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Hold My Hand, Hold My Heart by the Chantrellines (OST 『すべてをあなたに』より その2)
タイトル
Hold My Hand, Hold My Heart
アーティスト
The Chantrellines (OST)
ライター
Tom Hanks, Gary Goetzman, Mike Piccirillo
収録アルバム
That Thing You Do! (OST)
リリース年
1996年
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生活というのは奇妙なものです。一昨夜、通夜を終え、翌日、葬儀に出かけるまでの中途半端な時間をどうしようかと思っているうちに、つぎの記事のことが頭に浮かんできたので、PCの前に向かいました。仕事をするには短すぎ、かといってボケッとすごすには長すぎる時間だったのです。以下の本文冒頭はブラックタイを締めて書きました!

父の寝顔を見ているあいだはいろいろなことを考えていたのですが、そのあとはもうたいしたことは考えず、この数日を忙しく過ごしてきました。でも、そのあいだに強く思ったことがひとつだけあります。もともとの無宗教傾向が、たんなる傾向ではなく、信念にかわりはじめ、自分が死んだら、宗教的な儀式はもちろん、どのような儀式も断じて無用、ただのゴミとして燃してもらいたい、と考えるようになりました。これだけ長いあいだ世間のしきたりと折り合いをつけてきたのだから、もうよかろう、あとは勝手にさせてもらう、という気分です。

◆ わかってみれば「お仲間」 ◆◆
今回、いろいろ読んでいて、トム・ハンクスの贔屓バンドというのをはじめて知りました。待て、当ててみせる、という方もいらっしゃるかもしれませんね。That Thing You Do!という映画にちゃんとヒントが出てきます。いえ、わたしは的中できず、あとから、なるほど、そういう意味か、と思った程度のかすかなヒントですが。はい、制限時間いっぱい、解答をお書きください。

では正解。デイヴ・クラーク・ファイヴです。映画をご覧になった方は、ああ、そうか、そういうことか、とお思いになったのではないでしょうか。これを知って、わたしは頭のなかでトムの肩を叩き、「なんだよ、ダチだったんじゃん、ま、ひとつよろしく」といっちゃいました! わたしも小学校のときからDC5ファンなのです。いや、そんなことはどうでもよくて、映画に出てくるDC5およびそのファンへの「うなずき」をご覧あれ。

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(上)TV出演シーンのワンダーズ。(下)デイヴ・クラーク5のベスト盤。そもそもユニフォーム自体がすぐに廃れてしまうのだが、ワンダーズのユニフォームにもっとも近いのはDC5のものである。

ね? 音としては関係なくても、視覚的にはDC5がベースになっているのです。わたしはアメリカに限定して考えたのでよくわからず、ワンダーズのモデルになったグループは、ボビー・フラー・フォーかなあ、いや、ちょっと渋すぎるか、などと思っていました。

DC5のファンというと、日本ではわたしの同年代以上なのですが、トム・ハンクスは1956年生まれで、わたしより三つ下です。日本とちがって、アメリカの場合、DC5はしょっちゅうテレビに出ていたし(エド・サリヴァン・ショウの常連で、たしか出演回数記録保持者)、大規模な全米ツアーもしているので、幼くてもあのバンドをしばしば目にした可能性があります。それでファンになったのでしょう。そもそも、サイケデリックの直前までは、DC5はアメリカでは大物中の大物バンドでしたしね。

長いものなので、ふつうの方は冒頭だけチラッとご覧になればよろしかろうと思い(もちろん、わたしのようなDC5ファンは頭から尻尾まで見るべきだが)、トム・ハンクスがプレゼンターをつとめた(いや、賞ではないから、この場合はinductorといういうべき?)、ロックンロール・ホール・オヴ・フェイムへのDC5のインダクションを伝えるクリップを以下に貼り付けておきます。大熱弁をふるっての紹介で、DC5仲間としては、好きなんだねえ、わかるわかる、その気持、と声をかけたくなります。



断っておきますが、わたしはロックンロール・ホール・オヴ・フェイムなんか、くだらない芸能ビジネスとナメきっています。DC5のインダクションは当然ですが、同じときにヴェンチャーズも入っているわけで、笑わせてくれるぜ、です。金儲け主義に走れば、権威もへったくれもなくなります。いや、はじめからそうでしたが、いよいよ地に墜ちて、いずれだれも相手にしなくなるでしょう。

◆ ブリティッシュ・インヴェイジョン・ミーハー ◆◆
トム・ハンクスの好みはそれとして、ほかにこの映画から思い浮かべるバンドとしては、サーチャーズ、スウィンギング・ブルー・ジーンズ、ホリーズ、ジェリー&ザ・ペイスメイカーズなどがあります。音のムードとしてはホリーズが一番近いのではないでしょうか。ワンダーズが空中分解し、その後、メンバーが新たにつくったバンドのヒットという設定の曲(「ハーズメン」というグループのShe Knows It)が、エンド・タイトルのバックに流れますが、これなんか、ギターの扱いもヴォーカル・ハーモニーの響きも明らかにホリーズです。

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デビュー当時のホリーズ

いちおう両者のサンプルをアップしておきましたので、ご興味のある方は以下をどうぞ。ホリーズはあまり知られていない曲を選びましたが、これがいちばんハーズメンに近い響きではないかと感じます。

ハーズメン
ホリーズ

同世代の方には説明の要がありませんが、ひとことでいえば、どのバンドも、ストーンズ以下の「汚れ」連中が主流になる以前の「好青年」たちの時代に属すグループであり、サウンドです。この年になると、サイケデリック以降というのは「まあ懐かしくなくもない」といった程度で、音楽的な意義は感じても、感傷的な追想へと誘い込まれたりはしません。懐かしさのあまり、ふと涙がこぼれそうになる、というのは、やはりなんといってもマージー・ビートの時代です。

トム・ハンクスにそういう意図があったのかどうかわかりませんが、わたしは64年後半という設定は「正しい」と感じます。たとえば、劇中、ワンダーズのデビュー曲がはじめてラジオから流れてきた瞬間、メンバーの4人や、ヴォーカルのガール・フレンドが集まって、狂ったように大喜びするシークェンスがあります。

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こういう手放しの歓喜の表現は64、5年ならしっくりきますが、66年になればやや不似合い、67年になれば完全に時代錯誤でしょう。

サイケデリックというのはまったく不思議なもので、あの深い淵に橋を架けてわたることができたのは、多めに見積もっても三分の一ぐらいだろうと思います。残りの三分の二は、あの混乱のなかで道に迷い、あるいは突然足元に開いた穴に落ち込んで消えていきました。

いや、消えていったグループをあげつらっているわけではありません。逆です。わたしの故郷は60年代なのですが、さらに特定するなら65年です。1965年はわたしの一生のなかでもっとも発見と喜びに満ちた一年間でした。しかし、そのもっとも愛する時代のサウンドは、発見したと思ったそのつぎの瞬間には雲散霧消していたのです。いや、それでいいのでしょう。あそこに深い淵があり、こちらからも向こうからも対岸には渡れないおかげで、わたしの故郷の音は永遠性を獲得し、「彼岸」となったのです。

That Thing You Doという映画を見ていて、トム・ハンクスめ、ズルしやがって、映画人という地位を利用して、あの聖なる彼岸を個人的に復元するなんて、そりゃないってもんだぜ、と思いました。理性ある大人としては「こういうものは静かに眠らせておいたほうがいいんだよ」と思うのですが、それでも、そこがやはり映画、妙なところで涙が出そうになり、困惑しました。たとえば、コーラスの尻尾を歌い、強くギターをストロークし、ネックをさっと後ろに払い、間奏に入る、といったようなときに、ああ、こういう一瞬が大好きだったなあ、なんて思うと、もう涙腺に黄信号がともってしまうのです。

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あるいは、ギターがドラムを振り返ってニヤッとするとか、間奏が終わって二人のヴォーカルがすっと前に出てマイクの正面に入る、ドラムがフロアタムまで流し、気合いを入れてクラッシュ・シンバルを一撃する、などというように、涙が出そうになるのはほとんど演奏シーン、それもほんのちょっとしたディテールなのです。やっぱり、『ア・ハード・デイズ・ナイト』や『ヘルプ!』を見たときの気分がよみがえってしまうのでしょう。

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いつもは、これはいいだの、あれはダメだの、エラそうなごたくをいっていますが、そういうのは63年までか、66年以降かのどちらかなのです。64、65年のブリティッシュ・ビート・グループは特別です。このあたりについては第三者的な距離の取り方が困難で、うっかりすると十二歳の気分に戻ってしまうのです。脚本家、監督として、トム・ハンクスもやはり、そういう特殊な時代の空気を再現したかったのだろうと、わたしは想像しています。その意味で、この映画は悪くない出来だと考えています。

◆ ガール・グループ生き残り組? ◆◆
ワンダーズ名義の挿入曲はほかにもいくつかあるのですが、That Thing You Doのサウンドトラックから選んだ本日の曲は、プレイトーンという彼らのレーベル(架空の会社なのだが、OST盤にはこのレーベルが使われている)のパッケージ・ツアーに登場する、架空のガール・グループ、シャントレリーンズのHold My Hand, Hold My Heartです。



ドラムのパターンはBe My Babyを意識したものなのでしょう。キックは1&3をドン、ドドン、両手は四拍目を一打するだけです。ただし、By My Babyとは異なり、この曲ではスネアとフロア・タムを同時にヒットするYou've Lost That Lovin' Feelin'スタイルでやっているように聞こえます。さらにいうと、フィル・スペクターはしなかったことですが、四拍目のビートにはタンバリンも重ねられています。

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シャントレリーンズ

ブラインドでこのOSTを聴かされ、一曲一曲、録音年代を測定しなければいけないとしましょう。ワンダーズ名義の曲については、60年代の録音などと勘違いすることは考えられません。古く見せかけた新しい録音だとすぐにわかります。それはスネアの音が60年代にはなっていないからで、これはまちがえようがないのです。

60年代だと、スネアはもっと高くチューニングし、スネア・ワイアも現代よりずっときれいにパシャーンとリングさせます。昔のスネアはパシーンというウルトラ・ドライ・サウンドで、現代のようにベタとかボコとか、ヘッドの表面に鳥もちをつけたのかと思うような粘っこいサウンドにはしないのです。デイヴ・クラークにいたってはパンパンにチューニングするので、「カン」といいたくなるような独特のサウンドでした。60年代育ちのアイデンティティーはあのスネアのハイ・ピッチ・チューニング、ウルトラ・ドライ・サウンドにあるといっていいほどで、あの音がしないかぎり、60年代の録音だなどと思うことは金輪際ありません。

しかし、低めのチューニングのスネアにタンバリンを重ねると、ブライアン・ウィルソンのいう「第三の音」の法則にしたがって、高めのチューニングに聞こえるか、あるいはすくなくとも、ドラムだけの場合とはかなり異なったサウンドで響き、「年代測定」がきわめて困難になります。

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サウンドとしてはちがうのだが、振り付けなどはモータウン風。差詰めマーヴェレッツといったところか。

結果的に、このシャントレリーンズのHold My Hand, Hold My Heartは、That Thing You DoのOST盤に収録された曲のなかで、もっとも年代測定が困難なサウンドになり、これだけ単体でクイズにされたら、Be My Babyビートに引きずられて、60年代の録音と誤答する人が続出するでしょう。まあ、パスティーシュというのはそういうものなのですが。

ただし、じっさいに64年に録音されたものを並べて聴けば、昔の録音はもっとずっと分離が悪いことが一目瞭然です。スネアのビートにタンバリンを重ねたものというと、わたしの記憶にあるのはバーバラ・ルイスのMake Me Your Babyという曲だけです。

バーバラ・ルイス

これは65年夏の録音で、シャントレリーンズのHold My Hand, Hold My Heartが想定する64年にきわめて近い時期のものですが、まったく響きがちがうことがおわかりでしょう。4チャンネルのテープ・マシンではこの程度の分離にしかならず、それが昔の盤の非常に大きな特徴になっているのです。ちなみにこの曲のドラマーはゲーリー・チェスターです。

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それにしても不思議なのは、このように、スネアは左チャンネル、タンバリンは右チャンネルと分けてあるのに、同じタイミングで鳴らされると、音が重なって、スネアのサウンドがよくわからなくなることです。「第三の音」効果というのは面白いものです。

次回もThat Thing You Do!の話をつづけさせていただくつもりです。
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by songsf4s | 2009-05-30 23:47 | 映画・TV音楽
That Thing You Do! by the Wonders (OST 『すべてをあなたに』より その1)
タイトル
That Thing You Do!
アーティスト
The Wonders (OST)
ライター
Adam Schlesinger
収録アルバム
That Thing You Do! (OST)
リリース年
1996年
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日曜に老父がみまかりました。満の八十八、米寿をすぎて、さしたる苦しみもなく、静かに息を引き取ったので、そのことについて、どういう方向にせよ、感情が強く動くわけではありません。順番がまわってきたのだ、という気分です。

とはいえ、あとに残された人間には、親の死そのものの本質とは離れ、生者のやるべきことの次元ではいろいろなことがあり、やはり感情は揺れ動きます。余計なことをすべて端折って直截にいえば、いまはダウナーなものは避けたいのです。

『真夜中のカウボーイ』はいい映画ですし、いま見ても諸処に清新さを失わない表現があります。しかし、後半はひどいダウナーで、ジョン・バリーが書いたテーマ曲のほうはそのダウナーな気分とよく見合っているのです。とくに気分が落ち込んでいるわけではありませんが、やはり疲れてはいるので、いまはこの曲が使われた印象的なシーンも遠ざけたいため、前回の予告は勝手ながら放擲し、しばらく延期させていただきます。

しかし、映画が見たくないわけではなく、アッパーな映画のアッパーな曲を、足りない栄養を求めるように求めてはいます。サウンドトラック・アルバムのファイルを収録したフォルダーをざっと見ていって、ああ、これなら大丈夫だ、と思ったのが、本日の曲、That Thing You Do!です(映画の邦題は例によって『すべてをあなたに』という意味不明でダサダサな代物なので、この稿では以後、原題で通す)。

◆ いったい今はいつ? ◆◆
製作年度から考えて1997年のことなのでしょう、盤漁りをしているときに、妙な曲が流れてきて、「なんだこれは?」と首をかしげました。曲調というか、もっと特定するなら、コード進行、ヴォーカル・ハーモニー、ギターのスタイルなどは完璧に60年代風なのに、ぜんぜん知らない曲で(あのころのわたしは、自分が知らない60年代のヒット曲など皆無だという盤石の自信をもっていた!)、こりゃいったいなんなんだ、と頭のうえでクウェスチョン・マークが七つ八つ飛び交ってしまいました。

最初に思ったのは、大昔のノンヒットを最近のグループがカヴァーしたのだろう、ということです。ほかのものはともかくとして、ドラムのサウンド(とくにスネアのチューニングとヘッドの鳴り)と録音スタイルは現代のものだったので、古い録音でないことはすぐにわかりました。ちょうど、ヴァネッサ・パラディーのSunday Mondaysをはじめて聴いたときの、よく知っているような、ぜんぜん知らないような、奇妙な感覚でした。



キャッシャーのところにいって、うろうろしつつ、見渡してみると、レジスターの横にCDケースがあり、振り返ったら、平台に同じ盤が大量に飾りつけてありました。トム・ハンクスの顔があったので、そういう映画(いやまあ、もちろん、どういう映画かちゃんとわかったわけではないが、なんとなくムードは想像できた)の挿入曲なのだな、とわかり、やっとのことで、60年代のような90年代のような、どっちつかずの気分から解放されました。

