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デニス・ホッパー監督『イージー・ライダー』(1969年) その5

枕のつもりでハワード・ホークスの映画のことを書いたのですが、枕にしては長大すぎるし、そもそも、書いているうちにポイントがハッキリしてきて、これは独立した記事にしようと考えが変わったので、その映画に関する部分はすべてオミットしました。というわけで、本日は枕なしで『イージー・ライダー』に入ります。

◆ 自由と恐怖 ◆◆
『イージー・ライダー』もそろそろファイナル・ストレッチなので、未見の方は今日はお読みにならないほうがいいでしょう。毎度ながら、伏せておいたほうがいいことも遠慮せずに書きます。

『イージー・ライダー』はロード・ムーヴィーなので、基本構成はじつにシンプル、昼間のライド、夜の野宿における対話の繰り返しであり、ときおり、昼間に出会った人びとのエピソードが挿入されるだけです。

カフェテリアでイヤな目にあった夜の、例によって焚き火端でのハンソンとビリーの対話は、ほとんどこの映画が目指すところの「解説」になってしまっています。ハンソンは、みな、きみたちのことを「怖れている」(scared)のだと云います。

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ハンソン「彼らの目には、きみたちは自由を象徴しているように見えるんだ」

ビリー「自由のどこがいけない。いちばん大事なことじゃないか」

ハ「そうさ。でも、自由について語ることと、自由であることは、まったくちがう。人間が市場で売り買いされる時代には、自由であることはほんとうにむずかしいのさ。もちろん、だれかに向かって、おまえは自由ではない、などといってはいけない。そんなことをいったら、相手は、自分が自由であることを証明しようと躍起になって、きみを切り刻むことになる。いやはや、だれもが自由について百万言を費やしている。でも、ひとたび自由な人間を目の前にすると……彼らは震え上がってしまうのだ」

ビ「震え上がって逃げ出すようには見えないけどな」

ハ「ああ、逃げ出しはしない。そうじゃなくて、恐怖のせいで凶暴になるのさ」


そして、おそらくはグラスのせいなのでしょうが、二人はつまらないことにクスクス笑って、つぎのショットでは寝ついています。そして、暗闇のなか、数人の人間がバットか棍棒かなにかで眠っている彼らを殴打します。ビリーは無傷、キャプテン・アメリカは呻いているけれど、あとで軽傷だったらしいとわかります。しかし、ハンソンは死んでしまいます。

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◆ エクスキューズ? ◆◆
さて、これをどう受け取りますかね? いえ、襲撃とハンソンの死という展開自体に異論はありません(ワイアットやビリーではなく、ハンソンが死んだことには大きな意味はないだろう)。問題は、この直前に、ハンソンがそれを予告するようなことを云い、襲撃の向こう側にある意味を明快に「解説」していることをどう考えるかです。

公開当時は、ハンソンの「解説」をはさんでおくほうが親切だったのかもしれません。あるいは、あの「政治の季節」にあっては、このようなソーシャル・コメンタリーがあるほうが、映画の格を高めると考えたのかもしれません。

なにしろ、『イージー・ライダー』の話がもちこまれたとき、撮影監督のラズロ・コヴァックスは「バイカー映画はもうやりたくない」といったくらいで、そう受け取られる恐れが大いにあったのはまちがいありません。日本でいえば日活アクションみたいなもので、バイカー・ムーヴィーはその姉弟であるビキニ・ムーヴィー同様、批評の対象にはなりませんでした。

f0147840_2342848.jpgデニス・ホッパーはラズロ・コヴァックスに、こんどのはふつうのバイカー・ムーヴィーではないと云ったそうですが、その意気込みがそのままハンソンの「解説」になったように感じられます。「これはよくある売らんかなのバイカー・ムーヴィーではない、シリアスな映画なのだ」ということをハッキリといっておきたかったのではないでしょうか。

しかし、いまになると、これはいわずもがなだったようにも感じます。いや、仮にハンソンの「解説」がなく、なにかべつの話をして、その後に撲殺のショットがつなげられているとしたら、やはり唐突な印象になったかもしれません。デニス・ホッパーはいろいろな編集を試したうえで、結局、ハンソンの解説を残すことにしたにちがいないので、軽々に「ないほうがいい」とは断じられないのですが、ここまで明快に意味を解説してしまうのも、それはそれで行きすぎのように思うのです。

初見のときはとくになんとも思わず、なるほどと思って見ましたが、今回の再見では、ここは引っかかりました。とはいうものの、「断じてないほうがいい」ともいえず、答えは風の中に放り出します。

ハンソンの「解説」のほうに気をとられてしまいましたが、この撲殺シーンは、初見のときはやはりギョッとしました。かつてのハリウッド映画なら、あのような「ならず者」との接触は、このような結果をもたらすことはなく、もっと「決闘」に近いファイトを招来するというあたりが常識的な展開でした。

アーサー・ペンの『逃亡地帯』からはじまった(とわたし自身は感じた)アメリカ映画の変化の結果、このような不気味なリアリズムがさまざまな映画で散見するようになり、『イージー・ライダー』でそういう方向性が確立したという印象をもっています。いや、後年、少年たちがホームレスを殺す事件が起きたとき、さかのぼって、はじめてほんとうの「リアリズム」だったことを認識したのですが。

◆ デイヴィッド・アクスルロッドとエレクトリック・プルーンズ ◆◆
二人がハンソンの死をどう処理したかは描かれません。もちろん、警察に届けるような愚かなことはしなかったでしょう。そんなことをしたら、彼ら自身が犯人にされてしまったにちがいありません。

