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ジェイムズ・ボンド・テーマはだれがつくったのか: ヴィック・フリック・ストーリー
  
何度かご紹介していますが、ヴィック・フリックというイギリスのセッション・ギタリストがいます。

知らない人はいないだろうというフリックの代表作はいうまでもなく、あの曲です。

Vic Flick - James Bond Theme


ヴィック・フリックのオフィシャル・サイトによると、このときのギターは、クリフォード・エセクスのパラゴンで、アンプはヴォックスだったそうですが、その状態を再現したライヴのクリップがありました。

Vic Flick - James Bond Theme (live)


改めてフリックのバイオを読んでいて、以前にも、たとえば「James Bond Theme その1 by John Barry & Orchestra (OST)」といった記事で取り上げた、James Bond Themeはだれが書いたのか、という問題を思い出しました。

ジョン・バリーは、あの曲を書いたのは自分であって、モンティー・ノーマンではないという訴訟を起こし、敗訴しているそうです。

フリックのサイトでは、『ドクター・ノオ』公開まであと三週間という時期になっても、ノーマンはメイン・テーマを書き上げられず、プロデューサーのブロッコリが、ジョン・バリーに話を持ち込み、フリックのすばらしいギター・プレイの助けもあって、無事に間に合わせることができた、としていました。

ヴィック・フリックはジョン・バリー・セヴンのギタリストだったのだから、バリー寄りの見解だという点に留意すべきでしょうが、フリック側のヴァージョンでは、モンティー・ノーマンがメイン・タイトルを書けなかったから、プロデューサーが業を煮やして、ジョン・バリーに依頼した、と読めます。

逆にいうと、モンティー・ノーマンがメイン・タイトルを書いていれば、ジョン・バリーとヴィック・フリックが『ドクター・ノオ』のスコアに関与することはなかったはずで、したがって、法廷の判断とは逆に、バリー勝訴のような気がしてきます。

◆ ヴィック・フリック・サウンド ◆◆
これまた以前にも貼り付けたクリップですが、ヴィック・フリックの話題なので、重複をいとわず、またおいておきます。映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』より。

Ringo's Theme


ジェイムズ・ボンド・テーマとリンゴのテーマの二曲から、子どものわたしは、こういうギターを「イギリスっぽい音」と考えました。しかし、わかってみれば、イギリスがどうしたとかいうあいまいな話ではなく、ヴィック・フリックというプレイヤーが、ドゥエイン・エディーのトワンギン・ギターを参考につくったサウンドだったのです。

当然、こういうサウンドに対するささやかな固着が生まれ、ノスタルジーを感じるようになり、したがって、フリックのほかのものも聴いてみたいとかねてから思っていました。そして、やっとフリック名義のアルバムを聴けました。何度もとりあげたヴィック・フリックのことをまた書く気になったのは、そのせいなのです。

1969年のアルバム、West of Windwardより、アルバム・カット。

Vic Flick Sound - West of Windward


いささか拍子抜けでした。勝手にギター・アルバムを予想したほうがいけないといえばそのとおりなのですが、8ビートのラウンジ・ミュージックというおもむきで、フリックのギターは、それほど活躍しませんし、サウンドも「あの音」ではありません。

まあ、1969年というと、もうギター・インストの時代ではないので、ギターを前面に押し立てたサウンドでは無理、トータルなサウンドで勝負ということなのかもしれませんが、やはりちょっとがっかりです。この曲だけがそうだというわけではなく、アルバム全体を聴いても、やはり、このオープナーに代表されるようなサウンドです。

なんだか竜頭蛇尾で悔しいので、いかにもフリックらしいサウンドの曲を貼り付けます。

The John Barry Seven - Watch Your Step


もう一曲、ぐるっと回って映画のテーマを。

The John Barry 7 - Beat Girl


タイトル・シークェンスを見るかぎりでは無軌道ティーネイジャーものという雰囲気ですが、サウンドとしては、すでにスパイものの雰囲気があり、ブロッコリはちゃんとこういうジョン・バリーの仕事を知ったうえで、『ドクター・ノオ』がピンチにおちいったときに、バリーの起用を思い立ったのだということが推測されます。

ずっとヴィック・フリックのサウンドを聴いていて、思いだした曲があるので、次回はできれば、それを取り上げたいと思います。


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ジョン・バリー・セヴン(MP3ダウンロード)
Seven Faces (1995 - Remaster)
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ジョン・バリー・セヴン(中古CD)
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ジェイムズ・ボンド映画音楽集
Best of Bond: James Bond (Score)
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by songsf4s | 2011-08-31 23:48 | Guitar Instro
Quick Look At 御馴染ジキル&ハイド焼き直し物 ニール・バーガー監督『リミットレス』(Limitless)
 
以前、ごちゃごちゃと長ったらしく分析するのではなく、歴史的重要性のない、あるいは、わたしにとってはとくに強い意味を持たない映画を、あっさり一回で書く、というのをやりたい、ということを書きました。now listeningというのをチラッとやりましたが、その映画版という趣向です。

音楽に関しては、この30年ほどのものには興味がなく、スネアのチューニングやサウンドやミックスのバランシングには吐き気を感じるので、まったく聴いていません。しかし、映画と小説は、いくぶんかみずからを叱咤鞭撻する趣無きにしも非ずですが、それなりに接しています。

小津安二郎や成瀬巳喜男などの日本映画は特例、別格ですが、おおむね、遅い映画、長い映画が不得手で、新しいものはアメリカ製アクション映画しか見ていないような気がします。

いちおう、形式として今回も監督名をタイトルに出しましたが、この二十年ぐらいのアメリカ製アクション映画は、プロデューサー映画であり、つまるところ、監督はだれでも同じだと考えています。もともと、「作家性」という言葉はアクション映画との親和性が薄かったのですが、いまやまったく無縁といっていいでしょう。

◆ クリティカル・パス正面無理押し突破 ◆◆
さて、たんなる瞥見による雑感記事の一回目は、十月に公開予定となっている『リミットレス』です。このタイトルになるかどうかは知りませんがね。

予告編


出版契約はとったものの、まだ一文字も書けず、恋人にも三行半を突きつけられた作家のエディー・モーラ(ブラッドリー・クーパー)は、町でばったり別れた妻の弟ヴァーノンガーント(ジョニー・ウィットワース)に出くわします。

まだ一字もかけないというエディーに、ヴァーノンは「クリエイティヴ・ブロックか?」といい、透明なタブレットを一錠わたして、飲んでみろ、といいます。ヴァーノンは、人間は脳の20パーセントしか利用していない、この薬を飲めば、百パーセント活用できるようになる、と説明します。

あらゆる御伽噺には、日常世界からの跳躍の一瞬があり、このクリティカル・パスをいかに切り抜けるかに、作家はもっとも頭を悩まします。

極端な例は小松左京の『日本沈没』でしょう。日本が沈没するなどということはありえず、したがって、そうなるという物語は御伽噺であり、力強いリアリティーを与えられなければ失敗します。

その点を強く意識した小松左京は、地球物理をはじめとする最新の科学研究の成果を取り込み、それを読者に説明しているうちに、あまりにも膨大になり、日本という国土を失ったとき、日本人はいかにして生きるかを描く、という当初の目論見とは異なり、いかにして日本は沈没するか、という物語を書き上げてしまいました。

クリティカル・パスを通過するための手段であったはずの、自然科学の成果を総動員したリアリティーの付与それ自体が、物語の目的そのものとなってしまったのです。

『リミットレス』という映画のもっとも弱い鎖は、この弟に出くわし、NZTという謎の薬を渡されるシークェンスです。別れた妻の弟である必然性はとりたててなく、町でばったり出会う、なんて極端な手抜きもまったくの問題外、わたしがプロデューサーだったら、シナリオをゴミ箱に叩き込みます。

しかし、落語にも「夢金」や「天狗裁き」など、夢落ちというのがあるくらいで、「まあ、それはさておき」ということもあります。目をつむり、鼻をつまんで通り過ぎよう、というわけです。

この馬鹿馬鹿しい処理、というか、無処理はさておき、ここは無視して、いまから御伽噺に入ります、といわれて、オーケイ、といえるタイプの人は、この映画を最後まで見られるでしょう。この程度の話の運び方では、夢物語にはつきあえない、ということであれば、この映画はゴミ箱行きです。

以上、町でばったりメフィストに会った、という、驚くべき処理はなかったものにして、先に進みます。もちろん、脳みその二割とか十割とか、なんだかそば粉とうどん粉の比率みたいなあれこれも、御伽噺、御伽噺、御伽噺、と三回まじないを唱えて通過してください。

科学は忘れて、そういう話なのだ、と決めつけないと、こういう映画は馬鹿馬鹿しくて投げ出します。ゴジラなんかいないの、などと、かつて東宝に足しげく通うわたしにいいつづけたわが母のような精神の持ち主には、こういう映画は向いていません。

かくして、ヒーローはNZTなる薬を服用し、一気にIQ四桁人間(ワッハッハ)に変身します。当然、執筆はものすごい勢いではかどり、翌日には冒頭の数十ページをエイジェントに届けることができます。

なんだか、どこかで読んだような話だなあ、とだれだって思います。ひとつはスティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』、もうひとつはダニエル・キーズの『アルジャーノンに花束を』(ラルフ・ネルソン監督、クリフ・ロバートソン主演で『まごころを君に』Charlyというタイトルで映画化された。大昔にテレビで見たきりなので、記憶曖昧哉)です。いや、つまりウルトラマンね、という解釈もあるでしょうなあ!