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音楽にはかなり惹かれるものがあり、どういう物語のなかでこういうサウンドが使われているのだろうかと興味をいだきはしましたが、90年代後半からこちら、映画館からすっかり足が遠のいてしまい、結局、この映画を見たのは数年前、ヴィデオでのことでした。

簡単にいえば、1964年に時代設定をした、アメリカの若者のビート・グループがデビュー曲をヒットさせ、スターになり、失望があり、新しい出発があり、というプロットで、この主人公であるビート・グループ(ザ・ワンダーズという名前で、OST盤のアーティスト名もそのように書かれている)がプレイする曲やら、ツアーの最中にレーベル・メイトたちがプレイする曲が全編にちりばめられています。

◆ ありそうな、なさそうな、やっぱりありそうなコード進行 ◆◆
どうしましょうかねえ。まずは予告篇でしょうか。



以上で映画のムードはおわかりでしょうから、つぎは主題歌のフル・ヴァージョンをどうぞ。



ブリティッシュ・インヴェイジョン時代の音楽をご存知のかたは、わっはっは、よくやるぜ、と一発で了解でしょう。しいて難をいえば、あの時代らしいディテールを一曲のなかに詰め込みすぎ、特徴を極端に誇張した、ある種のカリカチュアのようになってしまっていますが、ここまでそれらしいパスティーシュをつくってくれれば、リアルタイム派としても文句はありません。

◆ 60年代とはマイナーと6thなり? ◆◆
では、このThat Thing You Doという曲に盛り込まれた60年代ビート・ミュージックの特徴とはなんでしょうか。

冒頭、E-A-Bの3コードも、それらしいといえばそれらしいのですが、これは60年代とかぎらず、さまざまな時代のポップ・ミュージックが利用しているものです。問題はその先、2度目のE-A-Bのあとの、C#m-F#-F#m-Am-Bというコード・チェンジです。当家のお客さんはご記憶かと思いますが、わたしはこの同じところでのメイジャーからマイナーへの移行というのが大好きで、これを使っている曲をこれまでに一度もけなしことがないと思います。

ただし、このThat Thing You Doという曲は、その点でちょっとやりすぎているようにも思います。それが本物ではなく、パスティーシュである証明なのでしょう。F#-F#mというこの「その場でメイジャーからマイナー」はよくわかりますが、そのあと、さらにAmにいくという展開がかならずしも60年代的ではないのです。いえ、これはこれで面白いコード・チェンジでおおいに耳だつところです。たんに、あの時代にはここまでダメ押し的なマイナー・コードの使い方は一般的ではなかった、これはこのサントラの誇張である、というだけのことです。

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2枚の写真のあいだの左手の指のちがいにご注目。リード・ギター役の俳優は、オープンAから、オープンAmというコード・チェンジを忠実に演じている。わたしは小さなことに拘泥しすぎるのかもしれないが、子どものころから音と絵がシンクしていないシーンが死ぬほど嫌いで、ちゃんとつくれよな、といつも腹を立てている。この映画はほぼ完璧にディテールを描写していて、このうえなく気持よい仕上がりである。音楽映画はこのように作らなければいけない、という教科書。

もう一カ所、Well I tryからはじまるコーラスに、E-E7-A-Amという進行があり、ここもなかなかよろしい響きなのですが、やはり、やりすぎかな、と感じます。このA-Amや、ヴァースのF#-F#mのような「その場でマイナー」は、60年代には一曲のなかで一回しか使わなかったと思います。いま、いろいろ考えたのですが、このように、ヴァースでもコーラスでもやっている曲は思いつきませんでした。

いや、たぶん、これでいいのです。頭から尻尾まで完璧に、いかにも60年代にありそうな曲をつくられては、かえって気色悪かっただろうと思います。「その場でマイナー」という、後年、すっかり廃れてしまったコード・チェンジを、ちょっと揶揄するように誇張して使ってくれたことで、この曲は好ましいものになったのでしょう。

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ワンダーズの最初の演奏シーン。いったいどこのメーカーだよ、という情けない楽器ばかり。

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メイジャー・デビューした結果、楽器はフェンダーやリッケンバッカーになった。リズム・ギター/ヴォーカル/ソングライターはリッケンバッカーを選んだということは、ビートルズ・ファンという設定だろう。リード・ギターはまだサーフ・バンドの気分が抜けきっていないという設定、などといっては穿ちすぎか!

もうひとつ、ビートルズが使ったことで有名になった(ジョージ・マーティンにいわせれば、古めかしいスタイルを復活させただけなのだが)6thのエンディングを、That Thing You Doも採用しています。これまたすぐに廃れてしまうので、60年代小僧のなれの果てとしては、わっはっは、そういうのをやったことがあったっけな、です。

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ドラムはもちろんラディックになった。12歳のときにラディックに恋した人間としては、ほかのセットなど考えられないが、リアリズムの観点から公平にいって、あとはグレッチ、プレミアまでなら許容範囲。ほかのメーカーだったら、映画製作者の神経を疑う。

◆ プラハの春またはビート・ミュージックの短命 ◆◆
ただですね、あの時代をご存知ない方に申し上げるだけですが、こういうイディオムが常識だったのは、ごくごく短いあいだだけでした。やはり「1967年の断層」というのは大きいのです。サイケデリックのおかげで、このようなスタイルは、たちどころに、古めかしいものとして打ち捨てられてしまいます。

こういうノーテンキな音楽を無心に楽しめた時期は、せいぜい64年後半から65年いっぱいぐらい、といってしまっていいだろうと思います。66年にはまだサイケデリック時代は来ていませんが、65年のイノセントな気分ともやや異なる、嵐の前の曇り空のようなムードがすでにありました。ビートルズのRubber Soulが65年暮れ、Revolverが66年夏(どちらも日本では発売が大きく遅れたが)だということを指摘しておけば十分でしょう。もはやファブ・フォーも、From Me to Youのバンドではなくなっていたのです。

どうでもいいようなディテールなのですが、この映画の内容と、そういう音楽的な過渡期のサウンドというのは深く関係しているように思います。

いやはや、ノーテンキでシンプルな音楽だから、簡単にいこうと思ったのですが、書くべきことはまだ山ほどあり、あと2回ぐらいはこの映画をつづけさせていただきます。

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トム・ハンクスは若ければもちろんドラマー役をやったのだろうが、やむをえずブライアン・エプスティーンごっこで我慢した。

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by songsf4s | 2009-05-27 23:57 | 映画・TV音楽
Everybody's Talkin' by Nilsson (OST 『真夜中のカウボーイ』より その2)
タイトル
Everybody's Talkin'
アーティスト
Nilsson (OST)
ライター
Fred Neil
収録アルバム
Aerial Ballet
リリース年
1968年
他のヴァージョン
Fred Neil, Spanky & Our Gang, the Exotic Guitars, Vincent Bell, Louis Armstrong, Willie Nelson, Harold Melvin & the Blue Notes, Stephen Stills, Crosby Stills & Nash, George Tipton
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読んでから30年以上たったいまも忘れないのですが、シャーリー・ジャクソンの『野蛮人との生活』のなかに、「家じゅうが流感にかかった夜」という愉快な一篇がありました。風邪をひいた子どもたちが両親の寝室にやってきたり、あれこれしているうちにゴチャゴチャして、朝になったら、家じゅうだれひとりとして自分のベッドに寝ていなかったという話です。

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いや、それはどうでもいいのです。「流感」という言葉はどうなったのだろう、と思ったのです。辞書には「【流感】流行性感冒の略」とあり、しからば「流行性感冒」を見ると「りゅうこうせい‐かんぼう【流行性感冒】インフルエンザ・ウイルスによって起る急性伝染病。多くは高熱を発し、四肢疼痛・頭痛・全身倦怠・食欲不振などを呈し、急性肺炎を起しやすい。インフルエンザ。略称、流感」とあります。

なぜこれを使わないのでしょうか? 「インフル」なんて、また馬鹿馬鹿しい経済用語か、と思われそうな、薄みっともない略語よりは、ずっとマシだと思うのですがねえ。相手がインフルだなんていう、いかにも軽そうなものなら、ぜったいに死ぬはずがない、なんて、わたしならナメてかかります。いや、それをいうなら「流感」もぜったいに死にそうもありませんがね。たとえば「エボラ」なんていう語感の、どうだ、爆発して死にそうだろう、という迫力とは桁違いですわ。

英語はどうかというと、日本語よりさらに軽くて、fluと略しますね。ご存知ジョニー・リヴァーズのRockin' Pneumonia-Boogie Woogie Fluですな、なんていうとお里が知れてしまうので、こういうときは、ヒューイ・ピアノ・スミスの、といわないといかんのですが、しかし、ジョニー・リヴァーズ盤が昔から大好きなのです。



ドラムはジム・ゴードン、ベースはジョー・オズボーンです。ピアノはラリー・ネクテルで、すごいとはいいませんが、ラリーといえば馬鹿のひとつ覚えで、だれもがいうBridge Over Troubled Waterの死にそうな退屈さにくらべれば、この曲のピアノはまだしも聴きどころがあります。あんなテキトーな、出来損ないクラシック風プレイを褒めると、それこそお里が知れますぜ。

ちゃんとジミーがトラップに坐ったライヴ・ヴァージョンもあります。ただし、ベースはオズボーンではないし、ピアノもラリーではありません。もっとドラムをオンでミックスしてくれたら、ことのついでにジミーの手だけを写してくれたら、まったく文句なしなんですが!



うーん、こういうのを見ると、とくにうまくないとはいいながら、ラリーのほうがずっといいなあ、と思います。いや、このたぐいのプレイなら、ベストはリオン・ラッセルで、それにくらべると、ラリーのプレイはせいぜい及第点というところでしょう。

◆ ニルソンのヴァリアント ◆◆
さて、Everybody's Talkin'のつづきです。昔はAerial Ballet収録ヴァージョンが映画にも使われたのだと思っていまいたが、今回見直したら、よく似ているけれど、ヴァリアントだとわかりました。先にAerial Balletのリズム・セクションのクレジットをコピーしておきます。

Bass……Larry Knechtel
Bass……Lyle Ritz
Drums……Jim Gordon
Guitar……Dennis Budimir
Guitar……Al Casey
Harpsichord……Michael Melvoin

文句なしですねえ。ハリウッドの黄金時代が偲ばれます。二人いるベースは、もちろん、ラリーがフェンダー、ライル・リッツがアップライトです。Everybody's Talkin'では、わたしの耳にはフェンダーしかないように聞こえるので、ラリーのプレイということになります。ドラムはブラシだけなので、だれとはわかりませんが、気持のいいタイムで、ジミーといわれれば、やっぱりね、と思います(いわれてわかるんじゃダメだっていうの>俺)。

ギターのラインはシンプルなのですが、なんだかひどく弾きにくくて、あせりました。目下練習中。このピッキングがすごくきれいで、この曲の気持よさの半分ぐらいは左チャンネルのギターのタイムのよさに由来すると感じます。ギターがきれいに聞こえるのは映画ヴァージョンのほうです。

両方をしつこく聞いてみて、なんだか、ほぼ同じメンバーじゃないかという気がしてきました。まあ、こういう風に、多少状況が変わっても、つねに一定の品質を保証できるところが、黄金時代のハリウッドのスタジオの特徴なので、メンバーの問題ではなく、インフラストラクチャーの問題というべきでしょうけれど。

f0147840_19474937.jpgついでといってはなんですが、「幻の主題歌」であるI Guess the Lord Must Be in New York Cityのほうのメンバーも見ておきます。

Bass……Larry Knechtel
Drums……Jim Gordon
Flute……Jim Horn
Guitar……David Cohen
Guitar……Howard Roberts
Piano……Michael Wofford
Piano……Michael Melvoin
Saxophone……Tom Scott

肝心のバンジョーのプレイヤーがわかりませんが、デイヴィッド・コーエンでしょうか。ハワード・ロバーツがニルソンのセッションというのも、へえ、ですが、この人がバンジョーを弾いた例は寡聞にして知りません。このHarryというアルバムには大きなセッションの曲もあるのに、まるでコンボでやったみたいなパーソネルなので、ここにはごく一部しか書かれていないのでしょう。

ともあれ、このアルバムでもやっぱりドラムはジミー。ニルソンはハル・ブレインとほとんどかすっていない(RCA契約以前のものに、ハルがあとでオーヴァーダブしてリリースしたものがある)、めずらしい60年代のハリウッド・ベースのアーティストなのです。ジム・ゴードンの若々しさが好きだったのでしょうかねえ。それにしては、異様なまでに地味なプレイばかりさせていますが!

◆ オリジナルやらカヴァーやら ◆◆
f0147840_1949397.jpgEverybody's Talkin'のオリジナルは作者のフレッド・ニールによるものです。わたしはフォークを不得手とするので、割り引いてお読みいただきたいのですが、オリジナルのフレッド・ニール盤には、ニルソン盤のような心弾むグルーヴはありません。ブラシでもいいからドラムがあったほうがいいし、1小節に2音でもいいからベースも入れたほうがいいのだということが、フレッド・ニール盤を聴くとよくわかります。好き嫌いの問題は抜きにしても、このグルーヴ(というか、その欠如)では、映画に使うわけにいかないのだけはハッキリしています。こちらのヴァージョンでは、『真夜中のカウボーイ』の冒頭8分あまりの長いシークェンスの躍動感は生まれません。

しかし、リズム・セクションなしでも魅力的なヴァージョンというのもやはりあります。スティーヴ・スティルズのライヴです。ご存知のようにスティルズのアコースティックというのは非常に独特のサウンドで、ちょっとスタイルは異なりますが、ネッド・ドヒーニーのように、非アコースティック的に扱うところがおおいなる魅力です。バッファロー・スプリングフィールドの時代でいえばBlue Bird、CS&Nの時代ならSuite: Judy Blue Eyesが、そうしたスティルズのアコースティックの代表作でしょう。

f0147840_1950132.jpgなぜそうなるかというと、理由はいくつかあると思います。1)マーティンを使うこと(ギブソンのアコースティックは強い音が出ず、あくまでもコード・ストローク向き)、2)基本的にタイムがすぐれている、3)ブリッジのすぐそばで強くピッキングすること、なんてあたりじゃないでしょうか。Love the One You're Withがヒットしていたころ、友だちがスティルズのライヴを見たそうですが、ステージにはずらっとギターが並べてあったといいます。すぐに弦を切ってしまうので、どんどん「弾きつぶし」、ギターを替えて弾いていくのだそうです。ブリッジのそばで強くピッキングすれば、新品の弦だってひとたまりもありません。Black Queenなんかすごかったそうで、そうだろうなあ、と思います。

スティルズのEverybody's Talkin'は、Black Queenのような強烈なプレイではなく、あっさりしたものです。しかし、スティルズのアコースティックはすばらしいので、あっさり弾いても気持のよいグルーヴになります。

スティルズにはもうひとつEverybody's Talkin'があります。CS&N時代、1970年の未リリース・トラック、リハーサルないしはデモです。わたしはこのグループのファンではないので、グレアム・ナッシュとデイヴィッド・クロスビーのハーモニーはどうでもよくて、やはりギターを聴いてしまいます。こちらのヴァージョンのギターも、おっ、いいな、と思う箇所があります。