家族に知らせなければ、といってビリーがハンソンの所持品を調べていて、出発のときに彼が自慢したニューオーリンズの(南部一と称する)娼家のカードを見つけるところが描かれ、つぎのショットでは、エレクトリック・プルーンズのKyrie Eleisonが流れ、二人がこれまでとはちがってまともなレストランでまともな食事をしているショットになり、すぐにキンキラキンの娼家に入るショットへと切り替わります。

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エレクトリック・プルーンズというバンドは実在しましたが、Kyrie Eleisonが収録されたアルバム、Mass in F Minorをつくったのはデイヴィッド・アクスルロッドとスタジオ・プレイヤーたちです。プルーンズは、初期にはそこそこスタジオでプレイしたのかもしれませんが、途中から(いや、はじめからそうだった可能性もあるのだが)、アクスルロッドが主体となったスタジオ・プロジェクトに変貌します。

デイヴィッド・アクスルロッドのオフィシャル・サイト

公平を期すために、プルーンズの後年の弁明もあげておきます。こういうことはだれでも云うものなので、わたしは眉唾で読みました。まあ、二枚目でプロデューサーのデイヴ・ハーシンガー(ストーンズのハリウッド録音でエンジニアをつとめた)が「投げた」というのはありうると思いますが。ハーシンガーというのは、生意気な若造にすぐカッとなるらしく、グレイトフル・デッドの二枚目Anthem of the Sunのときにも、「勝手にしろ」といってスタジオから出て行ったという前科があります。そういう人間が、デッド、エアプレイン、プルーンズと、初期のサイケデリック・バンドのハリウッドでのデビューにことごとくからんでいるのは、じつにもって不思議です。

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アール・パーマー(左)とデイヴィッド・アクスルロッド

プルーンズはハリウッド録音なので、参加プレイヤーは例によってレッキング・クルーの人びとです。キャロル・ケイの「顧客リスト」にもちゃんと名前があります。スタジオ・プレイヤーには、ワイルドな、あるいはサイケデリックなサウンドはつくれないようにいう人がいますが、子どもにもできることが、名うてのプロにできないはずがありません。なんといっても、彼らはワイルドなサーフ・インストの舞台裏で大活躍することによって業界での地位を築いたのだから、ワイルドな音ぐらい、その気になればいつだってつくれます。プルーンズ程度のバンドのフリをすることなど、朝飯前です。

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なお、Kyrie Eleisonというのはラテン語で、意味はlord, have mercyだそうです(英語式発音では「キリー・エレイソン」あたり)。画面にマリア像のショットがインサートされるのも当然ですし、サウンドも祈祷のように聞こえます。そもそも、この曲が収録されたアルバムのタイトル自体が『Mass in F Minor』で、その名の通り、全体がきわめて宗教色の強いサイケデリック・サウンドで貫かれています。

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調子に乗ってデイヴィッド・アクスルロッドのことをあちこちで読んでいたために、あっという間に時間がなくなってしまいました。いずれにしても、一気にエンディングまでというのは無理なので、ここらで切り上げ、残りは次回へと。

最後に、アクスルロッドがらみで、アール・パーマーのファン・サイトを見つけたので、URLを書いておきます。

http://www.earlpalmermemorial.com/av.html

まだ内容充実とはいきませんが、Audio & Videoページで、「"Holy Thursday," David Axelrod featuring Earl & Carol Kaye, 1968」というトラックを聴くことができます。アール、CKさん、どちらもいいプレイですが、とりわけアールのプレイが楽しめます。それほど近似しているわけではありませんが、なんとなく、アール&キャロルがプレイしたブレンダ・ハロウェイのYou've Made Me So Very Happyを思いだしました。ということで、サンプルにします。

サンプル ブレンダ・ハロウェイ You've Made Me So Very Happy

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テンポも曲調も全然ちがうのに、アクスルロッドのHoly Thursdayと同じ感触があるわけで、サウンドとはつまりドラムとベースのコンビネーションによるグルーヴのことなのだ、と云いたくなります。同じドラムとベースのコンビならば、上ものとは無関係に、同じ音に感じるのです。



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by songsf4s | 2010-07-30 23:55 | 映画・TV音楽
デニス・ホッパー監督『イージー・ライダー』(1969年) その4

新しいプロヴァイダーになった瞬間からずっとやっているのですが、いまだにメールが使えません。受信はできるのでpopサーヴァーは問題がないのですが、送信しようとすると、smtpサーヴァーに入れない、とエラーになってしまいます。しかたないので、何年も使っていなかったoutlookまで引っ張り出しましたが、これもダメ。outlookでつながらないなんていうのはありえないことで、こちらの設定ミスではなく、もっと根本的問題のようで、解決にはもうすこし時間がかかりそうです。

そもそも、昔とはまったく環境が違うので、プロヴァイダー・メールはなくても差し支えなく、トラブルシューティングにもあまり気合いが入りません。

当家のお客様には、

pocketfulofmiracles@gmail.com

をお使いいただくように申し上げてきましたが、友人諸兄姉も、今後はこのGメール・アドレスをご利用いただけたらと思います。プロヴァイダーメールは補助、メインはウェブメールということになりそうです。