さらにいうと、どなたもご存知ないでしょうが、幼児のころに見たタイトル失念メキシコ映画も思いだします。記憶おぼろですが、プロレスラーが筋肉増強剤のようなものを服用し、最強のレスラーに変身するという話でした。子どものときは、最後に薬の副作用が出るところが怖くて、怖くて、震え上がりました。

そういえば、ヘンリー・ライダー・ハガードの『洞窟の女王』のエンディングも、広い意味でこの種のパターンといえるような気もします。『レイダース』を見たときは、ハガードのアラン・クォーターメイン(映画『リーグ・オブ・レジェンド』ではショーン・コネリーがクォーターメインに扮した)・シリーズのいただきだと思ったものです。

むろん、作家が本を書いただけでは話はつづきません。ウルトラマンだから、当然、この薬の効き目は当日限り。さらに薬を手に入れようと義弟に会いに行きますが、彼は殺され、部屋は家捜しされていました。

これで、それなりに方向性が見えてきたように思いましたが、左にあらず、つまり、麻薬組織とウルトラマンの戦いなどという方向にはいきませんでした。

エディーは、犯人はあの薬を捜したが発見できなかったのだと推測し、必死で家捜しをし、ついに現金と数十錠のNZTを見つけます(オーヴンに隠してあったという処理もド下手。まったく意外性がなく、人殺しまでする人間がそんな当たり前のところを見逃したとは信じがたい)。

エディーは、毎日薬を服用し、可能性を模索します。本を書くなどというのは迂遠であるという結論に達し、あっさり作家は廃業し、投資をはじめます。ここから話は『虚栄の篝火』『ウォール・ストリート』的世界に突入します。つまり、野心に燃えた、若き天才ウォール・ストリート・ギャングの物語です。

だれかが、アメリカ人は金銭以外に、この世に価値体系があるとは信じていないといっていました。「ほう、おまえがそんなに頭がいいのなら、なぜまだ成功していないのだ?」というラインの「成功」とは財産を築くことです。

そうしなければプロットが組めないとはいいながら、突然、頭がよくなったときに、この主人公が、あっさり本の執筆を放擲し、投資にその才能を使うようになるということは、つまり作家たろうとしたのは「成功」のための手段だったということをあらわしています。

ものを書くことと金持ちになることが直結するとは思えず、ここで強い違和を感じましたが、アメリカの物書きはそのように考えるのだろうと受け取り、ここも鼻をつまんで通過しました。

一歩退いて考えるなら、この映画は、「あなたならどうする」タイプの物語とみなすこともできます。ここまででいうなら、

1)得体の知れない薬を飲むか?
2)突然、頭がよくなったら、なにをするか?

という設問が提示されています。わたしは内服薬に対してはいたって臆病なので、第一の関門を突破できず、脳みその変身を経験することはできないでしょう。シナリオは、エディーが物書きとしてのキャリアにおいても、生活においても追い詰められていることを描き、最初の一歩を後押ししています。

もう少し先に進みます。エディーはディーラーとして、たちまちウォール・ストリートの評判になり、大物たちから数々のオファーがあり、そのひとり、投資家のカール・ヴァン=ルーン(ロバート・デニーロ)に会います。

カールから渡された資料をざっと読み、エディーは、カールがひそかに大型合併を画策しているのを見抜き、カールの右腕として雇われることになります。

というように、ビジネスマン(というか投資ギャング)成功物語へと変化する一方、エディーを付け狙う謎の男やら、エディーが資金を借りた粗暴な高利貸しやら、恋人やら、元妻やらがからんで、話はにぎやかに進みます。

◆ もう一度、あなたならどうする ◆◆
公開を待っている映画のプロットをあまり事細かに書くものではないし、そろそろ時間切れも迫っているので、プロットを追うのはこのへんまでとします。

副作用の問題と、薬切れの問題は、こういう設定では必然的にプロットを決める要素になります。ほんの数日で外国語をマスターできるほどの頭脳になったのだから、わたしだったら化学と薬学の勉強をして、手持ちの薬をリヴァース・エンジニアリングし、製造に乗り出しますが、この映画の主人公はべつの道をとります。

副作用の問題も、当然ながら、同じように解決できるはずですが、この映画のシナリオ・ライターはみごとなご都合主義者ぶりを発揮し、他の人間はみな副作用の問題を解決できずに病んだり死んだりするのに、主人公だけは「デバッグ」を試みます。

この薬を飲めば、だれでも頭脳明晰になるはずではなかったんでしたっけ? 薬を飲んでいない頭脳非明晰のあたくしだって、それくらいの方法をたちどころに思いついたのですが、シナリオ・ライターは「使用前」の凡人未満アルジャーノン頭なのかもしれません。

しいていえば、「デバッグ」を持ち出すのは、デニーロと対決するクライマクスまでとっておきたかったのでしょう。いや、それをしもご都合主義というのですが。

ぜったいに見ないほうがいいような気もするし、見たところで、意味がよくわからないから大丈夫のような気もするエンディングの、そのまた別ヴァージョン。



近年のアメリカ製アクション映画は、プロデューサー映画だということを書きましたが、同時に、編集者映画であるともいえます。

たとえば、いま思いつく映画を適当に指折ると、『マトリクス』シリーズであるとか、リー・タマホリ監督、ニコラス・ケイジ主演の『ネクスト』であるとか、トニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演の『アンストッパブル』であるとか、ああいうものは、ディジタル編集を前提にして、逆算で撮影方法が導き出されています。

まず編集ありき、であって、演出と撮影はそれに追随するのだからして、この面でも、もはや監督がだれでも映画の出来には影響しない、といいたくなります。いや、むろん、文芸映画ではなく、アクション映画の話をしているので、誤解なきよう。

ふたたび、自分だったらどうするか、と考えました。こういう薬を飲むことはないでしょうが、仮に飲んで、頭がよくなったとしたら?

金儲けに向かう心理はわかりますし、もう十年若ければ、自分もそうしたかもしれないと思います。ただし、この映画の主人公のように、ウォール・ストリートの新進ディーラーとして名声を博すなどというのはぜったいに避けます。デイ・トレイダーになり、ひとりひそかに、小さく、楽に稼ぐ道を取るでしょう。

しかし、金を稼ぐのは片手間にするのではないでしょうか。残った時間でなにをするかというと、万巻の書を読破するだろうと思います。以前から、仏教書に興味があったのですが、粗雑な頭をしていて、ああいうのを読むのはえらく骨を折るので、避けていました。頭がよくなれば、仏教書など週刊誌のように楽に読めるでしょう。『正法眼蔵』を30分で読破し、要点を記憶する、なんていうのをやってみたいものです。まあ、これでは映画にはならないから、『リミットレス』が金儲け話になったのもやむをえないのですが。

最後に音楽のことを。

近年のアクション映画を支配している、ハンス・ジマー流の大太鼓かなにかのドスンバタンというアクセントばかりのスコアにはうんざりですが、この映画は非常に控えめなスコアで、音楽をがあるのをほとんど意識しないほどでした。これでは映画スコアをほめたことにならないかもしれませんが、ハンス・ジマー流ドスンバタンドカン音楽撲滅の一歩になってくれればと祈りたくなります。


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by songsf4s | 2011-08-27 23:45 | 映画
七代目金原亭馬生(すなわち五代目古今亭志ん生)の「氏子中」
 
先日の「千両みかん」にtonieさんが寄せられたコメントを読んで、レスを書こうとしたのですが、コメント欄に収まる長さにはなりそうもないので、記事にすることにしました。

本題の前に、あたくしのミスについて。tonieさんが当該のコメントで、

「東京バージョンが何年かに1度買いたい人のために揃えておくという商人の『美意識』に変更されるのは、なぜでしょうかね。(中略)『万惣』という具体的な店を意識した演目になったときに最初から千両提示で話が固まったのかもしれませんね」

tonieさんは、タイアップ落語についてのあたくしのミスを間接的に指摘していらっしゃいます。「王子の狐」が王子の料亭「扇屋」の宣伝のために作られたというのは大丈夫です。「百川」もコマーシャルだというのも、たぶん大はずれではないはずです。

しかし、いわれて思い出したのですが、「千両みかん」が神田の万惣のためにつくられたかどうかはなんともいえない、というのを読んだか聞いたかしました。tonieさんは、噺ができた「あとで」万惣の商人道を称揚するような演出が生まれた、というように書いていらっしゃるわけです。

ということで、順序としてはそちらのほうが正しい可能性が大である、と謹んで訂正させていただきます。

それでは、tonieさんがコメントでふれていらっしゃる、七代目金原亭馬生、すなわち、後年の古今亭志ん生による「氏子中」を貼り付けます。

古今亭志ん生「氏子中」


古典落語というのは、作者がはっきりしていることは少なく、また、演題はいわば符牒、他と区別するために便宜的につけられたものにすぎないので、別題のヴァリーションは豊富ですし、話の中身ですら、適宜改変されてしまいます。