◆ その他の歌もの ◆◆
f0147840_16414774.jpgウィリー・ネルソン盤もギターが悪くありません。ニルソン盤のギターは、うへえ、これは弾けないぜ、と思いますが、こちらならわたしでも大丈夫じゃないかという気がしてきます(えてして、たんに「気がする」だけだったことがあとでわかるが)。ナイロン弦2本でやっているので、キレはありませんが、こののんびりしたところがウィリー・ネルソン盤Everybody's Talkin'の賞味のしどころでしょう。間奏(ネルソン自身のプレイ?)では、オクターヴ奏法なども織り込んで、ちょっと浮いているかな、と思いつつも、楽しく聴けます。

面白いのはスパンキー&アワー・ギャング盤です。イントロのアップライト・ベースが楽しめます。トラックによってはハル・ブレインだったりしたグループだから、当然、このベースもプロでしょう。かなり弾ける人です。しかし、冷静になると、ベース以外はべつに面白くもなんともないヴァージョンですな。ベースがキマッたので、ほかのことは忘れちゃったのでしょう。典型的な「手術は成功した、患者は死んだ」ヴァージョンで、全体としては不出来。

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ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツといえばフィリー・ソウルなのでありまして、彼らのEverybody's Talkin'は、わが家にある唯一のソウル・ヴァージョンです。リズム・アレンジは考え過ぎじゃないかと思います。いや、うまいドラマーなら変なリズム・パターンでもきっちりグルーヴをつくってくるので、このドラマーが下手なだけかもしれませんが、どちらにせよ、うまくいっていません。もっとストレートなグルーヴにしたほうが楽しめたでしょう。



主としてIf You Don't Know Me by Nowの印象によりますが、わたしはこのグループがそこそこ好きなので、ドラムの変なパターンに耳をふさげば、このヴァージョンも悪くはないかもしれないと思います。いや、べつによくもないですが。

ルイ・アームストロング盤は、晩年のものですし、アレンジも現代的すぎて、不向きなサウンドだと思います。ご本人が望んだ録音とは思えません。

◆ インスト ◆◆
インストは2種あります。曲調からいって当然オーケストラものはなく、ギターもののみです。まず、エキゾティック・ギターズ。これは右側のFrindsリンクからいけるAdd More Musicのレア・インスト・ページでLPリップを入手できますので、よろしかったらお試しあれ。No. 30がエキゾティック・ギターズのその名もEverybody's Talkin'というアルバムです。

f0147840_16513219.jpgさて中身は、なんと申しましょうか、とくにどうということのない、ごくふつうの出来です。メンバーが一流のわりには、だれもファイン・プレイをせず、軽く流した、という印象。このプレイだけではドラムもハルとは判断できませんし、ベースもキャロル・ケイという結論には飛びつけません。

リードはアル・ケイシーだそうで、彼はニルソン・ヴァージョンでもギターを弾いていたのですが、あちらではアコースティック、こちらではエレクトリックのリード。まあ、みなうまい人たちなので、腹が立ったりすることはなく、スーパーで買い物をしているときに流れてきたら、ほう、この手の音楽でもマシなものがあるんだな、ぐらいのことは思うんじゃないでしょうか。

f0147840_16523074.jpgヴィンセント・ベルまたはヴィニー・ベルは、60年代から70年代にかけておおいに活躍したNYのセッション・ギタリストです。当家では何度か言及しているので、ご記憶のお客さん方もいらっしゃるでしょう。ベルはなかなか面白いプレイをすることがあるのですが、この曲は、やはり可もなし不可もなしで、とくに面白い箇所はありません。

以上でEverybody's Talkin'はおしまいですが、『真夜中のカウボーイ』はまだつづきます。あと一回か、ひょっとしたら二回、こんどはジョン・バリーのスコアのほうを検討するつもりです。
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by songsf4s | 2009-05-24 17:01 | 映画・TV音楽
Everybody's Talkin' by Nilsson (OST 『真夜中のカウボーイ』より その1)
タイトル
Everybody's Talkin'
アーティスト
Nilsson (OST)
ライター
Fred Neil
収録アルバム
Midnight Cowboy (OST)
リリース年
1969年
他のヴァージョン
Fred Neil, Spanky & Our Gang, the Exotic Guitars, Vincent Bell, Louis Armstrong, Willie Nelson, Harold Melvin & the Blue Notes, Stephen Stills, Crosby Stills & Nash, George Tipton
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生来のお調子者なので、新型ウイルス流行、というお題をもらうと、そうだ、『アンドロメダ病原体』だ、てえんで、さっそく見ちゃいました。よく見ると、映画のほうの邦題は、小説とは異なり、『アンドロメダ……』という踏ん切りの悪いものでした。この二倍三点リーダーはどういう意味だ、てえんでムッとなりましたよ。

いやまあ、それはいいのですが、これがとんだ当てはずれ。この映画、三〇年ぶりぐらいでみたのですが、テーマも挿入曲もあったものではなく、ミュージック・コンクレートというか電子音楽というか現代音楽というか、いっこうにつかみどころがなく、ガーン、ギー、ビローン、ブジーとかいっているだけなんですわ。コードをコピーとか、このメイジャーからマイナーへの移行とか、メロディー・ラインの半音進行が、とかなんとか呑気なことをいっている場合ではなく、当家の土俵にはぜったいに持ち込めないのです。これでは商売あがったり。

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かくてはならじ、しからば『アウトブレイク』か、とも思ったのですが、あれは去年見直したばかりで、また見る気は起きませんでした。そもそも、あの手の話がすごく好きというわけではないですしね。ヴァリアントとしては細菌兵器ものというのがありますが、これは山ほどあって、前回取り上げたMIシリーズの二作目もそれでした。未知ウイルス撃退ものにくらべ、細菌兵器ものはみなつまらないと思います。MI:2も、つくるほうはドカン、ドカンと大騒ぎしていますが、スクリプトとしてはスカスカで、緊密な構成とはいいがたく、索然たる後味でした。

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こちらは『アウトブレイク』のシーン。『アンドロメダ』ほどの衝撃はなかったが、これはこれで面白かった。

話をもどしますが、マイケル・クライトンは『アンドロメダ病原体』がいちばんよかったのではないかと思います。学生のときに読んだきりなので、後年の作とは比較できませんが、あのときはただびっくりして、奥行き、味わいといったこととは無縁、読後感が索漠としているというクライトンの欠点をまだ意識していなかったこともあって、ひどく感心してしまいました。

その『アンドロメダ病原体』をロバート・ワイズが映画化した『アンドロメダ……』(この幽霊みたいな、あるんだかないんだかハッキリしない尻尾はなんとかならんのか!)を見直して、それほど古びていない、よくつくってある、と思いました。

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『アンドロメダ』 なんといっても、死の町に調査に行くシークェンスが秀逸。遺体の状態から、ほとんど即死することがわかり、これまでの伝染性疾患とはまったく次元が異なることが明らかになっていく。

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人だけでなく、犬もハゲタカも死んでいる。

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60年代後半に流行したスプリット・スクリーンが、控えめだが効果的に使われている。

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生存者はわずかに二人。赤ん坊と年寄りの酔っぱらい。

結末が安易ですが、クライトンはウェルズの『宇宙戦争』のリメイクとして発想したといっていて、『アンドロメダ病原体』を安易というなら、ウェルズの『宇宙戦争』も安易、その結末をそのまま踏襲した二種の映画版『宇宙戦争』も安易ということになります。賛成多数だからといって、少数派が正しくないということにはならないので、全部まとめて、どれもこれもみな安易だ、といっておくべきでしょうな。ただ、ウェルズの原作が書かれたとき(19世紀末)、伝染性疾患というのが、現代同様、おおいなるアクチュアリティーをもっていたのかもしれません。

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ラットを使って病原体のサイズを特定していくこの作業がリアルだった。こういうリアリティーを小説や映画に持ち込んだことがクライトンの最大の功績だろう(いや、こういうことはつねに功罪相なかばしてしまうのだが)。

◆ 牛模様のトランク ◆◆
さて、そういうこととは、今日の『真夜中のカウボーイ』はいっさい関係ありません。二時間半もかけて見た『アンドロメダ』がハズレだったので、窮余の一策、よく知っている曲が登場する、よく知っている映画を選んだという、それだけのことです。

お話は、ジョン・ヴォイト演じるテキサスの田舎町の青年ジョー・バックが、皿洗いをやめ、上から下までビシッとカウボーイ・スタイルでキメて、ニューヨークに出発するところからはじまります。勤め先の仲間に別れをいうときに、ジョーは旅の目的を説明します。ちょっと、いや、かなり品がないので、英語のままでどうぞ。

Lotta rich women back there, Ralph, begging for it, paying for it, too. And the men, they're mostly tutti fruttis.

thereはNY、itはナニを指しています。下品なところを取りのけて簡単にいうと、金持ちの女性のお相手をしておおいに稼ぐつもりである、という上京目的を開陳したわけです。この映画を見たとき、わたしは高校生でしたが、それでも「そんな馬鹿な」と思いました。このジョーというのはよほどノーテンキな人物なのだということが、この冒頭でわかります(が、しかし、あれからウン十年、そういう生活をしている男たちが日本にもたくさんいるようで、うたた今昔の感に堪えず)。

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ただニューヨークにいくのではなく、カウボーイの格好をするところが馬鹿馬鹿しくて、ここがどうも日本の子どもにはすんなり理解できませんでした。なんたって、牛模様のトランクを提げているのだから、おまえはゲイトウェイか(IBM-PC互換機の黎明期を知らない人にはわからないが!)ってくらいです。いや、カウボーイはあの時代の(そしてたぶん現在も)アメリカ都市文化にあっては、セックス・シンボルだったのでしょう。他の文化に属す人間、それもティーネイジャーには感覚的に把握しにくかっただけだと思います。

◆ 軽快なグルーヴ ◆◆
さて、ニルソン歌うEverybody's Talkin'は、冒頭、カウボーイ・アウトフィットで身を固めたヴォイトが、自宅のスクリーン・ドアを蹴り開けて意気揚々と出発する、タイトルを兼ねたシークェンスで流れます。これが主人公の気分や画面のムードにぴったりで、じつにけっこうな滑り出しなのです。こういうふうにはじまる映画がつまらないはずがない、と感じさせるほどです。



その好調さは、主としてギターのアルペジオと、地味ながら正確なタイムに裏打ちされたブラシとベースのグルーヴによって形作られています。こういうグルーヴがつくれたら、楽曲としても勝ったも同然、そして、そういうグルーヴをもつトラックをタイトルバックにもってくれば、映画だって勝ったも同然なのです。それくらい気持のよいグルーヴです。

いちおう、パーソネルがわからないかと調べてみましたが、トゥーツ・シールマンス(ハーモニカ)、チャック・レイニー(フェンダー・ベース)、ウィルバー・バスカム(アップライト・ベース)の三人しかわかりませんでした。これはニルソンの主題歌とは無関係で、ジョン・バリーのスコアを録音したメンバーでしょう。

◆ もうひとつの主題歌 ◆◆
昔読んだ記事では、ニルソンはこの映画のためにI Guess the Lord Must Be in New York Cityをつくったけれど、ジョン・シュレジンジャーのお気に召さず、結局、Everybody's Talkin'が使われた、とされていました。



こちらはいきなりバンジョーが突っかけてくるところが楽しく、Everybody's Talkin'同様の軽快なグルーヴをもっています。当時は、作者が異なるのに、この二曲がこのようによく似てしまった理由を知らなかったのですが、改めて調べたところ、いつも参照しているニルソン・サイトに、明快に説明してありました。ちょうど『2001年宇宙の旅』のときにスタンリー・キューブリックがやったように、シュレジンジャーも、編集段階の「仮歌」として、ニルソンのEverybody's Talkin'を使っていて、こういうイメージの曲を、とニルソンに注文したのだそうです。

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なんだか妙にMidnight Cowboy風のセッティングで撮影されたニルソンのポートレイト。『真夜中のカウボーイ』の「見た目」のショットはエキゾティックで、イギリス人ジョン・シュレジンジャーの異邦人としての視線を強く感じる。

しかし、結局、Everybody's Talkin'のほうがいいという結論になり、I Guess the Lord Must Be in New York Cityはボツになりました。その原因は、楽曲の出来不出来ではないだろうと想像します。問題は歌詞です。フレッド・ニールがEverybody's Talkin'を書いたときには、『真夜中のカウボーイ』なんて映画は存在していないので、ただ自意識過剰の変な男の歌として書いただけでしょう。それに対して、ニルソンはラッシュを見てしまったのだと思います。それで、I Guess the Lord Must Be in New York Cityの歌詞が映画の説明のようになったのだと想像します。

監督としては気に入るはずがありません。I Guess the Lord Must Be in New York Cityで展開されるこの映画の「説明」は、たんにニルソンの解釈にすぎず、冒頭でそれを観客に押しつけられては、映画を見る興味がそがれてしまいます。

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ティファニーの前の酔っぱらい、ないしは行き倒れ。通りかかる人はだれも関心を示さないが、「異邦人」である主人公は、監督やわれわれ異国人と共通の反応を示す。

So tired of getting nowhere
Seein' my prayers gonna unanswered
I guess the lord must be in New York City

というセカンド・ヴァースなんか、意味としてもうなずけるし、言葉のリズムとしても面白く、昔からシング・アロングしてきたラインですが、映画の主題歌としては出しゃばりすぎです。主題歌というのは、映画に寄り添い、映画を象徴する必要がありますが、映画を解釈してはいけないのです。

Well, here I am, Lord
Knockin' at your back door
Ain't it wonderful to be
Where I've always wanted to be?
For the first time, I breathe free here in New York City

というコーラスもよくできているし、これまたシング・アロングすると気持のいいラインですが、単独の楽曲としてはよくても、映画の主題歌としては、やはり説明しすぎです。岡目八目、第三者の目には、ジョン・シュレジンジャーがI Guess the Lord Must Be in New York Cityをとらず、結局、「仮歌」だったEverybody's Talkin'を採用したのは、理の当然のことに思えます。

主題歌はどういう条件を満たしていなければいけないか、なんてことは改めて考えてことがなかったのですが、こういう格好の例があると、明快にイメージすることができて、ありがたいことです。

Everybody's Talkin'にはニルソンのヴァリアント、そして、フレッド・ニールのオリジナルや他のアーティストによるカヴァーなど、検討すべきヴァージョンがたくさんありますが、そのあたりは次回送りということに。

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by songsf4s | 2009-05-19 23:58 | 映画・TV音楽
Mission Impossible by Lalo Schifrin (TV OST 『スパイ大作戦』より)
タイトル
Mission Impossible
アーティスト
Lalo Schifrin (OST)
ライター
Lalo Schifrin
収録アルバム
The Best of Mission: Impossible
リリース年
1966年
他のヴァージョン
Billy May, Henry Mancini, Roland Shaw & His Orchestra, Jimmy Smith
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当家の記事も400件を超えましたが、それだけの数になると、なかにはひどくマヌケなことをやってしまったものもあります。古いものは(ありがたいことに)忘れましたが、前回の『グッバイ・ガール』ともなると、まだ忘れるには早すぎます。

そもそも、YouTubeにあるだろうと多寡をくくったのが第一のミスなのですが、ふだんなら、あらかじめクリップを見てから書きはじめるのに、なにを思ったか、前回は一度記事をアップしたあとで、YouTubeをチェックしていなかったことを思いだすという、とんでもなくマヌケなことをやってしまったのです。