◆ シザー・ハッピー・ビューティフル・アメリカ ◆◆
さて、復帰三日目でやっとレギュラー・プログラムの再開です。『イージー・ライダー』の後半に入ります。

キャプテン・アメリカとビリーは、田舎町のお祭りのパレードに紛れ込んで遊んだために逮捕され、留置場に入れられてしまいます。ビリーは「許可なしにパレードに参加した罪」とはどういうことだ、と保安官助手に噛みつきますが、それも当然でしょう。注意も警告もなしにいきなり逮捕されたのは、彼らがよそ者で、風体が怪しげだからにちがいありません。「法の恣意的運用」というやつです。

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留置場には、前夜、“トラ”になって「保護」された先客、ジョージ・ハンソン弁護士(ジャック・ニコルソン)がいて、ここでもまた言語の問題が提起されます。ビリーがいった「dude」(「奴」の意)という言葉がハンソンには通じず、キャプテン・アメリカが「nice guy」ぐらいの意味だと説明します。

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それにつづいてハンソンはこんなことをいいます。

「ぼくが居合わせたのはきみたちにとってラッキーだった。この町にはハサミきちがい(scissor-happy)のビューティフル・アメリカ万歳みたいな連中がいてね、だれも彼も手あたりしだいにユル・ブリナーみたいにしようとしているのさ。このあいだここにぶち込まれた二人のロングヘアは、錆びたカミソリで坊主にされた。ぼくがいれば助けられたんだけどね」

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キャプテン・アメリカとビリーはLAからニューオーリンズへと向かって南下しています。言い換えれば、彼らのような風体の人間にとっては危険地帯に向かって走っているのです。そして、たいした理由もなく二人が拘引されたことと、ハンソンのセリフは、その「危険」がいよいよ実体をもって彼らを取り囲みはじめたことを示しています。

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この映画のジャック・ニコルソンは風変わりな人物を好演していて、強く印象づけられた。今日の最初の一杯といって、警察の外でポケット瓶からウィスキーを飲み、「ニック、ニック!」だの「インディアン!」だのと奇声を発するこの場面は、初見のときはちょっとびっくりした。

◆ ふたたび言語の問題 ◆◆
ハンソンが身元引受人になってキャプテン・アメリカとビリーは釈放されます。まだマルディ・グラを見たことがないからと、ハンソンはいっしょに行くことにします。「ヘルメットをもっているか?」ときかれて、もっている、と答えたつぎのショットは笑わせてくれます。

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どうやら町の名士の家に生まれ、自身も弁護士をしているハンソンは、小なりとも「エスタブリッシュメント」です。しかし、父親との確執でもあるのか、アルコール中毒の気味があり、また上記の引用でもわかるように、「ビューティフル・アメリカ」だなんていう保守的連中に対しても批判的です。それがバイクに乗った流れ者への共感になったのですが、エスタブリッシュメントの象徴であるフットボールのヘルメットをかぶってチョッパーに乗るというのは、シンボリズムに満ちたこの映画のなかでも、もっとも成功したシンボルの利用でしょう。

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このシークェンスでもレンズ・フレアが利用されている。

ただし、このあたりで流れる音楽はあまり好みではなく、昔見たときも、つまらない曲を使うなあ、と思いましたが、年をとっても同じように感じます。ホーリー・モーダル・ラウンダーズのIf You Want to Be a Birdは、ショットにふさわしい歌詞だから選ばれたのでしょうが、曲としてはウームです。

その夜、ハンソンは、「グラスだ、試してみな」とキャプテン・アメリカに紙巻きを手渡されます。ハンソンは「マリファナのことか?」とたしかめ、またしても言葉の問題を提起します。

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この場面ではなく、翌日のライドで流れるフラタニティー・オヴ・マンのDon't Bogart Meでは、「ジョイント」という言い方も使われています。bogardはおそろしく直接的な言葉なのですが、気になる方はご自分でお調べになってください。ハンフリー・ボガードの煙草の吸い方から生まれたのだそうです。

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これほど何度も繰り返されるのだから、言語の問題はやはり大きな意味をもっていると考えるべきでしょう。パンクを直すのに借りた納屋の持ち主も、このハンソンも、わからない言葉に出合うたびに意味をたしかめ、理解しようとします。そのようにしてコミュニケーションが成立すれば、トラブルにはならないわけで、文化のギャップに橋を渡すものはやはり言語なのだという意味なのかもしれません。

◆ 南へ、南へ ◆◆
Don't Bogart Meのつぎは、ジミー・ヘンドリクスのIf Six Was Nineで、この曲に入ると同時に、彼らの周囲の風景はいかにも南部らしいものになっていきます。広い前庭をとった邸宅は『風と共に去りぬ』のようだし、洗濯物を満艦飾でひらひらさせているあばら屋は『アンクル・トム』のようです。

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If Six Was Nineが終わると、彼らは昼食のためにある店に立ち寄ります(OST盤には収録されていないが、現実音として、バックグラウンドで薄くリトル・エヴァのLet's Turkey Trotが流れている。ライターはジェリー・ゴーフィンとジャック・ケラー)。この店内の人物配置はよくできています。保安官や、ハンソンいうところの白人の「ゴリラ」たち、アッパラパーな少女たち、そして無愛想な女店主という構成です。

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オバサンは怪しげな風体の三人を無視して注文をとりにきません。保安官や「ゴリラ」たちは、「なんだこいつら」「石ぶつけたろうか」「髪の毛剪っちまえ」などと聞こえよがしに云い、少女たちは、あたしはサスペンダーをした赤いシャツの人がいい、あたしは白シャツ、あのレザーパンツ、キチキチじゃない、などといってクスクス笑いをします。

