- タイトル
- El Deguello
- アーティスト
- OST
- ライター
- Dimitri Tiomkin
- 収録アルバム
- N/A (OST)
- リリース年
- 1959年
- 他のヴァージョン
- The 50 Guitars, Nelson Riddle, Billy Vaugn
本日も引きつづき『リオ・ブラヴォー』です。
今回検索して見つけたもので、興味を惹かれ、全体を読んでみたのは、ピーター・ボグダノヴィッチのディーン・マーティン・スケッチです。英語を読むのが苦にならない方はもとをお読みください。ディノやハワード・ホークスに関心のある方には興味深い話です。以下はダイジェストです。
ホークスは以前からディノが気に入っていたそうで、彼のマネージャーから、こんどの映画の酔いどれ副保安官の役をディノにもらえないだろうか、といわれ、「じゃあ、明日の朝九時半に彼と話そう」といったそうです。われわれの仕事ですら、こんな早い時間の打ち合わせなど考えられません。まして、ハリウッド映画界ですから、当然、マネージャーも「そんなに朝早くでは間に合わないかもしれない」といったものの、ホークスは、九時半に会うか、ぜんぜん会わないかのどちらかだ、と突っぱねました。
翌朝、ホークスの前にあらわれたディノは、「いやあ、ちょっとした騒ぎでしたよ。昨日は真夜中までヴェガスでショウをやってましてね。で、今朝は早起きし、飛行機をチャーターしてこっちに飛んできたんです。そのあとも、渋滞のなか、ここまでくるのがまたひと騒ぎでね」といいました。ちょっと話すと、ホークスは「衣裳を合わせたらどうだ?」といいました。「どういう意味です?」とディノがきくと、ホークスは「役はきみのものだ。衣裳合わせをしてこいというのさ」とこたえました。
ホークスは、こんな時間でも会いに来るなら、役にも必死で取り組むだろうと考えた、といっています。たしかに、ほかの映画とは、『リオ・ブラヴォー』のディノはまったく印象が異なります。ストレートに立ち戻るか、グズグズのズブズブになって、アルコールの靄のなかで死んでいくか、という人生のマッチ・ポイントに挑む男の姿を、人が変わったように必死で演じているのです。ディノがこんなにくそ真面目に演技をしたのは、あとにもさきにも、このときだけではないでしょうか。
わたしはこういうホークスやディノの考え方に全面的に賛成するわけではありませんが、ディノだってやるときはやるんだ、ということを、西部劇史上に残る秀作に記録しておいたのは、やはりよかったと思います。いや、もちろん、柄だけで楽しげにやっているディノもわたしは好きです。『オーシャンと11人の仲間』での登場シーンなんか見ると、町で実物にすれちがったみたいで、おー、スターはちがうねえ、と感服します。そういう「まんま」の姿に力があったのが、この人のいいところでした。
◆ 皆殺しの歌 ◆◆
人間はいろいろなことをどんどん忘れていきます。今回、20年ぶりにこの映画を再々見して、うへえ、とひっくり返りそうになった曲がありました。英語ではないので、複数のタイトルのうち、どれが正しい書き方なのかわかりませんが、De GuelloまたはDeGuelloまたはDeguelloなどと書かれる曲です。
どこでひっくり返りそうになったかというと、ほとんどマカロニ・ウェスタンのテーマだからです。そうか、エンニオ・モリコーネはこれを聴いたのか、と膝を叩いてから、「あれ? 俺はこの映画を見るのは3回目だぞ」とズルッとなりました。20年前の再見のときには、そういうぐあいに比較しても不思議はなく、当然、今回と同じことを思ったにちがいありません。それでも、そのときはブログなどないから、ただ「あ、そういうことかよ」と思っただけで、翌日にはきれいさっぱり忘れてしまったのでしょう。
記憶など、その程度のものだから仕方がないとはいいながら、なんとも頼りないかぎりで、なにか思っては忘れ、思っては忘れ、たまに思いだしたことを書いているだけかよ、とボヤきが出ます。
