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(ヤング・)ラスカルズ全曲完全アップ計画 その06 アメリカ・ストライクス・バック、1965
 
66~67年のサンフランシスコ音楽爆発の時を誰かが回想して、アタッシュに現金を詰め込んで各社の担当が飛行機に乗った、と書いていた。

RCAはジェファーソン・エアプレイン、キャピトルはクウィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、WBはグレイトフル・デッド、CBSはビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーとモビー・グレイプ、こういった大物はたぶん、実弾発砲の対象ではなく、ほかにもっとないかと、ひとつレベルを降りたところでの闘いが実弾戦だったのだと想像している。

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デビュー当時のグレイトフル・デッド

よその誰かとなにか口約束ができていたとしても、新しい誰かが自己紹介するやいなや、いきなり目の前のテーブルに、ひとつ、ふたつ、三つと札束を積んでいったら、たいていの人間はすくなくとも動揺はする。

ラスカルズの時も、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー、フィル・スペクター、トム・ダウド、ジェリー・ウェクスラー、ネスーイーとアーメットのアーティガン兄弟といった、業界ビッグ・ショットばかりでなく、数人の弁護士たちが〈バージ〉に来ていたという。なんだって弁護士かというと、その場で契約してしまうためだ。

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ピアノの前にジェリー・リーバーとマイク・ストーラー、背後にはコースターズの面々、右端はアーメット・アーティガン

◆ 1965年のフランケンシュタイン ◆◆
ビートルズ以下、DC5、ピーター&ゴードン、ハーマンズ・ハーミッツなどなどの英国勢がさんざんにアメリカ市場を食い荒らしている最中も、彼らは失地回復のテコになる「アメリカ産ボーイ・バンド」を求め、アタッシュに実弾を込めてアメリカ中を飛びまわっていたはずだ。

そのアメリカ勢各社の市場再確保作戦の結果が目に見えるようになるのは、65年に入ってからのことだった。以下に、65年のいつかは問わずに、ビルボード・チャート20位以内のヒットを出した米国産セルフ・コンテインド・バンドを列挙する。

バーズ(HB)、ラヴィン・スプーンフル(GC)、マコーイズ、タートルズ(HB)、ゲーリー・ルイス&ザ・プレイボーイズ(HB)、ボー・ブラメルズ、サー・ダグラス・クウィンテット、サム・ザ・シャム&ザ・ファラオーズ(この人たちをここに置くのはやや違和感があるが!)、ディノ・デジ&ビリー(HB)、ジェントリーズ、キャスタウェイズ。

終わりのほう、ジェントリーズやキャスタウェイズはワン・ヒッターだが、冒頭付近は「60年代中盤のアメリカ音楽のエッセンス」のようなグループが並ぶ。

The Gentrys - Keep on Dancing


ただし、ここではっきり見えてしまうのだが、各社は彼らの音楽的技量には目をつぶった。マイナー・レーベルや鷹揚な会社は、よけいなコストをかけてプロフェッショナルのプレイで補強するという文化そのものと無縁だったのかもしれないが(サーフ・ミュージックにはそういう例がずいぶんあった)、メイジャー・レーベルはやはり一定以上の水準であるべきと考えたに違いない。

首から上だけ若者のグループならば、あとの音楽的なことは、スタジオのお父さんプロフェッショナルたちがなんとかする、という、とりわけハリウッドではよく利用された音楽生産方式が、「モップ・トップの可愛いボーイ・バンド」の時代の到来とともに、フル稼働に入ったのだ。

The McCoys - 02 Hang On Sloopy (HQ)


デビューの時、マコーイズのメンバーはまだ高校生だった。やがて自前のプレイでトラックをつくるようになるが、この時点では大部分の曲(下手なトラックもあるので、そうしたものは彼ら自身のプレイと思われる)はスタジオのプロが高校生に替わってプレイしている。非常にいいドラマーを使っているのだが、いまだに名前がわからない。

バーズ、タートルズ、プレイボーイズ、そしてディノ・デジ&ビリーは、すくなくともデビュー盤のトラックはプロがつくった。彼らは歌っただけか、バーズのように、メンバーの一部だけがスタジオでプレイした。

上記の中に、ハル・ブレインがドラムを叩いたものが4種あり(HBと入れておいた)、NYのエース、ゲーリー・チェスターもラヴィン・スプーンフルのデビュー・ヒット、Do You Believe in Magicで叩いたし(ドラム以外のパーソネルは不明)、マコーイズはいまだに誰だったのかはわかっていないが、すくなくともドラムは確実にスタジオのプロフェッショナル。

The Byrds - 07 Mr. Tambourine Man (HQ)


この曲についてはロジャー・マギン自身がAFMの伝票の写しを公開したので、パーソネルは明らかになっている。
Drums: Hal Blaine
Bass: Larry Knechtel
12 String Guitar: Jim McGuinn
Guitar: Bill Pitman, Jerry Cole
Electric Piano: Leon Russell

上記の一覧にはないが、まもなく登場するモンキーズは、人工的なスター、テレビがつくった幻影と誹られることになるが、なあに、ほかのグループだって、はじめからアーティスト・イメージ先行だったことがここに明白にあらわれている。

バーズやタートルズのように、メンバー・チェンジでやっとまともなドラマーになり、ふつうにライヴができるバンドに「成長」することもあった。バーズはジーン・パーソンズになってから、タートルズはジョニー・バーベイタになってからが「ふつうのバンド」時代である。

◆ 首と胴体の分業化 ◆◆
ハリウッドで「影武者」が生まれたのはおそらく1960年、ヴェンチャーズがデビューした時のこと。いまだに確たる結論を得られないのだが、こう考えている。

かつて音楽をつくるのは、訓練を受け、経験を積んだプロフェッショナルの仕事だった。フロントに立つシンガーはさておき、バンドは身ぎれいにすればよく、容姿年齢は問われなかった。

ところが、第二次大戦後の可処分所得の増大による「ユース・カルチャー」の発生、これはアイゼンハワー時代のアメリカの豊かさを端的に示す現象だが、そのような新種が出現し、若年層はお父さんたちのバンドがプレイする、お父さんたちのための音楽のお余りを楽しむのではなく、若者がプレイする若者のための音楽を欲するようになった。

彼らは自室にポータブル・プレイヤーや自分だけのラジオを置き、家族とは関係なく、自分だけの音楽環境をもったのだから、それにふさわしい音楽が欲しかった。いや、いずれ、そんなことは当たり前になるのだが。

ここで、十分な力量のある若者のバンドが手に入れば問題はなかったのだが、そうはいかなかったことで、看板と実体の大きな乖離、欺瞞とも云うべき弥縫策が生まれた。

レコード会社はそこそこの技量のバンドを手に入れ、それを看板にしながら、スタジオではプロフェッショナルに音楽をつくらせ、レーベルには看板息子たちの名前を書く、という方法を思いついた。その顕著な成功例がシアトルからやってきた若者たち、ザ・ヴェンチャーズだった。

The Ventures - 03 Walk Don't Run (HQ)


この曲の伝票はいまだに発掘されていないのだが、かつてキャロル・ケイさんにお願いしてハル・ブレインに質問を取り次いでもらった時の回答では「俺はヴェンチャーズは最初からやっている。あとでメルが入った時には、レパートリーを全部教えた」というものだった。いろいろ「吹く」人だし、記憶違いもあるが、この回答は、音と付き合わせて信用してよいと判断した。のちのロックンロール・ハード・ヒットとはまったく異なるスタイルだが、ハルはそもそもジャズ・ドラマーとして出発した。シンバルのヒットする位置を微妙に変えるこの繊細なプレイをしたドラマーはハル・ブレインだろう。
初期ヴェンチャーズのスタジオ録音のレギュラーは、リード・ギター=ビリー・ストレンジ、リズム・ギター=キャロル・ケイ、ベース=レイ・ポールマンと考えている。トミー・テデスコやグレン・キャンベルやジェイムズ・バートンもプレイすることがあったし、さらには、トミー・オールサップ(リード・ギター)やフランク・デ・ヴィート(ドラムズ)が取って代わることもあれば、ヴェンチャーズのメンバー、なかでもメル・テイラーとノーキー・エドワーズ自身がプレイしたこともあったらしい。以上は60年代中盤までの話。Hawaii 5-0以後はまた話が違うのだが、脇道なので略。

ヴェンチャーズの影響下に生まれたサーフ・ミュージックは、基本的にカリフォルニアのパンク・ミュージックで、上手いバンドなどというのはそうはなかった。創始者のディック・デイルのバンド、デル・トーンズからして、感動的なほど下手だったことはデイルの自主制作盤に記録されている。

デイルが地元のメイジャー、キャピトル・レコードと契約してからは、デル・トーンズは建前の存在になり、当然、スタジオでは地元のキング・オヴ・ザ・ドラマーズ、ハル・ブレインがストゥールに坐って録音された。