じつにぐあいの悪い雰囲気で、お互いに言葉を交わさないのに、お互いのことを云っているという最悪の「接触」がうまく描かれています。結局、彼らは食事をあきらめ、外に出ると、少女たちが追ってきて彼らを取り囲みます。ある種の社会階層に対する極度の警戒心というのは、「性的資源を独占されるのではないかという不安」に根ざすという考え方もあるわけで、彼らが少女たちの性的好奇心を煽ったことに、われわれ観客は強い不安を覚えます。

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結末を知っていてこのあたりの展開を見ると、じつにきれいな、よくできたシナリオだと感心してしまいます。しかし、逆にいえば、まとまりすぎで余白がなく、理に落ちているわけで、このあたりをどう捉えるかは微妙なところだと思います。

ジャック・ニコルソンの登場以来、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、テリー・サザーンというライター陣が、クライマクスに向けて着々と打ってきた布石はまだつづきますが、それは次回に。そろそろエンディングに持ち込もうと思っています。


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by songsf4s | 2010-07-28 22:17 | 映画・TV音楽
十蘭世界の多層的連鎖――『定本久生十蘭全集』を読む

PC環境のセットアップというのは面倒なもので、じつはまだスキャナーをつないでいません。それで昨日は写真が1枚しかない記事になってしまいました。まあ、スキャンしようにも、その材料がほとんどないので、重い腰をもちあげてスキャナーを接続する気も起きないという悪循環なのですが。

従来、久生十蘭の写真というのはそれほどたくさんはなくて、手元にあったものはすでにスキャンして過去の記事に貼りつけてあります。ところが、今回の国書刊行会版全集の月報には二葉ずつ未見の写真があり、へえ、と思いました(写真の提供者は夫人の縁者なのかもしれない。以前、十蘭の遺品から従軍日記が発見されたことを報じた新聞記事には、夫人の妹さんが見つけたとあったように記憶している)。

で、その写真をここに掲載できればいいのですが、スキャナーが……。ま、とにかく、今日も『イージー・ライダー』のつづきは棚上げにし、書物の話です。

◆ 『ココニ泉アリ』 ◆◆
『定本久生十蘭全集第六巻』は、昔からタイトルだけ見て気になっていた、『ココニ泉アリ』から読みはじめました。十蘭作とはとうてい思えないほど、導入部がひどく混雑渋滞して、だれがだれで、なにをいっているのかさっぱりわからず、なるほど、三一版全集や薔薇十字の「コレクシオン・ジュラネスク」などで収録を見送られたのも無理はない、といったんは納得しました。

いや、そこが十蘭、我慢して読み進むうちに、むむう、と居ずまいを糺して、気合いを入れ直しました。やっぱりふつうの小説ではなかったのです。久生十蘭ともあろう人が、どこにも読みどころのない話を書くはずもなく、冒頭の停滞ぐらいでへこたれそうになったことをおおいに恥じました。いや、十蘭ともあろう人が、速度を要求される新聞小説で、これほどノリの悪い導入部を書いたこと自体は考究に値するので、研究者はこの点を見落とすべきではないと思いますが。構想が固まらないまま連載がスタートしてしまい、「走りながら考えた」ような気もします。話が前進せずに、その場でぐるぐる環を描く導入部なのです。

ところが、いったん動きはじめると、あれよあれよというまに、話は意想外な方向へ進んで面食らうところは、いくぶんか処女長編『金狼』に近い味があります(暴力団の勢力関係というところで、チラッと『魔都』も想起するが)。いっぽうで、敗戦の日を描いた『だいこん』のノアール版のような気味合いもいくぶんかあり、入り組んだ舌触りの物語でした。

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これまで未刊だったのも理解はできますが、十蘭の読者が読まずにすましていいようなものではないこともまちがいありません。シベリア抑留者のことは戦後史をあつかった本で何度か読んでいますが、このような視点から描かれた戦後世相とシベリア抑留者の小説というのは、ほかに例がないのではないでしょうか。じつに意外な抑留者の扱いでした。

長年、久生十蘭ビブリオグラフィーでただの記号として見てきたものの実体にふれ、秀作とは言い難いものの、そこは久生十蘭、一山いくらの書き手とはまったく次元の異なるところで物語をつくっていたことを確認でき、おおいに満足しました。

◆ 福井もの ◆◆
コレクション・ジュラネスクの戦後篇『巴里の雨』に収録された「花合わせ」の福井某が登場する物語がほかにもあって、連作になっていたということも、今回の国書版全集ではじめて知りました。

「花合わせ」は十蘭らしい、すっとぼけた味わいの短編(福井はさる未亡人の家のカボチャと自家のカボチャの花合わせをするつもりだったが、まごまごしているうちにやり損ない、気がついたら、カボチャではなく、瓢箪が生っていた!)でしたが、同じ福井が登場するものでも、『定本久生十蘭全集第6巻』収録の「風流」と「すたいる」の二作は、「没落」というモティーフが導入された結果、沈鬱かつ複雑なサーガへと変貌しています。「連作」というより、スピンオフというべきかもしれません。

「花合わせ」を書いたときには、同じ人物を使って「風流」や「スタイル」のようなトーンの異なる話を書く意図はなかっただろうと想像します。「花合わせ」に登場させた男女のその後を書こうとしたら、話が横にずれて、べつの構想が浮かんできたのでしょう。

どうであれ、「風流」で描かれた世界像が「すたいる」の終盤でドミノ落としのように引っ繰り返されていくところは圧巻です。この連作についても、いつものように、「十蘭の小説には『読まなくてもかまわないもの』というのはない」と感じました。

