIC=Combat Information Center)と呼びます(映画でご存知だろうが、現代のブリッジは戦艦大和の艦橋とは似ても似つかぬ姿で、どちらかというと鉄道の運行監視センターに似ている。「海の見えるコンピューター・センター」といったあたりで、操舵もディジタル制御なので、舵輪すらない! 一度、護衛艦のCICを見学したが、あるべきところにあるべきものがないと、じつに頼りないものだと思った。舵輪がないなんて、個人的には船としての資格を欠如していると考える)。けっして「戦略指揮所」とはいいません。「戦略」は地面の上で星がいっぱいついた制服を着た人たちが考えることで、海の上では軍中枢の戦略策定システムから下ってきた命令にしたがって「戦闘行動」をするだけなのです。

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さて、『戦略大作戦』です。クリント・イーストウッドが大統領、テリー・サヴァラスが国防相、ドナルド・サザーランドが参謀長、なんていう戦略規模の話ではありません。戦術規模の話ですらありません。テリー・サヴァラス率いる歩兵小隊と、ドナルド・サザーランド率いる戦車小隊というわずかな戦力で、クリント・イーストウッドのプランにしたがって、前線の向こう側、奥深くへと侵入していく「作戦」です。

これを戦争映画といっていいかどうかすらも微妙です。戦争は添え物、背景、景物、おまけじゃないでしょうか。本質はケイパー・ストーリー、すなわち犯罪コメディーです。第二次大戦を背景にしたケイパー映画であって、ケイパーをサブ・プロットとした戦争映画ではないのです。

◆ “非戦”映画かドロボーものか ◆◆
と書いてから、うーん、それは即断がすぎるかもしれない、と思いなおしました。たとえば、冒頭、イーストウッド扮するケリーがナチスの将校を捕虜にして連れ帰ります。すると、テリー・サヴァラス扮するビッグ・ジョーが、そんな男じゃ役に立たないとケチをつけます。どういう「役」かというと、これから進軍していく先にある最良のホテルはどれか、いい女はいるか、といったことに通暁している、観光ガイド類似のドイツ兵を必要としていたのです。ジョーのセリフじゃないですが、「ミシュランでも見ろ」です。

この将校が金の延べ棒をもっていたことから、ケリーは彼を酔いつぶし、前線の向こう側の銀行にとほうもない量の金塊があることを聞き出して、それを強奪しようと決意するにいたり、物語が動きはじめます。兵站部の責任者、砲兵隊の下士官、戦車小隊のチーフ(サザーランド扮する“オッドボール”)と、金塊をちらつかせては、必要な人間に抱き込んでいき、最後にビッグ・ジョーを説得して、ドイツ側駐屯地への砲撃の援護を受けて、いよいよ金塊強奪に出発、とあいなります。

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だれも黄金の魔力には勝てない。現物をドンと目の前に置かれ、みなつぎつぎと仲間に引き入れられていく。イーストウッド、サヴァラス、サザーランドほどではないにしても、この「クラップゲーム」に扮したドン・リクルズもなかなかよかった。

進軍中に間違って味方に爆撃されて車輌を失ったり、これから通ろうとしていた橋を爆撃され、サザーランドがカフェから電話をかけ、工兵隊を買収して橋を届けさせたり、大音響でカントリー・ミュージックを流して攻撃したり、かなり無茶な「戦争映画」です。戦争の真っ最中だということをのぞけば、綿密な計画とその遂行、思わぬ誤算による笑い、というケイパー・ストーリーの特徴をすべてもった映画です。



大詰め、銀行の前に陣取ったタイガー戦車をどうにかしようと、ケリー、ビッグ・ジョー、オッドボールの三人が、ドイツの戦車長を説得します。



ジョー「おまえも俺もただの兵隊だ。この戦争がなんのためのものかすらも知りゃあしない。俺たちはただ戦って死ぬだけだ。それでなんになる? なんにもだ。いいか、30分もすればアメリカの部隊がこの道をやってくる。自分に褒美をやるつもりで、さっさと逃げ出したらどうだ」
ドイツ兵「わたしは命令を受けている。この銀行をアメリカ軍の手に渡してはならない、と」
ケリー「この銀行はアメリカ軍の手には渡らない。俺たちの手に渡るんだ。わかるだろ? いってみればこれはただの私企業の営業活動みたいなものさ」
ドイツ兵「おまえたちはアメリカ軍だ」
ケリー「いいや、ちがう」

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「俺たちはアメリカ軍じゃない。私企業といったところさ」 この場面ではイタロ・ウェスタンを連想させる、ゴングを使った音楽が流れる。

というようなぐあいで、敵味方のあいだで、考えようによってはひどくアナーキーな会話が交わされます。サタイアととろうが、ジョークととろうが、それは見るほうの勝手でしょう。『戦略大作戦』ないしは『ケリーのヒーローたち』も皮肉な戦争映画、くそ真面目で真っ暗で退屈な「反戦映画」と区別するなら、おおいに笑える「非戦映画」といえます。

