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Hang'em High(OST 『奴らを高く吊るせ!』より)
タイトル
Hang'em High
アーティスト
OST
ライター
Dominic Frontiere
収録アルバム
Hang'em High (OST)
リリース年
1968年
他のヴァージョン
Hugo Montengro, Billy Strange, Henry Mancini, Enoch Light, Leroy Holmes, Booker T. & the MG's, the Meters
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行きがかり、といってはなんですが、クリント・イーストウッド主演のイタロ・ウェスタンをつづけてやったので、今回はその延長線上にあるアメリカ製ウェスタン、『奴らを高く吊るせ』です。

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自分で「アメリカ製ウェスタン」と書いて、なんとも落ち着きが悪いな、と思いました。西部劇というのはすぐれてアメリカ的ジャンルで、わざわざ「アメリカ製」と断らなければならない状況そのものがねじれています。まるで「日本製時代劇」とか「日本製歌舞伎」といっているようなものです。イタロ・ウェスタンというのは、じつに奇妙な存在だったのだなあ、と改めて思います。

『奴らを高く吊るせ!』(原題の意味を変えずに、そのままタイトルとして落ち着きのある日本語にしてあるというのは、じつに気持がいい!)は、イタロ・ウェスタンを大前提として成立したアメリカ製西部劇です。本日は、そのイタリアとハリウッドの隙間について見ることにします。

◆ 借用は借用 ◆◆
Hang'em Highの作曲者は、マーケッツのOut of Limitsでちらりと言及した、ドラマ『アウター・リミッツ』の音楽を書いたドミニク・フロンティアです。あちらはかなりアヴァンギャルドでしたが、Hang'em Highにはアヴァンギャルドのアの字もありません。

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しかし、この映画、音楽関係のクレジットが妙に細かく書かれています。フロンティアは「作曲」とあり、ほかに「音楽監督」としてアイゴー・キャンターとジョン・ケイパー・ジュニア、そして、「オーケストレーター」としてエドワード・B・パウエルというクレジットもあります。

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楽曲としてこのHang'em Highのテーマを見るならば、マイナー・キーであるところは、やはりイタリア製西部劇のテーマ、なかんずく、「名無しのガンマン」シリーズの音楽を担当したエンニオ・モリコーネのスタイルに追従したものとみなして大丈夫でしょう。

アレンジとしても、ゴングとティンパニーを重ねる「スティンガー」(ガンとかドンとかジャーンといった瞬間的な「脅しの音」)を多用するところは、明らかにモリコーネ(ないしはそのオーケストレーター)のスタイルを踏襲するものになっています。

ただし、アヴァン・タイトルではじまり、主人公が縛り首になったあとでタイトルバックに流れるヴァージョンのアレンジは、イタリア製西部劇的な味わいはゼロで、きわめてハリウッド的なオーケストレーションです。モリコーネの「歌はなくても主題歌気分」というノリのよさはまったくありません。この導入部の音楽のダルさでさっそく「あれ? 大丈夫かな」と落ち着かない気分になります。

あまりいいサンプルがないので、予告編をどうぞ。



議会図書館のJazz on the Screenというデータベースには、ハワード・ロバーツ(ギター)、トミー・モーガン(ハーモニカ)、エミール・リチャーズ(パーカッション)という3人の名前がクレジットされています。3人ともハリウッド音楽研究者にはお馴染みの人たちです。

ハワード・ロバーツはもちろんあのジャズ・ギタリストですが、セッション・プレイヤーとしても膨大な録音を残しています。エミール・リチャーズもロバーツ同様、ウェスト・コースト・ジャズの時代から長年にわたって活躍したパーカッショニストです。この映画ではゴングかティンパニーをプレイしたのでしょうか。

f0147840_23414652.jpgトミー・モーガンはA&Rとしてキャピトル・レコードに勤務するかたわら、同僚のアル・ディローリー同様、数々のセッションをしています。あの時代のハリウッドのポップ系レコードで、ハーモニカが聞こえたら、「うん、モーガンね」といっておけば、3回に2回以上は正解になります。もっともよく知られているセッションは、ビーチボーイズのPet Soundsに収録された、I Know There's an Answerで、このときはあの忘れがたいベース・ハーモニカをプレイしています。すでに取り上げた『続・夕陽のガンマン』のヒューゴー・モンテネグロのカヴァーでは、ハーモニカが使われていますが、これもモーガンのプレイだそうです。