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上から、マコーイズ、ディノ・デジ&ビリー、バーズ。そもそも、彼らははじめからアイドルとしての役割を果たすことを期待されていた。ここは音楽界である以前に、芸能界なのだ。たんに若い「ボーイ・バンド」では不十分、「モップ頭」も重要なポイントだった。

NYやナッシュヴィルについてはいくつか例を知る程度だが、後者のロニー&ザ・デイトナズは、ツアー・バンドと録音メンバーが異なっていた。1964年デビュー。(当家では過去に、「I'll Think of Summer by Ronny & the Daytonas」という記事で、ロニーすなわちバック・ウィルキンにふれている。)

イギリスではどうかというと、アメリカほど目立たないが、それでも64年になだれ込んだグループの中には、ハーマンズ・ハーミッツのように、ツアー・メンバーと録音メンバーが分離していたグループもないではない(ピーター・ヌーンは後年のインタヴューで、ジミー・ペイジはほんの一握りしか弾いていない。レギュラー・ギタリストはヴィック・“007”・フリックだったと証言している)。また、キンクスのドラマー、ミック・エイヴォリーはある時期にかぎればスタジオで叩いたことはなく、クレム・カッティーニなどのプロがかわりにプレイした。

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ハーマンズ・ハーミッツ。12~14歳あたりの少女をターゲットに想定したアイドル・グループだった。

とはいえ、アメリカにくらべれば、イギリスのグループはスタジオでもおおむね自分たちでプレイしたと云える。リンゴ・スターもデイヴ・クラークもクリス・カーティスもボビー・エリオットもチャーリー・ワッツも、ハル・ブレインやアール・パーマーやゲーリー・チェスターのような技量も安定感もなかったが、とにかく、一定水準のプレイをすることができ、スタジオでも自分たちでトラックをつくった。

しかし、バーズのマイケル・クラークのようなひどいのはさておき、公平に云って、イギリスのバンドとアメリカのバンドの技量の差はそれほど大きくはなかった。アメリカのバンドのなかにも、我慢強く録音すれば、イギリスのものに近い音は出せそうなところはあったが、現実にはスタジオでプレイできないところが多かった。

この差はたぶん文化の違いに由来するのだろう。とくにハリウッドはスター・システムの発祥の地、映画のスタント・マン同様の存在が音楽界に生まれても、べつに不思議でもなんでもなかった。

The Beau Brummels - 03 Just a Little (HQ)


彼らの65年のデビュー・アルバムからの曲で、サンフランシスコで録音された。とりたてていいドラミングでもないが、タイムはそこそこ安定している。しかし、のちにWBに移籍し、ハリウッドで録音する時には、やはりハル・ブレインがストゥールに坐り、他のパートもプロがプレイした。サンフランシスコとハリウッド、オータム・レコードというマイナー・レーベルと、WBという大企業の文化の違いだろう。

◆ アトランティック・レコードが置かれた場所 ◆◆
影武者は微妙な問題なので、公式に発言する人は少なく(ペリー・ボトキン・ジュニアはずっと後年、若い連中はおそろしく下手だったから、スタジオではプロがかわりにプレイした、それだけのきわめて単純な話だ、と断じていたが!)、アトランティック首脳陣のこの種の話題に関するコメントも読んだことはない。だから、結果から逆算して、勝手に想像する。

ビートルズと英国の侵略があった時、アトランティックはR&Bとジャズの会社であり、ボビー・デアリンとニーノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンズを顕著な例外として、ポップ・フィールドでの経験は豊富ではなかった。

そのデアリンからして、Splish Splashのころはポップ・シンガーと云えたが、やがてジャズ・シンガーに分類したほうがいいようなスタイルになってしまうし、ニーノ&エイプリルは、大昔の曲にひねりを加えて歌うデュオであり、「現代的」ですらなく、すぐにヒットは出なくなったしまう(いや、好きなデュオなのだが)。

Nino Tempo & April Stevens - My Blue Heaven


日本でも戦前から「私の青空」などの邦題で、二村定一、エノケン、ディック・ミネなどカヴァーが多数あり、戦後には大滝詠一も歌ったスタンダード。アトランティック時代のニーノ&エイプリルのドラムはほとんどアール・パーマーが叩いた。

ニーノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンズが成功したからなのか、アトランティックはやはりハリウッド・ベースのデュオ、ソニー&シェールと契約して、I Got You Babeなどのヒットを生む。この曲はちょうど、ラスカルズとの契約話が進行しているころにリリースされ、ヒットしつつあった。

しかし、これはソニー・ボノがプロデュースし、ハリウッドで制作されたもの、つまりアトランティックの「スーパヴァイズ」のおよばないところでできた完成品を、いわば、そのまま市場に取り次いだだけだし、そもそも、彼らはセルフ・コンテインド・バンドではない。

The Young Rascals - 03 Just a Little (mono mix)


これは上掲のボー・ブラメルズの曲のカヴァー。ヴァニラ・ファッジの曲がはじまりそうなイントロが興味深い。フィーリクスとエディーは声の質が似ていて、R&Bタイプかバラッドを歌うのに適していたが、ラスカルズも時代の子、フォーク・ロック潮流は気になったのだろう。ディランの曲とこのJust a Little、フォーク・ロック系の曲をふたつデビュー盤でカヴァーしている。どちらもリード・ヴォーカルはジーン。
ビルボード・チャートを読んでいて、バーズとフォーク・ロックの衝撃というものを改めて思った。バーズのMr. Tambourine Manがビルボード・チャートのトップに立ったのは1965年5月のこと。これにアメリカのバンドは瞬時に、激しく、急速に反応した。フォーク・ロック的楽曲がこの年の秋以降には溢れることになるのだから、つまりバーズの衝撃波がまだ収まらないうちに、彼らはフォーク・ロック的な曲を書き、あるいはフォーク曲をエレクトリックにアレンジし、録音し、リリースしたのだ。この時点ではバーズとフォーク・ロックこそがアメリカ音楽の現在であり、未来そのものだった。
時間線に沿って考えると、ビートルズもまた異様な速度と強度で反応した。タンブリンマンがトップに立ってから半年後には、彼らはRubber Soulをリリースした。この反応の早さはよく考えてみるに値する。

といったあたりが、アーメット・アーティガン以下のアトランティック首脳陣、およびトム・ダウドやアリフ・マーディンら現場を預かる人びとの、最大公約数的願いだっただろうと想像する。

1964年のアメリカには、セルフ・コンテインド・バンドの経験が豊富なレーベルなどなかったのだから、アトランティックも未経験。しかし、このままR&Bとジャズの良質な盤でやっていこうなどと思うほど鈍重でもなければ、脂っ気も抜けていなかった。

とはいえ、彼らとしては、LAの会社のような、臆面もないスター・システムはできれば避けたかったに違いない。音楽は彼らにとってもビジネスではあったが、同時に、つねにまじめな音楽をまじめにつくってきたという自負もあっただろう。

これからはポップ・フィールドに力を入れないと会社は大きくなりそうもない、いや、それどころか、ジリ貧になる怖れすらある、しかし、その音楽は売れると同時に、ある質をもっていてほしい。

彼らがラスカルズのなかに見いだしたのは、そういう希望だったにちがいない。可愛いだけで音楽的に空っぽなバンドは、アトランティックの企業文化にはそぐわない。

その点、ラスカルズは未熟とはいえ、バーズなどとちがって、すでにまともな演奏をしていた。とくにフィーリクス・カヴァリエーレとディノ・ダネリが豊かな可能性をもっているのは明らかだった。そして、R&Bの素地が十分なだけでなく、ディノとフィーリクスはジャズへの傾斜を示していた。ディノはもともと4ビートのほうを好んでいた。

Buddy Rich and Gene Krupa with Sammy Davis Jr.