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このルーシーという少女のセリフがじつにうまい。子どものセリフを書けるのは一流の証明である。しかし、ひとつ間違うと、こましゃくれたイヤな子どもになってしまうセリフの連続で、ルーシーを演じたクイン・カミングスもすばらしかった。アカデミー助演女優賞ノミネーになったのは当然のことだろう。

いや、それでも、テーマ曲のクリップが見つかれば事なきを得たはずなのですが、間が悪いときはしようのないもので、見つからないとわかったときには、もうシンデレラ・タイム、どうにもならず、予告篇のクリップだけ貼りつけて終わりにしてしまいました。

というわけで、デイヴィッド・ゲイツ歌うGoodbye Girlがどのようなものか気になっていた方は以下をどうぞ。もちろん、『グッバイ・ガール』の記事のほうにもこのサンプルは追加しておきましたが、修正以前にご訪問をいただいた120人の方は、サンプルが追加されたことをご存知ないはずです。

サンプル

◆ お早ようフェルプスくん、またはコピー大作戦 ◆◆
Mission Impossibleは、去年の夏にテレビのテーマ曲をたくさん取り上げたときにやろうとして果たせず、この二月に再開したときにもリストの筆頭にあったのですが、なかなか踏ん切りがつきませんでした(さらにいうなら、この曲のドラマーはアール・パーマーなのに、彼の特集のときにはオミットしたため、できるだけ早くやりたいと思っていた)。遅れた理由はいろいろありますが、なによりも、メロディー・ラインのコピーが面倒で、先送りにしてしまいました。

オリジナルのテレビ・シリーズ、80年代の新シリーズ、さらにブライアン・デ・パーマ、ジョン・ウーなどが監督した本編が3本と、この曲にはいろいろなヴァージョンがあるのですが、ここではもちろん、60年代のオリジナルTVシリーズのテーマを中心に話を進めさせていただきます。



まず、どなたもご存知の有名なリックから。これはむずかしいことはなにもなく、3秒でわかります。

G-G-Bb-C-G-F-F#

コードがGm7のあいだはこれを繰り返すだけなので、このリックを弾くプレイヤー、たとえばベースなどは、ちょっと退屈するかもしれません。オリジナル・ヴァージョンでフェンダー・ベースを弾いたのはキャロル・ケイで、彼女を紹介するヴィデオでは、しばしばこの曲が使われます。

面倒なのはフルートのフレーズですが、前半はシンプルで問題なし。

G-F#-D-G-F#-Db-G-F#-C-Bb-C

シンプルとはいっても、このコードからこのラインは出てきそうもない、というか、そもそも、コードがどうこうとは関係のない次元で変なメロディーなのですが、そこがラロ・シフリン、頭の構造がかなりエイリアンなのです。アルゼンチン生まれで、十代のときはジャズを愛し、パリでクラシックを学び、アメリカで仕事をした、という、この人の複雑なバックグラウンドから来ることなのかもしれませんし、そういう次元の話ではなく、もって生まれた特性なのかもしれません。

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コードはリックに合わせて動いてもオーケイですし、Gm7のままでいてもオーケイです。たいていのヴァージョンは、インプロヴに入るとシンプルなマイナー・ブルーズでやっています。

ギターで弾くとプリング・オフで半音下げる箇所が、どれもよくわからず、往生するのですが、たぶん、同じ場所で動かないのだと思います。上記の場合でいえば、三つともG-F#でいいのでしょう。でも、この部分を半音ずつ下げていっても、それはそれで正しいような気がしてくるところが、この曲の変なところなのです。いや、ウェブ上で発見した譜面の断片は、やはり動かしていないので、迷いを振り切り、動かないパターンで押し通します。

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2番目のリックは、

D-Db-G-Db-C-F-C-B-E-Eb-D

でいいのではないでしょうか。ここも、D-Dbのパターンを半音ずつ下げてみたのですが、これはあまり合っているようには聞こえませんでした。いやまったく、メロディーがこれほどよくわからない曲もめずらしいのじゃないでしょうかね。迷いに迷ってしまいました。

残りのメロディーもいちおう書いておくと、ブラスがやるパートは、

C-B-G-C-B-F#-C-B-F-Eb-F

と、これまでに出てこなかったパターンですが、つぎのトランペットのパートは、D-Dbではじまる2番目のパターンと同じでしょう。

ギターで弾くとプリング・オフばかりで、ただひたすら面倒なだけの、面白くもなんともない曲ですが、これがお立ち会い、あら不思議、フルートでやるとじつに印象的で、一聴忘れがたい印象を残します。MI:3にはディストーション・ギター・ヴァージョンが何度か出てきますが、どこからどう見てもギターには不向きな曲なので、管楽器系アレンジが先行作品で出尽くしてしまったあげくの、苦しまぎれのやけっぱちアレンジというべきで、くっだらねー、と呆れてしまいました。

第5シーズンのテーマ


この最悪ヴァージョンの、フィルインで突っ込みまくる気色の悪いドラマーを、わたしはよく知っているような気がします。ジョン・グェランでしょう。こうしてグルーヴ面で極度に不出来なヴァージョンと比較すると、アール・パーマーとキャロル・ケイが、懐の深い、すぐれたグルーヴをつくっていたことが手に取るようによくわかります。

◆ カヴァー ◆◆
つくられた時期も接近している同系統のテレビ・ドラマのテーマで、同じように奇妙な構造をとっている、ジェリー・ゴールドスミスのナポレオン・ソロのテーマは、無数のカヴァーが生まれ、その多くはオリジナルをしのぐ出来でした。つまり、曲としてよくできているが、オリジナルのアレンジ、サウンドは不出来で、カヴァー盤のつけいる余地が十分にあった、ということです。

しかし、「ナポレオン・ソロ」の一年後につくられた「スパイ大作戦」のほうには、たいしたカヴァーはありません。つまり、オリジナルは曲としてよく出来ていたばかりでなく、アレンジ、サウンドも申し分なかったということです。世の中に楽曲は無数にあれど、ギターで弾くと史上最悪というくらいに退屈なメロディー・ラインだったおかげで、インストの最大勢力であるギターものの餌食にならなかったため、いいカヴァーが生まれなかったということもいえるでしょう。ギターでコピーしていて、つまんねえ曲だなあ、と泣きが入りました。Mission Impossibleは、聴くと最高、弾くと最低の曲です。

スパイものでは何度か登場したローランド・ショウ盤Mission Impossibleは、まあまあの出来です。どのラインも二度繰り返しているので、コピーには向いています、って、そんなことを気にする人はめったにいないでしょうが! インプロヴに入ると、「ワイルドなハープシコード・ソロ」という、世にもめずらしいものが聴けます。ワイルドだろうとナイス&イージーだろうと、ハープシコードっていうのは、インプロヴに使う楽器じゃないような気がしますが……。

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アレンジ、サウンドのバランスがきれいなのはビリー・メイ盤。でも、ニュアンスはオリジナルと同じで、なんのためにカヴァーしたのかよくわからないようにも思います。オリジナルにあるラフ・エッジをきれいにブラッシュ・アップした、いかにもハリウッドらしい洗練された音ではあると思いますが……。

ジミー・スミスは管と弦を加えたアレンジで、メロディーはそちらにまかせています。つまり、ジミー・スミスのプレイに関するかぎり、ただの5/4のマイナー・ブルーズにすぎません。ジャズでは毎度のことながら、べつにこの曲じゃなくたっていいじゃん、適当なテーマを自分でつくれば、他人に印税を払う必要もなく、坊主丸儲けなのに、というパターンです。わたしがジャズ・プレイヤーなら、他人の曲なんかぜったいにやりませんね。どうせインプロヴに突入するまでの間借りなんだから、そんなもん、自分でつくりますよ。

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ヘンリー・マンシーニは、すでに何度かけなしたThe Big Latin Band Of Henry Manciniというアルバムに収録されたもので、やはりこの曲もいけません。このアルバムは、マンシーニとしては例外的に、アレンジも失敗し、グルーヴも悪く、聴きどころのない凡作という以外にないと思います。

ここには取り上げなかった3種のカヴァーまでふくめて、いろいろ聴いたあげく、なぜだ? と首をかしげた不思議な現象があります。どのヴァージョンもキーがオリジナルと同じGだということです。ふつう、こういうことはありません。多くのカヴァー・ヴァージョンはオリジナルと異なるキーを使うものなのです。考えられる理由は、管楽器の譜面にはこのキーがいちばん都合がよい、ということですが、それにしたって、他の曲では、管楽器に不都合でもキーを移動しています。なんだって、どのヴァージョンもキーをそろえたのか、まったく謎です。

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80年代の再開新シリーズや、3作ある本編のシリーズなど、ほかにもヴァリアントやカヴァーがたくさんあるのですが、どれも好みではありません。80年代の新シリーズのテーマは、あの機械っぽいスネアのサウンドになってしまい、あのときもマヌケだなあと思いましたが、いまになると問題外の3乗ぐらいです。本編のものも、ただビートが強いだけで、アレンジ、サウンドとして冴えの感じられるものはありません。

◆ ドラマ主題曲のターニング・ポイント ◆◆
1965、6年というのは、テレビのテーマ曲の歴史における大きなターニング・ポイントだったとわたしは考えています。すでにふれましたが、「ナポレオン・ソロ」はサウンドとしては弱く、多くのロック系カヴァーが生まれました。これはなにを意味するか? リスナーの嗜好が強いビートへとシフトしていたのに、テレビは旧態依然たるオーケストラ・サウンドを使ったため、大きなズレが生じ、そのズレを補正するために大量のカヴァーが生まれた、ということです。

f0147840_22284367.jpgいっぽう、その一年あまりのちにつくられた「スパイ大作戦」のテーマは、おおいに人口に膾炙したにもかかわらず、カヴァーの数は微少、しかも、ロック系、ギター・インスト系は皆無(いや、正確にはヴェンチャーズ盤があるが、ひどい出来なので、存在しないものとみなしてよい!)、というのは、「ナポレオン・ソロ」のテーマと鋭い対照をなしています。

これがなにを示すかは明白です。「スパイ大作戦」のテーマのアレンジ、サウンドは、カヴァーを必要としないほど完成度が高く、しかも、ロック的ニュアンスの「強い」サウンドだった、ということです。いや、この曲は5/4であって、8ビートではないので、あくまでも「強いサウンド」にすぎず、ロック・ビートではありません。しかし、オリジナル・ヴァージョンのリズム隊、アール・パーマーとキャロル・ケイのコンビがモータウン・サウンドのバックボーンであったことを考えれば、この「強いグルーヴ」が生まれるべくして生まれたものであることは明らかです。

プレイした映画の多さからいったら、アール・パーマーやキャロル・ケイより、トミー・テデスコのほうが上でしょう。テデスコはすばらしいプレイヤーでしたが、映画スコアに関しては、極論するなら、彼でなくてもできるものばかりのように感じます。テデスコは無数の映画スコアでプレイしたけれど、映画スコアの本質にはなんの影響もあたえませんでした。

この点が、アール・パーマーとキャロル・ケイのコンビが異なっているところです。観客の好みが変化した結果として、彼らのもっている強いグルーヴが必要とされ、逆に、彼らの強いグルーヴが観客の好みを変化させていったのです。そして、その結果として、保守的な映画やテレビのスコアも、音楽の世界で起きた巨大な地殻変動に追随していくことになったのです。その変化の波頭にあったのが、「バットマン」のテーマであり、「モンキーズ」のテーマであり、そしてこの「スパイ大作戦」のテーマでした。

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by songsf4s | 2009-05-17 22:55 | 映画・TV音楽
Goodbye Girl by David Gates (OST 『グッバイ・ガール』より)
タイトル
Goodbye Girl
アーティスト
David Gates (OST)
ライター
David Gates
収録アルバム
N/A
リリース年
1977年
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いきなりですが、ちょいと引用なんぞしてみます。

 ニール・サイモンは決断を迫られていた。のちにブロードウェイでもっとも客を呼べる劇作家となる彼も、五〇年代にはまだテレビの台本書きで糊口をしのぐ駆け出しライターにすぎなかった。一九五七年四月に娘が生まれ、広いアパートに引っ越す必要に迫られたが、仕事はうまくいっていなかった。
 「一九五〇年代半ば、どこかの電気の天才が、東海岸から西海岸まで全テレビ局をつなぐ同軸ケーブルを拾って壁のソケットに突っ込み、それで全米がつながるとわかったとき、私のニューヨークでの日々は残り少なくなってしまった。当時より四〇年さかのぼった映画界と同様、テレビ界は若者たちをひっさらって西へと移って行った。カリフォルニアには、どこよりも広い撮影所のスペースがあった。戸外のシーンを撮影するのに必要な太陽と、ロンドンのシーンに必要なスモッグがあった」(『書いては書き直し――ニール・サイモン自伝』より、酒井洋子訳)

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 結局、この年、ニール・サイモンはカリフォルニアに引っ越すことになる。ジェリー・ルイス・ショウの仕事が入ったのだ。『裸足で散歩』の大ヒットで、ブロードウェイの劇作家として名をなすには、まだ五年の歳月が残っていた。
 ニール・サイモンは、いかにも彼が書く芝居のように、皮肉な視線でテレビ界の変化をとらえているが、ハリウッド映画界も、サイモンと同じように、生きるためにもがき、節を屈したのである。彼が経験した災難は、ハリウッドを襲った大艱難辛苦の小さな余波にすぎなかった。


引用したら、ふつうは出典を明示するのですが、以上は、まだタイトルが決まっていない、したがってまだ出版もされていない本、すわなち、まだわたしと編集者しか見ていない、原稿段階のものからもってきたので、出典の書きようがないのです。わたし自身は、『音楽都市ハリウッドの黄金時代――ヒット曲はいかに「製造」されたか』というワーキング・タイトルを使っていますが、今後の版元との話し合いのなかで、これは変更されるかもしれません。

いずれにしても、この本がどうなるかは、ここでは重要ではありません。『グッドバイ・ガール』の脚本家であるニール・サイモンがかつてそういう日々を過ごしたことがあった、ということを知っていただくために、二度同じことを書くのを避け、ちょうど書いたばかりのセンテンスを貼りつけただけです。

◆ コード進行とハーモニー ◆◆

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本日の曲は、1978年製作、ハーバート・ロスの『グッバイ・ガール』の主題歌、デイヴィッド・ゲイツ歌うGoodbye Girlです。なんだか変だなあ、と思い、いま確認したのですが、映画の原題はThe Goodbye Girlで、定冠詞がつきます。しかし、デイヴィッド・ゲイツの曲はGoodbye Girlと冠詞はありません。どうでもいいようなことですが、映画製作者、ゲイツ、それぞれに意図があってのことなのでしょう。

もうひとつ説明しておくと、どうやらこの映画のOST盤は存在しないようです。わたしの手元にあるのは映画だけで、盤はもっていません。これでは心もとないので、いちおうゲイツのアルバムに収録されたヴァージョンのファイルだけは入手して、聴くだけは聴いてみました。たぶん、映画に使われたのと同一のテイクです。



子どものころとはちがって、大人になってからは、映画館を出たその足でテーマ曲を買いに行くなどということはほとんどなくなりました。その気になるような曲には出合わなかったからです。ラヴ・ストーリーはあまり見ない人間なので、『グッバイ・ガール』も映画館には行かず、あとからテレビで見ました。ラヴ・ストーリーだからではなく、ニール・サイモンのオリジナル脚本なので、コメディーであり、きっと、笑えるラインがいくつかあるだろうと考えただけのことです。