◆ 「野萩」への遠い道 ◆◆
久生十蘭が、「同じような話」をいくつもつくり、自分が過去に書いたセンテンスやパラグラフをそのまま「転生」させることについては、これまでにもいろいろなことがいわれてきました。その可否はひとまずおくとして、以前、当ブログでもふれた「野萩」のヴァリエーションを読めたことも国書版全集第6巻の収穫でした。

「野萩」は、太平洋戦争開戦後の残留邦人引揚船で帰国する息子を迎えに横浜に出向いた母のことを、その姪の視点から描いた話で、肝心の息子は登場しないまま、磯子の料亭での静かな時間の向こう側に、波乱の物語を間接的に描出した短編です。高校のときにはじめて読んで以来、十蘭のもっとも好きな作品のひとつでありつづけています。

最初に読んだエディションは、近所の古書店で購った「新潮小説文庫」という新書版叢書の一冊『母子像』収録の旧仮名版でした。しかし、これは友人に貸したらなくされてしまい、以後、三一版全集の新仮名エディションで読んできました。国書版全集はありがたやの旧仮名で、耽読しました。これで活版だったらいうことがないのですがね。

「窓ぎはに坐って待ってゐるうちに、六十一になる安が、ひとり息子の伊作の顔を見たさに、はるばる巴里までやってきた十年前のことを思ひだした」

とくるわけで、いまからでも遅くない、正字正仮名にもどそう、といいたくなります。小説の失墜は仮名の改悪からはじまったにちがいありません。もっとも、「淼茫」と書いて「べうばう」なんてルビになっている(『定本久生十蘭全集第五巻』収録「内地へよろしく」p.64下段)と、一瞬、目の進みが止まりますけれどね。新仮名で書けば「びょうぼう」だというところにたどり着くまでに1、2秒を要してしまいます。

上の引用は、「野萩」の冒頭を開いて、目についたセンテンスを書き写しただけですが、いかにも十蘭らしい、四辺がピンと延びた文章になっていて、粛然とします。久生十蘭はドラマーでいえばバディー・リッチ、とほうもないテクニックの持ち主ですが、リッチのドラミングの本質は、テクニックではなく、タイムであるように、十蘭の文章の本質も華麗なるレトリックではなく、この「野萩」の冒頭のような、独特のセンス・オヴ・タイムに裏づけられた簡潔な措辞にあります。

いや、もちろん、行くところ可ならざるはない途方もない文章技法のヴァーサティリティーも、やはり久生十蘭の大きな魅力のひとつです。『ファントマ』の擬古文での翻訳なんていうのは、その昔、仰天しました。

いくつあるかは知らないものの、「野萩」にはヴァリアントがあるようで、『定本久生十蘭全集』の第6巻には、ともに「おふくろ」というタイトルの、内容の異なる未完の二篇が収録されています。いずれも「野萩」以前に発表されたもので、フランスではなくアメリカを舞台にしたりといった違いはあるものの、共通のモティーフが使われています。

若いころというのはつまらぬことに潔癖なもので、「西林図」(「野萩」同様、新潮小説文庫版『母子像』に収録されていた)のヴァリアントである「骨仏」や「水草」を読んだときは、なんとなく釈然としませんでした。しかし、この年になると、潔癖とはほど遠くなり、十蘭が試行錯誤の過程をそのまま作品として発表しておいてくれたことに感謝し、興味深く「野萩」、オリジナルの「おふくろ」、リメイクの「おふくろ」の三者の共通点と相違点を勘考しつつ読了しました。

ふたつの「おふくろ」と「野萩」の関係は、「下書き」と「完成した作品」といっていいと思います。「野萩」にはきびしく彫塑された結果であるストイシズムがあり、ふたつの「おふくろ」を豊穣にしているディテールの多くが削除されているからです。

しかし、同時に、この三者は、同じ出発点からたどりついた、「たんに異なる結果」ともいえるのではないか、とも感じました。わたしは「野萩」のストイシズムを好みますが、「おふくろ」の豊穣なディテールを好む人だってたくさんいることでしょう。

二篇の「おふくろ」は「野萩」にいたるまでの途中経過のようにも思えますが、いっぽうで、同じ発想から生まれたべつの物語とも見ることができます。十蘭のこの種の同じモティーフを使った縁戚関係にある作品群というのは、重複と見るべきではなく、並べて立体的に味わうべきものだと、今回の全集で認識を新たにしました。

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◆ 短編作家という固定観念 ◆◆
かつて三一版全集を編集し、十蘭に関する数編のエッセイを通じて若い十蘭読者に多大な影響をあたえた中井英夫の言説は、いまになると、ずいぶん遠いものに感じられます。今回、新版全集で『内地へよろしく』『祖父っちやん』『ココニ泉アリ』などの未刊行長編を読んで、その感を深くしました。

中井英夫は「短編小説の復権」ということをしきりに唱え、そういうことをいうときには、十蘭の諸編をかならず引き合いに出しました。まあ、十蘭には飛び抜けて素晴らしい短編がたくさんあるので、それ自体は当然のことと思います。

問題は、久生十蘭は短編作家であり、長編のいいものは少ない、とくりかえし書いたことです。そういう中井英夫の言葉を読んだとき、こちらは高校生だったり、大学生だったりしたこともあり、また中井英夫が『虚無への供物』の作家であるというオーラに幻惑されて、つい、それを鵜呑みにしてしまい、厳密に検討せずに来てしまいました。

