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55 Days at Peking by Dimitri Tiomkin (OST)
タイトル
55 Days at Peking
アーティスト
Dimitri Tiomkin (OST)
ライター
Dimitri Tiomkin, Paul Francis Webster
収録アルバム
55 Days at Peking (OST)
リリース年
1963年
他のヴァージョン
Brothers Four, 克美しげる
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本日から、昨夏、体調を崩すまえに考えていた道筋、1960年代の映画テレビ音楽をたどる、日暮れて道遠しといった趣の、とぼとぼ歩きを再開しようと思います。

とはいっても、半年のあいだ、冬眠していたわけではないので、あれこれと思い出すことも多く、マドレーヌひとつへのこだわりから大長編を書いてしまったマルセル・プルーストの(気分だけは)再来かよ、と笑っています。今日は、半年前にはすっかり忘れていたのに、あれこれ昔の映画を見るうちに、最近になって、そういえば、と思いだしたテーマ曲です。

素直に「思いだした映画」と書けばいいものを、「思いだしたテーマ曲」などと据わりの悪い書き方をしたのには理由があります。あの時代、この映画は見ていなくて、ただテーマ曲を記憶していただけなのです。

◆ ボートの屋形? ◆◆
これがまさしくそのヴァージョンだ、という確信はもてないのですが、とりあえずYou Tubeにあるこの曲をお聴き願えればと思います。この曲を知っているオールドタイマーは懐かしく思い、とんとご存知ない若者はカルチャーショックを味わうでしょうから、退屈はなさらないと思います。



克美しげるだったという記憶はありません。なんとなく、ボニー・ジャックスとかダーク・ダックスとか、そういうコーラス・グループが腹から発声して、ボルガの舟歌みたいな調子(クレイジー・キャッツか!)で歌っていたような記憶があるのですが、まあ、そういうのをテレビで見たのかもしれませんし、たんに長年月のあいだに記憶がよじれただけかもしれません。

この歌詞は子どもにはチンプンカンプンなところもあるせいで、妙に印象が強く、部分的に記憶に残っていました。「時は一千九百年、55日の北京城」というファーストラインはきっちり覚えていました。やはりファーストラインは重要です。Find That Tuneというソング・シソーラスに、First Line Indexという章が設けられている所以です。日本文学全集の短詩形の巻にも、冒頭五文字の索引がよくあります。われわれの記憶メカニズムが、物事を冒頭部分で覚えるようになっているのでしょう。

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とはいえ、記憶違いはよくあること、「肉弾相撃つ義和団事件」というラインと、「決戦挑む暴徒の輩」がつながって「肉弾相撃つ暴徒の輩」と覚えていました。これはたぶん、もうすこし年がいってから記憶を修正したときに、間違えた「修正」をしたせいでしょう。

これがまた笑えるというか、子どもの理解力はこの程度というか、これがヒットしていたときには「ボートの屋形」だと思っていたのです。世界史の授業で義和団事件が出てきたときに、この曲のことを思いだし、記憶にある「ボートの屋形」のラインが変だということに気づきました。「ボート」はどう考えても「暴徒」、だとしたら「屋形」もおかしい、てえんでかなり悩んだあげく、「やから」か、と腑に落ちたのです。

◆ 撮影所の死とインフラストラクチャーの誕生 ◆◆
さて、当然、オリジナルはどうなっているんだ、と考えますね。映画『北京の55日』のタイトル・シークェンスをご覧あれ。



中国人、とりわけ、北京の住人は不満かもしれませんし、わたしが見ても、不思議なバイアスがかかった東洋の表現だと思いますが、しかし、絵としてはみごとですねえ。毎度申し上げるように、60年代の映画は、いまとちがい、タイトルにおおいなる手間をかけていたのです。『北京の55日』も大作にふさわしいスケールのタイトルで、おおいに感じ入ります。こんなセコなのじゃなくて、DVDでみると圧倒的ですぜ。映画館で見たら、もっとすごかったでしょう。

55 Days at Peking by Dimitri Tiomkin (OST)_f0147840_16551590.jpgディミトリー・ティオムキンの音楽もたいしたものです。またしても分業制で、オーケストレーターはティオムキンではないのかもしれませんが、アレンジ、プレイも「ハリウッドは死なず」、巨大インフラストラクチャーの底力を感じさせます。この映画は1963年公開なので、いわゆる「ハリウッドの死」からすでに数年が経過していますが、やはり腐っても鯛、帝国の残照まばゆいばかりなり。

寄り道をしますが、1950年代終わりに、ハリウッドの撮影所はみな崩壊してしまいます。スタッフ制を維持できなくなり、馘首につぐ馘首、製作そのものもみな下請けにだして、裸一貫で生き残ろうとします(正確には、テレビの下請けとニューヨークからの資本注入というか、買収により、別物になって生き残る)。

このあいだ、本に書くために確認したのですが、ヘンリー・マンシーニは、1958年終わりごろに、ユニヴァーサルから解雇されます。この撮影所を買収したMCA(マンシーニは呆れるほど安い金額で買い叩いたといっている。わずか数百万ドル。いってくれれば、わたしがもっと高く買ってあげたのに、といえればいいのですが!)の方針で、彼が勤務していたユニヴァーサル音楽部そのものが解体され、消滅してしまったのです。