七代目馬生のこの噺は「氏子中」というより、「町内の若い衆」というべきのようです。まあ、重なり合うところも多い噺なので、どっちでもいいといえばいいようなものですが、「氏子中」は「町内の若い衆」よりバレがきついので、戦前に盤にして売るなんてことができるはずもなく、ひょっとしたら、スケベ心に富むお客を引っ掛けようと会社が改題したのかもしれません。

ほかにも馬生時代の志ん生の録音を聴いたことがありますが、姿は大きく異なれど、噺の運びは後年と大きく違うわけではなく、聴いたとたん、ああ、志ん生だ、とすぐにわかります。

しかし、馬生時代の志ん生は人気が出ず、不遇だったといわれています。後年、ただ高座にあがって、「えー」といっただけで、女の子たちが意味もなく笑いころげる噺家になるとは、師匠自身も思わなかったでしょう。

では、七代目馬生と五代目志ん生はどこがどうちがうのか? こりゃもう「曰く言い難し」というしかないでしょう。

昔のSP盤の録音はあてにならない、テンポとピッチが狂っていることもしばしばだった、と先にお断りしておいて、申し上げますが、だれしも思うのは、テンポのちがい、間の取り方のちがい、抑揚のちがいです。

若さが忌避されたのではないとするなら、ほかに考えようはありません。しいていうと、若いころはスムーズすぎた、といえるかもしれません。噺はスムーズであってほしいものですが、おかしなことに、なめらかさも行き過ぎると、噺家が自在に噺を操っているのではなく、噺が噺家を操っているような印象になるものです。

志ん生は、息子の志ん朝に、アー、ウーとつっかえるのはなんとかならないのか、と文句をいわれたことがあるそうです。ぜったいにつかえない馬鹿テクの持ち主だった志ん朝(その意味で、父親よりも、むしろ先代桂文楽に似ていた)らしい注文です。

そのとき、志ん生は「でもなあ、俺が、うー、というと、客がぐっと前に出てくるんだ」と答えたそうです。

志ん生はなぜ大化けしたか、という重大な設問に対する回答案としては、あまりにも軽率かもしれませんが、ときおり噺が止まってしまうようになったがゆえに、といいたくなります。

六代目三遊亭圓生も、晩年の高座では、よく、つかえて止まっていました。昔はそれが気になったのですが、あとからスタジオ録音の「圓生百席」を聴いて、ときおり噺が止まったほうがいいのではないかと思いました。

このへんが音楽と落語は決定的に違うのかもしれません。音楽に関しては、つかえたほうがいいなどとはけっして思いませんが、落語はスムーズであることがかならずしも善ではないタイプの芸なのだと思われます。

立川談志はそのへんのことをどう考えていたのか知りませんが、なんとななく、スムーズに運ぶのを嫌っているような雰囲気は感じます。

談志、志ん生師の墓を掃苔す


なるほど、腹のあたりは生焼きで、なんて、ちゃんと「黄金餅」を引用しながら話しています。

tonieさんが当該のコメントで引用していらした立川談志のことば。

《「富久」「黄金餅」「火焔太鼓」「風呂敷」「氏子中」いいヨォ……。「芝浜」「鰍沢」酷いよォ……。》だそうです。

おおむね賛成です。「黄金餅」は嫌いですが、志ん生のものの出来が悪いというより、噺自体が悪趣味なので好かないだけです。いいときの「らくだ」みたいで(よくないときの志ん生の「らくだ」はいただけない)、仏をいっさんに焼き場に運ぶ終盤のスピード感はちょっとしたものです。

志ん生の「芝浜」と「鰍沢」はたしかにいただけません。いや、「鰍沢」という噺自体、三遊亭圓朝一世一代の愚作というべきで、なにが「お材木で助かった」だ、くだらないにもほどがある、てえんで、だれが演っても、サゲの馬鹿馬鹿しさに索然とします。いや、サゲはしばしば馬鹿馬鹿しいものと相場は決まっています。それをことさらに馬鹿馬鹿しいと感じるのは、噺が気に入らなかったときです。

山中の冬の夜をいかに演出するか、というところが腕の見せ所ということなのでしょうが、鰍沢のような噺をやるのが大看板の義務になっているなんていうのは、三遊派のもっともよろしくないところです。六代目三遊亭圓生もよく鰍沢をやりましたが、こちらもまた好きではありませんでした。

志ん生の「富久」「火炎太鼓」がいいのは、談志にいわれるまでもないし、ましてや、あたくしがいまさら、やいのやいのいうまでもないことです。

落語をあとから追いかけるときに、イの一番に聴く噺ですが、だれにだってお初というのはあるもの、古今亭志ん生の十八番をお聴きになったことがない方だっていらっしゃるでしょうから、いちおう貼りつけます。

古今亭志ん生「火焔太鼓」1


古今亭志ん生「火焔太鼓」2


以前書きましたが、「しびん」という言葉を単独で発することができず、どうしても「清盛の」と枕詞がついてしまうのは、もちろん、この「火焔太鼓」のせいです。

志ん生のくすぐりはたちまち体に染みこむので、「幼少のみぎり」も単独ではいえず、「頼朝公ご幼少のみぎりのしゃれこうべ」と長くなってしまうのも、志ん生のせいです。

古今亭志ん生「火焔太鼓」3


いやはや、なんともいえない味があって、何度聴いても、やっぱり途中ではやめられません。志ん生のものを聴いてしまうと、この噺はほかの噺家のものでは聴きたくなくなりますが、ひとりだけ、息子の古今亭志ん朝のものだけは、やっぱり親子だなあと感心します。志ん朝のものもユーチューブにあるので、ご興味があれば関連動画をクリックしてみてください。

これはめずらしいのかどうか知りませんが、志ん生の火炎太鼓には、サゲちがいがあります。よほどの志ん生ファンでないと、とくに興味はわかないと思いますが、せっかく手元にあるので、サンプルにしました。

全体をお聴きいただくべきでしょうが、いろいろ面倒なので、甚兵衛さんが大名(細川家だといわれる)の屋敷を出て、帰路に着いたところからどうぞ。

サンプル 古今亭志ん生「火炎太鼓」サゲちがい

やはり、「いつものやつ」のほうがいい、というところでしょうか。


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古今亭志ん生
古今亭志ん生 名演大全集 1 火焔太鼓/黄金餅/後生うなぎ/どどいつ、小唄
古今亭志ん生 名演大全集 1 火焔太鼓/黄金餅/後生うなぎ/どどいつ、小唄


古今亭志ん生(「どんどんもうかる」と注記があるので、サゲちがいのほうが収録されているのだろう)
古今亭志ん生 名演大全集 2 火焔太鼓(どんどんもうかる)/搗屋幸兵衛/たぬさい/一眼国
古今亭志ん生 名演大全集 2 火焔太鼓(どんどんもうかる)/搗屋幸兵衛/たぬさい/一眼国
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by songsf4s | 2011-08-23 23:55 | 落語
須磨の浦風(四代目三遊亭圓馬)
 
音楽や映画のお客さんにくらべて、落語のお客さん、ないしは、落語「も」好きなお客さんの数は、たぶん、それほど多くはないのだと思います。

しかし、たとえばギターの上手下手と、落語の上手下手は同じように判断できると思います。どちらも、イントネーションとタイムのコントロールの仕方で勝負は決まります。あとはギターならトーンの作り方、落語なら声の質ぐらいしか要素はないでしょう。まあ、中学生のころは、速さに意味があると誤解していましたが。

わたしの友人の熱心な音楽ファンは、みな落語および演芸にも通じていて、われわれの小さなMLではときおりそちら方面の話題が出たりします。ということで、当家にいらっしゃるお客さん方の多くは演芸も好まれるだろうと決めつけています。落語のときにお客さんが増えるということはないのですが、微減程度の感じなので、また今日も落語です。

といっても、まもなくシンデレラ・タイムなので、今日はお客さん方にとって幸いなことに、席亭があれこれゴタクを並べる余裕はありません。

去年、納涼名人寄席をやろうとリストアップしたのは以下のような演題です。

夏ドロ――三代目三遊亭金馬
須磨の浦風――四代目三遊亭圓馬
扇風機――春風亭柳昇
両国八景――八代目雷門助六
千両みかん――八代目林家正蔵
夏の風物詩――九代目鈴々舎馬風
あきれた紙芝居――あきれたボーイズ
船徳――八代目桂文楽
三味線ラ・クンパルシータ 三味線セントルイスブルース――三味線豊吉
声帯模写――古川ロッパ
夏の医者――桂枝雀
佃祭――五代目古今亭志ん生

色物は季節に関係ないのですが、落語はすべて夏の噺です。たとえば両国八景や夏の風物詩なんていうのは、とくにどうという噺ではないのですが、大物のあいだにはさんでおくにはちょうどよいもので、自分で番組を組んでみて、そうか、寄席ではこういう小味な噺の居場所があるのだな、と納得しました。CDなんかで聴いていると、こんな噺はべつにやらなくていいのではないかと思ったりするものがありますが、寄席という文脈ではそういうものにもちゃんと存在価値があるのです。