今回、中井英夫が三一版全集からオミットした長編を読んで、久生十蘭=短編作家という固定観念はきっぱり捨てるべきだと確信しました。それは短編を愛した中井英夫の極端にバイアスがかかった言説にすぎません。中井英夫ではないわれわれは、そろそろ「長編作家久生十蘭」の研究に取りかかるべきです。

たしかに、「完成度」という尺度ではかるなら、十蘭の長編は、彼の短編のような完全主義に貫かれているわけではなく、そのかぎりにおいては中井英夫のいうとおりだと思います。しかし、十蘭の長編がバランスを失し、ときには未完になってしまうのは、長編が不得手だからではないと考えるようになりました。

『ココニ泉アリ』を読んでいて思ったのですが、十蘭が長編でしくじるのは、プロットがあまりにも複雑であったり、きわめて微妙なことを表現しようと、野心をもって高みを目指すがゆえのことで、うまくいかなかった長編が退屈であったり、凡庸であったりすることはないのです。どれもおおいに楽しめました。

短編小説を極度に偏愛した作家の久生十蘭=短編作家論はそろそろ忘れていいでしょう。長編を愛する読者の目には、久生十蘭はきわめてすぐれているだけでなく、きわめて挑戦的、野心的長編作家なのです。国書版全集に収録された未刊行長編を読めばそのことがよくわかります。

『定本久生十蘭全集第5巻』に収録された、『内地へよろしく』『祖父っちやん』という戦争中に書かれた二篇の未刊行長編にもきちんとふれたかったのですが(どちらもおおいに興奮した)、それはまたの機会ということにし、次回は、なんとか『イージー・ライダー』に復帰したいものと思っています。


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定本 久生十蘭全集〈5〉小説5 1944‐1946
定本 久生十蘭全集〈5〉小説5 1944‐1946


定本 久生十蘭全集〈6〉
定本 久生十蘭全集〈6〉
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by songsf4s | 2010-07-27 23:31 | 書物
橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』と小林信彦『黒澤明という時代』

引っ越し準備でデスクを廃棄するためにPCをばらしたときには、すぐにまたつなぐつもりだったのですが、とてもそのような余裕はありませんでした。さらに、引越先にはすでに電話があり、事情があってそれを変更することはできず、これまでのプロヴァイダーは使えないことになり、引越後に改めて手配したために、はからずもひと月以上もご無沙汰することになってしまいました。

亭主留守のあいだは、パートナーがときおり開いて、コメントの確認やお知らせの代筆やインデクスのメインテナンスなどをしていました。インデクスのおかげで、ページヴューがドッと増えて記録的な数になったりもしたそうです。また、コメントもいくつかいただきましたが、ちゃんと自分の目で読み、自分でタイプできる環境ではなかったので、レスは失礼させていただき、さきほど公開だけしました。どうかあしからず。

◆ 晴読雨読 ◆◆
これだけ長く休んだのは当ブログ開闢以来のことで(昨年の一月、まるまるひと月休止したのがこれまでの最長)、なにごともなかったように『イージー・ライダー』のつづきを書くというのも、どうも据わりが悪いようで(いや、書こうとしたのだが、うまく気分をリジュームできなかった)、今日は四方山話でそろりと入り直すことにします。

このひと月あまりのあいだ、ウェブに時間を使わない分、読書量がかつての非ウェブ時代の半分ほどまで回復しました。といっても、万巻の書を処分する(数えるような愚は犯さなかったが、万にはわずかに欠けるかもしれないものの、丼勘定で8000~9000冊だったと考えている)のに大汗をかいたあとなので、もう本を買う気はまったくなく、わずか200冊弱にまでそぎ落とした蔵書と、図書館で借りてきた本を読んだだけですけれどね。以下、七月の読了分。

『定本久生十蘭全集第5巻』
『定本久生十蘭全集第6巻』
日影丈吉『内部の真実』『赤い子犬』
獅子文六『箱根山』『楽天公子』『浮世酒場』
佐々木譲『ベルリン飛行指令』
石坂洋次郎『陽のあたる坂道』『あいつと私』『丘は花ざかり』『白い橋』
陳舜臣『方壺園』
川口松太郎『窯ぐれ女』『非情物語』『続人情馬鹿物語』『忘れ得ぬ人忘れ得ぬこと』
島田一男『社会部記者』
橋本忍『複眼の映像――私と黒澤明』
小林信彦『黒澤明という時代』
半村良『平家伝説』『獣人伝説』
柳家小満ん『べけんや わが師、桂文楽』
富田均『聞書き 寄席末広亭』

この年になると、新しいものになど興味がわかず、ほとんどは再読再々読四読五読……n読です。『楽天公子』は十回目ぐらいでしょうか。このなかで初読は『複眼の映像 私と黒澤明』『べけんや わが師、桂文楽』『忘れ得ぬ人忘れ得ぬこと』、そして、二冊の『定本久生十蘭全集』のうち、単行本未収録作品群だけで、あとはみな再読以上です。

川口松太郎をはじめて読んだのは二十代はじめのことでしたが(半村良が『新宿馬鹿物語』のあとがきで、川口松太郎『人情馬鹿物語』へのオマージュなのだと書いていたため)、年をとるにつれて読み返す頻度が高まり、今回のジェノサイド並みの書籍大処分でも、一冊も捨てませんでした。こういう忘れられた作家は、古書店も見離しているので、いったん売ってしまうと、あとで思わぬ苦労をする怖れがあるのです(まあ、『人情馬鹿物語』だけは一定の間隔でリプリントされるだろうが)。古書価はかぎりなくゼロに近くても、そんなことはこの場合、関係ないのです。

