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The Blue Danube by the Berlin Philharmonic Orchestra (OST 『2001年宇宙の旅』より) その1
タイトル
The Blue Danube
アーティスト
The Berlin Philharmonic Orchestra, conducted by Herbert von Karajan (OST)
ライター
Johann Strauss II
収録アルバム
2001: A Space Odyssey (OST)
リリース年
1968年
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SFが嫌いなわけではないのですが、西部劇やアクションもの、スパイものなどにくらべると、面白いと感じる音楽はあまりなく、当家のサントラ・シリーズでは、本編はゼロ、『バットマン』『原子力潜水艦シービュー号』『ミステリー・ゾーン』など、ドラマしか取り上げていません。ジョン・ウィリアムズは勘弁してほしいし、ルーカス=スピルバーグ路線も願い下げなので、いきおい、SFから遠ざかってしまったようです。

ラヴ・ストーリーを取り上げないのは、そもそも、あまり見ていないから当然なのですが、SFは子どものころからたくさん見ているのに、ぜんぜん登場しないのはおかしいなあ、と思い、いろいろ考えた結果、とりあえず二本だけですが、音楽がいいといえるものを思い出しました。今日はその一本、いきなり超大物です。

◆ ゾロアスターがどういおうが…… ◆◆
ときおり、映画館から出たときに、脈拍が上がり、顔面紅潮ということがありますが、『2001年宇宙の旅』ほど心拍数のあがった映画はありません。それまでに見たあらゆる作品を失念してしまうほど圧倒的でした。

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この「合」だか「衝」だか(天文学不案内にて、どちらかわからず!)のイメージが何度か出てくるが、いずれもじつに美しい。

『2001年宇宙の旅』のテーマ、という曲はありませんが、ふつうは、Also Sprach Zarathustraがテーマ曲とみなされています。どうでもいいようなことですが、この曲が前提としたニーチェの本は『ツァラトゥストラはかく語りき』というタイトルだった関係で、曲のほうも同じような邦題がついています(書籍のなかには『ツァラトゥストラはこういった』という醜悪きわまりない現代語タイトルを採用しているものもある。なんたる愚昧! なんたるリズム音痴!)。

しかし、英語タイトルは『Thus Spoke Zoroaster』で、これをそのまま訳すと「ゾロアスターはかく語りき」になってしまい、ありゃ、とコケます。日本に入ってくるときに、どの文化のフィルターを通ったかによって、妙なバイアスがかかってしまうという、典型的な例です。子どものとき、思いませんでしたか、「シアター」と「テアトル」はどう違うのだ、なんて?

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どうでもいい寄り道はそれぐらいにして、音楽のほうです。わたしはクラシックというものを聴かない人間ですが、本日とりあげる『美しき青きドナウ』(これを「美しくて青いドナウ」なんて現代語にしている大馬鹿盤はないだろう。ということは、レコード屋のほうが本屋より美的感覚において優れているということか? 出版界も地に墜ちたものだ)は、子どものころ、わが家に「ステレオ」(ステレオ再生のできるオーディオ・セットを昔はこう呼んだ、いや、かく称えし)がやってきたときから、レコード・ラックに鎮座していたくらいで、さすがのわたしもこの曲は小学校のときから知っていました。

しかし、毎度申し上げるように、映像と結びついた瞬間、音楽はときにまったく新しい相貌を帯びます。それを感じていただきたいのですが、必要なところだけを切り取ったクリップは見あたらず、やむをえず、「人類の夜明け」シークェンスから長々とご覧いただきたいと思います。いや、プレイをクリックして、そのまま記事をお読みになっていれば、やがて肝心のシークェンスにたどり着き、音が聞こえてきます。その場合でも、できればすこし後退して、骨が宙に舞い上がるところからご覧いただけると、より味わい深いものになるでしょう。



というわけで、骨が飛んで、一瞬にして数万年の時間を跳躍するところから入らないと、この映画のなかでこの曲が出てくる瞬間のすばらしい感覚は得られないのです。途中からこのシーンに入っているクリップをアップした人は、映画のことも音楽のことも、これっぱかしもわかっていないのです。

たとえ骨はカットしても、「イントロ」をカットするのだけは断じて不可です。そういうクリップもありましたが、アップした人物は頭がどうかしています。クラシックでは「イントロ」とはいわないのかもしれませんが、この曲にはポップでいえば前付けヴァースのようなものがあり、本体のヴァース(とはいわないのだろうが!)とは異なったコード進行(とはいわないだろうが!)を使っているのです。どういうものかというと、ポップのほうでは昔はよく使った、メイジャーから同じコードでマイナーに移行するパターン(このOSTでは、DからDmへ)が、じつにけっこうな響きで、これ抜きではこのシーンの魅力も何割かは減じられてしまいます。

このクリップをアップした人もべつの意味でセンスがなく、ただ機械的に切り分けているため、The Blue Danubeの後半が切れています。というわけでつぎのクリップへ。



The Blue Danubeはこのあとさらに二回出てきます。いや、そのまえに、ちょっと説明しておいたほうがいいでしょう。この一連のシークェンスは、地球からパンナムのロケットで軌道上の宇宙ステーション(まだ建設中で、骨組みだけのところがあるのが凝っている!)に飛び、さらにべつの宇宙船に乗り換えて、月まで行くというのを、言葉の説明なしに、映像だけで見せています。

