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(ヤング・)ラスカルズ全曲完全アップ計画 その06 アメリカ・ストライクス・バック、1965
 
66~67年のサンフランシスコ音楽爆発の時を誰かが回想して、アタッシュに現金を詰め込んで各社の担当が飛行機に乗った、と書いていた。

RCAはジェファーソン・エアプレイン、キャピトルはクウィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、WBはグレイトフル・デッド、CBSはビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーとモビー・グレイプ、こういった大物はたぶん、実弾発砲の対象ではなく、ほかにもっとないかと、ひとつレベルを降りたところでの闘いが実弾戦だったのだと想像している。

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デビュー当時のグレイトフル・デッド

よその誰かとなにか口約束ができていたとしても、新しい誰かが自己紹介するやいなや、いきなり目の前のテーブルに、ひとつ、ふたつ、三つと札束を積んでいったら、たいていの人間はすくなくとも動揺はする。

ラスカルズの時も、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー、フィル・スペクター、トム・ダウド、ジェリー・ウェクスラー、ネスーイーとアーメットのアーティガン兄弟といった、業界ビッグ・ショットばかりでなく、数人の弁護士たちが〈バージ〉に来ていたという。なんだって弁護士かというと、その場で契約してしまうためだ。

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ピアノの前にジェリー・リーバーとマイク・ストーラー、背後にはコースターズの面々、右端はアーメット・アーティガン

◆ 1965年のフランケンシュタイン ◆◆
ビートルズ以下、DC5、ピーター&ゴードン、ハーマンズ・ハーミッツなどなどの英国勢がさんざんにアメリカ市場を食い荒らしている最中も、彼らは失地回復のテコになる「アメリカ産ボーイ・バンド」を求め、アタッシュに実弾を込めてアメリカ中を飛びまわっていたはずだ。

そのアメリカ勢各社の市場再確保作戦の結果が目に見えるようになるのは、65年に入ってからのことだった。以下に、65年のいつかは問わずに、ビルボード・チャート20位以内のヒットを出した米国産セルフ・コンテインド・バンドを列挙する。

バーズ(HB)、ラヴィン・スプーンフル(GC)、マコーイズ、タートルズ(HB)、ゲーリー・ルイス&ザ・プレイボーイズ(HB)、ボー・ブラメルズ、サー・ダグラス・クウィンテット、サム・ザ・シャム&ザ・ファラオーズ(この人たちをここに置くのはやや違和感があるが!)、ディノ・デジ&ビリー(HB)、ジェントリーズ、キャスタウェイズ。

終わりのほう、ジェントリーズやキャスタウェイズはワン・ヒッターだが、冒頭付近は「60年代中盤のアメリカ音楽のエッセンス」のようなグループが並ぶ。

The Gentrys - Keep on Dancing


ただし、ここではっきり見えてしまうのだが、各社は彼らの音楽的技量には目をつぶった。マイナー・レーベルや鷹揚な会社は、よけいなコストをかけてプロフェッショナルのプレイで補強するという文化そのものと無縁だったのかもしれないが(サーフ・ミュージックにはそういう例がずいぶんあった)、メイジャー・レーベルはやはり一定以上の水準であるべきと考えたに違いない。

首から上だけ若者のグループならば、あとの音楽的なことは、スタジオのお父さんプロフェッショナルたちがなんとかする、という、とりわけハリウッドではよく利用された音楽生産方式が、「モップ・トップの可愛いボーイ・バンド」の時代の到来とともに、フル稼働に入ったのだ。

The McCoys - 02 Hang On Sloopy (HQ)


デビューの時、マコーイズのメンバーはまだ高校生だった。やがて自前のプレイでトラックをつくるようになるが、この時点では大部分の曲(下手なトラックもあるので、そうしたものは彼ら自身のプレイと思われる)はスタジオのプロが高校生に替わってプレイしている。非常にいいドラマーを使っているのだが、いまだに名前がわからない。

バーズ、タートルズ、プレイボーイズ、そしてディノ・デジ&ビリーは、すくなくともデビュー盤のトラックはプロがつくった。彼らは歌っただけか、バーズのように、メンバーの一部だけがスタジオでプレイした。