ディノ・ダネリはテレビでジーン・クルーパとバディー・リッチのドラム・バトルを見て衝撃を受け、一気に4ビート・ドラミングへと傾斜したと云う。このパフォーマンスのことだろう。

アトランティック・レコードの企業文化にふさわしい若者のセルフ・コンテインド・バンドがこの世界に存在するとしたら、それはラスカルズ以外にありえなかった。二人の才能あるシンガーがいるだけでなく、豊かな可能性を秘めたドラマーとキーボード・プレイヤーがいて、まだつたないながらも、スタジオでプレイできるだけの技量を備えていた。

アトランティック首脳陣がみな〈バージ〉詣でをしたあげく、「わが社のスタジオはきみたちのものだ」などと、途方もない約束までし、デビュー盤からプロデューサー・クレジットと一定の「アーティスティック・フリーダム」を与えるという、世にも稀な特別待遇で迎えたのは、そうした背景があってのことだろう。

アトランティックはその後に多くのロック・バンドと契約したので(ヴァニラ・ファッジ、レッド・ゼッペリン、アイアン・バタフライなどなど)、いまではラスカルズの重要性は見えなくなっている。

しかし、1965年、英国勢に押しまくられ、未来に暗雲がたれ込める悪天候下にあっては、ラスカルズは新しい分野へ転進するためのスプリングボード、会社の未来を決めるほどのアーティストだったと云える。それは、その後の彼らの録音とアリフ・マーディンの大活躍を見れば、さらに明白になるだろう。

次回、ラスカルズのデビュー盤の項は完結の予定。


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The Gentrys - Keep on Dancing 1965-71
Keep on Dancing 1965-71

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The Young Rascals - The Young Rascals (1st)
グッド・ラヴィン
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by songsf4s | 2016-09-28 10:41 | 60年代
回想のビリー・ストレンジ、その音楽と時代 その10 ブルース・ジョンストン、アヴァランチーズ
 
(2012年3月25日午前10時追記 サンプルのリンクの誤りを修正しました。平伏陳謝)

どうも落ち着きと根気がなく、長い文章を書く集中力もないため、このところ更新が滞っています。お客さんの半分ぐらいは検索でいらっしゃるのだろうと思いますが、定期的に、なにか記事があがっているかとチェックされている方には申し訳ないことと思っています。

短い思いつきなら書けるので、ツイッターのほうは活溌に利用していて、フォローなさっている方にはご迷惑なことだろうと恐縮しています。むろん、ツイートに反応して、いろいろ教えてくださる方もたくさんいらっしゃるのですがね。

「ついろぐ」の統計によると、わたしのコミュニケーション率は30.1パーセントだそうです。10回に3回は、独り言ではなく、どなたかと対話するためのツイートをしているということです。これが多いのか少ないのかは微妙ですが、まあ、少ないほうではないだろうと思います。ふだんはちがいますが、ウェブ上では社交的なほうですから。

さて、ビリー・ストレンジ・ストーリーです。

1963年、ビリー・ストレンジは、エルヴィス・プレスリーの二枚のサウンドトラック盤でプレイしています。これを取り上げようと思ったのが間違いのはじまりで、気分的に落ち着かないときに、トラック・バイ・トラック・クレジットのない盤から、ビリー・ストレンジのプレイを拾い出すという厄介なことをやろうとして、更新不能に陥ってしまいました。

よって、エルヴィス・プレスリーとビリー・ザ・ボスの関わりについては、もうすこしあとで検討することにして、It Happened at the World's FairとFun in Acapulcoという二枚の盤はスキップします。

かわりに、今回は、ほとんど頭を使う必要のない、聴いた瞬間、たちどころにわかるものを並べることにします。まずは、ブルース・ジョンストンのソロ、Surfin' Around the Worldから。

以前のサーフ・ミュージック特集でも貼りつけたクリップです。エルヴィスとアン=マーグレットの絵は曲には無関係です(ただし、この映画のOSTでビリー・ストレンジはプレイした)。

Bruce Johnston - Biarritz


この右チャンネルのギターのプレイ・スタイルとサウンドをよくご記憶くだされたし。あとで、なるほどと思わせる予定なり。なんて、そういうことをいっちゃあ、なるほどなんて思わなくなるでしょうが!

どうであれ、こういうのは大好物。盛り上がるサウンド、盛り上がるプレイです。

書き忘れましたが、ドラムはもちろんハル・ブレインです。まあ、当家のお客様方にはいうまでもないことでしょうが。

ブルース・ジョンストンはこの時期、キーボード・プレイヤーでもあったので、ファズのかかったフェンダー・ピアノが彼のプレイだと考えられます。ハル・ブレインはHal Blaine and the Wrecking Crewのなかで、ブルースのプレイに讃辞を呈しています。

つぎもワイルドなものを。

Bruce Johnston - Jersey Channel Islands Part 7


これを聴くと、畏友オオノさんの疑問を思いだします。キャピトル移籍後のディック・デイルって、スタジオでプレイしたの? という恐い疑問です。まあ、あの程度のプレイなら、当時のハリウッドのエースには楽なものだったでしょう。

このブルース・ジョンストンのSurfin' 'Round the Worldにディック・デイルがクレジットされていたら、このトラックがデイルのプレイね、と深く考えずに判断してしまうでしょう。逆にいえば、ビリー・ストレンジなら、ディック・デイル・スタイルぐらい、簡単にやってみせるということです。いや、疑問は疑問のままにしておきますが!

一曲ぐらいはバラッドを。ヴォリューム・コントロールによるミュートを使ったプレイです。

Bruce Johnston - Maksha at Midnight


このアルバムは大好きなので、どの曲もみないいのですが、全部並べるのもなんなので、つぎで終わりにします。こんどはファズです。ビリー・ザ・ボスは手製のファズ・ボックスを使っていたそうです。

Bruce Johnston - Malibu


ビリー・ストレンジという人は、タイムがよくて突っ込まないせいもあって、あのころのハリウッドのギター・エースのなかでは、もっとも大人っぽいプレイができたと思います。

しかし、トミー・テデスコやグレン・キャンベルのような豪快なプレイができなかったかといえば、そんなことはありません。このアルバムは、繊細なビリー・ストレンジではなく、ワイルドなビリー・ストレンジがたっぷり聴けるという意味でも際だったものでした。

アヴァランチーズ(あれこれ検討の結果、表記を変更しました>旧知の諸兄。近年はこちらが多数派になったという判断で)というスタジオ・プロジェクトの唯一のアルバム、Ski Surfin'のリリースは1964年だと思うのですが、ビリー・ストレンジ・ディスコグラフィーでは、1963年とされています。録音は63年だったのでしょう。

これまた大好きなアルバム、「史上最高のギター・インスト・アルバム」とまでいっているので、いままでにも何度も貼りつけたのですが、やはり、ビリー・ストレンジ特集となれば、再登場させないわけにはいきません。

ビリー・ストレンジ&トミー・テデスコ・オン・ギター、ハル・ブレイン・オン・ドラムズ、アル・ディローリー・オン・キーボーズ、デイヴィッド・ゲイツ・オン・ベース、ウェイン・バーディック・オン・ペダルスティール、ディ・アヴァランチーズ!

The Avalanches - Ski Surfin'


こういうのがいちばん盛り上がります。ギターもドラムも上手くて、しかも、なにも遠慮せずに、豪快にすっ飛ばしていくのだから、うれしくなります。

ブルース・ジョンストンのBiarrizのところで、このギターのサウンドとスタイルを記憶してほしいと書いたのは、アヴァランチーズとの類似を感じていただきたいからです。同じトーン、同じスタイルだとおわかりでしょう。

何度も書きましたが、わたしはビリー・ストレンジ御大に、この曲ではどちらがどちらをプレイしたのですか、と質問しました。もう手元にLPがないとおっしゃるので、オオノさんがちゃんとCDまで送ったのですよ。しかし、あのころはトミーとはしじゅうリックを交換していたから、いまでは自分でもどちらか判断できない、とのことでした。

まあ、似てますよ、たしかに。先にいくのがビリー・ストレンジ、あとからいくのがトミー・テデスコと、かりに判断し、ずっとそう考えてきました。しかし、いま、ボスの遺言書が出てきて、Ski Surfin'では、先にトミーがいき、俺は中間部をプレイした、と書かれていたとしたら、なんだ、そうだったのか、と思う程度、それはないでしょ、思い違いざんしょ、などと食い下がったりはしません。どちらがどちらであっても驚かないほどよく似ています。

ユーチューブには、あとは、三曲をまとめた面倒なクリップがあるだけなので、ここからはサンプルにします。

サンプル The Avalanches "Along the Trail with You"

左チャンネルで豪快にコードをストロークしているのがトミー・テデスコ、右チャンネルのギターがビリー・ストレンジと考えていますが、逆だという証拠がでてきても、この場合も、なんだ、そうだったのか、といってしまうでしょう。呵呵。ミスはありますが、やはりおおいに魅力的なギター・プレイです。

もう一曲、こんどはギターというよりベース・ギター、ダンエレクトロ6弦ベース(ダノ)のプレイです。

サンプル The Avalanches "Winter Evening Nocturne"

日本をはじめ、一部の国では、エレクトリック・ベースのことを「ベース・ギター」ということがあります。「ギターのような形をしたベース」ということでしょう。

しかし、キャロル・ケイさんによると、ハリウッドのユニオンの規定では、ベース・ギターとは書かず、たんに「ベース」と書くそうです。彼女に云わせると、「ベース・ギター」というのは、ダノのことなのだそうです。

ダノはベースとして使われるわけではなく、「1オクターヴ低くチューニングするギター」として、ギターのヴァリエーションとして利用されるのだから、というのです。テナー・ギターと同じような意味で、「ベース・ギター」なのだというわけです。

この曲でも、ビリー・ストレンジはダノを、通常より低い音が出せるギターとして使っています。ベースとしては使っていません。

ある人が、エリック・クラプトンのアルバムを、誰のプレイであるとも告げずに、ジョー・パスに聴かせたのだそうです。パスは「昔、トミーたちがこういうのをよくやっていたじゃないか」といったのだとか。トミーとはもちろんトミー・テデスコです。