去年組んだ番組のなかでユーチューブにクリップのあるものはすでにやってしまったので、今日は手元のものをサンプルとしてアップしました。モノーラル・エンコーディングで、音質は中程度に落としてあります。

サンプル 四代目三遊亭圓馬「須磨の浦風」

須磨の浦風はものすごく出来のいい噺というわけではありません。公平にいって、べつに悪くはない噺、といったレベルでしょう。しかし、いかにも昔の笑話らしく、「見立て」を柱にした趣向であるところが好ましく感じられます。

早稲田大学文学部の裏手にちょっとした高台があります。なかなか不思議な場所で、いろいろな意味で興味深いのですが(旧軍の研究所の建物が残っていたりした)、なかでも奇妙なのは、公園のなかの小高い場所です。

高校のとき、早稲田の古本屋巡りのあとでそのあたりを散策していて、「箱根山」と札の立てられたこんもりした場所を発見しました。せっかくだからてっぺんまで上り、周囲を見渡して、天下の険にしては見晴らしはよくないな、とちょっと笑い、それきり忘れてしまったのですが、あとで、それがなんだったのかを本で知ることになりました。

このあたり一帯は紀州藩江戸下屋敷だったのでそうで、下屋敷のつね、広大な庭園を抱えていました。何代目の国主だったか、寛政年間のころでしょう、洒落で庭園のなかに宿場や田地畑地をつくり、さまざまな店舗までもうけて、何度か客を招いて園遊会のようなことを催したのだそうです。たしか太田南畝の随筆にも書かれているということだったので、南畝その人も客になったことがあるのかもしれません。

で、その庭園の中の宿場町を小田原町と名づけ、小田原の近くのこんもり高いところを箱根山と見立てたのでした。それが昭和まで残って、古書をあさりに早稲田まで頻繁に通っていた高校生を戸惑わせたわけで、わかってみて、あの山に登っておいてよかった、と笑いそうになりました。

こういう「見立て」の気分は、落語の根幹にもあり、それがよくあらわれたひとつの例が「須磨の浦風」という噺なのです。いや、この噺では、小田原はあまり麗しい土地には描かれていないのですが!


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by songsf4s | 2011-08-22 23:46 | 落語
「千両みかん」(柳家小三治および立川談志)と「三味線ラ・クンパルシータ」(三味線豊吉)
 
なにかの噺の枕で、桂米朝が、「志ん生はんなんてお人が『えー、昔、吉原というところがありまして』なんて話しはじめると、ホンマにこのおっさん、江戸時代の吉原を知っているんとちゃうか、なんて思ったものでして……」

なんていっていましたが、落語、いや話芸の要諦はこの言葉に尽くされているように思います。ちょっとした言葉の端に、ある雰囲気を漂わせることが、つまり話芸なのでしょう。

そして、それはどういう言葉を並べるかという語彙にまつわることではなく、どのように言葉を発するかという、その感触の問題なのだと思われます。

よく芸人は、飲む打つ買うは芸の肥やしなどということをいいます。この「三悪」にはあまりいれをあげたことのない人間なので、若いころは、ずいぶんと都合のいい弁解だな、と思いました。

しかし、年をとってみると、すとんと腑に落ちました。えらく大束ないいようになりますが、あらゆる芸というのは、その基盤、前提、目的地としてセックスを想定しています。

広い意味で「色気」のない芸人は駄目です。「華」などともいいますが、この色気というのは、生まれつきでもあるでしょうが、磨かなければ人の目を引くほど光るものではなかろうと思います。

噺家というのは、古今亭志ん朝や立川談志のように、あるいはずっと後年の春風亭小朝のように、若いころから人気を博すタイプもいますが、古今亭志ん生を筆頭に、八代目三笑亭可楽などは晩成型だったようです。勝手な想像ですが、若いころに遊んだのが、中年以降に色気になってにじみ出たのではないでしょうか。

われわれの一生でなによりも習得に時間のかかる技術は、人間観察ではないかと思います。あらゆる芸は人間観察の蓄積を簡潔なエッセンスとして提出することといっていいでしょうが、とりわけ、映画と落語にそれをつよく感じます。

そしてそれは、ちょっとした言葉をいうときの抑揚であったり、間の取り方であったり、面の上げ下げであったり、目の使い方であったり、ほんのささやかな仕草といったものに、表現されるのでしょう。噺家は、話し方と仕草だけで多数の人物を造形しなければならず、その技術が確固たるものになるには、時間がかかるのだろうとつねづね思っています。

それで、前回の「佃祭」については、息子の志ん朝よりも、父親の志ん生のものに、一段の情趣があると述べたしだいです。

べつに、以上が枕で、以下が本題というわけではなく、昨夏、「納涼名人寄席」というものをやろうとしたときにつくったリストを再見し、その残骸をサルベージするだけです。

「千両みかん」は、夏の噺といえば多くの方が最初の手で指を折るに違いないだろう演目で、またまた凡庸で恐縮ですが、やはり、夏には聴きたい噺です。

昨夏は先代林家正蔵のものをリストアップしたのですが、ユーチューブにはべつのものがアップされていました。長いので三つに割ってあります。笑いの多い演目ではないので、お気に召さなければ、早めに引き返したほうがよろしいでしょう。

柳家小三治「千両みかん」冒頭


柳家小三治「千両みかん」中段


柳家小三治「千両みかん」終盤


本質的なことではないのですが、この噺に登場する「みかん問屋」、神田多町の万惣というのは現在も同じ場所で暖簾を守っています。神田の本店のみならず、都内数箇所に支店があり、ご利用した方もいらっしゃるでしょう。デザートのたぐいはけっこうなものが多く、ときおり食べたくなりますし、久しく訪れていない本店のパーラーもまたいきたいものです。

わたしよりお年を召した方ならご記憶でしょうが、いま高層ビルが立ち並んでいる秋葉原駅至近の場所に、かつては「やっちゃ場」、東京青果市場がありました(石原裕次郎、芦川いづみ主演の日活映画『あした晴れるか』の冒頭にやっちゃ場の風景が活写されている)。あれは江戸の名残で、付近には青物屋が多く、それが明治以降にいくぶんか引き継がれ、その生き残りが万惣なのだそうです。

ここでちょいと休憩。昨年企画しかけた「納涼名人寄席」の色物として用意したものをどうぞ。

三味線豊吉「三味線ラ・クンパルシータ」


タイアップ(近ごろは商売上の提携にすぎないことも「コラボ」というそうで、思いきり笑わせられた。むろん、そんな臆面もない商売人の口真似などする気はさらさらない)落語というのがいくつかあります。

たとえば、かわいい子狐が登場する「王子の狐」、これは東京・王子の料理屋「扇屋」の依頼で、コマーシャル(昔の言葉でいうと「披露目」)として作られたと伝えられています(残念ながら、料理屋のほうは閉じたそうだが、たまご焼きはいまでも販売されていることをウェブサイトで確認した)。

飛鳥山に花見に行って、川沿いの道を散策していたら、扇屋の看板に出くわし、思わず「王子の狐だ!」と声を上げてしまいました。いまも年に一回「王子の狐」を聴く会が開かれていると知っていたので、あるのはわかっていましたが、なんだか、ひどくうれしくなりました。

もっと人口に膾炙した噺としては「百川」が、日本橋の料亭「百川」の宣伝として作られたそうですが、こちらは肝心の依頼元がなくなってしまい、いまでは料理屋は忘れられ、落語の演題としてのみ知られる体たらく。そう考えると、万惣がいまも隆盛を誇っているのは、世にありがたいことだと痛感させられます。

談志は、志ん朝に「あにさんはふつうにはできないんでしょ」と云われて、「ふつうとはどういうことだ!」と怒ったそうです。たしかに、改めて「ふつうとはどういうことだ」と問われると、あたしにもよくわかりません、と頭を掻くことになります。

談志という人は、話を語っている自分というものを語ってしまいます。アノニマスな「噺」「譚」を裸で投げ出し、その向こうに身を隠すということができず、噺家が噺を語ることを語ってしまう「メタ落語」の演者です。その意味で桂枝雀に似ていますが、談志のほうは、ほとんどつねに「談志の落語を語る談志という噺家について語る噺家」であり、噺の向こうに身を引くということをしません。

大昔、小林信彦との対談で、安藤鶴夫は、いきなり「あなた、談志はどう?」と切り出しました。小林信彦は談志支持、安藤鶴夫はどうも引っかかる、という立場だったと記憶しています。

わたしは、手放しで談志を面白いと思ったことはなく、一枚幕をはさんで、「そういうスタイルをとる噺家という存在は理解できなくもない」という風にずっと考えてきました。いまだに、「談志も年をとって変わったか、いや、変わってねえだろうなあ」といった気分で聴くのであって、好きな店に入っていつもの料理を注文して、さあきたぞ、と手ぐすね引くような気分にはなりません。

以上、長前置き失礼。そういう人の「千両みかん」もあるので、いちおう貼り付けおきます。

立川談志「千両みかん」


これは「談志百席」というものに収録されたのだそうで、「圓生百席」と同じように、最後に自作解説がついています。ほんとうは、「逐電しました」とサゲたいんだ、といっていますが、これはよくわかります。