◆ カヴァー各種 ◆◆
前回の『続・夕陽のガンマン』のテーマ同様、この『奴らを高く吊るせ』のテーマも、カヴァー盤がヒットしました。「名無しのガンマン」三部作同様、ヒューゴー・モンテネグロもカヴァーしていますが、今回ビルボードにチャートインしたのは、ブッカー・T&ザMG’s盤でした。

サンプル1

f0147840_23521742.jpgなるほど、ヒットしただけのことはある、というレンディションで、さすがはMG'sといいたくなります。Mrs. Robinsonでも感じますが、メロディーの改変ないしはコード進行の変更がうまく、オリジナルよりいいのではないかとすら思うアレンジがあります。やっていることはシンプルなのに、MG'sがしばしばヒットを飛ばした理由は、そのあたりにもあるのでしょう。もちろん、イントロを聴いただけで、それとすぐにわかる彼ら独特のグルーヴがなによりもだいじなのですが。

ミーターズはMG'sと同系統のバンドですが、MG'sほど文句なしに乗れるグルーヴはもっていません。そんなものをもっていたら、MG'sを蹴落とせたはずで、そうはならなかった事実が力の差を端的に示しています。彼らのHang'em Highのカヴァーはドラマーのタイムが不安定でわたしは好みません。

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これはデニス・ホッパーなのだそうだが、そういわれても首をひねってしまう。そろそろ『イージー・ライダー』の撮影がはじまるころなのだが……

シェリー・マンがストゥールに坐ったヘンリー・マンシーニ盤は、『続・夕陽のガンマン』と同じアルバムに収録されていますが、こちらはいたってまともなアレンジで、文句はありません。どうも納得がいかなくて、また『続・夕陽のガンマン』を聴きなおしてみましたが、やっぱり、こっちはひどさもひどし、マンシーニとは思えない出来です。魔が差したのでしょう。

f0147840_23592487.jpgヒューゴー・モンテネグロは全面的にレッキング・クルーなので、マンシーニ同様、アレンジで大ボケをかまさないかぎり、ひどいものをつくるのははじめから不可能で、Hang'em Highのカヴァーも悪くありません。しいて難をいうと、ギターのトーン(トレブルを強くしたテレキャスターに聞こえる)に味がなく、それでヒットしなかったのではないかと感じます。もうすこしやわらかいサウンドだったら、MG'sに対抗できたのではないでしょうか。

サンプル2

ビリー・ストレンジ盤は、またしてもヒューゴー・モンテネグロ盤と同じようなメンバーですが(ハーモニカはまたしてもトミー・モーガンか)、アレンジがはまったとはいえず、このアルバムの他の曲にくらべて、いい出来とはいえません。

◆ 振り子の反対側 ◆◆
この映画はクリント・イーストウッドのハリウッド復帰第一作で、当然の商策としてイタロ・ウェスタンのイメージを借りてつくられています。しかし、結果は正反対というか、オーソドクスな西部劇に近いものになってしまい、借りたイメージがただ借りただけ、イタリアとアメリカは水と油のまま終わったという印象です。

法律なんか知ったことではない名無しのガンマンとは異なり、この映画の主人公は連邦保安官で、人違いで自分をリンチにかけた人々に正義の鉄槌を下すことを目的として行動します。この設定から必然的にシリアス・ドラマすれすれの展開になってしまい、つねにニヤニヤ笑い、ときには呵々大笑しながら楽しんだイタロ・ウェスタンとはまったくの対極にあるものができてしまいました。予告編にキメの文句として利用された「首を吊るときには相手の顔をよく見るんだな」はイタリア製西部劇風のシック・ジョークですが、このセリフがとってつけたように感じるキャラクター設定であり、プロットです。

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囚人護送馬車。こんなものはこの映画でしか見た記憶がない。こういう道具立てのケレン味はイタロ・ウェスタン的なのだが……