ひねくれ者は、こういうもはやだれも話題にしない作家にはおおいに肩入れするわけで、いずれ稿を改め、大々的に書くつもりですが(溝口健二にからめて取り上げる方法もある。川口松太郎は大映の専務であり、京都撮影所長もつとめたし、溝口とは幼なじみで、溝口映画のスタッフでもあった)、とりあえず落語ファンには『しぐれ茶屋おりく』をお勧めしておきます。主人公のおりくさんが、若いころ、旦那にねだって寄席にいくわけですな、するってえと、そのとき高座に上がっている師匠が……なのですよ! 山田風太郎『明治波濤歌』よりギョッとしましたぜ。

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◆ 会ってはいけなかった男 ◆◆
マーシャル・ソラルによる『黄金の男』のテーマ曲以来、当家の記事を裏から支えてくださっている「三河の侍大将」Oさんが、私信のなかで橋本忍『複眼の映像』に感銘を受けたとおっしゃっていたのですが、図書館にあったので、わたしも一読し、やはり感銘を受けました。

以前にも書いたことがあるのですが、わたしは黒澤明のシリアスな映画というのが不得手で、『羅生門』のどこが面白いのかさっぱりわからず(いや、宮川一夫の撮影は圧倒的だが)、『静かなる決闘』にはむかっ腹を立てました。『生きる』も、「きっと立派な映画なのだろうなあ」とよそごとのように思うだけで、なんだか教科書を読んでいるような気分でした。『椿三十郎』を見て、はじめて「うまい」「すごい」「面白い」と、楽しい映画を見たときの言葉が出ました。

ということで、わたしは黒澤明のファンではありません。好きなのは『椿三十郎』『天国と地獄』『野良犬』、悪くないと思うのは『用心棒』(ただし『荒野の用心棒』のほうが好き)、『七人の侍』『隠し砦の三悪人』といったあたりです。わたしという人間が、「タメにするところのあるもの」、すなわち、メッセージ性の強い、「主張のある」作物を受けつけず、『生きる』のような話材には、「お父さん、お説教ならまたの日にしてください。わたしはもう小学生ではありません」と我慢できずに座を立ってしまうにすぎず、黒澤明の力量とはなんの関係もないのですが、でも、説教の多い人だなあ、ほっといてくれよ、と辟易してしまうのです。

阿佐田哲也が、古今亭志ん生のことを「滑稽噺だけやっていればいいのに、なにかというと人情噺をやりたがるのが困りもの」と書いていましたが、わたしはこの言葉は黒澤明にいうべきだったと思います(志ん生には、三遊派の頂点に立つ人間としての義務があるから、たとえやりたくなくても、たとえば「鰍沢」を後世に伝えなければならなかったわけで、情状酌量の余地がある。まあ、たまに木戸銭払って寄席に入ったら、その日の志ん生は「文七元結」だった、なんてことになると、金返せといいたくなっただろうけれど)。アクションだけやっていればいいのに、シリアスな話を作りたがるのがじつに困りものです。

さて、橋本忍の『複眼の映像――私と黒澤明』です。黒澤ファンには『羅生門』や『七人の侍』のバックステージが非常に興味深いでしょうが、わたしが感銘を受けたのはべつのところ、野村芳太郎が橋本忍に面と向かっていった橋本忍評です。

「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」

いやはやなんとも、まったくもってごもっとも、というしかありません。橋本忍に出会ってしまったがために、シリアス病が黒澤明の宿痾の病となって、フィルモグラフィーが濁ったのです。くだらない寄り道をせず、面白い映画をつくることに徹すれば、黒澤はキングになったはずだというのです。『椿三十郎』のような映画を五、六本撮ってみなさい、ハリウッドが湯水のように資金を提供したでしょうに。

いやまあ、黒澤明自身のなかに、もともと橋本忍的な要素が多量にあったことが根本原因なのですが、それでもなお、菊島隆三や小国英雄との共同作業なら、黒澤明の「タメにしたい」「お説教を垂れたい」悪癖は稀釈されたにちがいなく、野村芳太郎は橋本忍にそのことをいったのです。

それにしても、わたしは『ゼロの焦点』『張込み』『砂の器』といった松本清張原作ものや、『八つ墓村』『白昼堂々』『事件』を見た程度なので、なにもいえないのですが、野村芳太郎というのはすごい人ですねえ。たった一言で黒澤明と橋本忍の両方のシルエットを切り取ってみせるなんて、そうそうできることじゃありませんよ。

もちろん、野村芳太郎が橋本忍とは何度も仕事をしたことがあり、踏み込んだことをいえる関係にあったからこその言葉でしょうが、橋本忍が衝撃を受けることがはじめからわかっていながら、遠慮なしに論評したところは、やはり人物です。

◆ 『黒澤明という時代』 ◆◆
ついでといってはなんですが、小林信彦『黒澤明という時代』も読んでみました。すると、最後の章に、この書の直接の契機は野村芳太郎の黒澤明/橋本忍評だとあって、やっぱりねえ、でした。