「逐電」とは辞書に「逃げ去って行方をくらますこと」とあります。江戸時代から戦前ならこの言い方が当たり前なので、み袋のみかんを持って番頭は逐電いたしました、ならすっきりと終われます(辞書は「ちくてん」と澄んだ音にしてあり、「ちくでん」とも、などといっているが、江戸東京の下町では強く発音するのが基本だから、「ちくでん」と濁るべき)。

世間の言葉が変わってしまい、それに追随したことが落語からスタイルを奪ったわけで、談志は、噺はうまくないかもしれませんが、いたって鋭敏な頭脳の持ち主なので、そのことがいいたくて、この噺のサゲを変えたことにふれているのでしょう。

千両であがなったみかんは、開けてみればなかに十袋(とふくろ)あって、ひと袋百両の計算。若旦那は、み袋を残して番頭に、おとっつぁん、おっかさんにひとつずつ、おまえにもお駄賃としてひと袋、といいます。

番頭は、まもなく暖簾を分けていただいて独立する、そのときお店(おたな、と訓じられたし)からもらえる長年の勤続に対する手当てが五十両。三百両などという金は生涯見ることはないだろう、とため息をつきます。

ここで論理の飛躍が起こるところが、この噺のもっともスリリングなところで、「花見酒」や上方の「壺算」と同じように、一瞬の論理の眩暈を喚起するがゆえに、つねに古びない噺になっています。

五年に一人、いや十年に一人、真夏にみかんを求めてくる客のために、蔵をひとつつかって冬にみかんをしまっておく、という万惣の商売のあり方も、この話のポイントのひとつでしょうが、年をとってあたくしは、下世話なことにいちいち感心する心を失いました。落語は落語、ビジネス書ではありません。

そういえば、加賀の御氷献上というのがあったそうで、加賀の前田家では、冬のあいだに氷室でつくった氷を、夏になって掘り起こし、夜を日についで江戸までいっさんに運び、将軍家に献上したとかで、久生十蘭がこれを素材に『顎十郎捕物帳』の一篇を書いていました。

かき氷はかつて王侯の食べ物であったか、などと思えば、百円のアイスクリームも、千両みかんの味がするやもしれません。


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by songsf4s | 2011-08-20 23:47 | 落語
一歩遅れて「佃祭」(古今亭志ん生、志ん朝親子)
 
抹香くさいほうではじまったことでしょうが、昔はよく因果応報、善因善果、陰徳陽報なんてことを申しまして、悪いことをすると地獄に堕ち、いいことをしておくと、やがていい報いがあるなんてことをいいました。

いにしえの説話物語にはこのたぐいの話がたくさんあるのはご案内のとおりで、学校で勉強させられた、『日本霊異記』を筆頭に、『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの説話集には、そのての話が詰め合わせになっています。

まあ、あちらも商売、神信心をしてくれないと干上がってしまうので、そんな話をつくって宣伝にこれ努めたのでしょうが、いまどきコマーシャルをまともに信じるのは変わり者の善人だけ、あたくしのような者は、子どものころにもう、そんなチョボイチ信じるものか、てえんで、将来や来世のために身を慎むなんてことはチラとも考えませんでした。

ということは、仏家の宣伝が万一、天国ないしは地獄から逆流してきた事実であるなら、あたくしなんぞは、来世で火責め水責め針の山、後悔しきり、時すでに遅しという事態に遭遇することになるでしょう。

東京のそのまたど真ん中、銀座から十分も歩くと、佃大橋というものにぶつかります。大川が東京湾に注ぎ込む、その口の辺り、もう海なんだか川なんだかわからない場所にかかった長い橋です。

関東大震災の復興事業で架けられた隅田川の橋は、清洲橋をはじめ、趣のあるものばかりですが、残念ながら、佃大橋はオリンピックの年に竣工したもので、同い年の首都高と同じ精神の産物、味わいもなにもあったものではありません。

1964年に橋ができるまでは、ではどうしていたのかというと、佃の渡してえものがありまして、小船が行き来していました。佃の若い衆がお江戸に遊びにいったら、相方としっぽり濡れてなんていう暇もなく、あわてて船で帰るか、ええい、ままよ、このままいつづけするかと、いっそ度胸が据わって流連荒亡、翌日もまた飲めや歌えやの連チャンになりやすい仕組みになっていました。

この佃島、ご存知、佃煮の産地でありますが、そもそもどういう因縁があったか、そのあたりの消息は歴史の先生方がいろいろお書きになっているので、ここは敬して遠ざけ、伝えられる事実だけを言えば、神君徳川家康公(あたくしの先祖は家臣の末席を汚したので、我が家では東照神君、権現様などといいならわしております。てなチョボイチを信じるお方の来世は明るいでしょう)の懇請によって、摂洲佃の漁師たちが、最新の漁法をたずさえて江戸開府直後に移住して、この地を賜ったものだそうです。

板子一枚下は地獄、海の民は信心深いもので、佃の漁師たちは、上方から神様もお連れしました。それが住吉さん。上方落語のほうでも、たとえばあの「屁え嗅ご」で有名な「住吉詣り」などに描かれる、あの住吉はんです。

で、住吉神社には有名な渡御というのがありまして、毎年、夏になるとニュースなどで紹介されていますが、今年は大祭の年であったにもかかわらず、震災で被害に遭われた方々への配慮なのでしょう、そちらは来年に延期、慎ましく執りおこなわれたようです。

とりたてて特徴のある噺ではないし、「船徳」のようなキャラクターの魅力があるわけでもないので、演り手がすくなく、わたしは古今亭志ん生のものしか知りませんが、この住吉神社の真夏の海のお祭りを背景にした「佃祭」という噺があります。

これがいいんだ、などと力を入れるわけにはいかないのですが、どこがどうだというのではなく、妙に味のある、いや、ほのかな淡い味のある噺で、わたしは好んできました。検索したら、志ん生の次男、志ん朝のものがアップされていました。

古今亭志ん朝「佃祭」


最近はそういうことはあまりいわないので、おわかりにならない方がいらっしゃるのを懸念して贅言を弄しますが、枕で志ん朝が梨のことを「有りの実」といっているのは、博打を好む人が「する」を嫌ってスルメを「アタリメ」、スリッパを「アタリッパ」と言い換えるのと同じこと、「梨」が「無し」に通じるのを嫌い、「有る」と言い換えただけのことです。

「ちきり伊勢屋」と同じように、善因善果のおめでたい噺ですが、神信心の欠如した人間なので、とくにこの噺の展開が好きなわけではありません。夏の祭りの夜の空気が、噺の向こうにぼんやりと揺曳するところが好きなだけです。

その意味では、志ん朝より、親父さんの志ん生のもののほうに、江戸情緒がいくぶんか濃厚のように感じます。いろいろあるので、全編とはいかず、前半だけですが、志ん生のものも用意しました。

サンプル 古今亭志ん生「佃祭」前半

とくに言葉としてなにかを表現しているから、父親のほうに江戸情緒を強く感じるわけではなく、志ん生のほうには、ほんとうにそこはかとなく、蚊取り線香の煙のように、夏の夜の空気がたゆたっているだけなのです。

それはたぶん、語り口のせいなのでしょう。志ん朝は、いつ父親の名跡を継ぐのだときかれて、そのうち、遅い噺をやるようになったら考える、と答えたことがあるそうです。

継がなかったということは、つまり、遅い噺をやるようにはならなかった、ということなのかもしれません。最晩年のことはよく知りませんが、年をとってもスピードは衰えなかったので、結局、父親のような、伝統的な人情噺の語り口を試みることなく終わってしまったのでしょう。

阿佐田哲也が、志ん生も人情噺などやらなければいいのだが、と書いていました。おっしゃる意味はよくわかるのですが、三遊派の大看板としては、やはり人情噺を後世に伝える義務があるから、やむをえないでしょう。

むろん、寄席に志ん生を聴きに行ったら、笑いの多い噺であってほしいし、「文七元結」や「黄金餅」なんかに当たったら、がっかりしたに違いないでしょうが、だれにだって欠点はあるのだから、いたしかたありません。

たしかに滑稽噺をやらせれば、古今亭志ん生はすばらしい技と味の持ち主でありながら、それが災いして、人情噺はあまり楽しめません。人情噺をきくなら、文楽、圓生、正蔵といった人たちや、そういってはなんですが、志ん生自身の息子である先代金原亭馬生のほうがいいのではないかと思います。

いや、志ん生が人情噺を不得手にしていたというより、滑稽噺があまりにも面白くて、それ以外のものを聴くのは気が進まないだけなのです。阿佐田哲也も、その程度の軽い意味で、志ん生の人情噺をくさしただけでしょう。

「佃祭」は、骨格としては人情噺ですが、見た目には死者がよみがえったように思えるという、「品川心中」や「粗忽長屋」とも相通ずる混乱のおかげで、滑稽噺の側面もあり、志ん生、志ん朝、ともに客を湧かせています。

客を退屈させないようにという心配りのおかげで、志ん生の人情噺のなかでは、もっとも楽しめるものに、「佃祭」はなっています。そして、笑いが多いおかげで、かえって前半の江戸情緒の味があとに残るのでしょう。


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by songsf4s | 2011-08-19 23:50 | 落語
クライム・ギターズ: 60年代スパイ、クライム映画音楽
 