さすがはニール・サイモン、予想したとおり笑えるセリフがかなりあって、映画館で見るべきだったと反省しましたが、最後に流れた曲がまたけっこうで、子どものころなら、帰りにシングル盤を買っただろうと思うほどの出来でした。テレビで見ていては、そういう気分にもなりにくいわけですがね。

Goodbye Girlは基本的にはシンプルな曲で、予定調和的なメロディー、コード進行になっています。それはそれでべつに悪いことではなく、映画の主題歌の場合は、むしろそのほうがいいかもしれないと思います。しかし、ちょっとだけ「ほう」と思わせる箇所があるのです。

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この曲のキーはEbなのですが、煩瑣になるのを避けるため、以下、どの音もコードも、半音あげてEをキーにして書きます。

サンプル

まずコーラスの尻尾、「If you wake up and I'm not there, I won't be long away」の終わりのほうは、AからAmへの移行なのです。何度も同じことを書いているような気がしますが、60年代にはしょっちゅう耳にしていたこのパターン(最初に覚えたのはI Saw Her Standing Thereでのことだった)が大好きで、これが出てくると、おっ、やってるな、とニッコリしてしまいます。デイヴィッド・ゲイツも60年代に裏方として大活躍した人なので、ちょっとノスタルジックな気分で、昔はクリシェだったのに、70年代後半にはあまり顧みられなくなっていた、このコードの遷移を放り込んだのではないでしょうか。

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もうひとつ、やはりコーラスですが、一度目と二度目のdoesn't meanの歌い方を変えたところも気に入りました。最初のdoesn't meanのメロディーは、

Eb E  Eb  E  Eb  E B Db
goodbye doesn't mean forever

なのですが、二度目は

Eb  E  F#   Eb B
goodbye doesn't mean

なのです(何度かスペースを書き換えてみたが、うまくいかないのであきらめた。「だいたい、そのあたりにその音が来る見当」ぐらいに受け取っていただきたい)。この変化が面白くて、一度聴いただけで記憶しました。

さらにもうひとつ好ましいのは、ダブル・リードのギターのフレーズにもいくつかいいものがあることです。年をとってくると、強烈なインプロヴからはだんだん遠ざかり、こういうきちんと設計されたプランにしたがって、サウンド作りに奉仕することだけを目的とした、「自分を殺した」プレイのほうが好ましく感じられるようになるのでしょう。盤をもっていないので、だれがプレイしたかは知りませんが、ゲイツ自身でしょうかね?

◆ またもやタイトル話 ◆◆
映画のタイトルがThe Goodbye Girlと、定冠詞付きになっている理由は、「さらば、恋人よ」(Goodbye, girl)という呼びかけではなく、「さよならさん」という名詞節なのだということを明示したかったからでしょう。アソシエイションのNever My Loveや、ジム・スタフォードのMy Girl Billは、ほんとうならNever, my loveやMy girl, Billと書かなければいけないのに、なんらかの理由でカンマを省略してしまったのとは、この映画のタイトルはちがうのです。

なんだって「さよならガール」かといえば、いつもサヨナラばかりいっているからではなく、いつもサヨナラばかり「いわれている」からです。映画の冒頭、マーシャ・メイソン扮する「さよならガール」ことポーラは、男に逃げられただけでなく、その男から部屋を転貸されたといって、鍵と書類をもった男(リチャード・ドレイファス)にアパートに乗り込まれてしまいます。あれこれあったあげく、アパートをシェアするということで、とにかく物語がはじまることになります。

ここでわたしは、子どものころに見た日本製テレビドラマを思いだしました。たしか小学校のときに見たもので、もうほとんど覚えていないのですが、浅丘ルリ子と石坂浩二の主演で、同じようなシテュエイション・コメディーを見た記憶があります(芸能界のことはまったくなにも知らない人間なので、あまり信用しないでいただきたいが、このドラマがきっかけでこの二人は結婚したのではなかったと思う)。

子どものころからアメリカ人いうところの「シットカム」、シテュエイション・コメディーが好きな人間なので、こういう設定についての記憶はまちがっていないと思います。設定だけで芝居がつくれるわけではなく、それを生かせるかどうかで書き手の価値は決まるのだから、設定だけでどうというわけではありませんが、後先を明らかにしないのもまたいいことではないでしょう。

f0147840_0492591.jpgそもそも日本のドラマは、フランク・キャプラの『或る夜の出来事』をヒントにしたにちがいありません。大人になってこの映画で、いわゆる「ジェリコの壁」、シーツによる間仕切りを見たとき、あっ、あの浅丘ルリ子のドラマだ、と記憶がよみがえりました。こういうことには、深い根っこがあったりするので、キャプラもまたなにかをヒントにしたのかもしれませんが、それより古い事例は、わたしは知りません。

ということで、『グッバイ・ガール』もそうしたパターンに収まる話ですが、味つけはいかにもニール・サイモンらしく、じつにバランスがとれているし、(そういうものがお嫌いでなければ)バックステージものの楽しさもあります。なんたって、主人公は役者とショウ・ガールですから、サイモンが通暁している世界を背景にしているのです。

◆ デイヴ・グルーシンのスコア ◆◆
f0147840_0541077.jpg冒頭に、ニール・サイモンが広いアパートに移りたがっていたことを書いた理由はもうおわかりでしょう。彼の出世作『裸足で散歩』も、いわば「アパートがテーマのドラマ」でした。もちろん、わたしは映画でしか知りませんが、あのアパートでの階段シークェンスの可笑しかったこと!

ニール・サイモンはアパートになにか固着をもっている、とまではいいませんが、『裸足で散歩』も、『グッバイ・ガール』も、彼の生活そのものに強い根を張ってから、徐々に芽を出した設定なのだろうと感じます。どちらもいたってニューヨーク的で、アンチ・ハリウッド的なニュアンスをもっています。「あんなヤシが生えるような土地でまともな喜劇が書けるはずがない」といって、早々にハリウッドに見切りをつけてNYに逃げ帰った作家らしい手触りです。

ウディー・アレンはきっと、サイモンの理想とする「喜劇の誕生するにふさわしい環境」という概念に賛成するのではないでしょうか。『アニー・ホール』で、ポール・サイモン扮するポップ・シンガー(ぜんぜん「扮して」いないか!)のハリウッド的なノリにさんざん毒づくところはおおいに笑いました。

気に入ったラインのひとつ二つをコピーして、翻訳を試みようかと思ったのですが、時間切れとなってきたので、最後にスコアのことを。

主題歌はデイヴィッド・ゲイツの作ですが、音楽監督はデイヴ・グルーシンで、したがって、スコアもグルーシンが書いたことになります。テーマは一度見ただけでおおいに気に入ったのですが、スコアについては忘れてしまいました。今回見直して、じつに控えめで、上品で、好ましいスコアだと感心しました。

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タイトルバックは、ゲイツの歌ではなく、インストゥルメンタルなのですが、これはゲイツのテーマの一部をモティーフにしています。こういう形というのは、ありそうでないだろうと思います。つまり、だれかが書いたテーマ曲を、音楽監督が自分のスコアに取り込む、ということです。とりわけ、ポップ系の人が書いたシンプルな曲を、ジャズ・ミュージシャンがスコアのモティーフとして利用する、というこの『グッドバイ・ガール』のようなパターンは、です。

だれかに強いられたことかもしれませんが、どうであれ、このような形で、あらかじめ「テーマ曲の予告篇」を見せておくのは、非常にいいことだと思います。テーマ・ソングがエンディング・タイトルのときだけ流れる形の場合、たいていはロック系のテーマと、スコアが水と油で、索漠たる思いをしますが(曲がヒットして、それが映画のヒットにつながれば儲けもの、という見え透いた根性が耐えがたい)、このようにスコアのほうがテーマに歩み寄ってくれると、いい映画音楽ができるあがることがよくわかりました。

それから、我田引水ですが、グルーシンがテーマをモティーフとしてスコアを書く気になったのは、上記のような、クリシェだらけのなかに、ちょっとだけ仕込まれた意外な展開があることが気に入ったからかもしれない、とも思いました。
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by songsf4s | 2009-05-15 23:20 | 映画・TV音楽
All for the Love of Sunshine by Hank Williams Jr. (OST 『戦略大作戦』より)
タイトル
All for the Love of Sunshine
アーティスト
Hank Williams Jr. (OST)
ライター
Mike Curb, Harley Hatcher, Lalo Schifrin
収録アルバム
Kelly's Heroes (OST)
リリース年
1970年
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f0147840_0395528.jpgたとえば、そうですねえ……『結婚しない女』という邦題の映画がありました。フェミニズム(というより、まだ「ウーマン・リブ」といっていたと思うが)の映画なのだと誤解され、そこそこ評判になりました。しかし、原題を見るとAn Unmarried Womanで、これをそのまま訳すと『未婚の女』『離婚した女』『連れ合いに先立たれた女』となり、内容に即していうと真ん中の『離婚した女』が正解。しかも、あろうことか、中身は一所懸命に再婚しようとする話で、タイトルとは正反対でした。もうウーマン・リブに力を借りる必要はないので、『結婚したい女』と改題したほうがいいでしょう。

かつて、邦題というのは、だいたい以上のような嘘っぱちと思っておけばまちがいありませんでした。羊頭狗肉、針小棒大、実質とは無関係なまがい物です。お茶の贈り物をいただき、ご大層な桐の箱を開けたらティーバッグが転がり出た、てなあたりだと思っておけば安全です。

だから、カタカナばかりになってしまったいまどきの邦題も困ったものだと思いつつも、昔のインチキ邦題にくらべればずっと誠実なのだと自分に言い聞かせ、腹を立てないようにしています。たとえば『コラテラル』というタイトルの意味がわかった人はほとんどいないでしょうが、それでかまわないのです。

f0147840_0402796.jpg子どものとき、じっさいには見なかったのに、ものすごく気になったタイトルがあります。『トプカピ』『トブルク戦線』『マラカイボ』などです(見たけれど、やっぱり意味がわからなかったものとしては『シャレード』『アラベスク』なんていうのもある)。地名などの固有名詞だから、子どもが知らなくても当然ですが、語感のせいで記憶に残り、空想を誘いました。

ほんとうは逆の例のほうがおなじみです。意味はわかるけれど、記憶できない、というタイトルです。いま、例として思い浮かんだのは、ブライアン・デ・パーマのObsessionの邦題です。調べてみたら『愛のメモリー』という、電卓が人間に恋をするファンタスティックな話かと思うような邦題だそうで、「メモリー」を忘れちゃしようがねえな、とは思ったものの、こんなひと山いくらのタイトルでは、またすぐに忘れてしまうでしょう。

f0147840_0423899.jpg愛のなんとか、恋のなんとか、青春のなんとか、哀しみのなんとかは、みな忘れてしまいます。ほら、シナトラ親子のSomething Stupidの邦題、なんていったっけ、愛のなんとか、ちがうか、恋のなんとかか、なんて会話をわれわれはしょっちゅうしています。たしかに「恋の」はすぐに記憶しますが、そのあとにつづくものは山ほどあって、記憶したと思った直後には、もうほかのものと紛れています。記憶のメカニズムからして当然ですが、「恋のひと言」のひと言がどうしても出てこなくなってしまうのです。

シドニー・ポラックのThey Shoot Horses, Don't They?という印象的な映画がありました。これも邦題を忘れ、たしか、青春のなんとかだったな、と思ったのですが、調べてみると『ひとりぼっちの青春』だそうです(このタイトルはすでに何度も忘れているので、またすぐに忘れ、また調べることだろう!)。「馬は撃ち殺されちゃうんでしょ?」という子どもの悲しい問いかけをタイトルにした、ホレース・マコーイの印象的な小説も、輸入会社にかかっては形無しです。さすがに当時の出版社は輸入会社ほど恥知らずではなかったらしく、小説のほうは『彼らは廃馬を撃つ』というタイトルでした(いや、それは雑誌掲載時のことで、文庫本は映画に合わせたかもしれない)。

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タイトルにおいては、意味はかならずしも最優先事項ではないのです。だいじなのはイマジネーション喚起力だけです。愛、恋、青春、哀しみ、という制服の帽子をかぶったとたん、その下の個性は消去されます。『愛と青春の旅立ち』と『ひとりぼっちの青春』という、共通点といえるものがまったくない映画が、同類のようになってしまい、われわれを混乱させることになります。

◆ 愛と青春の戦場のケイパー ◆◆
高校一年だったか二年だったか、学校で友だちから招待券をもらい、どういう映画か知らぬまま、その日の夕方、横浜・馬車道のロードショウ館に行きました。もう期限が迫っていたので、捨てるかわりにわたしにくれたのでしょう。

看板を見上げると『戦略大作戦』と書いてありました。クリント・イーストウッド、テリー・サヴァラス、それに中学のときに見た、ミュージカルのような、そうではないような変な映画『ジョアンナ』(ジョアナなのだが!)で一目惚れしたドナルド・サザーランド、というキャスティングはおおいに魅力的でした。



『戦略大作戦』というタイトルから想像するのは、『史上最大の作戦』とか、『トラ・トラ・トラ』とか、もうすこし小さくても『パットン戦車軍団』ぐらいのスケールで戦争を描いた映画です。映画輸入会社の無教養社員は知らなかったのかもしれませんが、クラウゼヴィッツのようなヘヴィー級を持ち出すまでもなく、「戦略」strategyというのは、サンダース軍曹あたりがあずかり知らぬところで決定される「国家規模のマクロな戦争プラン」のことです。サンダース軍曹は「戦術」tacticsのさらにサブ・レベルである「戦闘」combatの世界のキャラクターです。

昔はそんな呼び方はきいたことがありませんでしたが、現代では軍艦の艦橋の中心部分は「戦闘指揮所」(CIC=Combat Information Center)と呼びます(映画でご存知だろうが、現代のブリッジは戦艦大和の艦橋とは似ても似つかぬ姿で、どちらかというと鉄道の運行監視センターに似ている。「海の見えるコンピューター・センター」といったあたりで、操舵もディジタル制御なので、舵輪すらない! 一度、護衛艦のCICを見学したが、あるべきところにあるべきものがないと、じつに頼りないものだと思った。舵輪がないなんて、個人的には船としての資格を欠如していると考える)。けっして「戦略指揮所」とはいいません。「戦略」は地面の上で星がいっぱいついた制服を着た人たちが考えることで、海の上では軍中枢の戦略策定システムから下ってきた命令にしたがって「戦闘行動」をするだけなのです。

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さて、『戦略大作戦』です。クリント・イーストウッドが大統領、テリー・サヴァラスが国防相、ドナルド・サザーランドが参謀長、なんていう戦略規模の話ではありません。戦術規模の話ですらありません。テリー・サヴァラス率いる歩兵小隊と、ドナルド・サザーランド率いる戦車小隊というわずかな戦力で、クリント・イーストウッドのプランにしたがって、前線の向こう側、奥深くへと侵入していく「作戦」です。

これを戦争映画といっていいかどうかすらも微妙です。戦争は添え物、背景、景物、おまけじゃないでしょうか。本質はケイパー・ストーリー、すなわち犯罪コメディーです。第二次大戦を背景にしたケイパー映画であって、ケイパーをサブ・プロットとした戦争映画ではないのです。