上記の中に、ハル・ブレインがドラムを叩いたものが4種あり(HBと入れておいた)、NYのエース、ゲーリー・チェスターもラヴィン・スプーンフルのデビュー・ヒット、Do You Believe in Magicで叩いたし(ドラム以外のパーソネルは不明)、マコーイズはいまだに誰だったのかはわかっていないが、すくなくともドラムは確実にスタジオのプロフェッショナル。

The Byrds - 07 Mr. Tambourine Man (HQ)


この曲についてはロジャー・マギン自身がAFMの伝票の写しを公開したので、パーソネルは明らかになっている。
Drums: Hal Blaine
Bass: Larry Knechtel
12 String Guitar: Jim McGuinn
Guitar: Bill Pitman, Jerry Cole
Electric Piano: Leon Russell

上記の一覧にはないが、まもなく登場するモンキーズは、人工的なスター、テレビがつくった幻影と誹られることになるが、なあに、ほかのグループだって、はじめからアーティスト・イメージ先行だったことがここに明白にあらわれている。

バーズやタートルズのように、メンバー・チェンジでやっとまともなドラマーになり、ふつうにライヴができるバンドに「成長」することもあった。バーズはジーン・パーソンズになってから、タートルズはジョニー・バーベイタになってからが「ふつうのバンド」時代である。

◆ 首と胴体の分業化 ◆◆
ハリウッドで「影武者」が生まれたのはおそらく1960年、ヴェンチャーズがデビューした時のこと。いまだに確たる結論を得られないのだが、こう考えている。

かつて音楽をつくるのは、訓練を受け、経験を積んだプロフェッショナルの仕事だった。フロントに立つシンガーはさておき、バンドは身ぎれいにすればよく、容姿年齢は問われなかった。

ところが、第二次大戦後の可処分所得の増大による「ユース・カルチャー」の発生、これはアイゼンハワー時代のアメリカの豊かさを端的に示す現象だが、そのような新種が出現し、若年層はお父さんたちのバンドがプレイする、お父さんたちのための音楽のお余りを楽しむのではなく、若者がプレイする若者のための音楽を欲するようになった。

彼らは自室にポータブル・プレイヤーや自分だけのラジオを置き、家族とは関係なく、自分だけの音楽環境をもったのだから、それにふさわしい音楽が欲しかった。いや、いずれ、そんなことは当たり前になるのだが。

ここで、十分な力量のある若者のバンドが手に入れば問題はなかったのだが、そうはいかなかったことで、看板と実体の大きな乖離、欺瞞とも云うべき弥縫策が生まれた。

レコード会社はそこそこの技量のバンドを手に入れ、それを看板にしながら、スタジオではプロフェッショナルに音楽をつくらせ、レーベルには看板息子たちの名前を書く、という方法を思いついた。その顕著な成功例がシアトルからやってきた若者たち、ザ・ヴェンチャーズだった。

The Ventures - 03 Walk Don't Run (HQ)


この曲の伝票はいまだに発掘されていないのだが、かつてキャロル・ケイさんにお願いしてハル・ブレインに質問を取り次いでもらった時の回答では「俺はヴェンチャーズは最初からやっている。あとでメルが入った時には、レパートリーを全部教えた」というものだった。いろいろ「吹く」人だし、記憶違いもあるが、この回答は、音と付き合わせて信用してよいと判断した。のちのロックンロール・ハード・ヒットとはまったく異なるスタイルだが、ハルはそもそもジャズ・ドラマーとして出発した。シンバルのヒットする位置を微妙に変えるこの繊細なプレイをしたドラマーはハル・ブレインだろう。
初期ヴェンチャーズのスタジオ録音のレギュラーは、リード・ギター=ビリー・ストレンジ、リズム・ギター=キャロル・ケイ、ベース=レイ・ポールマンと考えている。トミー・テデスコやグレン・キャンベルやジェイムズ・バートンもプレイすることがあったし、さらには、トミー・オールサップ(リード・ギター)やフランク・デ・ヴィート(ドラムズ)が取って代わることもあれば、ヴェンチャーズのメンバー、なかでもメル・テイラーとノーキー・エドワーズ自身がプレイしたこともあったらしい。以上は60年代中盤までの話。Hawaii 5-0以後はまた話が違うのだが、脇道なので略。