このところ無休でやっていたので、たまにはいいかと昨夜はのんびりしていたのですが、なにもしなくても、いちおう当家を開いてみようというお客さんも多数いらっしゃって、そうなると根が貧乏性の小心者、そぞろ落ち着かない心地になります。

どうせ今日はうちにいるのだから、久々のリアルタイム更新をしようと思います。午前中の二時間ほどを使って、曲を並べてみます。が、そのまえに、ちょいと落語を。

今日はそっちのほうに行くつもりはないのですが、8月15日とくれば(大東亜戦争ではなく)怪談だなあ、とひとりごちました。桂小南で知ったのではなかったかと思うのですが、ユーチューブにはこの人のものがありました。

桂枝雀「皿屋敷」


多くの落語がそうですが、骨格だけを取り出せば、この「皿屋敷」も短い噺です。どう引き延ばすのかと興味深く聴きましたが、なるほど、やはり演出の仕方にはその人の地が出るもので、いかにも枝雀らしい肉付けでした。

もうひとつ、こんどはお江戸のほうで、のちの六代目三遊亭圓生によるものがありました。SP盤なら短いから骨格の明瞭なものだろうと思って聴いたのですが、予想はみごとに外れました。

三遊亭圓生(橘家圓蔵)「皿屋敷」


エンタツ・アチャコの早慶戦がヒットしたことを受けたものなのか、「皿屋敷」にラジオの実況中継をはめこむという、後年の圓生とは異なったスタイルの演出で、さすがに若いなあ、と思いました。

芝居などでは、皿屋敷は「番町皿屋敷」の外題で、東京の麹町での出来事に置き換えられていますが、もともとは「播州皿屋敷」で、上方からきた伝説のようです。子どものころに映画を見た記憶があるのですが、だれが主演だったかも記憶から飛んでしまいました。

昔、ライノがCrime Jazzという2枚シリーズをリリースしたとき、そういうのは好きだなあ、でも、俺がなじんできたのは、そっち方面ではなく、ポップ/ロック系なんだけど、と思いました。

先日、サーフ・ミュージックを束にして並べたとき、十代はじめの音楽的気分の在処としては、サーフの隣はスパイだ、なんて思いました。今日はそのあたりを、いい加減かつテキトーに思いつきで並べます。

まずはビリー・ストレンジ御大のダノ・リードで、若き日のジェリー・ゴールドスミスの代表作を。



ライノの編集盤のいう「クライム・ジャズ」というのは、ジュールズ・ダッシンの「裸の町」あたりに代表されるようなフィルム・ノワールないしは犯罪映画に付された、ジャズ系の映画音楽を指しているようです。

OSTとしては、ギターをリード楽器にした8ビートのものというのは少ないのですが、しかし、この分野を切りひらいたとも目されるヘンリー・マンシーニの曲は、8ビートでした。ドゥエイン・エディーのカヴァーでその曲を。

Duane Eddy - Peter Gunn


エディーのギター・サウンドは妙にこの曲に合っていて、楽しいサウンドですが、あのギター・リックを繰り返す以外にはやりようがなかったようで、メロディーはサックスが引き受けているところで、思わず笑ってしまいます。

デビュー・ヒットはアリゾナで録音し、あとからハリウッドでプラズ・ジョンソンのサックスをオーヴァーダブしたといわれていますが(こういうのはうっかり信用すると思わぬうっちゃりを食らうことがあるが)、この曲もプラズのプレイだったりするのでしょうか。

ちょいと予定変更で、つぎの曲でいったんおしまいにし、午後、もう何曲か追加することにします。おあとが気になる方は昼下がりにでもまたおいでください。

The Marketts - Batman


またしても、マイケル・ゴードンの名前がくっつけてありますが、泥棒のことは無視してください。ドラムはハル・ブレイン、ギターはトミー・テデスコ、プロデュースはジョー・サラシーノです。

それではここでおなか入り、午後にまた。

さて、後半です。もっと早くはじめるつもりだったのですが、タイトルを忘れてしまった曲を探して、手間取ってしまいました。

タイトルはわかったものの、ユーチューブに目的のクリップはなく、かわりにカヴァーだというクリップがあったのですが、これがほぼ完璧なコピーで、長い時間をかけて本物と比較していたため、手間取ってしまいました。

映画『077/地獄のカクテル』よりDriftin'


これをお聴きになれば想像がつくでしょうが、もとはシャドウズです。わたしだったら、このクリップにシャドウズと書いてあれば、そのまま信じてしまうくらいに完璧にそっくりです。

ちがうのは、イントロのハイハットの途中で、このカヴァーにはキック一打が入っていることぐらいで、あとはミックスによるニュアンスの違い程度しかわかりません。適当にリミックスしたものを、カヴァーといってアップした、というのが、わたしの推測ですが、はてさて。

映画は、中学のときに見たきりで、なんともいいかねますが、くだらねえな、ジェイムズ・ボンドの物真似のなかでもCクラスだ、とせせら笑ったことだけ記憶に残っています。

予告編を貼りつけますが、まあ、見ないほうが賢明だと思います。この記憶から飛んでしまったマット・モンローもどきの主題歌はエンニオ・モリコーネによるもののようです。



二度出てくる屋根から転げ落ちるスタントはがんばっています。イタリアあたりは、危険なことを平気でやる傾向があったので、そのせいじゃないでしょうか。うーむ、なんだかひどい時代に映画少年をやっていたような気がしてきて、落胆しました。

映画やテレビドラマの曲のカヴァーというわけではなく、スパイ映画をイメージした音楽というのもつくられました。わたしとしてはもっとも意外だったのは、この曲がそうだったということ。レズリー・ギターはビリー・ストレンジ、ドラムズはハル・ブレイン、ベースはキャロル・ケイ。

The Beach Boys - Pet Sounds


このメロディーを思いついたとき、ブライアン・ウィルソンの頭にあったのはスパイ映画だったそうで、そういわれれば、そうかもしれないなあ、と思ういっぽう、ずいぶん原型から遠いテクスチャーへと加工したのだろうとも思いました。

たんなる調査不行届にすぎず、映画ないしはテレビの音楽をカヴァーしたものである可能性も残りますが、つぎの曲も、クライム・ストーリーないしはスパイものをイメージしてつくられたものだろうと思います。

Al Caiola - Underwater Chase


けっこうなサウンドで、どうしてアル・カイオラの人気がないのかと不思議です。曲としても魅力的ですし、カイオラのプレイ、サウンドもけっこうなものです。

つづいて、いまもって人気の高いイギリスのドラマのテーマ曲。「プリズナーNo.6」



「秘密情報部員ジョン・ドレイク」の主演だったパトリック・マグーハンの新しいドラマというので、スパイものだと思って見はじめたら、あれですから、中学生はびっくりしました。家族にはひどい不評でした。まあ、そうでしょうね。

以前にも書きましたが、この曲でギターをプレイしたのはヴィック・フリックという人で、ジェイムズ・ボンド・テーマや『ア・ハード・デイズ・ナイト』に出てくるThis Boyのインスト・カヴァー、Ringo's Themeも、フリックのプレイです。フリックはジョン・バリーのバンドでギターを弾いていたそうで、それで映画のテーマをプレイすることになったようです。

それではそのJames Bond Themeを。



やはりよくできたテーマで、曲としてもちょっとしたものですが、ヴィック・フリックのサウンドは耳に残りますし、じっさい、この分野のスタンダードとなった印象があります。

やはりジェイムズ・ボンドのテーマ曲、こんどはビリー・ストレンジのカヴァーで。ドラムズはいつものようにハル・ブレイン。

Billy Strange - Goldfinger


おつぎは、わたしらの世代の子どもがギターをもつと、かならずといっていいほど弾いた曲です。1弦を開放にして、2弦を開放から半音ずつ上げ下げしながら2本の弦を交互にピッキングするだけなので、まだコードもわからないうちに弾けるリックでした。

Sandy Nelson - Secret Agent Man


サンディー・ネルソンの盤でじっさいにドラムをプレイしたのはたいていの場合、アール・パーマーであったことはすでに何度か書きました。この曲も、精確なタイムで、ネルソンのプレイである可能性はゼロ、アール・パーマーと断言します。

サンディー・ネルソンは、フィル・スペクターの知り合いで、彼のデビュー・ヒット、To Know Him Is to Love Himでストゥールに坐ったことで知られます。

ゴールド・スター・スタジオのオーナー、スタン・ロスだったか、デイヴ・ゴールドだったか、どちらかがそのときのことを回想して、ひどいドラマーだった、といっていました。才能あるドラマーは、テクニックは未熟であっても、若いころからタイムだけは精確なものです。

ロスないしはゴールドが、ひどいドラマーだったといったとき、当然、タイムが不安定なことを指しているに違いありません。そんなにひどいタイムのドラマーは、長年プレイしても、タイムが安定することはありません。このSecret Agent Manのドラマーが、名義人のサンディー・ネルソンのはずがない、と断言するゆえんです。

こういう商売のやり方は60年代のハリウッドでは日常茶飯事でした。だから、ヴェンチャーズがスタジオ版とツアー版でメンバーが異なるなんていうのは、べつに驚くようなことではないのですがねえ。いやまったく、疲れることです。