わたしは子どもだったので、いわゆるギター・ヒーローの時代がやってきたときは、おおいに興奮しました。しかし、この1963年に録音されたビリー・ストレンジのプレイを聴くと、ものを知らないというのは怖ろしい、トーンといい、プレイ・スタイルといい、あの程度のことなら、ビリーやトミーは軽々と、ただの「日常業務」としてやっていたじゃないか、と自分の馬鹿さ加減を嗤いました。

ビリー・ストレンジ御大に、あなたはお忘れかもしれないが、アヴァランチーズというプロジェクトがあり、あなたの名前がクレジットされている、というようなニュアンスで、質問しました。

御大は、忘れるものか、よく憶えている、あれは楽しかった、という返信を寄こされた、ということを付け加えて本日はおしまい。こういう楽しいアルバムを、三時間のセッションを三回やるだけで、軽々と完成させてしまった昔の大エースたちに心から尊敬の念が湧きます。


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by songsf4s | 2012-03-23 23:56 | 60年代
回想のビリー・ストレンジ、その音楽と時代 その4 ザ・ヴェンチャーズ・セッションズ後編
 
ビリー・ストレンジ・ディスコグラフィーを見ていて、いくつか、ほう、と思った点があります。

ひとつは、ボニー・ギターの1963年のセッションがあげられていたことです(ボニー・ギターについては当家では「Trade Winds by Frank Sinatra」という記事で概略を記している)。

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ボニー・ギターはドールトン・レコードの設立者のひとりです。ドールトンはヴェンチャーズのレーベルでした。ヴェンチャーズをプロデュースしたのは彼女の共同経営者だったボブ・ライスドーフでしたし、そもそもドールトンからヴェンチャーズがデビューしたときには、ボニー・ギターは経営から手を引いていた可能性もあるのですが、しかし、ハリウッドでセッション・ギタリストとして働いた女性が作った会社だったのだから、この関係は非常に興味深いものです。

さて、今回はそのビリー・ストレンジ・ディスコグラフィーに記されたヴェンチャーズのトラックをいくつか並べます。ほんの一握りなのですが。

The Ventures-2,000 Lb. Bee Pt 1 and 2


このクリップのアップローダーのコメントによると、"Walk Don't Run: The Story of the Ventures"というものに、どっちをノーキーが弾いて、どっちをビリー・ストレンジが弾いた、といったことが書かれているようです。ご興味のある方はご一読を。一度通り過ぎたことなので、わたしとしては、もう一度研究し直す気力は湧きませんが。

パート1のドラマーはわかりませんが、パート2はハル・ブレインである可能性が高いと思います。また、ビリー・ストレンジ御大自身は、手製のファズ・ボックスを使っていたということで、モズライトの組み込みファズについては言及したのを見たことがありません。モズライトを使ったことがあるのは、ヴィデオなどでもわかりますし、とくに12弦については、私信でも、非常に弾きやすいと賞賛していました。

つぎはビリー・ストレンジ作なので、当然のコンファームでしょう。

The Ventures - Ya Ya Wobble


残念ながら、セッションで曲が足りなくなり、ちょっとした断片をもとにその場でつくった、といった雰囲気で、典型的なアルバム・フィラーといったところです。蛇足ですが「ウーブル」はないでしょう。カタカナにするなら「ワブル」あたりが妥当です。

ほかに単独のトラックとしては、Tabooという、後年のアウトテイク集で陽の目を見たものとか、Walkin' With My Baybeという、わたしは聴いたこともない楽曲があげられていますが、これは省略します。

さらに、アルバムとしてLet's Goがリストアップされているのですが、その収録曲であるにもかかわらず、単独でリストアップされたトラックを貼りつけます。

The Ventures - Hot Pastrami


この中間部でのソロは、ビリー・ストレンジのアルバムMr. Guitarに収録された、Kansas Cityあたりのロック系の曲と比較してみると面白いだろうと思います。まあ、いずれ、このシリーズでお聴きいただくことになるでしょうが。

以下、アルバムLet's Goの収録曲をいくつか聴いていくことにします。つぎの曲も、かつて、ヴェンチャーズの謎を解こうと奮闘していたときに、インスピレーションを与えてくれました。

The Ventures - Sukiyaki


ビリー・ストレンジかどうかはいざ知らず、前回あげたLolita Ya Ya同様、いかにもハリウッドのセッション・プレイヤーらしい、隅々まできっちりしたアンサンブルの曲もありました。

クリップは埋め込み不可なので、サンプルで。

サンプル The Ventures - More

ドラムはハル・ブレインでしょう。フェイド・アウトのあたりのフィルインに彼のサウンド、スタイルがあらわれています。

つぎの曲もビリー・ストレンジらしさ、ハリウッドのセッション・プレイヤー集団らしさがよく出ています。邦題は「エル・ワッシ」だったようですが、カタカナにするなら「ワトゥーシ」あたりが妥当でしょう。

The Ventures - El Watusi


ギターもきっちりしていますが、全体のアンサンブルが堅固で、The Ventures in Japanの突っ込みまくるグルーヴの気持悪いバンドには似ても似つきません。

十年前は、初期ヴェンチャーズのリード・ギタリストはボブ・ボーグルではない、などというと、いきり立つフーリガンみたいな輩が山ほどいたので、こちらもねじり鉢巻き、たすき掛け、腕まくりで、ビリー・ストレンジやハル・ブレインのプレイだったのだと、熱弁を振るいましたが、もはや時代は変わりました。

メル・テイラーが叩いたトラックはたくさんあるでしょうし、ノーキーがプレイしたものもあるでしょう。しかし、ビリー・ストレンジ、トミー・テデスコ、グレン・キャンベル、ジェイムズ・バートンら、ハリウッドの錚々たるギター・エースたちがプレイした曲もたくさんあります。

たんに、それだけのことだと現在では考えていますし、ヴェンチャーズ・ファンも、ツアー用バンドの録音がたくさん残っているのだから、それを聴いて満足していればいいだけです。War Is Overですよ。呵呵。

Let's Go収録曲としては、Sukiyakiと並んで好きなトラックを本日の締めとします。アルバム・クローザーでした。

The Ventures - Over the Mountain, Across the Sea



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by songsf4s | 2012-02-27 23:53 | 60年代
回想のビリー・ストレンジ、その音楽と時代 その3 ザ・ヴェンチャーズ・セッションズ
 
今日、ロマン・ポランスキーの『ゴースト・ライター』を見ていて、the begenningとthe begenningsの違い、という最後の謎解きの鍵を見た瞬間、俺も同じ経験をしたぜ、と思いました。

いや、ゴースト・ライターをしたこともありますが、その話ではありません。「冒頭」なのか「はじめのころ」なのかという違いです。いや、ご心配なく、あの映画のいうbeginningsは意味が違うので、映画を見る妨げにはならないでしょう。

キャロル・ケイさんに、あなたやあなたの同僚たちは、ヴェンチャーズのセッションでプレイしたことがあるでしょうか、とうかがったとき、彼女は、ハル・ブレインにこの質問を取り次いでくれました。

ハルの返事は、俺ははじめからヴェンチャーズのセッションでプレイした、のちにメル・テイラーが入ったとき、レパートリーを教えてあげた、というものでした。

このfrom the begenningはじつに悩ましいものでした。なぜなら、Walk Don't Runのドラミングは、わたしが徹底的に研究したハル・ブレインのドラミング・スタイルやサウンドとはかけ離れたものだったからです。

これは、基本的には時期の違いと、機材の違いに由来するものだと、あとでようやく理解できました。当初は、「はじめから」ではなく、無理に「はじめのころから」と拡大解釈したのですが、そうではなく、ハル・ブレインは文字通り「はじめから」ヴェンチャーズのレコーディングでドラムを叩いたのです。

では、ギターだって、はじめから、ハル・ブレインの仲間であるだれかにちがいありません。当然、ビリー・ストレンジ御大がディスコグラフィーにあげたものより、はるかに多くのトラックが、ハリウッドの若いセッション・プレイヤーたちによって録音されたと考えるのが自然です。

じっさい、The Ventures Play Country Classicsをのぞいて、1963年までのほとんどのアルバムの、多くのトラックがリード・ギターとしてビリー・ストレンジをフィーチャーしたものと、現在のわたしは考えています。

『急がば廻れ'99』という本を上梓したときには、そこまでの確信はありませんでした。Walk Don't Runのときからすでに、ハル・ブレインやビリー・ストレンジが「ヴェンチャーズ」だったのだ、という、たしかな手応えを得たのは、ずっとあとのことだったのです。

The Ventures - Walk, Don't Run


そのつぎのヒット。

The Ventures - Lullaby Of The Leaves


ビリー・ストレンジ特集で、ハル・ブレインのことをあれこれ書くのは気が引けますが、最初からヴェンチャーズなど存在しなかった、という確信を得られたのは、ハル・ブレインのおかげです。