ヴェンチャーズの影響下に生まれたサーフ・ミュージックは、基本的にカリフォルニアのパンク・ミュージックで、上手いバンドなどというのはそうはなかった。創始者のディック・デイルのバンド、デル・トーンズからして、感動的なほど下手だったことはデイルの自主制作盤に記録されている。

デイルが地元のメイジャー、キャピトル・レコードと契約してからは、デル・トーンズは建前の存在になり、当然、スタジオでは地元のキング・オヴ・ザ・ドラマーズ、ハル・ブレインがストゥールに坐って録音された。

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上から、マコーイズ、ディノ・デジ&ビリー、バーズ。そもそも、彼らははじめからアイドルとしての役割を果たすことを期待されていた。ここは音楽界である以前に、芸能界なのだ。たんに若い「ボーイ・バンド」では不十分、「モップ頭」も重要なポイントだった。

NYやナッシュヴィルについてはいくつか例を知る程度だが、後者のロニー&ザ・デイトナズは、ツアー・バンドと録音メンバーが異なっていた。1964年デビュー。(当家では過去に、「I'll Think of Summer by Ronny & the Daytonas」という記事で、ロニーすなわちバック・ウィルキンにふれている。)

イギリスではどうかというと、アメリカほど目立たないが、それでも64年になだれ込んだグループの中には、ハーマンズ・ハーミッツのように、ツアー・メンバーと録音メンバーが分離していたグループもないではない(ピーター・ヌーンは後年のインタヴューで、ジミー・ペイジはほんの一握りしか弾いていない。レギュラー・ギタリストはヴィック・“007”・フリックだったと証言している)。また、キンクスのドラマー、ミック・エイヴォリーはある時期にかぎればスタジオで叩いたことはなく、クレム・カッティーニなどのプロがかわりにプレイした。

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ハーマンズ・ハーミッツ。12~14歳あたりの少女をターゲットに想定したアイドル・グループだった。

とはいえ、アメリカにくらべれば、イギリスのグループはスタジオでもおおむね自分たちでプレイしたと云える。リンゴ・スターもデイヴ・クラークもクリス・カーティスもボビー・エリオットもチャーリー・ワッツも、ハル・ブレインやアール・パーマーやゲーリー・チェスターのような技量も安定感もなかったが、とにかく、一定水準のプレイをすることができ、スタジオでも自分たちでトラックをつくった。

しかし、バーズのマイケル・クラークのようなひどいのはさておき、公平に云って、イギリスのバンドとアメリカのバンドの技量の差はそれほど大きくはなかった。アメリカのバンドのなかにも、我慢強く録音すれば、イギリスのものに近い音は出せそうなところはあったが、現実にはスタジオでプレイできないところが多かった。

この差はたぶん文化の違いに由来するのだろう。とくにハリウッドはスター・システムの発祥の地、映画のスタント・マン同様の存在が音楽界に生まれても、べつに不思議でもなんでもなかった。

The Beau Brummels - 03 Just a Little (HQ)


彼らの65年のデビュー・アルバムからの曲で、サンフランシスコで録音された。とりたてていいドラミングでもないが、タイムはそこそこ安定している。しかし、のちにWBに移籍し、ハリウッドで録音する時には、やはりハル・ブレインがストゥールに坐り、他のパートもプロがプレイした。サンフランシスコとハリウッド、オータム・レコードというマイナー・レーベルと、WBという大企業の文化の違いだろう。

◆ アトランティック・レコードが置かれた場所 ◆◆
影武者は微妙な問題なので、公式に発言する人は少なく(ペリー・ボトキン・ジュニアはずっと後年、若い連中はおそろしく下手だったから、スタジオではプロがかわりにプレイした、それだけのきわめて単純な話だ、と断じていたが!)、アトランティック首脳陣のこの種の話題に関するコメントも読んだことはない。だから、結果から逆算して、勝手に想像する。

ビートルズと英国の侵略があった時、アトランティックはR&Bとジャズの会社であり、ボビー・デアリンとニーノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンズを顕著な例外として、ポップ・フィールドでの経験は豊富ではなかった。