疲れたところで、本日は擱筆します。この続きはやるかもしれませんし、やらないかもしれません。


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ビリー・ストレンジ(MP3)
Secret Agent File
Secret Agent File


ドゥエイン・エディー(ライノ2枚組)
Twang Thang-Anthology
Twang Thang-Anthology


マーケッツ
Batman Theme
Batman Theme


シャドウズ
Complete A's & B's
Complete A's & B's


ビーチボーイズ(モノ/ステレオ)
ペット・サウンズ(MONO&STEREO)
ペット・サウンズ(MONO&STEREO)


ジェイムズ・ボンド編集盤
Best of Bond: James Bond (Score)
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by songsf4s | 2011-08-15 09:25 | Guitar Instro
それはどの避暑地の出来事だったのか Theme from "A Summer Place"巡り後編
 
『避暑地の出来事』という映画は曰く言い難い出来で、あの時代のムードや、文芸映画のゆったりしたテンポになれていない人だと、もはや古めかしくて、最後までたどり着くのは苦痛だろうと思います。

昔見たときに理解していなかったのは、舞台がメインのとある島だということです。東部、しかもメインですから、堅苦しい話になったのも当然です(メインの避暑地でどうこうという話を昔読んだなあと思い、必死で記憶をまさぐった。アンドルー・ワイエスの息子の回想に、メインの海岸で父親とボートに乗る話が出てきたのだったと思う。ワイエスの息子はデュポンにつとめ、ペット・ボトルを発明した)。

これがマリブかなんかだったら、そこらじゅうにサーファーがあふれちゃって、悲恋を成立させるのは困難になり、beach party tonight!とノリノリのほうへ傾きます。わたしの場合、悲恋(いや『避暑地の出来事』はハッピーエンドだが)より、ノーテンキのほうがずっと好きなので、映画のほうはほうっておいて、音楽をやろう、と相成りました。

字ばかりだとうっとうしいので、絵のつもりでクリップを貼りつけます。

Les Baxter - Theme from "A Summer Place"


しいていうと、『避暑地の出来事』は石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』をいくぶんか連想させるところがあります。いえ、田坂具隆監督の映画『陽のあたる坂道』ではなく、小説のほうです。

原作と映画の決定的な違いは、原作には大人たちの昔日の恋の熾き火が全編に揺曳していることです。映画はこの部分を登場人物ごとカットして、話を簡略化しています。

いや、田坂具隆の映画は、あれはあれでけっこうだと思うのですが、いまになると、若い世代の話は平板で興趣がわかず、大人たちの数十年におよぶ恋の歴史のほうが、ずっとアクチュアリティーをもってわれわれに迫ってきます。石坂洋次郎『陽のあたる坂道』は、若い世代の話で終始する小説であれば、とっくに昭和のスーヴェニアになっていたでしょうが、大人たちの話を描いておいたおかげで、いまも読むに値する長篇になっています。

この曲のヴォーカル・カヴァーはあまり好まないのですが、それも人によりけり、この人なら、ほとんどなんだってオーケイです。

Julie London - Theme from "A Summer Place"


てなことはさておき、『避暑地の出来事は』は、かつてメインのある島の、有閑階級相手のリゾートホテルで働いていた男が、功成り名を遂げ、妻と娘をともなって島を再訪するところからはじまります。この娘がサンドラ・ディー。

島には、かつて男が恋した女が、ホテルの主と結婚して暮らしています。夫妻には息子がいて、これをトロイ・ドナヒューが演じています。

この若い世代が恋に落ちたことから、二組の夫婦が対立し(1950年代の東部だから、階級対立のニュアンスも強い)、結局、ともに家庭崩壊となり、昔、惹かれあったどうしが二十年の歳月を経て結ばれ、いっぽう、引き裂かれた若い世代の恋の行方はいかに、といった展開になります。

ここで『陽のあたる坂道』にくらべて興趣薄く感じられるのは、大人たちの恋が紋切り型で、たんに若き日の恋第二章といった話の運びになっていることです。大人のパースペクティヴがなく、ただ未完の章を終わらせただけなのです。

物語としては、それでは味が出ません。大人は若者とは異なる価値観をもっているもので、まして二十年前の恋が、中間の二十年間を飛ばして、そのまま接続するなどというのは、リアリティーがありません。そして、二人が遠回りした二十年間は、ものの見事に無価値な虚無に投げ捨てられます。

そんな人生はないでしょう。二十年の歳月は、われわれに少なくとも価値の基盤のシフトを強います。その点が気に入らず、映画には踏み込まずに、音楽に終始しているのです。

◆ スパニッシュ、エレクトリック、ペダル・スティール ◆◆
こういう風にヴァージョン棚卸しをやると、どうしても地が出て、ギターものへと視線が向かってしまいます。前回は、ハワード・ロバーツ、トーネイドーズ、ドゥエイン・エディーのヴァージョンをかけましたが、ギターものははまだいいのがあります。

Los Indios Tabajaras - Theme from "A Summer Place"


スパニッシュ・ギターと書いたものの、ほんとうにそうかどうかなんともいえないところです。デル・ヴェッキオでしたっけ? ロス・インディオス・タバハラスは、リゾネイター・ギターも使ったということで、なんとなく、そういう響きのように聞こえるところもあります。

同じギターとはいいながら、タバハラスとはまったく異なるサウンドと方向性のものを。

Al Caiola - Theme from "A Summer Place"


子どものときは、アル・カイオラのギターというのは退屈だと感じました。しかし、こういうところに年があらわれると思うのですが、十数年まえからカイオラ贔屓になりました。ピッキングと運指がきれいで、音の出がいいからです。指が速く動くことに興味がなくなり、どう動かすかのほうに関心が移った結果です。はっきりいって、爺趣味。

ギタリストと浜の真砂が尽きることはありません。この人も避暑地の出来事をカヴァーしています。

Chet Atkins - Theme from "A Summer Place"


手元のものはチェット・アトキンズ単独名義なのですが、このクリップはフロイド・クレイマーとの共演となっています。ピアノはそれほど活躍しませんが。

つづいて、ペダル・スティールによるものを。

Santo & Johnny - Theme from "A Summer Place"


ペダル・スティールといっても、サント&ジョニーのものは音が歪んでいて、カントリーやハワイアンに向いているようには感じません。しかし、商売である以上、たちどころにわかる特徴はなによりも重要で、自縄自縛の気なきにしもあらずですが、ほかにやりようはなかったでしょう。

『避暑地の出来事』のOSTに収められた、このメロディーの変奏曲のなかには、ペダル・スティールをリード楽器に使ったものもあります。

サンプル Max Steiner "Reunion"(アップ完了。聴けるようになりました。8月14日7時)

◆ オーケストラ ◆◆
前回はヘンリー・マンシーニ盤、今回はレス・バクスター盤と、オーケストラによるカヴァーもすでに見ていますが、もうひとつだけ貼りつけます。

Billy May - Theme from "A Summer Place"


ビリー・メイはどちらかというと管のアレンジャーで、ビッグバンド・スタイルのアレンジを多数手がけています。たとえば、フランク・シナトラとデューク・エリントン・オーケストラの共演盤のアレンジに、彼の技術とスタイルは明快に記録されています。

この避暑地の出来事のテーマも、管が活躍するわけではなく、メロディー、カウンターメロディー、ともに弦でありながら、大甘にならないところは、ほとんど本能といえるのではないかと感じます。この譜面で管を鳴らしたらどうか、などとくだらないことを考えました。

それはともかく、トランペットが終わって、弦が戻ってくるときの転調というか、メロディーの改変はなかなかけっこうで、ほどよい目覚ましになっています。

どういうわけか、わが家にはこの曲のラテン・アレンジはほとんどありません。わずかに、このボンゴ・プレイヤー、ジャック・コスタンゾーのヴァージョンがあるのみです。

サンプル Jack Costanzo "Theme from a 'Summer Place'"

ラテン・アレンジだって悪くないのですが、やはり、この曲のメロディーの甘さを強調したアレンジをリスナーが好むと、多くのアーティスト、アレンジャーが想定しているのでしょう、こういう方向のものはほかに知りません。

最後にパーシー・フェイスにもどって、テレビ・ライヴ・ヴァージョンを。これは以前にも貼りつけたことがあるのですが、とうの昔に削除され、その後にアップされたものも削除され、またアップされたものです。いや正確に何度目かは知りませんが、どうせまたすぐに削除されるでしょうし、どうせまたすぐに再アップされるでしょう。人生とはかくも無駄の多いものなのでした。




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by songsf4s | 2011-08-13 23:53 | 夏の歌
それはどの避暑地の出来事だったのか Theme from "A Summer Place"巡り前編
 
映画音楽を検索していると、しばしば勘違いに出くわしてムッとなります。

オリジナル・サウンドトラック、または、サウンドトラック、またはOSTというのは、映画でじっさいに流れたものか、または盤リリースのために公式に再録音されたものをいいます。

それ以外の映画音楽、つまり、映画のテーマ曲や挿入曲をカヴァーしたものは、「film music」です。original soundtrackとfilm musicはまったく異なるものなので、厳密に区別してくれないと困るのですが、ウェブ上では、ただのカヴァーにすぎないものも、しばしばサウンドトラックと表現されています。ブログやフォーラムでもそうですが、とくにユーチューブはこの傾向がひどくて、検索に手間取ることしばしばです。