この「急がば廻れ」や「木の葉の子守唄」のプレイでもわかります。これほどのプレイヤーが、ヴェンチャーズに首にされたくらいで、シーンから消えるでしょうか? ぜったいにネガティヴです。

これほどのプレイヤーが、のちに名を成さずにいるものでしょうか? 断じてノーです。かならず大成して、有名なプレイヤーになったにちがいありません。

では、1960年当時にハリウッドのスタジオでレギュラーだったドラマーに比定できるでしょうか? わたしには困難でした。アール・パーマーではないという確信はありましたが、たとえば、シェリー・マンやメル・ルイスが正解だったとしたら、わたしは異議を唱えず、そうか、と納得したでしょう。

ただ、ほんの感触にすぎないのですが、すでに名を成した人ではなく、有望な若手ではないかということは思いました。うしろに引っ込むつもりはなく、覇気横溢で、前に出ようとしているからです。

アルバムを順番に聴いていき、このドラマーがBe My Babyで叩くすがたが、しだいに見えてきました。スネアのサウンドも、プレイ・スタイルも異なりますが、タイムと生来の華やかさはやはりハル・ブレインのものだという気がしてきたのです。

こんどは少しタイプの違う曲、「セレソ・ローサ」を。

The Ventures - Cherry Pink And Apple Blossom White


読書百遍、その意自ずから通ず、といいます。音楽もそういうところがあって、Walk Don't Runを死ぬほど繰り返し聴いているうちに、ギター・プレイヤーのプロファイルが浮かんできました。

ミュージシャンシップに富むヴェテランで、あわてず騒がず、必要な音だけを、一音一音丁寧に弾くプレイヤー、という像です。ほんのちょっと前にギターを手にし、シアトルのクラブでプレイしていた若者、というボブ・ボーグルのプロファイルとはまったく一致点がありません。

ビリー・ストレンジのプレイであると最初に確信のもてた1963年ごろの録音からさかのぼっていき、Walk Don't Runまで行くと、やはり、これは同じプレイヤーだと納得がいきました。

つぎはビリー・ストレンジの、というより、ハリウッドのスタジオ・プレイヤーたちの傑出した技量を示すものとして、この曲を。ストイシズムとプロフェッショナリズムの極致。

The Ventures - Lolita Ya Ya


これが二十歳そこそこの素人同然の若者たちのプレイだとしたら、天地がひっくり返りますよ。「プロフェッショナル・プレイヤー」とは、こういうアンサンブルのできる人たちを云います。

だれも目立とうとしてはいませんが、全員が精確なプレイに徹していて、一糸乱れぬアンサンブルになっています。若者の「ロック・バンド」には無理なプレイです。

初期ヴェンチャーズ・セッションのレギュラーは、ビリー・ストレンジ、キャロル・ケイという二人のギターに、ベースがレイ・ポールマン、ドラムがハル・ブレイン、というのがわたしの想定です。ここに、トミー・テデスコ、グレン・キャンベル、さらにはジェイムズ・バートンといったギター陣が加わったり、入れ替わったりしたのだと思われます。

今回はあえてビリー・ストレンジ・ディスコグラフィーでコンファームされていない曲ばかりを選びましたが、次回は逆に、ボスが確認したヴェンチャーズのトラックを聴いてみるつもりです。

お別れはこの曲で。

The Ventures - Lonely Heart



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by songsf4s | 2012-02-25 23:53 | 60年代
「My friend Billy Strange-san」──回想のビリー・ストレンジ、その音楽と時代
 
現地時間の二月二十二日朝、ビリー・ストレンジさんが亡くなりました。ほかのミュージシャンとは異なり、メールを通じて親しく接した人なので、どうも勝手が違うのですが、複雑な気分はさておき、やはり、なにかを書く義務があると強く感じます。

いろいろ考えたのですが、追悼記事のかたちは今回だけにして、さらに数回、ハル・ブレインやジム・ゴードンのように、好きなプレイヤーの特集という気分で、ビリー・ストレンジが遺した音楽を聴いていこうと思います。

まずはサニー・サザン・カリフォルニアを代表するギタリストにふさわしい、明るくにぎやかなプレイから。ビリー・ストレンジ・オン・リード、ドラムはもちろんハル・ブレイン。

The Beach Boys - Surfin' USA


ライノのCowabunga! The Surf Boxのパーソネルでは、この曲のリード・ギターはカール・ウィルソンになっていて、そんな馬鹿なことがあるか、と腹を立てましたが、オフィシャル・ビリー・ストレンジ・サイトのディスコグラフィーで、ボス自身が自分のプレイであるとコンファームしています。

この追悼特集では推定は避け、できるだけ上記ディスコグラフィーにある曲を聴くことにしますが、そもそも、ビリー・ストレンジさんに連絡をとるきっかけになったのは、ある推測の結果でした。そのきっかけになったのは一曲ではないのですが、たとえば、これ。

The Ventures - Lucille


1998年から翌年にかけて、Add More Musicにつどった仲間たちと、ヴェンチャーズのほんとうのリード・ギターはだれだったのだろうということを話し合いました。

最初はキャロル・ケイさんの示唆から、トミー・テデスコの線で考えていたのですが、このあたりのトラックをしつこく聴いているうちに、ビリー・ストレンジに考えがおよびました。

当初は、そういう当てずっぽうを云って遊んでいただけだったのですが、だんだんシリアス・ゲームになってしまい、ついには「オオノ隊長」がビリー・ストレンジ氏のメール・アドレスを発見し、わたしが代表としてメールを送りました。

初期ヴェンチャーズのリード・ギターはビリー・ストレンジではないかという洞察に至ったのは、いろいろなプレイを徹底的に聴いた結果だったのですが、つぎの曲も、これはあの人ではないか、と思わせるものでした。

The Ventures - Sukiyaki


これが、ビリー・ストレンジのどの曲と似ていると思ったか、特定のトラックをあげるのはむずかしいのですが、たとえば、このスタンダード。前半はスパニッシュ・ギターですが、後半、フェンダーでのプレイが登場します。

Billy Strange - Maria Elena


もうひとつ、ビリー・ストレンジらしいバラッドのプレイを。ドラムはハル・ブレイン。みごとなアコースティック・リズム・ギターはだれでしょうか。グレン・キャンベルかトミー・テデスコかもしれません。

Billy Strange - Deep Purple


機材は異なりますが、こういうトラックをしつこく聴いていると、ヴェンチャーズのギタリストが指を動かす像が頭のなかで見えてきたのです。またヴェンチャーズにいきます。

The Ventures - Lonely Heart


かなり確信がもてたときに、ビリー・ストレンジさんのアドレスがわかったので、勇を鼓して、あなたはヴェンチャーズのセッションでプレイしませんでしたか、というメールを送りました。

そのあたりのいきさつは、『急がば廻れ99' アメリカン・ポップ・ミュージックの隠された真実』という(ボロクソにけなされたw)本に書いたので、ご興味のある方は図書館などでどうぞ。

もうこの件でわたしに噛みつく人もいなくなったので、ヴェンチャーズ・ファンも、あきらめて、ライヴだけを聴くようになったのだと考えています。スタジオとライヴは違うバンドだということさえわかっていただければ、わたしのほうはそれで文句はありません。どちらがうまいか、なんていうのは、古来、蓼食う虫も好きずきという諺があるくらいで、お好みですから(呵呵)。

なにかビリー・ストレンジさんが動いているクリップを、と探していたら、灯台もと暗し、オフィシャル・サイトで息子さんがこのクリップを紹介していました。めずらしくもモズライトを持っていますが、音はスタジオのものなので、フェンダーだろうと思います。

Billy Strange - Satisfaction


もうひとつ、アコースティック12弦ですが、こんどはほんとうにプレイしています。

Nancy Sinatra and Billy Strange - Bang Bang


だれしも生老病死は免れず、自分自身だっていつ死ぬかはわからないので、軽々に「驚いた」などという言葉を使ってはいけないとは思うのですが、しかし、今日知ったばかりで、まだ考えはまとまりません。

二度目の返信だったか、Mr. Strangeは勘弁してくれ、ビリーかウィリアムにしてほしいといわれ、では、日本の習慣にしたがって、Billy-sanと呼ばせていただくと書き送りました。

つぎの返信の冒頭は、My friend Yuji-sanでした。Yujiはわたしのファースト・ネーム。スタジオ・プレイヤーはプロフェッショナルなので、お高くとまったりはしないものですが、ビリー・ストレンジさんもその例に漏れず、わたしを歓迎してくれました。

小学校で日本語のクラスをとったので、まだ君が代の断片をかすかに覚えていると、アルファベットで君が代の歌詞の一部を書き送ってくださったのにも、ちょっと驚きました。たしか、pretty closeだと返事を差し上げたと思います。

いや、センティメンタルになることがこの稿の目的ではありません。ビリー・ストレンジという人が遺した音楽を回顧することに徹したいと考えています。次回からは、ふつうのビリー・ストレンジ特集にする予定です。