そのデアリンからして、Splish Splashのころはポップ・シンガーと云えたが、やがてジャズ・シンガーに分類したほうがいいようなスタイルになってしまうし、ニーノ&エイプリルは、大昔の曲にひねりを加えて歌うデュオであり、「現代的」ですらなく、すぐにヒットは出なくなったしまう(いや、好きなデュオなのだが)。

Nino Tempo & April Stevens - My Blue Heaven


日本でも戦前から「私の青空」などの邦題で、二村定一、エノケン、ディック・ミネなどカヴァーが多数あり、戦後には大滝詠一も歌ったスタンダード。アトランティック時代のニーノ&エイプリルのドラムはほとんどアール・パーマーが叩いた。

ニーノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンズが成功したからなのか、アトランティックはやはりハリウッド・ベースのデュオ、ソニー&シェールと契約して、I Got You Babeなどのヒットを生む。この曲はちょうど、ラスカルズとの契約話が進行しているころにリリースされ、ヒットしつつあった。

しかし、これはソニー・ボノがプロデュースし、ハリウッドで制作されたもの、つまりアトランティックの「スーパヴァイズ」のおよばないところでできた完成品を、いわば、そのまま市場に取り次いだだけだし、そもそも、彼らはセルフ・コンテインド・バンドではない。

The Young Rascals - 03 Just a Little (mono mix)


これは上掲のボー・ブラメルズの曲のカヴァー。ヴァニラ・ファッジの曲がはじまりそうなイントロが興味深い。フィーリクスとエディーは声の質が似ていて、R&Bタイプかバラッドを歌うのに適していたが、ラスカルズも時代の子、フォーク・ロック潮流は気になったのだろう。ディランの曲とこのJust a Little、フォーク・ロック系の曲をふたつデビュー盤でカヴァーしている。どちらもリード・ヴォーカルはジーン。
ビルボード・チャートを読んでいて、バーズとフォーク・ロックの衝撃というものを改めて思った。バーズのMr. Tambourine Manがビルボード・チャートのトップに立ったのは1965年5月のこと。これにアメリカのバンドは瞬時に、激しく、急速に反応した。フォーク・ロック的楽曲がこの年の秋以降には溢れることになるのだから、つまりバーズの衝撃波がまだ収まらないうちに、彼らはフォーク・ロック的な曲を書き、あるいはフォーク曲をエレクトリックにアレンジし、録音し、リリースしたのだ。この時点ではバーズとフォーク・ロックこそがアメリカ音楽の現在であり、未来そのものだった。
時間線に沿って考えると、ビートルズもまた異様な速度と強度で反応した。タンブリンマンがトップに立ってから半年後には、彼らはRubber Soulをリリースした。この反応の早さはよく考えてみるに値する。

といったあたりが、アーメット・アーティガン以下のアトランティック首脳陣、およびトム・ダウドやアリフ・マーディンら現場を預かる人びとの、最大公約数的願いだっただろうと想像する。

1964年のアメリカには、セルフ・コンテインド・バンドの経験が豊富なレーベルなどなかったのだから、アトランティックも未経験。しかし、このままR&Bとジャズの良質な盤でやっていこうなどと思うほど鈍重でもなければ、脂っ気も抜けていなかった。

とはいえ、彼らとしては、LAの会社のような、臆面もないスター・システムはできれば避けたかったに違いない。音楽は彼らにとってもビジネスではあったが、同時に、つねにまじめな音楽をまじめにつくってきたという自負もあっただろう。

これからはポップ・フィールドに力を入れないと会社は大きくなりそうもない、いや、それどころか、ジリ貧になる怖れすらある、しかし、その音楽は売れると同時に、ある質をもっていてほしい。

彼らがラスカルズのなかに見いだしたのは、そういう希望だったにちがいない。可愛いだけで音楽的に空っぽなバンドは、アトランティックの企業文化にはそぐわない。

その点、ラスカルズは未熟とはいえ、バーズなどとちがって、すでにまともな演奏をしていた。とくにフィーリクス・カヴァリエーレとディノ・ダネリが豊かな可能性をもっているのは明らかだった。そして、R&Bの素地が十分なだけでなく、ディノとフィーリクスはジャズへの傾斜を示していた。ディノはもともと4ビートのほうを好んでいた。

Buddy Rich and Gene Krupa with Sammy Davis Jr.