◆ “非戦”映画かドロボーものか ◆◆
と書いてから、うーん、それは即断がすぎるかもしれない、と思いなおしました。たとえば、冒頭、イーストウッド扮するケリーがナチスの将校を捕虜にして連れ帰ります。すると、テリー・サヴァラス扮するビッグ・ジョーが、そんな男じゃ役に立たないとケチをつけます。どういう「役」かというと、これから進軍していく先にある最良のホテルはどれか、いい女はいるか、といったことに通暁している、観光ガイド類似のドイツ兵を必要としていたのです。ジョーのセリフじゃないですが、「ミシュランでも見ろ」です。

この将校が金の延べ棒をもっていたことから、ケリーは彼を酔いつぶし、前線の向こう側の銀行にとほうもない量の金塊があることを聞き出して、それを強奪しようと決意するにいたり、物語が動きはじめます。兵站部の責任者、砲兵隊の下士官、戦車小隊のチーフ(サザーランド扮する“オッドボール”)と、金塊をちらつかせては、必要な人間に抱き込んでいき、最後にビッグ・ジョーを説得して、ドイツ側駐屯地への砲撃の援護を受けて、いよいよ金塊強奪に出発、とあいなります。

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だれも黄金の魔力には勝てない。現物をドンと目の前に置かれ、みなつぎつぎと仲間に引き入れられていく。イーストウッド、サヴァラス、サザーランドほどではないにしても、この「クラップゲーム」に扮したドン・リクルズもなかなかよかった。

進軍中に間違って味方に爆撃されて車輌を失ったり、これから通ろうとしていた橋を爆撃され、サザーランドがカフェから電話をかけ、工兵隊を買収して橋を届けさせたり、大音響でカントリー・ミュージックを流して攻撃したり、かなり無茶な「戦争映画」です。戦争の真っ最中だということをのぞけば、綿密な計画とその遂行、思わぬ誤算による笑い、というケイパー・ストーリーの特徴をすべてもった映画です。



大詰め、銀行の前に陣取ったタイガー戦車をどうにかしようと、ケリー、ビッグ・ジョー、オッドボールの三人が、ドイツの戦車長を説得します。



ジョー「おまえも俺もただの兵隊だ。この戦争がなんのためのものかすらも知りゃあしない。俺たちはただ戦って死ぬだけだ。それでなんになる? なんにもだ。いいか、30分もすればアメリカの部隊がこの道をやってくる。自分に褒美をやるつもりで、さっさと逃げ出したらどうだ」
ドイツ兵「わたしは命令を受けている。この銀行をアメリカ軍の手に渡してはならない、と」
ケリー「この銀行はアメリカ軍の手には渡らない。俺たちの手に渡るんだ。わかるだろ? いってみればこれはただの私企業の営業活動みたいなものさ」
ドイツ兵「おまえたちはアメリカ軍だ」
ケリー「いいや、ちがう」

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「俺たちはアメリカ軍じゃない。私企業といったところさ」 この場面ではイタロ・ウェスタンを連想させる、ゴングを使った音楽が流れる。

というようなぐあいで、敵味方のあいだで、考えようによってはひどくアナーキーな会話が交わされます。サタイアととろうが、ジョークととろうが、それは見るほうの勝手でしょう。『戦略大作戦』ないしは『ケリーのヒーローたち』も皮肉な戦争映画、くそ真面目で真っ暗で退屈な「反戦映画」と区別するなら、おおいに笑える「非戦映画」といえます。

同じ年に、戦争に対するアプローチがこの『ケリーの英雄たち』によく似た『マッシュ』も公開されていることを考えると、これは時期が同じだから偶然、似たようなノリになった、などということではなく、やはり、ヴェトナム戦争を色濃く反映した結果なのでしょう。

◆ 挿入曲の意外な正体 ◆◆
さて音楽です。この映画のテーマ曲、マイク・カーブ・コングリゲイション歌うBurning Bridgeもヒットしましたが、今回再見したのは、そちらのほうではなく、オッドボールのシャーマン戦車に搭載された“秘密兵器”である「ラウドスピーカー」から、戦闘シーンで流れる曲が、以前から気になっていたからです。



ものごとというのは、しばしば予想や想定を裏切るものですが、この曲も、わかってみたら、「え、そうなのかよ」でした。1944年という設定だから、ふつうなら、その時代にふさわしい有名な曲を選ぶでしょう。ところがどっこい、そうじゃありませんでした。この映画の音楽監督であるラロ・シフリンが曲を、マイク・カーブ(わたしはこの人物がどうも好かない。彼の会社カーブ・レコードが出す、10曲入りしみったれCDをやむをえず何度か買うハメになったのが、いま思いだしても悔しい)が詞を書き、ハンク・ウィリアムズ・ジュニアが歌った新曲だったのです。

既存の曲を使えばよけいな金を払わねばならないし、(同じコインの裏側だが)自分に印税が入ってこないわけで、どうせ銃撃音や爆発音にほとんどかき消されてしまう曲だ、だれにもわかりはしない(じっさい、わたしはだれのなんという曲なのか、今回たしかめるまで知らなかった)、自分で曲を書こう、なんて思ったのかもしれません。営業的には正しい判断でした。ポップ・チャートではダメでしたが、ハンク・ウィリアムズ・ジュニアのAll for the Love of Sunshineは、カントリー・チャートでは大ヒットしたそうです。ミュージカルでもないのに、二曲もヒットを生むとは、ラロ・シフリンも、この映画の主人公同様、抜け目がありません。



◆ ハリウッド版名無しのガンマン映画 ◆◆
クリント・イーストウッドに関していうなら、この映画にはもうひとつ見るべきところがありました。前述のタイガー戦車長との交渉の場面に明示的にそれが表現されましたが、このケリーという役は、ハリウッドに復帰したクリント・イーストウッドがやっと見つけた、「名無しのガンマン」シリーズの続篇でした。

『奴らを高く吊るせ』は、一見、イタロ・ウェスタン的な道具立てで、そのつもりで見てしまいますが、あの映画の主人公は元保安官で、自分をリンチにした人々に復讐する、正義を希求する人物でした。金を稼ぐだけが目的という、考えようによってはじつにさっぱりして好ましい人物だった「名無しのガンマン」の対極にあるキャラクターだったのです。

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『戦略大作戦』のケリーは、まちがった命令を受けて味方を攻撃してしまい、スケープゴートにされた、という過去を背負った人物、というように説明されますが、そんなことは重要ではありません。だいじなのは、そういう弁解のもとに、国など知ったことか、自由世界の理念などクソ喰らえ、俺が戦争する目的はただひとつ、俺の利益のためだ、という「名無しのガンマン」に瓜二つのキャラクターを成立させられたことです。

話の運びや編集に間延びしたところがありますが、年をとって再見しても、高校生のときと同じように、見終わったあとでじつにさわやかな後味が残るのは、このケリーというキャラクターの、国家とは完全に手を切った潔さのおかげです。

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「問題は橋が無事かどうかだ」

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「よし、橋はあったぞ」

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「いや、もうなくなった」

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「なお、おい、60フィートの橋がいるんだ。なんとか都合してくれないか?」ふつうのカフェで電話を借りて後方の工兵隊の友だちに橋を注文するオッドボール。

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「前線の10マイル向こうに橋をもってこいだと! おまえ、頭はたしかか!」

ケイパーであっても、お笑い抜きのストレートなドロボーものでも、どちらでもいいのですが、みごとに成功し、ブラヴォーと叫んでニコニコ終わるものはめったにありません。成功したかに見えた直後、どのような仕掛けによって主人公たちに失敗させるかが、この分野の物語の成功不成功の決め手だといっても過言ではないほどです。犯罪者が成功する物語は、社会的是認を得にくいというか、そういう結末を喜ばない客も多いのです。

そういう意味で、戦場のドロボーたちが手放しで大喜びし、意気揚々と引き上げていくこの映画のエンディングは、じつは稀なサンプルではないかと思います。戦争を背景にし、ドロボーたちが本来は兵士で、盗みは余暇のバイトにすぎず、ターゲットは「永遠の悪役」ナチスの金塊、という道具立てのおかげで、めったにお目にかかれない、ハッピーエンドのドロボー映画が誕生しました。『戦略大作戦』などという馬鹿げた邦題にダマされてパスしてしまった方も多いでしょうが、これは戦争映画ではなく、ケイパー映画の秀作なのです。コメディーとしてご覧になるべきでしょう。

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by songsf4s | 2009-05-13 23:56 | 映画・TV音楽
Assault On Precinct 13 Main Theme by John Carpenter (OST 『要塞警察』より)
タイトル
Assault On Precinct 13 Main Theme
アーティスト
John Carpenter (OST)
ライター
John Carpenter
収録アルバム
Assault On Precinct 13 (OST)
リリース年
1976年
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El Deguelloに関する勘違いは、前回の『アラモ』その2で「清算」したつもりだったのですが、そうは問屋が卸さず、詰めが甘かったことが判明しました。

今回の『要塞警察』で『リオ・ブラヴォー』から連想する映画は終わりにするつもりで、前者が後者から引用したシーンのスクリーン・キャプチャーをしようとしたところ、目的のショットの直前で、ホテルの名前が見えたのです。

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ご覧の通り、ホテルの名前は「アラモ」。リッキー・ネルソンがライフルをジョン・ウェインに投げるこのシーンは、『要塞警察』に引用された。ところで、リッキーは座頭市になったつもりか、目をつぶって撃っている。ガンスモークは目にしみるからね。しかし、天性の素質は恐ろしいもので、これでもちゃんと相手を斃した!

あらら、でした。ぜんぜん気づいていなかったわけではないのです。「アラモ」とはまたホテルにしては奇妙な名前だ、と思ったのに、それは一瞬のこと、それきりで忘れてしまったのです。いやはや。ということは、ハワード・ホークスは、『リオ・ブラヴォー』を『アラモ』の籠城戦のヴァリアントとしてつくったと解釈していいのでしょう。

そうみなして検索したところ、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の「五十歳を迎え、依然としてポピュラーでヒップな『リオ・ブラヴォー』」という記事にぶつかりました。今年、公開からちょうど半世紀たったので「五十歳」というわけです。この記事の筆者は、『リオ・ブラヴォー』は守備側のテキサス軍が勝ってしまう『アラモ』としてつくられたのだ、だからホテルの名前が「アラモ」であり、El Deguelloが使われているのだ、といっています。

ただし、この記事は、El Deguelloはティオムキンが書いた、としていますが、わたしのほうは、前回の記事で、ティオムキンはEl Deguelloを「書いた」わけではなく、トラッドをアダプトしたのだという結論に達しています。トラッドのアダプテーションには著作権があたえられるので、それを「書いた」といえなくはありませんが、それでもなお、「作者」の考察としては不正確の誹りを免れないでしょう。『リオ・ブラヴォー』のEl Deguelloがジョン・ウェインのお気に召して、『アラモ』にも使われることになった、とも書いていますが、これまた首肯できません。いや気に入ってもかまわないのですが、El Deguelloは『アラモ』には不可欠の曲なのだから、好き嫌いは使う使わないの判断とは無関係でしょう。

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こちらは『要塞警察』のライフル・トス。これが野球で、セカンド・ベース上の6-4-3のダブル・プレイだとしたら、トスが高すぎて足がベースから離れ、セーフになってしまっただろう! 予算10万ドルでは、この程度のミスでリテイクとはいかない。

◆ 3コード、リフ・ドリヴン ◆◆
昔、ジョン・カーペンターはハワード・ホークスのファンで、『リオ・ブラヴォー』の設定を借りて『要塞警察』をつくった、ということを読んだ記憶があります。調べてみたところ、カーペンターのオフィシャル・サイトに採録された古い新聞記事で、これははっきりとコンファームされていました(興味深いのは、当時、彼と同系統の作家とみなされていたブライアン・デ・パーマを批判していること。カーペンターのいうとおり、デ・パーマはコピーキャットの傾向が強かった。当家でもいずれデ・パーマ作品を取り上げる予定)。

映画そのものからのクリップはないので、かわりに、Assault on Precinct 13のテーマとモンタージュ映像を組み合わせたクリップをどうぞ。



監督自身が弾くアナログ・シンセのシンプルなフレーズとコード、それにプログラムされたリズム・ボックスの「ハイハット」「ブラシ」「キック」「タム」(どれも本物の音にはあまり似ていない!)のリズムだけという、例によってカーペンターお得意のミニマル・ミュージック風テーマです。コードはAm-C-Gのみ、シンセのリックはA-A-A-C-A、C-C-C-E-C、G-G-G-B-Gの3種のみ、ナメてんのか、というような究極のシンプリシティーです。しかし、この簡明さが随所で大きな効果を上げるのだから、映画音楽とはなんだろう、と考え込んでしまいます。

Halloween Themeの記事でも書きましたが、カーペンターの音楽スタイルの基本はリフ・ドリヴンであることです。リフをこのように扱うことで知られる音楽形式は、ロックンロールにほかなりません。カーペンターのスコアにはストレートなロックンロールはそれほどたくさんありませんが、彼が本質的にロック・エイジのミュージシャンであることは、このAssault on Precinct 13のテーマからもはっきりと感じとることができます。

◆ モデュラー・スコアリング ◆◆
一昨年のハロウィーン当日に、ジョン・カーペンターの第三作である『ハロウィン』の音楽を取り上げ、そのときに『要塞警察』についても書いているので、ぐあいが悪いのですが、重複は気にせずに進めさせていただきます。

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『ハロウィン』の予算は30万ドル、その2年前につくられた『要塞警察』は、当然ながらさらにロウ・バジェットで、わずか10万ドルだったそうです。日本では1970年前後に、ATG(アート・シアター・ギルド)という組織が「1000万円映画」というのを製作していたのですが、そのときも、この制約がいかに大変かということがいわれていました。カーペンターの処女作『ダーク・スター』は、結果的に本編に拡大されたとはいえ、基本的にはUSC映画学科在籍時に撮影した学生たちの短編映画。プロとしての実質的処女作はこの『要塞警察』です。物価の高いLAでつくるのだから、カーペンターはその「処女作」を、ATGの1000万円と懸隔のない、きびしい制約のなかでつくったことになります。

しかし、家貧しくして孝子顕わる(ちょとちがうか)、人間、金がないと工夫を凝らすもので、いま振り返ると、ジョン・カーペンターが冴えていたのは、この貧しい時代だったと思います。

貧しさが生んだ最高の果実は、彼のスコアです。自分で書き、自分でプレイすれば節約できると考えた、と監督自身が回想していますが、それはなかば謙遜だろうと思います。いくら節約できるからといって、なにも目算なしに自分の映画のスコアを自分で書こうなどとは考えないはずです。結果から逆算すると、カーペンターは、新しいスタイルの映画スコアをつくろうという野心ももっていたのではないかと思います。

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金がないため、編集も変名で監督自身がやった。この「ジョン・T・チャンス」という名前は、『リオ・ブラヴォー』でのジョン・ウェインの役名をそのままもらったものだった。

録音スタジオではフィルムを参照できず、記憶でプレイしたというのだから、コンダクターがフィルムを見ながら録音する、ハリウッドのノーマルなスコアとは基本的なところですでに大きく異なっています。カーペンターがやったことは、この「参照できない」という制約と無関係ではないのですが、「モデュラー化」したスコアの確立と要約することができます。想像するにカーペンターは、各シーンをたとえば「不安」「気配」「緊迫」「弛緩」といったタイプに分類し、そういうキーワードに当てはまるモデュールをつくったのではないでしょうか。基本的にはストック音源(「キュー」)のようなものをつくり、「その映画のなかだけで使いまわす」という考え方なのです。