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by songsf4s | 2012-02-23 23:58 | 60年代
ファー・モア・ザン・ノー・ヒット――2ヒットならどうだ2 スコット・マケンジー、R・B・グリーヴス
 
昨日、前回の記事をアップしながら、ワン・ヒット・ワンダーがあるなら、「ノー・ヒット・ワンダー」もあるのではないか、なんてことを考えました。

つまり、だれでも知っているほど有名なのに、シングル・ヒットがない、というアーティストです。アルバムは売れるのに、シングルはまるでダメ、ということはあるのではないでしょうか。

いま、二例だけ思い浮かんだのですが、わたしがチャート・データをもっていない時期にヒットが出た可能性もあるので、その点を確認してから、可能ならつぎの機会に取り上げることにします。

さて、今日は前回のつづきで、あと一本出れば猛打賞だったのに、という2ヒッターです。

前回、2ヒッターというのは、最初の大ヒットが強すぎて、セカンド・ヒットがショボく感じられ、その結果、シーンから脱落してしまった、というパターンだろうという理屈をこねましたが、その仮定を地でいってしまった人を。

スコット・マケンジー、まずは最初の大ヒットから。ハル・ブレイン・オン・ドラムズ、ジョー・オズボーン・オン・ベース、ヒッピー・ベルを振ったのは、ハル・ブレインに拠れば、ママズ&ザ・パパズのミシェール・フィリップスだそうです。

Scott McKenzie - San Francisco (Be Sure to Wear Some Flowers in Your Hair)


クリップのタイトルは大間違いなので、正確なフル・タイトルを書いておきました。「サンフランシスコ(髪に花を挿すのを忘れないように)」です。長いタイトルなので、子どもたるもの、寿限無のように、正確に記憶しようと努力したものです。中学二年にもわかる程度の英語でしたし。

この曲については、とくになにかいうべきことはないようです。1967年夏、のちに「サマー・オヴ・ラヴ」と呼ばれることになる特別な夏に開かれた、モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルのテーマ・ソングというか、前景気をあおるコマーシャル・ソングとして、ママズ&ザ・パパズのジョン・フィリップスが書いた曲で、主催者の狙い通り、大ヒットになりました。

スコット・マケンジーは一躍スターになり、セカンド・シングルがリリースされたのですが、わたしはまったく記憶していませんでした。日本ではほとんどエア・プレイがなかったのではないでしょうか。

Scott McKenzie - Like an Old Time Movie


ジョン・フィリップスが本気だったら、もっといい曲をセカンド・シングルとして書いたのじゃないでしょうかねえ。シングル・カットしたこと自体がミスでしょう。典型的なB面曲にきこえます。

かくしてスコット・マケンジーは、それがどこであれ、もといた場所へと後退していったか、なにかに転身したか、そのへんは知りませんが、老兵は死なず、ただ消えゆくことすらもせず、歌いつづけているのかもしれません。

この人も最初は大ヒットでした。

R.B. Greaves -Take a Letter Maria


別れ話の手紙を秘書に向かって口述するという、ちょっと変わった設定の歌詞も、この曲のヒットにおおいに貢献したのでしょう。時代の変化をあらわす歌詞です。

なかなかけっこうなベースですが、だれのプレイか知りません。オムニバス盤にはしばしば収録されるので、LPでもCDでももっていましたが、単独の盤は買ったことがないので、そのへんのことは知りません。

サム・クックの甥、ロナルド・バートラム・アロイシャス・グリーヴス3世はガイアナで生まれ、アメリカとイギリスで育ち、シンガーとしてはイギリスでデビューしたとありますが、プロデューサーはアーメット・アーティガンだというので、録音はアメリカだった可能性もあります。

R・B・グリーヴスのもう一曲のビルボード・トップ40ヒットは、クリップがないので、サンプルをあげました。バート・バカラックとハル・デイヴィッドの作、サンディー・ショウのヒットのカヴァー。

R.B. Greaves "(There's) Always Something There to Remind Me"

オリジナルはルー・ジョンソンだそうですが、ふつう、この曲はサンディー・ショウのヒットとして知られています。サンディー・ショウもよく知っているのは2曲だけなので、2ヒッターかと思ってチャート・ブックを調べましたが、イギリスではヒットしたものの、どの曲もビルボード・トップ40に届かず、じつはノー・ヒット・ワンダーでした。

すでに時間切れ、もうひとり、という余裕はないので、サンディー・ショウのアメリカではトップ40に届かなかった曲を。

Sandie Shaw - Girl Don't Come


ケチケチせずに、もう一曲も。

Sandie Shaw - (There's) Always Something There to Remind Me


やはり、こちらのほうが高いヒット・ポテンシャルがあったと感じます。


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スコット・マケンジー
San Francisco
San Francisco


R・B・グリーヴス
R.B. Greaves
R.B. Greaves


サンディー・ショウ
Collection
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by songsf4s | 2012-01-05 23:42 | 60年代
ファー・モア・ザン・ノー・ヒット――ワン・ヒットで悪かったな2
 
昨日のつづきで、さらにワン・ヒッターを並べます。今日は鎌倉に行き、福禄寿、弁財天、恵比寿、と三福神もまわってしまったので、残り時間は僅少。なにも考えずに、曲を並べます。

スティーヴ・マクウィーンが売れないシンガーになる、えーと、邦題失念映画の主題歌。

Glenn Yarbrough - Baby The Rain Must Fall


ハル・ブレインは、グレン・キャンベルといっしょにこの映画に出演し、スティーヴ・マクウィーンがバーで歌うシーンのバックバンドのメンバーを演じています。

しかし、アール・パーマーの伝記に付されたディスコグラフィーにこの曲はリストアップされています。結局、ハルは映画に出演しただけで、ドラムは叩かなかったようなのです。考えてみると、奇妙ですが、撮影と録音はべつべつにおこなわれるので、まあ、当たり前といえば当たり前。

また、ビリー・ストレンジ御大は、たしか、マクウィーンの歌のスタンド・インをやったのだったと思います。つまり、スティーヴ・マクウィーンは歌わず、彼が歌うシーンでは、ビリー・ストレンジさんの声が流れたということです。いや、主題歌はグレン・ヤーブロウなので、ビリー・ストレンジ御大ではありませんよ。

この人も、後にも先にもこれしかヒットがなく、その唯一のヒットがチャート・トッパーになった「純金のワン・ヒッター」です。バリー・マグワイアがフィル・スローンを歌います。

Barry McGuire - Eve of Destruction


この曲の邦題ぐらいはいくらなんでも覚えていたのですが、いよいよ脳軟化か、しばらく考えてしまいました。「明日なき世界」、でしたよね? 自信なし。あはは。

ドラムは当然ながらハル・ブレインです。フィル・スローンは、いくらまじめな歌詞を書いても、隠しても見える狸の尻尾、メロディーはどうしてもポップ・チューンになってしまい、油断すると、すっとチャートのトップまでのぼってしまうのです。でもって、Sing Out!なんていう馬鹿まじめというか、まじめ馬鹿雑誌に思いきり馬鹿にされちゃったりするわけです。どっちもどっち、といっておきます。

今日は65年のチャートを見ながら書いているのですが、さすがにこのときは小学生、まだFENを聴いていなかったこともあって、記憶しているワン・ヒッターはほとんどありません。やっと見つけた一曲。

The Gentrys - Keep on Dancing


シンプルな曲、チープなサウンド、これはこれで、きわめて60年代的、といえるように思います。これなら中学生でもなんとかなりそうなものですが、不思議に同級生のバンドのどこも、この曲はやりませんでした。シンプルすぎて、意欲がわかなかったのかもしれません。呵呵。

記憶している1965年のワン・ヒッターはなかなか見あたらないので、あとから知った曲をひとつ。

The Knickerbockers - Lies


聴けばすぐにおわかりのとおり、この曲がヒットした理由は、ヴォーカルの声がジョン・レノンに似ていて、ラジオで聴くと、ビートルズの新曲のように思えた、ということしかありません。冷静になれば、そんなはずがないのはわかりきったことですが、第一印象というのは尾を引くものなのです。

おっと、すでに制限時間いっぱい。なんだか、連続試合出場記録を途切れさせないために、勝負が決したあとで代打出場し、四球を選んだ、みたいな更新で、失礼しました。


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by songsf4s | 2012-01-03 23:52 | 60年代
何のためにというわけでもなくSurf Music Night―ジャック・ニーチー、リッチー・アレン、ホワット・フォー
 
あらすじというのはじつに面倒なもので、うまく、面白く書くには技術を要します。MovieWalker(というか、もとはキネ旬だが)みたいになっては、面白い映画もみな駄作に見える、というか、なにがなんだかさっぱりストーリーがわからなくなってしまいます。