ディノ・ダネリはテレビでジーン・クルーパとバディー・リッチのドラム・バトルを見て衝撃を受け、一気に4ビート・ドラミングへと傾斜したと云う。このパフォーマンスのことだろう。

アトランティック・レコードの企業文化にふさわしい若者のセルフ・コンテインド・バンドがこの世界に存在するとしたら、それはラスカルズ以外にありえなかった。二人の才能あるシンガーがいるだけでなく、豊かな可能性を秘めたドラマーとキーボード・プレイヤーがいて、まだつたないながらも、スタジオでプレイできるだけの技量を備えていた。

アトランティック首脳陣がみな〈バージ〉詣でをしたあげく、「わが社のスタジオはきみたちのものだ」などと、途方もない約束までし、デビュー盤からプロデューサー・クレジットと一定の「アーティスティック・フリーダム」を与えるという、世にも稀な特別待遇で迎えたのは、そうした背景があってのことだろう。

アトランティックはその後に多くのロック・バンドと契約したので(ヴァニラ・ファッジ、レッド・ゼッペリン、アイアン・バタフライなどなど)、いまではラスカルズの重要性は見えなくなっている。

しかし、1965年、英国勢に押しまくられ、未来に暗雲がたれ込める悪天候下にあっては、ラスカルズは新しい分野へ転進するためのスプリングボード、会社の未来を決めるほどのアーティストだったと云える。それは、その後の彼らの録音とアリフ・マーディンの大活躍を見れば、さらに明白になるだろう。

次回、ラスカルズのデビュー盤の項は完結の予定。


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The Gentrys - Keep on Dancing 1965-71
Keep on Dancing 1965-71

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by songsf4s | 2016-09-28 10:41 | 60年代
Hickory Wind その1 by the Byrds
タイトル
Hickory Wind
アーティスト
The Byrds
ライター
Gram Parsons, Bob Buchanon
収録アルバム
Sweetheart of the Rodeo
リリース年
1968年
他のヴァージョン
Gram Parsons, Emmylou Harris
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今日のHickory Windは、五月のトップバッターにしたヤングブラッズのRide the Windと並び、五月は風の歌特集にしようと決めた動機のひとつです。この2曲はちょうど同じころにリリースされていますが、わたしが聴いたのはRide the Windが先でした。先月、グラム・パーソンズの$1000 Weddingでふれたように、Hickory Windが収録された、アルバムSweetheart of the Rodeoの日本でのリリースが遅れたからです。

f0147840_2326123.jpgなにしろ、グラム・パーソンズの伝記もこの曲をタイトルにしたくらいで、いまではGPといえばHickory Windと、だれでも思うほどの象徴性をもつにいたっています。当然、そこにはさまざまな「物語」が付与されることになります。グラムを取り上げられるのはこれが最後になるかもしれないので、できるだけそうしたエピソードを拾うつもりでいます。

そのまえに、やはり曲を聴いておいていただくほうがいいでしょう。You Tubeには、肝心のグラムのヴォーカルによるものは、バーズ・ヴァージョンも、GPのソロ・ヴァージョンも動画付きはありません。しかし、バーズ・ヴァージョンの音だけは聴けますし、キース・リチャーズエミールー・ハリスのものも、こちらは動画付きであります。

以前、You Tubeでグラム・パーソンズを検索したときは、ろくなものがありませんでしたが、その後、質、量ともにずいぶん充実したことがわかりました。なによりもうれしい驚きは、グラムのアマチュア時代のバンド、ザ・レジェンズの音をついに聴けたことです。リトル・リチャードのRip It UpやエヴァリーズのLet It Be Meをやっています。1962年のライヴ録音だから音質は悪いものの、なるほどねえ、と納得のいくパフォーマンスです。

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The Legends 左からジム・スタフォード、ケント・ラヴォア(ロボ)、ひとりおいてグラム・パーソンズ。ドラマーの名前はどのソースを見てもわからない。あるいは、のちにグラムのISBでプレイすることになる、ジョン・コーニールである可能性もゼロではない。