このへんになるとほとんど「残務整理」で、ワーナーをのぞく各社は、みなすでに裸に剥かれ、ハリウッド一帯の撮影所(ユニヴァーサルはハリウッドのすぐ北、ユニヴァーサル・シティーにあった)は閉鎖され、ぺんぺん草が生えはじめていました。あ、アメリカにはぺんぺん草はないみたいですね。じゃあ、空き地の雑草の王者、セイタカアワダチソウが生えはじめていた、と訂正します。セイタカアワダチソウはアメリカ産なので大丈夫。

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『北京の55日』を録音中のディミトリー・ティオムキン(背中を向けて指揮をしている人物)。スクリーンを見ながらコンダクトする様子がよくわかる写真である。

そういう「ハリウッドなんかもうありはしない」という状況でつくられた音楽ですが、じつに立派なプレイで、撮影所外部のハリウッド音楽インフラストラクチャーの凄みを痛感します(と書いてから、このころからすでに、低賃金のロンドンでの録音がはじまっていた可能性もゼロではないことに思いいたり、ちょっとひるんだ。撮影はスペインだというし、ウーム……)。1963年はフィル・スペクターのBe My Babyの年で、ポップ/ロック系でも、ハリウッド・インフラはその力を遺憾なく発揮しはじめるのですが、同じ時期に、オーケストラ系インフラも圧倒的なサウンドをつくっていたことに、ささやかなドラマを感じます。

いや、それはいいとして、このオリジナルを聴いて、克美しげるの日本語版につなげるのは、おおいに困難を感じますな。「55 Days At Peking」というタイトル文字が出る瞬間に、フォルテシモで奏でられるモティーフがもとになって、あの歌がつくられているのはおわかりでしょうが、でも、この二者の距離は遠いですぜ。男と女のあいだの距離と同じぐらいの遠さです。

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◆ ミッシング・リンク ◆◆
考えるまでもなく、音楽好きの方ならおわかりでしょうが、日本の音楽人が、ティオムキンの短いモティーフから、克美しげるの歌を抽出できた可能性はほぼゼロです。あの時代にそんな力のある人がいたら、わたしは英米音楽に傾斜などしなかったでしょう。克美しげる盤には、ちゃんと元ネタがあったのです。

といって、また音をもってこられるといいのですが、そのミッシング・リンク、ブラザーズ・フォーの55 Days at Pekingのサンプルはとりあえず見つかりませんでした。編集盤に収録されていることもあるので、そのたぐいの盤をお持ちの方はご確認を。また、リチャード・“ドクター・キルデア”・チェンバーレイン盤もあるようです。

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かわりに歌詞をコピーしておきます。

The year was Nineteen-Hundred
T'is worth remembering
The men who lived through
Fifty-five days at Peking

T'was called the Boxer Insurrection
A bloody, Oriental war
Against all nations
Of the Diplomatic Corps

The flags of France and Britain
How they fluttered in the breeze
The Italian and the Russian
And the flag of the Japanese

Then came the sound of bugles
The rolling drums of fury
And the streets of Peking
Were as empty as a tomb

The Empress of all China
Gave the signal to begin
Let the foreign devils
Be driven from Peking

They stormed the French Ligation
They attacked with shot and shell
And they came in blood red blouses
Screaming "Sha Shou" as they fell

The drums have long been muffled
The bugles cease to ring
But through the ages
You can hear them echoing

克美しげる盤の歌詞も、これをもとに書かれたことがおわかりでしょう。ああいう漢語調の日本語を書ける人が現代日本にはいなくなってしまったので、この作詞家はそれなりに「仕事をした」といえますが、基本的にはあちらもののいただきで、克美しげる盤アレンジも、マーチング・ドラムをはじめ、ブラザーズ・フォー盤を踏襲したものになっています。

例によって、「やっぱりな、日本人は才能がない」という、寂しい町はずれに行き着いてしまったような気分なので、A面の「8マン」でも聴いて、元気になりましょうか。あの時代、子どもはみなこの曲を歌っていましたねえ。ついでに、関連動画にあった、三橋美智也歌う「怪傑ハリマオ」も聴いてしまいました。このハイ・ノートがつくりだすパセティックな感覚は、まったく西欧的なものではなく、すこしだけ安心します。



しばらくは、昨年夏に中断したところにもどり、映画テレビの音楽をやるつもりなのですが、日本のテレビ番組のほうに手を出すかどうかは、まだ決めかねています。ハリマオなんか、歌詞までかなり細かく覚えていて、この方面に手をつけると、収拾がつかなくなるような気がします。

ついでに、たくさんアップされているハリマオのクリップをいくつか見たのですが、マレーの町のロケが、東京のどこかにしか見えないし、なんとか寺院というのが、築地本願寺だったりして、ケラケラ笑ってしまいました。まあ、あの建物は非日本的の極北なので、気持ちはわかります。あんまりすごいんで、あれを設計した伊東忠太の研究書を読んじゃったほどです。

映画に登場した築地本願寺を思い起こすと、小津安二郎の戦後第一作『長屋紳士録』のシーンが印象深いですな。本願寺の裏にまだ築地川があるのはいいとして(埋め立てられる以前なのだから当たり前。ここを舞台にした、三島由紀夫の、たしか「橋尽くし」というタイトルのまことにけっこうな短編もあった)、そこで子どもたちが釣りをしているのにはひっくり返りましたぜ。銀座四丁目から数分で歩いていけるところで、釣りをやっていたとはね。

次回も、戦争映画のテーマ曲かなあ、と思っていますが、さてどうなりますことやら。

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by songsf4s | 2009-02-11 16:19 | 映画・TV音楽