森一生監督『薄桜記』(五味康祐原作)は、プロットが複雑で、しかも、面白みは話の展開にかかっているタイプなので、簡単にあらすじを書くわけにもいかず、ああでもない、こうでもないと頭のなかでこねまわしているうちに疲労困憊して、ツイッターとユーチューブに逃げました。

とりあえず、ジャック・ニーチーを聴いてみました。当たり前の曲で、あえて貼りつけるまでもないのですが、これが起点になったので、いちおう置いておきます。

Jack Nitzsche - The Lonely Surfer


ドラムはハル・ブレイン、ダノ・リードはビル・ピットマン、ギターはトミー・テデスコ、記憶しているのはそれくらいですが、大サーフ・クラシックなので、とくに付け加えるべきことはありません。

リッチー・アレン&ザ・パシフィック・サーファーズがカヴァーしているのかと思って、そのクリップを聴いてみました。

Richie Allen & The Pacific Surfers - The Lonely Surfer


というように、まったくべつの曲ですが、これはこれでなかなかけっこうなサウンドです。ドラムはアール・パーマーでしょうか。スネアのサウンド、プレイがアールに聞こえます。

べつの記事に書いたかもしれませんが、リッチー・アレンとはすなわちリッチー・ポドラー、ハリウッド録音のさまざまなギター・インストなどにクレジットされているギター・プレイヤーです。

当然、パシフィック・サーファーズというのも、スタジオ・プレイヤーたちに決まっています。ドラムはハル・ブレインかもしれません。

しかし、なんだか、聴いたような気もするので、検索してみたら、ちゃんともっていました。たんに記憶からとんでいただけでした。

もうひとつ、The Lonely Surferの関連クリップを聴きました。これが思わぬセレンディピティー、って、予想していてはセレンディピティーになりませんが。

The What Four - Gemini 4


アップローダーの説明によれば、リプリーズ・レコードのリリース、プロデューサーはディック&ディーディーだそうで、つまり、ハリウッド録音、プレイしたのはハリウッドのスタジオ・プレイヤー、ということまでは読みとれます。

ディック&ディーディーをいちおう聴きましょう。

Dick & Dee Dee - Thou Shall Not Steal


この曲のドラムはハル・ブレインでしょう。であるなら、というので、検索してみたら、Vinyl Highway: Singing as Dick and Dee Deeというディーディー・フェルプスの回想記に、ドラムはハル・ブレインかアール・パーマー、ベースはレイ・ポールマンかキャロル・ケイであると、ちゃんと書かれていました。

これでディック&ディーディーとレッキング・クルーの関係ははっきりしました。したがって、ホワット・フォーという、おそらくシングル1枚をリリースしただけで消えたグループも、いつものスタジオ・プレイヤーたちの仕事と考えて問題ありません。

ということで、案外な拾いもの、と思ったのも当然、「あのバンド」だからうまくてあたりまえ、というアンチ・クライマクスでした。

しかし、ほんとうはつぎの曲を聴こうかと思って、似たタイトルの曲に流れてしまっただけなのですが。

The Ventures - Gemini


これだけ完璧にプロフェショナリズムに徹したプレイとなると、ツアー用ヴェンチャーズなんかひとりも参加していないのは見え見えで、悲しいものがありますなあ。わっはっは。


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ジャック・ニーチー
Lonely Surfer
Lonely Surfer


リッチー・アレン&ザ・パシフィック・サーファーズ
Surfer's Slide
Surfer's Slide


ディーディー・フェルプス著
Vinyl Highway: Singing As Dick and Dee Dee
Vinyl Highway: Singing As Dick and Dee Dee
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by songsf4s | 2011-12-28 00:34 | Guitar Instro
サイモン&ガーファンクルのThe Only Living Boy in New York――Bridge Over Troubled Water40周年記念盤で
 
Bridge Over Troubled Waterというアルバムで、サウンド面から好きな曲としては、まずThe Only Living Boy in New Yorkをあげます。

ヴィデオThe Making of Bridge Over Troubled Waterで、ポール・サイモンは、これはアート・ガーファンクルが『キャッチ22』の撮影でメキシコに行っているあいだに書いたといっています。

『キャッチ22』! ヨサリアンのあのシーンがねえ。ホラー映画じゃないから、あれはちょっと怖ろしくて……。でも、あの「爆撃を売却」するシーンは爆笑でした。

『キャッチ22』より


閑話休題。アート・ガーファンクルは、うん、あれは友情についての歌だ、ポールとわたしのプライヴェートなことなので、曰く云いがたい、キャメラの前で話すつもりはないといっています。まあ、歌詞が気になる方は、アーティーのこの言葉を前提に解釈なさるといいでしょう。

Simon & Garfunkel - The Only Living Boy in New York


これはもう、なにを措いても、ハル・ブレインとジョー・オズボーンのプレイに圧倒されます。

まずジョー・オズボーンについて。あらら、そうだったの、でした。ロイ・ハリー曰く、ジョーは8弦ベースをプレイした、とか。

たしかに、オズボーンはこの曲でむやみに高い音をつかっています。たとえば、00:50あたり、「I can gather all the news I need on weather report」の直後をお聴きあれ。

このパッセージは、たんに高いだけでなく、ジョー・オズボーンにしてはきわめてめずらしいコード・プレイになっています。

オズボーンは高音部の使い方のうまいプレイヤーで、高い音を使っていることはわかっていても、それはいつものことだと思っていましたが、考えてみると、この2本の弦によるコード・プレイは、フェンダー・プレシジョンでは無理かもしれません。

われわれは先入観の助けによって日常生活を大過なく送っているので、つい精神のモードを切り替えるのを忘れてしまいます。ジョー・オズボーンといえば、あの塗りのはげたヴィンティジ・フェンダー・プレシジョンしか思い浮かばず、8弦ベースをプレイしたなどとは考えもしませんでした。音を聴くときは心を無に、っていっても、無理なのですが!

どうであれ、オズボーンはすばらしくも美しいサウンドをつくっていて、それだけで、やっぱりこの人はすごい、と思います。いい音を出せる人というのは、ホンモノです。

また、オズボーンは、あとでBass Player誌のためにこの曲でのプレイを再演することになり、苦労したといっています。ロイ・ハリーが複数のテイクを編集したため、つなぎめで、現実には弾けないパッセージが生まれてしまったというのです。好事家は、それがどこなのか、子細に検証なさってはいかがでしょうか。わたしは放棄します!

ロイ・ハリーは、ハル・ブレインは使いはじめたばかりの巨大なセットをプレイした、われわれは、あのセットになにができるか実験をした、といっています。

これはむろん「オクトプラス・セット」のことです。8個のコンサート・タムを並べた史上初のモンスター・セットでした。8個、ということは、ちゃんとチューニングすれば、ドレミファソラシドを叩けるということです。だから「コンサート」つまり「音階のある」タムタムなのです。

いやあ、それにしても、ロウ・ピッチ・タムなんか、すげえ音で録れていて、背筋に戦慄が走ります。この曲はできるだけ近年のマスタリングの盤を、いい環境で聴くほうがいいと思います。ハル・ブレインとロイ・ハリーに「ブラヴォー!」と云いたくなります。ドラムというのは、エンジニアがマヌケだと、ぜんぜんいい音にならないものなのです。

ヴォーカルの録音でも、妙なことをやっています。バックグラウンドのHere I amは、もちろんポール・サイモンとアート・ガーファンクルがオーヴァーダブしたものです。

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しかし、問題は「どうやったか」です。ロイ・ハリーは、エコー・チェンバーに「通す」のではなく、エコー・チェンバーの「中に入って」歌うようにいったのだそうです。LAで録音したといっています。

中に入れるタイプというと、どういうエコーチェンバーか(ゴールド・スターにあったEMI製プレート・エコーに入るのは非常にむずかしいと思う)、どこのスタジオなのか、ちょっと気になります。まあ、サンセット&ガウワーのCBSスタジオにあったのでしょうね。CBSはインディペンダント・スタジオを使わせたがらない会社でしたから。

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Bridge Over Troubled Waterは、リリースのときに熱心に聴き、その後、ボックスのリマスターでまたていねいに聴き直しました。なぜ、子どものときに面白いと思ったか、明解にわかったのは、CDで聴いたときのことでした。やはり、精緻なサウンド構築に、自然に耳が引き寄せられていたのです。

サイモン&ガーファンクルのようなヴォーカル・デュオをつかまえて、サウンド構築がすごい、などといっては申し訳ありませんが、でも、音楽は詰まるところ音の手触りです。ロイ・ハリーはたいしたものだと、このThe Only Living Boy in New Yorkでも感服しました。


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CD+DVD(英語版)
Bridge Over Troubled Water (Deluxe)
Bridge Over Troubled Water (Deluxe)


CD+DVD
明日に架ける橋(40周年記念盤)(初回生産限定盤)(DVD付)
明日に架ける橋(40周年記念盤)(初回生産限定盤)(DVD付)
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by songsf4s | 2011-12-05 23:35 | 60年代
サイモン&ガーファンクルThe Boxerはいかに録音されたか―Bridge Over Troubled Water40周年記念盤を巡って
 