グラムの声ははっきりわかりますし、バンドとしてもなかなかです。グラム、ジム・スタフォード(Spieders and Snakes、My Girl Bill)、ロボ(=ケント・ラヴォア、You and Me and a Dog Named Booh、I'd Love You to Want Me)という三人のシンガーが輩出したバンドなので、ヴォーカルは当然しっかりしていますし、プレイだって、バーズなんかめじゃないほどです(リード・ギターはだれだろう? 3人のリズム・ギタリストしかいない変なバンドと思っていたが、だれかがちゃんとしたプレイをしている)。この音質でも、もしもそれなりの分量があるならば、十分にリリースに値するでしょう。

グラムの没後リリースのなかには、Cosmic American Music: The Personal Tapes 1972のように、最後まで聴けないほどひどいものもありますが、そんなものにくらべれば、このレジェンズのテープは、はるかに価値のある音源だと感じました。十代のグラムが、リトル・リチャードとエヴァリーズを歌っていたことがわかっただけでも大収穫です。

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◆ 松、オーク、ヒコリー ◆◆
Hickory Windがグラム・パーソンズの代表作とみなされるようになった理由のひとつは歌詞にあります。コーラスもブリッジもないシンプルな3ヴァース構成です。まず、GP自身が書いたと伝えられているファースト・ヴァース。

In South Carolina there are many tall pines
I remember the oak tree that we used to climb
But now when I'm lonesome, I always pretend
That I'm getting the feel of hickory wind

「サウス・キャロライナには背の高い松の木がたくさん生えている、みんなでよく登ったオークの木のことを覚えている、でも、さびしくなるといつも、あのヒコリーの風を感じているふりをするんだ」

花尽くしの曲ならありそうな気がしますが(といっても、具体的な例は思い浮かばない)、木尽くしの歌というのは、めずらしいのではないでしょうか。調べてみると、意外なことに、松の種類が世界でもっとも多いのは北米だそうで、60ないし65種が記録されているとあります。アジアにはわずか25種ほどしかないそうです。

当然、北米には、われわれがイメージする松とは、ずいぶん樹形の異なるものがあります。まあ、三蓋松(あるいは「黒板塀に見越しの松」!)は植木職人がつくるものだし、能や歌舞伎の背景に出てくるのはもちろん様式化されているわけで、あれをもとにしてはいけないのですが、浜辺に植林されたものとくらべても、「これがほんとうに松なのかい?」といいたくなるようなものもあります。

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ロッキーマツ(limber pine)

オークについてはトム・ジョビンのThe Waters of Marchのときにふれました。ポイントは、「樫」と訳してしまうと誤解を与えることになると植物学者はいっている、ということでした。近縁の樹木名をあてるのではなく、オークはそのままオークというべきだというのです。

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サウス・キャロライナの沿岸地方に特有のエンジェル・オーク。木登り遊びに向いていそうな樹形。

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こちらは人工植林のノーマルなオークの林。これも木登り遊びにはよさそうに見える。

ヒコリーは、われわれにとっては家具などの材としての名前であり、木として立っているものはなじみがありません。庭園、植物園、低山を歩くことを趣味としているので、ずいぶんといろいろな木を見てきましたが、まだどの種類のヒコリーも実物を見たことがないと思います(まあ、見たのに忘れてしまうことも多いが)。小石川植物園あたりにはあるのでしょうか。

ヒコリーはクルミ科に属すそうですが、たしかに実の写真を見ると、クルミのような形をしています。当然、果樹は食用になるそうですが、なかでもペカン・ヒコリーが美味とあります。そういわれて、ずいぶん昔にペカンのことを調べたのを思いだしましたが、仕事で調べたことは片端から忘れていくので、調べたということ以外、もうなにも覚えていません! 写真では高さがわかりにくいのですが、とにかく、いくつかご覧いただき、イメージをつくっていただきましょう。種類によってはとてつもなく高く伸びるようです。

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テキサス・ペカン・ヒコリー。地面の黒い点は牛。かなり大きな木である。

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これもペカン・ヒコリー。下に立っている人物とくらべていただきたい。

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どれか特定の樹木と風が結びつくとしたら、われわれの文化では松でしょう。源氏物語の昔から松風という熟語があるほどなのだから、松と風は確固とむすびついています。海浜の景色のよいことをいう白砂青松(はくしゃせいしょう)という熟語があるくらいで、松はしばしば海辺に植えられるため、海風と結びつくからにちがいありません。ほかに特定の木と結びつくことがあるのでしょうか? 桜風とか桃風とか楓風とか、そういう言葉は聞いたことがありません。熟しているのは「松風」だけではないでしょうか。