同じ年に、戦争に対するアプローチがこの『ケリーの英雄たち』によく似た『マッシュ』も公開されていることを考えると、これは時期が同じだから偶然、似たようなノリになった、などということではなく、やはり、ヴェトナム戦争を色濃く反映した結果なのでしょう。

◆ 挿入曲の意外な正体 ◆◆
さて音楽です。この映画のテーマ曲、マイク・カーブ・コングリゲイション歌うBurning Bridgeもヒットしましたが、今回再見したのは、そちらのほうではなく、オッドボールのシャーマン戦車に搭載された“秘密兵器”である「ラウドスピーカー」から、戦闘シーンで流れる曲が、以前から気になっていたからです。



ものごとというのは、しばしば予想や想定を裏切るものですが、この曲も、わかってみたら、「え、そうなのかよ」でした。1944年という設定だから、ふつうなら、その時代にふさわしい有名な曲を選ぶでしょう。ところがどっこい、そうじゃありませんでした。この映画の音楽監督であるラロ・シフリンが曲を、マイク・カーブ(わたしはこの人物がどうも好かない。彼の会社カーブ・レコードが出す、10曲入りしみったれCDをやむをえず何度か買うハメになったのが、いま思いだしても悔しい)が詞を書き、ハンク・ウィリアムズ・ジュニアが歌った新曲だったのです。

既存の曲を使えばよけいな金を払わねばならないし、(同じコインの裏側だが)自分に印税が入ってこないわけで、どうせ銃撃音や爆発音にほとんどかき消されてしまう曲だ、だれにもわかりはしない(じっさい、わたしはだれのなんという曲なのか、今回たしかめるまで知らなかった)、自分で曲を書こう、なんて思ったのかもしれません。営業的には正しい判断でした。ポップ・チャートではダメでしたが、ハンク・ウィリアムズ・ジュニアのAll for the Love of Sunshineは、カントリー・チャートでは大ヒットしたそうです。ミュージカルでもないのに、二曲もヒットを生むとは、ラロ・シフリンも、この映画の主人公同様、抜け目がありません。



◆ ハリウッド版名無しのガンマン映画 ◆◆
クリント・イーストウッドに関していうなら、この映画にはもうひとつ見るべきところがありました。前述のタイガー戦車長との交渉の場面に明示的にそれが表現されましたが、このケリーという役は、ハリウッドに復帰したクリント・イーストウッドがやっと見つけた、「名無しのガンマン」シリーズの続篇でした。

『奴らを高く吊るせ』は、一見、イタロ・ウェスタン的な道具立てで、そのつもりで見てしまいますが、あの映画の主人公は元保安官で、自分をリンチにした人々に復讐する、正義を希求する人物でした。金を稼ぐだけが目的という、考えようによってはじつにさっぱりして好ましい人物だった「名無しのガンマン」の対極にあるキャラクターだったのです。

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『戦略大作戦』のケリーは、まちがった命令を受けて味方を攻撃してしまい、スケープゴートにされた、という過去を背負った人物、というように説明されますが、そんなことは重要ではありません。だいじなのは、そういう弁解のもとに、国など知ったことか、自由世界の理念などクソ喰らえ、俺が戦争する目的はただひとつ、俺の利益のためだ、という「名無しのガンマン」に瓜二つのキャラクターを成立させられたことです。

話の運びや編集に間延びしたところがありますが、年をとって再見しても、高校生のときと同じように、見終わったあとでじつにさわやかな後味が残るのは、このケリーというキャラクターの、国家とは完全に手を切った潔さのおかげです。

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「問題は橋が無事かどうかだ」

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「よし、橋はあったぞ」

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「いや、もうなくなった」

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「なお、おい、60フィートの橋がいるんだ。なんとか都合してくれないか?」ふつうのカフェで電話を借りて後方の工兵隊の友だちに橋を注文するオッドボール。

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「前線の10マイル向こうに橋をもってこいだと! おまえ、頭はたしかか!」

ケイパーであっても、お笑い抜きのストレートなドロボーものでも、どちらでもいいのですが、みごとに成功し、ブラヴォーと叫んでニコニコ終わるものはめったにありません。成功したかに見えた直後、どのような仕掛けによって主人公たちに失敗させるかが、この分野の物語の成功不成功の決め手だといっても過言ではないほどです。犯罪者が成功する物語は、社会的是認を得にくいというか、そういう結末を喜ばない客も多いのです。

そういう意味で、戦場のドロボーたちが手放しで大喜びし、意気揚々と引き上げていくこの映画のエンディングは、じつは稀なサンプルではないかと思います。戦争を背景にし、ドロボーたちが本来は兵士で、盗みは余暇のバイトにすぎず、ターゲットは「永遠の悪役」ナチスの金塊、という道具立てのおかげで、めったにお目にかかれない、ハッピーエンドのドロボー映画が誕生しました。『戦略大作戦』などという馬鹿げた邦題にダマされてパスしてしまった方も多いでしょうが、これは戦争映画ではなく、ケイパー映画の秀作なのです。コメディーとしてご覧になるべきでしょう。

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by songsf4s | 2009-05-13 23:56 | 映画・TV音楽