肝心の『リオ・ブラヴォー』でこの曲が流れるシーンのクリップは発見できなかったので、かわりにネルソン・リドルのヴァージョンはどうでしょうか。
いかにもハリウッドのオーケストラらしく、きれいなバランシングですし、トランペットは名のある人にちがいありません。
エンニオ・モリコーネのカヴァーもあります。
ゴングが入ると、よりイタロ・ウェスタン的味わいになるんだよ、といっているかのようです。やはり、モリコーネは『荒野の用心棒』のスコアを書くときに、この曲を意識していたか、または、セルジオ・レオーネから「こういう雰囲気で」と注文をされたとみなしていいのでしょう。
わたしはイタロ・ウェスタンの特徴のひとつは、マイナー・コードを効果的に使ったパセティックなテーマ曲だと思っていましたが、その特性のよってきたるところは、アメリカ製西部劇、それも代表的な作品とみなされているハワード・ホークスの『リオ・ブラヴォー』だったというのだから、力が抜けてしまいます。いやはや、なにごとも早計は禁物、という教訓と受け取るしかありません。
ただし、ティオムキンがいつもこういうイタロ・ウェスタン的な曲を書いているわけではなく、むしろ、このEl Deguelloは例外的な作品だということは忘れるべきではないでしょう。これはティオムキンの特徴でもなければ、アメリカ製西部劇のテーマの特徴でもなく、たんに「ティオムキンは典型的なアメリカ製西部劇のために、マイナー・コードのパセティックな曲を書いたことがあり、それがセルジオ・レオーネないしはエンニオ・モリコーネにインスピレーションをあたえた」というあたりの穏当な、限定的なところに収めておくべきでしょう。
◆ カヴァー ◆◆
モリコーネのカヴァーにふれたので、ほかのものもひととおり見ておきます。
リック・ネルソン名義のRio Bravoというアルバムには、スコアは収録されていません。El Deguelloは収録されているのですが、OSTではなく、既述のネルソン・リドルのものです。これがうちにあるもののなかではもっとも品があって、いかにもネルソン・リドルらしいサウンドです。
50ギターズのヴァージョンは、Down Mexico Wayという、まだAdd More Musicでは公開されていないアルバムに収録されていますが、それほど長く待つことなくアップされるのではないでしょうか。
「国境の南サウンド」の50ギターズだから、こういう曲はカヴァーして当然というところでしょう。いつものサウンドよりややパセティックではありますが、これはこれでこの企画に合った楽曲で、やはり悪くありません。当たり前ですが、トランペットはオブリガートにまわり、ギター中心のアレンジです。50ギターズのトラックでは、かならずしもトミー・テデスコが活躍するとはかぎらないのですが、この曲は大丈夫、いつもの高速ランと強いヴィブラートによる、いかにもトミー・テデスコというプレイをしています。
ビリー・ヴォーン・オーケストラ盤は、一カ所、ミスがありますが、トランペッターはたいしたものです。ピッチが安定していて、力強い音が出ています。ビリー・ヴォーンはたいていの場合、ハリウッド録音でしょうから、あのへんのだれかである可能性が高いでしょう(多くのオーケストラにはツアー・バンドがあるが、スタジオ録音はスタジオ・プレイヤーでおこなうか、そこにツアー・メンバーの一部が加わったパーソネルということが多い)。
50ギターズは楽器編成そのものがノーマルなオーケストラと異なりますが、ふつうのオーケストラは、どこもおおむねオリジナルに近いアレンジで、YouTubeで聴いたエンニオ・モリコーネやネッド・ナッシュまでふくめ、頓狂なものはありませんでした。あまりいじりようがない曲だということでしょう。
スコアと挿入歌がそれぞれ1曲ずつ残ってしまったので、もう一回、『リオ・ブラヴォー』を延長することにします。