◆ 遠きにあって ◆◆
セカンド・ヴァース。くわしくは後述しますが、ここは共作者のボブ・ブキャナンが書いたといわれています。

I started out younger at most everything
All the riches and pleasures, what else could life bring?
But it makes me feel better each time it begins
Callin' me home, hickory wind

「ぼくはたいていのことはごく若いときからやっている、富と快楽のことをいっているんだ、この世にほかになにがあるというのだ? でも、ヒコリーの風が故郷へと誘う声が聞こえてくると、もっといい気分になる」

ボブ・ブキャナンが後年語ったところによれば、グラムがファースト・ヴァースで故郷での少年時代を書いたのを受けて、セカンド・ヴァースは現在のLAの音楽業界暮らしを描いたのだそうです。all the riches and pleasureが指しているのはそのことでしょう。

最後のヴァース。ここはどちらともつかず、グラムとボブがいっしょに書いたヴァースだそうです。

It's a hard way to find out that trouble is real
In a far away city, with a far away feel
But it makes me feel better each time it begins
Callin' me home, hickory wind

「遠く離れた町で、遠く離れた気分でいると、トラブルが深刻だということはわかりにくいものだ、でも、ヒコリーの風が故郷へと誘う声が聞こえはじめると、いつも気分がよくなる」

ここはやや考えこむところです。it's a hard wayのitは、(to be) in a far way city with a far away feelなのだとみなしておきました。グラムは家族の問題を抱えていたので、わたしはこのヴァースはそのことをいっているのではないかと考えています。つまり、ハリウッドの音楽業界で暮らしていると、故郷の問題を実感できなくなる、といっているのではないでしょうか。

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Gram Parsons with the Byrds GPがいた時期のバーズ。左からグラム・パーソンズ、ケヴィン・ケリー、ひとりおいてロジャー・マギン、クリス・ヒルマン。インタヴューを受けているマギン以外は全員ダレきっている。ということはラジオ出演時の写真か? この写真ではわからないが、プレイ中の写真では、グラムは坐ったまま、ギターを寝かせてボトルネックで弾いたらしいことがわかる。

◆ 過去と現在 ◆◆
アメリカの松やオークやヒコリーのことを調べるだけで力尽きてしまった感じですが、すこしだけこの曲の背景を書いておきます。

1968年、グラムはフロリダのココナット・グローヴへフレッド・ニール(Everybody's Talkin'、Dolphin)に会いに行きました。そこで、旧知のボブ・ブキャナン(ニュー・クリスティー・ミンストレルズ)にばったり会い、ふたりはいっしょにサンタフェ鉄道でLAに帰ることにしました。

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Fred Neil

アメリカの長距離列車だから、たぶん個室だったのでしょう、車中でグラムはギターを取り出し、書きかけた曲を仕上げるのを手伝ってくれないかと、ブキャナンに持ちかけました。ブキャナンはサード・ヴァースについて、「あそこがこの曲のテーマだ。ビジネスだなんだといったタワゴトが山ほどあるせいで、町でなにかを成し遂げるのはおそろしくむずかしい」といっています。

しかし、これはあくまでも作者の片割れ、それも生き残ったほうの意見です。わたしはむしろ、ファースト・ヴァースのほうに強い印象を受けました。ブキャナンのほうは、音楽界での現在の悪戦苦闘に心がいっていたのでしょうが、グラムは少年時代の記憶を呼び覚ます「いい気分」のほうに心がいっていたような気がします。

もちろん、グラムも、ブリトーズ時代の代表作、Sin Cityで、都市で暮らす憂鬱をうたっていますが、Sin Cityには虚飾に対する嫌悪感しかないのに対し、Hickory Windには、ヒコリーの風の記憶がもたらす気分への肯定があります。たとえ過去の記憶という後ろ向きなものであるにせよ、このポジティヴな気分が、この曲を時の流れとともにクラシックに押し上げたのだと、わたしは考えています。

各ヴァージョンの検討は明日以降に持ち越しとさせていただきます。

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by songsf4s | 2008-05-15 23:56 | 風の歌