モデュールのひとつは、テーマの上ものを削除した「曲」です。リズム・ボックスによる、16分のハイハットと、そこに重ねられるクレシェンドのブラシ、そして、この単純な繰り返しのどこかにタムタムのような音が加えられる、という「緊迫」パターンです。打楽器のシミュレート音だけ、音階はなしなんだから、恐れ入ってしまいます。

これと同じパターンで、すこしテンポを速くすると(機械なのだから、テンポのつまみをちょっとまわすだけ!)、緊迫感の高まりが表現されます。安直といえば安直、でも、これ以上は考えられないほど簡明で、E=MC2のように美しいともいえます。究極の単純さにたどり着けるのは、非凡な人間の特質です。

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ヒロインの役名は「リー」。これまた、『リオ・ブラヴォー』のシナリオ・ライター、リー・ブラケットのファースト・ネームを頂戴した。ブラケットはSF作家としても有名で、夫はエドモンド・ハミルトン。彼女がシナリオを書いた『ロング・グッドバイ』ではじつに異色のフィリップ・マーロウが登場したが、最初の違和感を乗り越えると、これはこれで悪くないと感じられる人物像だった。

◆ 安直な、あまりにも安直な ◆◆
脇道に入りますが、タイトル失念の「Xファイル」の長尺もので、車が爆走するのをヘリで空撮した場面があって、ここで流れた「音楽」にはズルッとなりました。ボンゴの音(本物ではなく、MIDI)を16分で鳴らし、ときおり「オーケストラ・ヒット」というサウンドを、ジャン…………ジャンジャン! などというようにスタカートで入れるのです。

一見、これはカーペンターのミニマリズムに似ています。でも、これなら、わたしでも思いつく、というか、思いついとたん、いくらなんでも安直だ、ダサい、と即刻流産させてしまうにちがいない「キュー」です。アイディアとしては下の下、MIDI音源とシークェンサー・ソフトがあれば3分でつくれてしまうし、どこにも工夫なし、これで金を取るのかよ、ウソだろ、というスコアです。カーペンターのスコアと、このXファイルのスコアの落差はなんでしょうかねえ。

カーペンターが窮余の一策として『ダーク・スター』のときからやりはじめたミニマル・スコアは、その段階では一般的ではなかったのですが、80年代に入ると、ディジタル・シンセサイザーの登場によって、この種のスコアはクリシェと堕し、われわれ観客をウンザリさせることになります。これは手法や形式に着目してなにかいったところで、たいした意味はない、ということを示唆しているのかもしれません。問題は、いかに発想するか、いかにrenderするかにあるのであって、手法は付随的なことにすぎないように思えます。

◆ ミニマルのミニマル ◆◆
ミニマリズムの行き着くところは、Assault on Precinct 13のサントラ盤ではBlood OathやLawson's Revengeというタイトルになっている、アナログ・シンセによる1音だけの「キュー」です。ただ「ラ」を途切れなくずっと鳴らしているだけなので、指を使う必要もなく、テープでも貼りつけてキーを押し下げたままにしておくのでも大丈夫という、いやはやなんとも、という効果音です。

文字で読むとひどく馬鹿馬鹿しく見えるでしょうが、映画のなかではこれがちゃんと効果を上げているのです。これをちょっと複雑にしたものとしては、2種類のシンセのトーンを重ね、同じようにずっと「ラ」を鳴らしつづけるSanctuary、The Seige、Calm、Marked for Somethingという「曲」もあります!

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「弛緩」をあらわす曲はひとつだけ。Julie、Walking Outなど、さまざまなタイトルがつけられていますが、どれも同じもので、エレクトリック・ピアノでAmからはじまるアルペジオのようなものを弾いているだけです。

あとは、リズム・ボックスのハイハット、ブラシ、キック、タムタムによって緊迫したシーンを演出するだけなのだから、たいしたものだと思います。フィルムのリズムと音楽のリズムの両方に通暁していたからこそ、こういう一見「手抜き」のサウンドでも、「うまい!」と納得させられるのでしょう。

詰まるところ、センスのあるなしが重要であり、こういう手法でだれもが成功できるわけではないのですが、後続の若い映画音楽作曲家のなかには、カーペンターを手本として、まちがったスコアを書き、映画音楽を混乱に陥れた人たちがいたのは、皆様ご記憶のとおり。

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ストリート・ギャングの武器はみなサイレンサー付きなので、発射音はなく、着弾音だけなのだが、それがじつに怖い。ものをつくるというのは、結局、細部をどう表現するかに帰着するのだが、このデスクの上の書類を弾丸が貫くショットはすばらしいディテールだった。

物事というのはえてしてそうなるもので、オリジナルが登場したときは新鮮だったものが、追随者のせいで諸悪の根源にまで堕落することがあります。たとえば、ル・コルビュジエの初期の建築は面白いと思いますが、その影響下に生まれたインターナショナル様式の建築は醜悪なだけです。残念ながら、ジョン・カーペンターは映画音楽の世界でコルビュジエになってしまったとわたしは思っています。

◆ 鍵をかけ、窓を閉じ、魔物にそなえよ ◆◆
日本俗名『要塞警察』こと本名『13分署襲撃』は、原題のとおり、警察署がストリート・ギャングの襲撃を受けるという話です。この分署はすでに移転のために閉鎖され、残務整理の人間が一握りいるだけ、したがって武器もほとんどなく、「要塞」どころか、オフィス・ビルと大差ありません。

いえ、それはどうでもよくて、『リオ・ブラヴォー』とどこが決定的にちがうかというと、襲いかかるストリート・ギャングが、死の恐怖をまったくもたないかのごとく(変な言い方ながら)「黙々と」襲いかかり、黙々と死んでいくことです。思い出すのはジョージ・A・ロメロのゾンビ映画『Night of the Living Dead』です。カーペンターがロメロを意識していたかどうかは知りませんが、すでに、恐怖映画への嗜好が『13分署襲撃』の段階ではっきりと感じられます。第三作がストレートな恐怖映画『ハロウィン』(『ハロウィーン』と書けよ>輸入会社)になったのは筋の通ったステップだったのです。

恐怖映画というのは「籠城もの」のヴァリエーションになりがちで、『ハロウィーン』につぐ第四作『ザ・フォッグ』も、籠城ものだったような気がして、再見してみました。しかし、これは微妙な灰色領域で、最後の教会のシーンは籠城パターンですが、それがプロットの肝心要とは断じがたいものでした。『ザ・フォッグ』も単独で取り上げようかと思ったのですが、結局、思いとどまりました。



このテーマもけっして悪くはありません。いいコード進行だな、とは思うのですが、これはやはりどう見てもHalloween Themeの二番煎じ、同系統のコード・チェンジを利用していますし、そのコードの上に載るリックの出来はあちらのほうが数段上です。ただし、この映画では音楽の使い方がいたって控えめになり、音楽監督としてのカーペンターが成長したことが感じられます。映画自体の出来は、公開当時も不発と感じましたが、今回再見しても、やはり、ここでいったんギアを落とした、という印象は変わりませんでした。

『ザ・フォッグ』の霧を見ているうちに、そういえば、スティーヴン・キングの300枚ほどのノヴェラに、霧がどうしたというのがあったな、と思って検索してみました。The Mistというタイトルだとわかり、ついでに、昨年、映画化されたこともわかりました。これまた、『13分署襲撃』や『ナイト・オヴ・ザ・リヴィング・デッド』と同工異曲で、霧のなかに潜む正体不明のモンスターに襲われて、どこかに籠城するはめになった人々の話でした。チャンスがあったら、この映画版が『リオ・ブラヴォー』の影響を受けているかどうかを確かめたいと思います。
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by songsf4s | 2009-05-11 23:59 | 映画・TV音楽
Tennessee Babe (OST 『アラモ』より その2)
タイトル
Tennessee Babe
アーティスト
OST
ライター
Dimitri Tiomkin, Paul Francis Webster
収録アルバム
The Alamo (OST)
リリース年
1960年
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前回は肝心なことを書き落としてしまいました。なぜ『リオ・ブラヴォー』から『アラモ』を連想したのか、です。二つあります。

ひとつはどちらも「籠城もの」に分類できるストーリーだということです。『アラモ』はストレートな籠城ものであるのに対して、『リオ・ブラヴォー』を籠城ものに分類すると、異論百出の恐れがありますが、中盤までなら、籠城もののヴァリエーションといって大丈夫でしょう。最後に外に打って出る、さらにいえば、城を攻め落とすパターンへの逆転ともみなせる展開になるわけで、籠城ものと攻城もののハイブリッド・プロットといったほうがいいかもしれませんが。

籠城といえば、時代劇ですが、意外にも、わたしは一本も時代劇籠城映画を思いつきませんでした。長い話の一部として籠城が出てくるというのならありそうですが、あれは救援がこないと確実に負け軍になるので(だからこそ鳥居強右衛門が伝説になった)、楽しい話にはならず、物語にしにくいのかもしれません。どなたかご存知なら、こういうのがあるぞ、と教えていただけたらと思います。天草四郎を主人公にすれば籠城ものになりそうですが……。

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鳥居強右衛門は使者として長篠城から岡崎へと向かったのだが、その長篠の戦いと映画『アラモ』には共通点があった。最近は史実かどうか疑わしいという意見が強くなっているが、長篠の戦いでは、織田方は3000挺の銃を用意し、三段の馬防柵の内側に、銃兵隊を三列に並べ、最前列の兵が一斉射すると素早く後尾へ下がり、つぎの弾を装填するいっぽう、かわって前に出た二列目がつぎの斉射をする、というようにして、順繰りに兵を交代させ、先込め銃の欠点である、装填時間の長さを克服したといわれている。『アラモ』でも、テキサス軍は、馬防柵こそ用意していないが、織田勢と同じように、撃っては下がり、装填しては前に出、という循環戦法をとっている。

映画だけでなく、小説もそう簡単には出てこなくて、長考一番、やっとひとつ思い出しました。山田風太郎の『風来忍法帖』です。秀吉の小田原攻めの際に、石田三成らの軍勢に包囲された北条方の支城、武蔵・忍(おし=現・埼玉県行田市)城の籠城戦をあつかっています(忍城についてはこのページなどはいかが)。

いまつくれば、面白い映画になりそうですが、近ごろは時代考証なんかクソ喰らえ、なんだってかまわないんだ、という『戦国自衛隊』リメイクのようなのが当たり前らしく、時代劇の面白さを裏側から支える歴史の制約をはずしてしまうので、出来のよい時代小説の映画化は、むしろしないほうがいいでしょうな。時代考証一切無用のお気楽藤沢周平髷物現代劇のような不出来なものが、いまどきの貧乏日本映画には向いています。

風太郎はこのパターンが好きだったのか、史実からはすこし離れるものの、『海鳴り忍法帖』も籠城ものに分類できる話で、こちらは堺の私兵と松永久秀らの軍勢の戦い(といっっても、戦車やら地雷やらが登場するファンタスティックなものだが!)を描いています。

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山田風太郎『海鳴り忍法帖』(講談社、昭和44年) とくにめずらしい本ではないのだが、ウェブではこの元版の表紙写真が見あたらず、しからばというので、わが家の古書をスキャンした。掃除したのだが、まだホコリがとれず、Photoshopで白くしてしまった。どういうわけか、ウェブでは古い本の写真というのはまず発見できない。いっそ、古書表紙写真ブログでもやろうかという気になった。売り払おうと思って、澁澤龍彦の初版本を片端からスキャンしたばかりだから、それを流用しようかという愚案なり。

◆ またしてもEl Deguello ◆◆
『リオ・ブラヴォー』から『アラモ』につながる道はもう一本あります。音楽です。どういうわけか、『リオ・ブラヴォー』の挿入曲であるEl Deguelloが、『アラモ』にも使われているのです。



両者とも音楽はディミトリー・ティオムキンだし、たしかにEl Deguelloのムードは『アラモ』のほうにふさわしいかもしれません。しかし、ある映画の重要なスコアが、翌年の映画にふたたび使われるというのは、どう考えてもノーマルではないでしょう。「キュー」と呼ばれる、使いまわし用の断片はありますが、これはおおむね短い効果音で、まとまった楽曲ではないのです。

こういうかたちの曲の使いまわしは、ふつうならありえないので、なにか理由があってしかるべきです。調べてみると、やはり、相応の事情のあったことがわかりました。映画の公開の順からいって、El Deguelloは『リオ・ブラヴォー』の曲だと思っていたのですが、これが大ハズレ。本来の「権利」は『アラモ』のほうにあり、『リオ・ブラヴォー』のほうが、いわば「先まわりして流用した」というべきのようです。

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音楽関係のクレジットは二段構えで、くどい。すでに権利関係のトラブルが多発していたのかもしれない。

このアラモ探訪記事によると、El Deguelloというのは「容赦のない攻撃」という意味のトランペットの曲(というか、断片)で、メキシコ軍がアラモを攻撃するときにずっと演奏していたのだそうです。

なんだ、そうだったのかよ、でした。つまり、原曲はものすごく古く、ティオムキンはそれを採譜し、ちょっと変更など加えて、『リオ・ブラヴォー』に使ったことになります。これはみごとにはまって、印象的な場面を演出することになりました。ここまでは上々。しかし、翌年、こんどは『アラモ』の音楽をやることになり、こちらは「歴史上の事実」という金看板を背負っているため、避けるに避けられず、El Deguelloをまた使わざるをえなくなった、ということなのでしょう。

シャボン玉ホリデーなら、ここでクレイジーのだれかが「まぎらわしいことするな!」てんで、洗面器でティオムキンの頭を叩いて、ドギャーンと効果音、はいCM、とゴマかせるけれど、ブログはそうはいかないんだぜ>ティオムキン。まあ、ティオムキンの曲だと思いこんで、調べようともしなかったわたしにも非はあるのですがねえ……。

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ということで、『リオ・ブラヴォー』の記事でやらかしたしくじりの後始末というのも、『アラモ』を取り上げた理由のひとつだったのです。いやまったく、ひどい目に遭いました。

◆ テネシーの幼子 ◆◆
The Green Leaves of Summerも悪くない曲ですが(こっちは大丈夫だろうな?>ティオムキン)、落城後、司令官トラヴィスの家族が放免されてアラモを去っていくシーンで流れる曲が、同系統ではあるものの、なかなかいいのです。



OST盤には、この曲は二種類収められています。ひとつはTennessee Babeのタイトルですが、もうひとつはFinaleというタイトルで、こちらのほうが砦からの退去の場面に流れます。微妙なちがいなのですが、この短いヴァージョンのミキシングのほうがわたしの好みです。

サンプル

また同じことを繰り返してしまいますが、楽曲ももちろんわるくないながら、それ以上にこういう混声合唱というのが非常に魅力的で、いかにも昔のハリウッド映画を見ている気分になります。

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◆ 戦争とミュージシャン ◆◆
それにしても、さすがは玉砕戦の映画、目だつのは寂しげな曲ばかりで、戦闘シーンの音楽は勇ましいのに、そういうのはあまり印象に残りません。

以前とりあげた『史上最大の作戦』で、スコットランド部隊のなかにバグパイプ奏者がいて、「進軍!」のときならまだしも、「突撃!」でも、棒立ちになってプレイしながら歩くのを見て、子どものときはビックリしました。鉄兜(最近、見ない文字だ!)すらかぶっていなくて、例のベレー帽みたいなものだけですからね。もちろん、「身に寸鉄も帯びず」で、武器はなし、バグパイプのみです。