◆ テーマではないテーマ ◆◆
例によって季節ものをやろうと思います。本日は『避暑地の出来事』の挿入曲、Theme from "A Summer Place"を並べてみます。

映画『避暑地の出来事』挿入曲であるマックス・スタイナー作の曲(パーシー・フェイスがTheme from "A Summer Place"にタイトルを変更したらしい)については、以前、パーシー・フェイス篇レターメン篇の二度に分けて書いています。

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しかし、あのころはクリップを貼りつけられなかったので、音なしでしたし、その後、さらにいくつかヴァージョンを聴いたので、今日はそのあたりを並べてみようかと思います。

まず、オリジナル・サウンド・トラックから、と思ったのですが、いきなりつまずきました。ユーチューブにはOSTのクリップはたったひとつしかなく、しかも、それはエンベッド不可で、ここに貼りつけられなかったのです。

かわりに予告編を貼りつけます。

A Summer Place trailer


じつは、『避暑地の出来事』のオープニング・タイトルで流れる、Main Titleという曲は、パーシー・フェイスがヒットさせたTheme from "A Summer Place"とは異なるものです。

パーシー・フェイスがカヴァーした曲は、映画のなかでは数種の変奏曲として流れます。OST盤では、変奏曲ごとにタイトルが異なっているのですが、Theme from "A Summer Place"というタイトルのものはありません。

どうであれ、おおもとはどういうアレンジ、サウンドだったのかということは確認しておいたほうがいいので、サンプルをアップしました。

サンプル Max Steiner "Bright Dreams-The Garden"

これはパーシー・フェイスがカヴァーしたメロディーが最初に出てきたときのタイトルで、トロイ・ドナヒューとサンドラ・ディーが恋に落ち、語らうときに流れます。このあとも、同じメロディーが流れるのは、おおむね二人の場面なので、Love Themeというタイトルをつけてもいいくらいです。

つづいて、パーシー・フェイスのカヴァーを。

Percy Faith - Theme from "A Summer Place"


このヴァージョンについては、すでに書くべきことは書きましたし、耳タコの王者みたいな曲なので、とくにいうべきことはありません。テーマではない曲をカヴァーするときに、テーマというタイトルをつけることになった経緯がちょっと気になるだけです。

つづいて、以前、この曲を取り上げたときに賞賛したヴァージョン。プロデューサーはもちろんジョー・ミーク。

The Tornados - Theme from "A Summer Place"


昔の記事でも書きましたが、パーシー・フェイスがあそこまでやってしまうと、オーケストラものはもうあまりやりようがなく、興味はコンボによるカヴァーへと移ってしまうのです。

どれくらいやりようがないかというと、これくらいにやりようがないのです。ヘンリー・マンシーニのカヴァー。



パーシー・フェイスとどこかがちがうのだ、と考え込んでしまいます。ヘンリー・マンシーニともあろう人が、なにをやってんだと怒鳴りつけたくなります。

オーケストラものでいいと思うものもあることはあるのですが、ユーチューブにはクリップがないので、次回にでもサンプルをあげることにして、今日は微妙なオーケストラもの、名前はオーケストラになっているけれど、そう呼ぶのはためらうタイプのものを。

Love Unlimited Orchestra - Theme from "A Summer Place"


ディスコ・アレンジといえばそうなのですが、バリー・ホワイトのラヴ・アンリミティッド・オーケストラはけっこう好みでした。じっさい、この曲のドラムも、露骨なディスコ・ビートはあまり使っていません。まあ、途中でハイハットが裏拍になり、いかにもディスコというパターンが登場しますが。

ユーチューブを検索していて、だんだんうんざりしてきました。わたしがいいと思うヴァージョンはあまり見つからないのに、パーシー・フェイスは何十種類もあり、世をはかなんでしまうような状態です。

あまりの愚鈍さに腹が立ってきたので、予定を変更して、もうひとつサンプルをアップします。

サンプル Howard Roberts "Theme from 'A Summer Place'"

メンバーは、ハワード・ロバーツ=ギター、ヘンリー・ケイン=オルガン、チャック・バーグホーファー=ベース、ラリー・バンカー=ドラムズ、です。しかし、じっさいにはアコースティック・リズムも入っていて、そのプレイヤーの名前がありません。2オン1のもう一方のアルバムとパーソネルが入れ替わったのだとしたら、ビル・ピットマンということになりそうです。

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文章では、なによりもクリシェを避けることが重要ですが、音楽や映画や美術などでもそれは同じだと思います。他人の真似なんかなんの意味もないし、そもそもやっている当人が退屈で死にたくなると思うのですが、世の中、クリシェがあふれています。

避暑地の出来事もクリシェだらけなので、多少ともプライドのある人は、やはりひねりをくわえようと努力しています。ハワード・ロバーツのヴァージョンは、コンボによるカヴァーでは、トーネイドーズと並んで好ましい出来だと思います。

もうひとつギターものをいきます。ジャズ・ギタリストとはぜんぜんアプローチがちがいます。いや、この人はポップ/ロック系のなかでも変わり種で、ひとり一ジャンルみたいなものですが。

Duane Eddy - Theme from "A Summer Place"


アレンジ、楽器編成には工夫がありませんが、リード楽器がエディーのトワンギー・ギターというだけで十分に変なので、あとはノーマルにしておいた、といったところでしょうか。これ、いわゆるひとつの好意的解釈というヤツ。

一回でちょいちょいと思ったのですが、書いている途中で、これはダメだ、一回では終わらないと腹をくくりました。まだ悪くないヴァージョンが残っているので、もう一回、避暑地に行くことにします。


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ハワード・ロバーツ
Whatevers Fair: All Time Great Instrumental Hits
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トーネイドーズ
Ridin' The Wind : the Anthlogy
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パーシー・フェイス
Theme From a Summer Place
Theme From a Summer Place
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by songsf4s | 2011-08-12 23:22 | 夏の歌
エレクトリック・シタール・クレイズ ヴィニー・ベル篇
 
今日は一日外で遊んでいたので、ごく軽く、先日の「エレクトリック・シタール・クレイズ」の補足のようなことをやります。

エレクトリック・シタール・ファン(なんて人がいると仮定して。いや、ひとりだけ、ツイッターでご近所の方が公言されていたが)にとっては、貴重な時代の証言がユーチューブにアップされていました。ていうか、思わず笑いますが。

The original electric sitar craze!!!


いったい、これはなんなの、です。スタイルはニュースですが、エレクトリック・シタールはすごいぞ、なんてニュースにならんでしょう。ニュース風につくったCMでしょうか。If you play guitar, you can play the sitarというのがCMっぽい語呂合わせです。

彼の名前を冠したエレクトリック・シタール・モデル(ダンエレクトロ)があるくらいで、ヴィニー・(ヴィンセント・)ベルは、エレクトリック・シタール・プレイヤーとして有名だったようです(当時はそんなことは知らなかった)。そもそもエレクトリック・シタールを発明したのはベルだったともいわれているようですが、これはべつの見方もあるようです。

ベルがエレクトリック・シタールをプレイしたヒット曲をどうぞ。

Ferrante & Teicher with Vincent Bell - Midnight Cowboy


あたくしはエレクトリック・シタールをもっていないのでよくわからないのですが、共鳴弦だとばかり思っていたものを、ベルはひと撫でしています。まあ、張ってある弦だから音は出るでしょうけれど。

この曲がヒットしていたときは、なぜサウンドトラックではなくて、こちらなのだろうと思いましたが、まあ、たしかにエレクトリック・シタールを使ったことが効果的だったのかもしれないと思います。あたしはピアノに強い関心がないので、ファランテ&タイチャーというピアノ・デュオの魅力はよくわからないのですが。

ベルはトニー・モトーラ、アル・カイオラといったNYセッション・ギタリストの巨人たちのつぎの世代にあたり、60年代から70年代にかけて活躍したことは、当家では何度かご紹介しています。最初はオオノさんがオフィシャル・サイトを見つけて教えてくれたのでした。

もうすこしベルのエレクトリック・シタール・プレイを並べてみます。

Vinnie Bell - Nikki


この曲を聴いても、シタール風の音が出る楽器、なんてもともとの発想はどうでもよくなっているのだということを感じます。「変わった音の出る珍奇なガジェット」という方向にシフトしているようです。

もう一曲だけ。

Vincent Bell - That Happy Feeling


リード楽器だけでは音楽は成り立たず、全体のサウンドが重要で、その意味でアレンジに物足りなさを感じます。こういうことをやったら、ハリウッドはNYを圧倒します。

ともあれ、エレクトリック・シタールだけにかぎるなら、この曲は面白いほうかもしれません。低いほうの弦がなかなかいい音で鳴っていて、さすがはパイオニアと思います。

変なことをテーマに3回も書いてしまって、どうもお退屈さまでした。自分自身がずっと気になっていたことなので、改めて曲を並べ、まとめて聴いたら、だいぶすっきりしました。これで、エレクトリック・シタールについて知っておくべきことはもうない、という気分です。


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フェランテ&タイチャー
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by songsf4s | 2011-08-11 23:44 | Guitar Instro