(12月5日午前10:15追記 昨夜は急ぎに急いだので、省略したディテールが多く、本日、記事末尾に補足を加えました。)

以前、ツイッターである方と、サイモン&ガーファンクルの録音について細々とお話ししたことがあるのですが、そのときにお教えいただいたBridge Over Troubled Waterの40周年記念盤というのを聴き、付属DVDを見たので、本日はそのことを少々。ツイッターで箇条書きにしたことをまとめただけなので、重複はご容赦を。

この「デラックス版」というものは、Bridge Over Troubled Water、そしてライヴ、というCDに、The Making of Bridge Over Troubled WaterというDVDで構成されています。

以前、3枚組ボックスでもずいぶんとドラスティックなリマスターがおこなわれましたが、今回はさらに現代的なマスタリングになっています。当時の音にこだわる方には愉快な音ではないかもしれませんが、Pet Sounds SessionsのリマスタリングがOKという方には楽しめる音になっています。当時とは違うけれど、いい音である、という意味です。

ハル・ブレインというのは、わたしが子どものころからすでに伝説の人だったのですが、はじめて彼の名前が明記されているのを実物で見たのはこのBridge Over Troubled Waterだったと思います。

さらにいえば、ジョー・オズボーンも名前はすでに知っていて、じっさいに彼のプレイであることを知って音を聴いたのはこのときのことでした(むろん、それと知らずになら、すでに山ほどオズボーンのプレイを聴いていたのだが)。そして、ラリー・ネクテルも。

このアルバム、録音に関してはいろいろ面白いことがあるのですが、わたしが以前からずっと気にかけていたのは、The Boxerです。

Simon & Garfunkel - The Boxer


どこでどういうデータを見て、それをどうつなげて、なぜそういう解釈をしたのか、その過程を忘れてしまったのですが、この曲ではハル・ブレイン(ハリウッド)、バディー・ハーマン(ナッシュヴィル)、ゲーリー・チェスター(ニューヨーク)という、三大音楽都市を代表するエース・ドラマーが同時にプレイしたのだそうです。

たぶん、それぞれがそれぞれのディスコグラフィーにあげたり、コメントしたりしているのを読んだのだったと思います。ハル・ブレインははっきりと、スネアのオーヴァーダブをやったと云っています。

バディー・ハーマンもたしか、キック・ドラムをプレイしたとコメントしていたと思います。そして、ゲーリー・チェスターはディスコグラフィーにこの曲をリストアップしているのを見ました。引き算で、残るはボンゴのみ、よってチェスターはボンゴとみなしましたが、ここは確認がとれません。

三者それぞれが各都市の大エース、めったによそには行かないので、当然、テープが移動したのだろうと思いましたが、わたしが思うのはわたしの勝手、なんの意味もないので、なんとか確認したいと思っていました。

そして、今回、The Making of Bridge Over Troubled Waterを見て、いくつか細部がはっきりしました。

ヴィデオにはハル・ブレインが登場し、どのように録音したかを語っています。これは回想記にも出てくることで、他のインタヴューでも言及していますが、今回は一点だけ、いままで知らなかったことが出てきました。

場所はNYのコロンビア・スタジオ(二カ所あったと思うが、どちらかは不明瞭)。休日で、閑散としたCBSのビルのエレヴェーター・ホールにハルはドラムをセットし、ヘッドフォンでプレイバックを聴きながら、「ライレライ」のところのスネアのバックビートをオーヴァーダブしました。

ここまではわかっていた話です。エレヴェーター・ホールで録音したのは、自然なエコーを利用するためです。これは歴史を知っていると、ほほうなのです。

1940年代のことだったと思うのですが(確認の手間を略し、失礼)、コロンビアのエンジニアたちは、エコー研究の一環として、CBSビルの階段室(エレヴェーター・ホールではない)のあちこちにスピーカーとマイクをセットし、エコーのかかり具合を測定したのだそうです。そういうエコー実験の故地で、またしてもエコー実験が繰り返されたのです。

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さて、ここまではオーケーです。でも、ハル・ブレインは今回は、I was smashing those two drumsといっていました。drumはときにsnare drumのことを指します。ブライアン・ウィルソンはLet's Go Away for Awhileの録音で、ハルに「No drum」と指示しています。ドラムを入れるな、ではなく、スネアはいらない、という意味です。

つまり、ハルがtwo drumsといっているのは「二つのスネア・ドラム」という意味です。なるほどねえ、と膝を叩きましたよ。

あれ以前にも、たとえば、フィル・スペクターのトラックなどではしばしば、スネアのバックビートに、タムタムないしはフロア・タムを重ねてプレイしたことがありますが、さすがのハル・ブレインも、スネアを二ついっぺんに叩いたのはこれが最初で最後ではないでしょうかね。

わたしは、こういう、強い音をつくるための小さな工夫というのが大好きなので、この2スネア・ドラムズにはほんとうにうれしくなりました。

ロイ・ハリー(しばしば「ヘイリー」と表記されるが、ポール・サイモンもハル・ブレインも「ハリー」と発音している)というエンジニア兼プロデューサーもじつに興味深い人物で、ヴィデオを見つつ、何度も「ほほう」とうなずきました。

バディー・ハーマンのコメントはなく、ゲーリー・チェスターはすでに故人なのは残念ですが、残る疑問は、あとはどこで録音したか、です。ポール・サイモンはこういっています。

That was recorded all over the places.

これは打楽器にかぎったコメントではないのですが、つまり、それぞれのプレイヤーがいる町で録音したということになる、かどうか。ハル・ブレインはめずらしくNYにいって録音していますから(たぶんサイモン&ガーファンクルのツアーに帯同して、その途中だった)。

バディー・ハーマンもエルヴィスの録音でハリウッドにいったことがあるという話なので、このへんは結局、よくわかりません。

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もうひとつの謎は、なぜ、三人のドラマーにべつべつにプレイさせたのか、ということです。そんなことをしなくても、ハル・ブレイン、バディー・ハーマン、ゲーリー・チェスターなら、ひとりですべてできたに決まっています。

これについての解答は今回も得られませんでした。わたしの推測は「面白いからやってみた」「ファンは知らないだろうが、じつはこの三人が多くのヒット曲の向こう側にいたことを記録しておきたい」、といったあたりです。

The Making of Bridge Over Troubled Waterはなかなか面白いヴィデオで、他の曲についても興味深いことがあるのですが、本日は力つきたので、他日を期します。

(以下は12月5日午前10:15補足)
本文では、ドラム関係のことにしかふれませんでしたが、ヴィデオでは、さまざまなことに言及されています。

まず、イントロのギターは、先に行くアルペジオがフレッド・カーター・ジュニア、あとから行くのがポール・サイモンだそうです。イントロというか、全編を通じてこのギターはずっと流れつづけるのですが。

他のプレイヤーとしては、ベース・ハーモニカをプレイしたチャーリー・マコーイが言及されています。マコーイはナッシュヴィルのマルチプレイヤーで、ベース、ギター、ハーモニカをプレイしました。

チャーリー・マコーイはボブ・ディランのナッシュヴィル・セッションでリーダーをつとめました。また、エイリア・コード615というプロジェクト名でのアルバムもありますし、ハーモニカ・インストのアルバムもリリースしています。

Area Code 615(チャーリー・マコーイはヴォーカルとハーモニカ)


The Boxerでの、チャーリー・マコーイとバディー・ハーマンのプレイは、やはりナッシュヴィルで録音したのではないでしょうか。ディランだってBlond on Blondの録音は、ツアーの途中でナッシュヴィルに立ち寄ったときにやったそうですから。コロンビアはナッシュヴィルにスタジオを二つもっていて、大々的に活動していました。

The Boxerに話を戻します。ライレライという、深いエコーのかかったコーラスは、コロンビア教会だったか、名前は失念しましたが、教会に機材をセットアップして録音したそうです。

ポール・サイモンは、ロイ・ハリーをエコーの天才といっていますが、評価はどうであれ、このアルバムでは、さまざまなナチュラル・エコーを追求したことははっきりしています。

昔読んだもの(国内盤ライナーだったか、雑誌記事だったか)では、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、フィル・スペクターの音を再現したくて、彼のミュージシャンたちを呼んだ、なんて書かれていました。

ハル・ブレインもジョー・オズボーンも、以前からサイモン&ガーファンクルのレコーディングでプレイしているし、オズボーンは「フィル・スペクターのミュージシャン」とはいえないので、これはやや見当はずれの言葉だったことになります。

しかし、The Boxerばかりでなく、Bridge Over Troubled Water収録曲には、エコーが気になるものがいくつかあって、昔の人がスペクターを連想したのはあながち間違いともいえないと思います。

その点を中心に、さらにこのアルバムについて書きたい気はあるのですが、目下風邪っぴき、治ったときには気が変わっているかもしれません。


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by songsf4s | 2011-12-04 23:55 | 60年代