「進軍ラッパ」「突撃ラッパ」というのもありますし、わが国でも戦国時代には陣太鼓を打ち鳴らし、法螺を吹いたそうです。といっても、比喩的にではなく、そのままの意味で、「(法螺貝は)軍陣では号令の合図に用いられたので陣貝ともいわれ、貝役は主将について軍の進退を知らせた。(略)大きい音を出すことから、事実よりおおげさにいうのを〈法螺を吹く〉という」と百科事典にあります。また、うろ覚えですが、中国では戦いのときには銅鑼を鳴らしたそうです。

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そのように戦争と音楽は不可分の関係にあり、ブラスバンドも元をたどれば軍楽隊、マーチばかりプレイするのも当然です。『アラモ』のメキシコ軍は、守備隊のテキサス人やテネシー人が「こんなにきれいな軍隊は見たことがない」と感嘆するほど華麗な軍服をまとっているので、当然、大規模な軍楽隊を引き連れています。

映画には無関係なブラザーズ4のカヴァーをくっつけていますが、ほかに軍楽隊のクリップが見あたらなかったので、以下のをどうぞ。



ドラム・スティックを右に左に、雲霞のごとく飛びくる弾丸をば、発止と叩き伏せ、ちょうちょうと打ち払い、なんてぐあいにはいかないので、軍楽隊もバタバタ死んでいきます。ハル・ブレインによると、朝鮮戦争当時のアメリカ陸軍の場合、軍楽隊に入れたらしめたもので、待遇はいいし、前線には出ないし、そのうえ、いずこも同じドラマー不足、アルバイトで将校のバンドでトラムを叩いたときは、東京から新品のグレッチのセットが空輸されてきたりして、地獄のなかの極楽だそうですが、古典的な軍隊の場合、文字どおり「矢面に立たされ」、まっさきに死んでいくことになるようで、冗談じゃないぜ、です。

戦争でのミュージシャンのヒロイズムなんていうのは御免こうむりますが、そういえば、あの映画のミュージシャンのヒロイズムには子どものときに感激したなあ、と、その映画のタイトルを書こうとして思いとどまりました。これもいずれ取り上げることにします。いや、すぐにということではなく、次回は『リオ・ブラヴォー』をさらに下流へとたどっていきます。

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by songsf4s | 2009-05-09 23:51 | 映画・TV音楽
The Green Leaves of Summer (OST 『アラモ』より その1)
タイトル
The Green Leaves of Summer
アーティスト
OST
ライター
Dimitri Tiomkin, Paul Webster
収録アルバム
The Alamo (OST)
リリース年
1960年
他のヴァージョン
The Brothers Four, the Ventures, the 50 Guitars, Nelson Riddle, Herb Alpert & The Tijuana Brass, Johnny Smith, Patti Page, Frankie Laine, Frankie Avalon, Mantovani
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前々回申し上げたように、今回は『リオ・ブラヴォー』から連想される映画の一本、ジョン・ウェイン監督・主演の『アラモ』(1960年)です。

記憶がややあいまいなのですが、わたしがこの映画を見たのは、公開時ではなく、1960年代後半のリヴァイヴァル上映の際でした。硫黄島かアッツ島か、という玉砕の物語で、心弾むものではないため、子どもとしてはあまり気に入らず、その印象が尾を引いて、再見することもありませんでした。

よけいなことですが、アッツ島につづいて玉砕の運命にあったキスカ島守備隊の脱出を描いた東宝映画『キスカ』は、中学生のときに一度見たきりですが、強く印象に残りました。『キスカ』は「戦闘場面のない戦争映画」で、こういう方法もあったのか、と感銘を受けました。ぜったいに戦いは避け、一目散随徳寺、ただただ逃げるだけ、無事に逃げ切れるかどうか、というサスペンスをドライヴ・メカニズムにした映画でした。映画はアイディアとシナリオで勝負の半分は決まることを証明したといえます。ああいうアイディアがどんどん出てくれば、日本映画もこうまで衰退はしなかったでしょうに。

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キスカ島に翻る日章旗、だとか。

検索すると、YouTubeに予告編があるというので開いてみましたが、もうありませんでした。無料の宣伝を拒否するとはまた太っ腹な。儲かりすぎで、これ以上ブログやYouTubeで宣伝なんかされ、DVDが売れたりするのは迷惑なのでしょう。ともあれ、子どものころに見た東宝の戦争映画のなかで、『独立愚連隊』『青島要塞爆撃命令』『日本のいちばん長い日』などと並んで『キスカ』は気に入っていました。どれもあれきりで、見直していないのですが。

◆ Can't Remember the Alamo ◆◆
アイディアの善し悪しという面では『アラモ』は凡庸で、たんに歴史上の有名な出来事を正面から描いただけの映画です。しかも、われわれにはなじみのない「テキサス革命」(ないしは「テキサス独立戦争」)の転回点となった、アラモ砦(というか、元は「ミッション」=布教拠点の僧院だが)の戦いを題材にしています。いちおう、以下に辞書の記述をペーストしておきます。

「アラモ砦 テキサス独立戦争に際し,テキサス人の小部隊がたてこもったサン・アントニオ(現、アメリカ合衆国テキサス州南部)の僧院。これを包囲したサンタ・アナの率いる約3000のメキシコ軍を相手に、1836年2月23日から3月6日まで戦い、指揮官トラビスWilliam B. Travis、デービー・クロケット、ブーイJames Bowieを含む187名が戦死した。なお非戦闘員約30名はメキシコ軍によって放免された。〈アラモを忘れるな Remember the Alamo!〉は、以後テキサス軍の合言葉となった」(『世界大百科』)

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なんだ、太平洋戦争のときは、「アラモ」を×印で消し、その下に「真珠湾」と殴り書きしただけか、スローガンというのはみんなくだらないな、という感想はさておき、まあ、そのような状況を描いたお話で、内容的には、中学生のわたしは退屈しましたし、今回の再見でも、うーん、まじめにつくっているんだけど、でもなあ……でした。現代の編集者の手にかかったら、正味45分に短縮されてしまうのではないでしょうか。昔の映画はテンポが遅いものなので、それ自体はかまわないのですが、遅さが気にならない映画(典型は小津作品。独特の方法論によるきわめてリズミカルなフィルムのつなぎを土台に、「表面にあらわれない内的グルーヴ」とでもいうべきものによって語っていく)と、遅いなあ、と意識してしまう映画があります。『アラモ』は後者です。

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ただ、『アラモ』の題材が、インディアンないしはアメリカ先住民との戦いではないことは、おおいなる救いです。古い西部劇の最大の欠点は、インディアンを殺すことは正義であるとして疑わない無神経さです。いや、その反省に立った映画というのも、それはそれでうっとうしく、デッド・シリアスになってしまう欠点があり、あまり好きではありません。イタロ・ウェスタンの美点は先住民が出てこないことですし、『リオ・ブラヴォー』も白人どうしの戦いであることが後口をよくしています。

さらにいうと、アラモ砦を攻めるメキシコの将軍サンタ・アナが、たとえば『ワイルド・バンチ』に登場したような、軍人とは名ばかりのならず者、昔の中国の軍閥に似た、育ちすぎの盗賊の親玉タイプではなく(いやまあ、そういう「バナナ共和国」の大統領みたいな「軍人」もじっさいに少なからずいたのだろうが)、名誉を重んじる人間として描かれていることは好感が持てます。

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◆ OSTヴァージョン ◆◆
映画の出来はさておき、肝心なのは音楽です。この映画からはThe Green Leaves of Summerが生まれています。むしろ、音楽のほうが有名になり、映画は忘れられたといってもいいくらいでしょう。

子どものころ、ブラザーズ・フォアのヴァージョンでこの曲をイヤというほどきかされたので、その印象が強く残っていますが、OSTはもっとずっとゆったりしたテンポで、ほとんど葬送曲のような味わいです。こういう「昔のハリウッド映画に特有の」といいたくなる、大人数の混声合唱は好みなので、OSTヴァージョンにはおおいに惹かれます。



いま勘定してみたところ、映画のなかでこの曲が流れるのは四回、うち三回はこのヴォーカル・ヴァージョンではなく、インストゥルメンタルです。ヴォーカル・ヴァージョンが流れるのは、決戦前夜(というより玉砕前夜)、司令官のトラヴィスが最後まで砦に残った妻と子どもを、比較的安全な一室に移すシークェンスを中心に、明日はもう命はないだろうと覚悟した男たちの思いを描く場面に使われています。

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脇道ですが、「玉砕」というのは和製漢熟語で、「玉」が天皇のことだとすると、外国のことには使えないだろうと不安になって辞書を引きました。セーフでした。「[北斉書元景安伝「大丈夫寧可玉砕不能瓦全」] 玉が美しく砕けるように、名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと」とあって、出典は中国でした。

対語があるというので、ついでにそちらも見てみました。「瓦全ガゼン つまらないかわらとなって安全に残る。何も役にたたないでむだに生きのびること。〈類義語〉甎全センゼン」いやあ、きびしいお言葉ですが、われわれ凡人はみなこの「瓦全」ですからねえ。英雄となって玉砕するよりは、むしろ瓦全となって生き延びん、であります。

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最初にThe Green Leaves of Summerが流れるのは、ジョン・ウェイン扮するデイヴィー・クロケットとメキシコ女性フラーカの散策と対話の場面でのこと。心惹かれる女性に向かって演説してしまうのだからかなり不思議な人物だが、二人で大木を見上げるショットは、郷土への愛というテーマの愚直な表現なのだろう。

◆ 50ギターズ ◆◆
この曲は、コード進行だけを取り出しても、複雑ではないものの、シンプルななかにも独特の美があり、そうなるとギターの出番ということになります。コード進行の遷移にビルトインされた美をもっともよく引き出すのが、ギターという楽器の最大の長所だからです。

f0147840_0123365.jpgまずは「またかよ」の50ギターズです。なんたって、Six Flags Over Texasというタイトルのテキサスもの(?)企画盤があるのだから、この曲が入っていないはずがないってくらいなのです。もちろん、Add More MusicでLPリップを入手することができるので、ご興味のある方はそちらをどうぞ。

そのAMMの50ギターズ・ページでキムラさんがこの盤についておっしゃっているように、いつもとはだいぶ楽器編成が異なっていて(The Green Leaves of Summerについていえばハープシコードなんぞではじまったりする)、ちょっとチェンジアップがほしくてジタバタしはじめたというあたりかもしれません。もちろんリード楽器はギターで、そこは楽しめます(オリジナルよりキーを半音下げているのは、オープン・コードを使えるようにするため?)。

アルバム・フロントに描かれた旗がそれぞれなにをあらわすかはセンセが説明なさっていますが、The Lone Star Stateの意味が視覚的に説明されてもいます。一つ星は『アラモ』に描かれたようなテキサスの歴史に由来するわけで、それはいいのですが、州都オースティン、州最大の都市ヒューストン、ともにテキサス共和国の国務長官と大統領の名前に由来するとは知りませんでした。ダラスはもちろん、『我が輩はカモである』でチコが説明していたように、dollars, taxesに由来します(嘘だってば!)。

◆ その他のギターもの ◆◆
つぎはStranger in Paradise以来のジョニー・スミス。しかし、これは1962年、コロラド・スプリングスでの「ギター・ワークショップ」での録音とあり、バンドなし、スミスがひとりで弾いています。うーん、ギターは好きなのですが、なによりも複数の音が重なった音が好きな人間なので、せめてアップライト・ベースでもいてくれたら、と思います。もちろん、うまいのですが、プロのギタリストはみなうまいものなので、それだけでは不足なのです。

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ヴェンチャーズも、うーん、です。この時期のスタジオにおける基本メンバーは、ドラムス=ハル・ブレイン、ベース=レイ・ポールマン、セカンド・ギター=キャロル・ケイ、リード・ギター=ビリー・ストレンジといったところで、メンツとしては申し分ないのですが、この曲のV盤は昔からあまり好きではなく、ほかのものと並べて比較しても、それまで気づかなかった美点が浮かび上がった、などということはやはりありませんでした。

ビリー・ストレンジという人は、ピッチャーでいえば非常に球持ちのいいタイプで、遅いテンポに適応できる、というか、ハリウッドの強力ギター陣のなかでも、遅いテンポをもっとも得意としたプレイヤーといっていいほどです。だから、このThe Green Leaves of Summerも、悪いところはどこにもないのですが、どういうわけか、メロディーの美しさより、怠さが先に立ってしまいます。アレンジ、テンポの問題かもしれません。

◆ その他のインスト ◆◆
インストのなかでもっともいいのではないかと思われるのが、ネルソン・リドルのヴァージョンです。まあ、なんにでも反面はあるので、よくまとまっていて流れが自然、といえるいっぽうで、どこにも意外性がないクリシェの塊のようにも聞こえてしまうのですが。ともあれ、ハーモニカをリード楽器に選んだのは正解だと思います。



また、リドル盤はキーがOSTと同じFmだし、終始一貫、アコースティック・ギターのストロークが入っているので、コードをとるのにも最適のヴァージョンでしょう。いや、猫に引っかかれた親指がまだ完治していないので、わたしはコピーをネグりましたが、冒頭は、Fm-C7-Fm-Eb7-Ab-Bbm-G-C7なんてあたりだと思います。セヴンスが非ブルーズ的かつ大量に使われているのが、この曲のコード進行の面白いところです。

f0147840_0192156.jpgハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス(これまた、いかにもこの曲をカヴァーしそうなプロジェクト)ヴァージョンは、もちろん、トランペットが主役ですが、アコースティック・ギターもフィーチャーされています。妥当な楽器編成によるアレンジといっていいでしょう。このときのトランペットはやはりオリー・ミッチェルなのでしょうか。いま聴き直していて、うまいなあ、と感心してしまいました。しかし、この時期のTJBはセールスが低迷したといいますが、なるほどな、とも思います。The Lonely Bullは当たったものの、アレンジ、サウンドを定式化できずにいたことがうかがわれます。A Taste of Honeyまでは模索がつづいたのでしょう。

◆ 歌ものカヴァー ◆◆
f0147840_024633.jpgトップ40には届かなかったとはいえ、いちおうナショナル・ヒットになったブラザーズ・フォアのカヴァーは、OSTのあとだと、テンポが速すぎてひどいライト級に聞こえますが、あの時代のモダン・フォーク・ミュージック(いまになると「商業フォーク」と呼ぶべきだと思うが)の典型的なアレンジで、そういう意味では懐かしくはあります。しかし、懐かしさ以上のなにかを感じるかというと、とくになにもありません。コード進行の面白さもこのヴァージョンでは稀薄にしか感じられず、わたしの好みとはいえません。

f0147840_0242768.jpgThe Green Leaves of Summerはヴォーカルには向かない曲のようで、まあ、そこそこかな、と思うのはパティー・ペイジ盤ぐらいです。しかし、このヴァージョンにも、コードの面白さがなくて、どうしてなのだろうと首をひねってしまいます。ヴォーカルになると、なんだかクリシェばかりのひどく凡庸な曲に聞こえてしまいます。

フランキー・レイン、フランキー・アヴァロン(フェイビアンなら、映画のほうに出ていたからわかるのだが、アヴァロンは「なんで?」と思う)のヴァージョンもありますが、それぞれのシンガーのファンには面白いかもしれない、といったあたりではないかと思います。

The Green Leaves of Summerについては、これ以上とくに書くべきことはないのですが、『アラモ』の他の挿入曲にもふれたいので、次回、もう一回だけこの映画をつづけます。
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by songsf4s | 2009-05-08 23:58 | 映画・TV音楽