なぜ乗り換えるのか? 経済の問題でしょう。地球からの脱出速度に到達するには途方もないエネルギーがいるので、小型ロケットであることが望ましいのですが、軌道上からどこかに飛ぶには相対的に小さなエネルギーですむため、低コストで大型のものを飛ばせる、といったあたりじゃないでしょうか。アーサー・C・クラークはしばしばコストの問題を小説のなかで扱い、「宇宙エレヴェーター」などという、究極の低価格宇宙旅行手段も考案しています。

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映画はそういうことをいっさい説明せず、画面の背後にあることを、観客みずからが知識と想像力を動員して、能動的に理解するように仕向けているのです。じつにタフな映画です。アーサー・C・クラークの小説のほうは明晰そのものですがね(原作またはノヴェライゼイションというわけではなく、映画の「並行作品」というべきだろう)。

ということで、つぎのクリップは軌道上ステーションから月への旅です。



ステュワーデス(この映画がつくられたときには、フライト・アテンダントだなんていう長ったらしくて醜悪で馬鹿馬鹿しい言葉はなかった)が逆さまになるのはべつに不思議でもなんでもなく、セットのほうがハツカネズミの踏み車のようにゆっくり回転しているので、彼女はずっと直立し、その場で足踏みしているだけです。このシーンは大丈夫でしょうが、宇宙船ディスカヴァリー内で、同様の回転セットで宇宙飛行士たちが運動するシーンの撮影は、危険を伴っただろうと思います。

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◆ 稀なる人の尋常ならざるシーン ◆◆
言葉にすると、ロケットが地球から軌道上のステーションに到着し、登場人物がそこから地球に電話をかけ、子どもと話し、ステーションにいたソヴィエトの科学者たちと、奥歯に物が挟まったような会話をし(この人物は公にできない事情で月に向かう途次にある)、またべつの宇宙船に乗って月の基地に到着する、というだけのシークェンスで、ストーリーはまだはじまっていないといっていいほどです。

しかし、それにしては、映像が表現するものはじつになんとも濃密かつ変化に富み、緊張感を失うカットなどまったくありません。はじめて見たときは圧倒され、当然、もう一度みたいと思ったのですが、疲労困憊で、その日、繰り返して見る気力は起きず、後日にもう一度行きました。ショットのひとつひとつに膨大な情報が詰め込まれているので、よく観察し、頭をフルに使って解釈しなければならないために、一度見ると、消耗してしまうのです。

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ディスカヴァリーの乗組員が、テーブルに埋め込まれた縦型情報端末でニュースを読んでいる。あとから振り返って考えると、キューブリックはゼロックスのパロ・アルト研究所に取材したのではないかという気がする。

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ゼロックスのパロ・アルト研究所で製作された実験機、「アルト」の縦型端末。

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「アルト」の先には、この「ダイナブック」が予定されていた。これは実物ではなく、完成予想模型。のちにアップルがこれに非常に近いデザインのノート型マックをつくった。

さて、問題の音楽です。いやもう、感銘を受けました。あの当たり前の曲に合わせて、宇宙船と宇宙ステーションにワルツを踊らせちゃったのだから、やはりキューブリックは尋常の人ではありません。こういう発想をすること自体もすごいのですが、それを美しく実現した意志とセンスと能力の組み合わせは、やはり稀なるものというべきでしょう。

これに比肩しうる映像と音楽の組み合わせは、ロベール・アンリコの『冒険者たち』の開巻直後に登場する、複葉機とトラックのダンスぐらいしか、あの時代にはありませんでした。『冒険者たち』の「ダンス」もけっして凡庸ではなく、子どものわたしは、フランソワ・ド・ルーベの音楽に魅了され(この場面で使われたのはJournal de Bordという曲)、その音楽とみごとに融合した映像に惚れ惚れしました。

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この月面基地が姿をあらわしたときは、なんだか『007は二度死ぬ』に出てくるスペクターの秘密基地みたいだと思った!

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『冒険者たち』と条件が異なるのは、あちらはライヴ・フッテージなのに対し、『2001年』はスタジオでの特殊撮影だということですが、もうひとつ、オリジナル・スコアと出来合いのクラシック・ミュージックの借用というちがいもあります。

どちらがいい、悪いということではありません。性質のちがいをいっているだけです。『2001年』はよく知られた音楽を使いながら、その音楽が映像と結びついた瞬間、新しい相貌を見せることをあざやかに証明し、われわれを驚愕させました。ここがもっとも重要で、その後の映画音楽との関係で大きな意味をもつ点です。わかりやすい例でいえば、『ヴェニスに死す』のマーラーや、『地獄の黙示録』のワーグナーの利用法の先駆となり、さらにいえば、過去のポップ・ヒットの映画への応用にまで先鞭をつけたのです。

しかし、この「スコア」の誕生には、やや錯綜した背景があります。昔から、なんだか変だなあ、と気になっていたのですが、今回、重箱の隅をせせってみて、なるほど、そういうことか、と納得しました。しかし、本日はすでに「電池切れ」(いや、PCではなく、わたしのパワーがなくなった)のうえに、残り時間もわずかなので、そのあたりのことと、その他の背景情報については次回送りとさせていただきます。
by songsf4s | 2009-04-20 23:55 | 映画・TV音楽