わたしのように、リアルタイムで最初に見た黒澤映画は『赤ひげ』だったなどという縁なき衆生(そのつぎの『どですかでん』でもろにコケて、以後、長いあいだ黒澤には興味をもたなかった)とはちがい、『姿三四郎』から見てきた人だし、すぐれた映画評のある作家だから、わたしの凝り固まった偏見を是正するなにかがあるかと思ったのですが、とくにそういうことはなく、また、野村芳太郎の黒澤評をどう受け取ったかもよくわかりませんでした。わたしのように単純に「そうだ、そのとおり! 百パーセント同意する」ではないはずで、そこのところを読みたかったのですが、たんに「そこまでいっていいのだ」(野村芳太郎のように遠慮なくいっていい、の意)と思ったとあるだけで、論評は加えていません。それは本全体を読んでくれればわかる、ということなのでしょう。

小林信彦は、『黒澤明という時代』のなかで、何度か、「劇場で見てほしい」ということと「映画は公開の時に見なければダメ」ということをいっています。うーん、はてさて。前者はとくに文句はありません。映画はフィルムで見たほうがいいに決まっています。しいてケチをつけるなら、「現代という環境にあっては」フィルムで見たうえで、なおかつDVDなどのヴィデオ・パッケージ化したものも見るべきである、と補足したくなる程度です。

しかし、後者は困惑します。いや、ぜんぜんわからない、というわけではありません。小説や絵画などとは異なり、映画やポップ・ミュージックは、時代の直接の関数として生みだされるのだから、それを生みだした空気のなかで味わうのが理想である、といった意味なのでしょう。

じっさい、目下当ブログで書き進めている『イージー・ライダー』など、まさしく時代の関数として生まれ、大ヒットした結果、時代の気分のありように大きな影響を与えた映画です。1969年に高校生があの映画を見て感じたことと、いまわたしがDVDで見ながら分析していることとのあいだには、大きな隔たりがあります。

でもねえ、自分が生まれる前に公開された映画について、リアルタイムで劇場で見なければダメ、といわれちゃうと、やはり困惑します。つまり、あとから見た人間がなにかいっても意味はない、みな的はずれ、といっているに等しいわけで、それをいったらおしまいよ、と車寅次郎になっちゃうのですね。

戦後生まれの小僧がヴィデオかなんかでちょこちょこと見て、たとえば、「『生きる』なんか退屈な説教にすぎない」などといった「暴論」を吐くのに何度も接した結果、「その時代にその映画がもった価値」というほうに力点を移動させすぎてしまったのでしょう。行きすぎです。

「リアルタイムで大画面で見た」経験を軽視したりはしません。なるほど、その時代にはそういう意味をもっていたのだな、と納得することもしばしばあります。でも、それは自分の経験ではないのだから、究極においては「よそごと」にすぎず、あくまでも「聞き置く」だけの「参考意見」にすぎません。

前の段落を書いてから、時間をかけて熟考しました。たとえば、いま、二十歳の人間が、どこかのブログに、「『イージー・ライダー』には退屈した。あの時代には、南部の保守主義の恐ろしさというのは、アメリカ人のマジョリティーにとっては大きな衝撃だったのかもしれないが、いまでは訴求力をもたなくなってしまった」と書いてあるのを読んだとしたらどうでしょうか?

むろん、賛成はしません。でも、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」ともいいません。こういう評言を読んだら、ああ、こいつと俺はまったく考え方がちがう、なにも共通点がない、頭から尻尾までぜんぜん無関係、と感じて、一分後には読んだことも忘れてしまうでしょう。

わたしは他人がどう思うかにはあまり関心がなく、その意味で「冷たい」人間です。重要なのは「自分がどう感じるか」だけであって、ほかのことは付けたりにすぎないと思っているのです。ひるがえって、他人の意見に「ホットに」反応し、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」とくりかえし書く小林信彦は、わたしよりずっとコミュニケーション能力に富んだ、温かい心の持ち主なのかもしれません。

ちょっと強引なパラフレーズかもしれませんが、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」というのは、すなわち「もっとつくった人間の心に迫り、それを受け取った人びとの心情に想像力を働かせてほしい」という願いなのでしょう。そういう意味なら、理解できなくはありません。

心情的には小林信彦のいうことも、まんざらわからなくはありませんが、でも、突き放していえば、失礼ながら、年寄りの繰り言です。「複製の時代」にあっては、あらゆるものが記録され、頒布され、無数の文脈のなかに配置し直されるのであり、結果として「評価の無限増殖」は避けられません。どこかに明快な軸をおき、中心と辺境の区別をつけたいのかもしれませんが、残念ながら、そういう概念はもはやこの巨大な蜘蛛の巣のどこかにまぎれて、捕捉不能になってしまったようです。

ほんとうは久生十蘭全集の話になるはずだったのですが、軽い枕のつもりで書きはじめた黒澤明のことが長大になってしまったので、新版全集で陽の目を見た十蘭の未刊行長編については次回に持ち越します。


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文庫
複眼の映像―私と黒澤明 (文春文庫)
複眼の映像―私と黒澤明 (文春文庫)

四六版
複眼の映像 私と黒澤明
複眼の映像 私と黒澤明



黒澤明という時代
黒澤明という時代
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by songsf4s | 2010-07-26 21:08 | 書物
更新休止のお知らせ
転居作業のため、しばらくの間、記事の更新を休ませていただきます。
7月中には再開の予定です。過去記事などお読みいただければ幸いです。

追記 : 転居後、プロバイダ契約の変更が必要になり、ネットにつながるまでにまだしばらく時間がかかります。記事の更新を再開するのは、8月になります。

引っ越し作業のための筋肉痛が回復してきたところです。久々のパソコンから切り離された生活で、読書を楽しんでおります。書くための充電、というところでしょうか・・・。 (代筆)
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by songsf4s | 2010-07-09 20:36 | その他