アメリカは清教徒の国だからなのか、昔のハリウッドというのは修身の教科書みたいなところがあり、悪が栄えるような映画は指弾される傾向がありましたが、それがこの映画のモラルのあり方に影響を与えたように感じます。同時に、なぜイタロ・ウェスタンが魅力的だったかが、このハリウッド製西部劇の欠陥のなかに明瞭にあらわれたともいえます。

イーストウッドは稀に見るほど頭のいい俳優で、たぶん、この映画の死体のように硬直した出来あがりから、多くのことを学んだのでしょう。イタリア製西部劇とこのハリウッド製西部劇の極端なキャラクター設定の落差を埋める方法を以降の映画で模索していき、やがて百点満点の回答を得ることになります。

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by songsf4s | 2009-03-31 23:55 | 映画・TV音楽
The Good, the Bad and the Ugly(OST 『続・夕陽のガンマン』より)
タイトル
The Good, the Bad and the Ugly
アーティスト
Ennio Morricone (OST)
ライター
Ennio Morricone
収録アルバム
The Good, the Bad and the Ugly (OST)
リリース年
1966年
他のヴァージョン
Billy Strange, Hugo Montengro, the 50 Guitars, Henry Mancini, Enoch Light, Leroy Holmes, Hank Marvin, the Ventures
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さすがに春到来ともなると花々はすごいことになるもので、今日の散歩で見たのは、連翹、オキザリス、桃(早い!)、庭梅、 灯台躑躅(まだ蕾)、馬酔木、白木蓮(なかば散ってしまった)、雪柳、花韮、辛夷、木瓜、姫踊子草などなど。花ではありませんが、大葉紅柏という、新芽が真っ赤な低木も芽を出しはじめています。わが家では鈴蘭水仙が開花しました。やや寂しげではあるものの、なかなか可憐な花です。

肝心の染井吉野は、やはり開花にブレーキがかかったのか、一昨日みたときとたいしたちがいはないようで、この週末はまだ見ごろには遠く、週なかばから来週末にかけてがピークになりそうな気配です。早めに開花した株はだいぶ葉が出てしまったものが多く、なんとも味気ないありさまになっています。

◆ セヴンスの導入 ◆◆
前回に引きつづき、「名無しのガンマン」シリーズ、今回は第三作にして、シリーズのどん詰まり、『続・夕陽のガンマン』です。前回、ご説明したような輸入会社の愚行がなければ、『新・荒野の用心棒』というタイトルが付いたであろう作品ですが、まあ、すでに黒澤の『用心棒』とはおよそ関係ないところにたどり着いているので、どちらにしろ、それはどうでもいいことですが。



第一作がひとり、第二作がふたりと、シリーズがつづくにつれてガンマンが増えつづけ、今回は三人の対決になりますが、テーマ曲のほうも、このThe Good, the Bad and the Uglyが、ギター曲としてはもっとも弾きにくく感じます。そのこととまんざら無関係でもないのですが、だれもがテーマだと勘違いした『荒野の用心棒』挿入曲Titoliから『夕陽のガンマン』、そしてこの『続・夕陽のガンマン』と、「哀愁度」は右肩下がりで低下しています。

The Good, the Bad and the Uglyまでくると、演歌がまったくわからないアメリカ人にも了解できる音楽といえるでしょう。そもそも、ストレートなマイナー・スケールではなく、セヴンスの音が入っているため、マイナーの味わいは薄くなっています。たんに変化を求めてそうなっただけかもしれませんが、アメリカ市場を意識した結果なのかもしれないと感じます。

◆ レッキング・クルーによるカヴァー ◆◆
たぶん、そうした変化がもたらしたものでしょうが、この曲はイタロ・ウェスタンのテーマとしてははじめてビルボードにチャートインします。OSTではなく、ヒューゴー・モンテネグロのカヴァーです。この時期のモンテネグロのものはみなレッキング・クルーの仕事で、ドラムはハル・ブレイン、ベースはキャロル・ケイでしょう。



どこといって停滞するところのない、いたってスムーズなアレンジ、レンディションで、まずは文句のないところです。二本のギターを重ねたところが、いかにもクルーらしいところ。

クルーがらみのカヴァーを先に見てしまいます。ビリー・ストレンジは、『夕陽のガンマン』同様、Great Western Themesでカヴァーしています。なんだかむやみにテンポが速く、どういうわけか、ハル・ブレインがむちゃくちゃに叩きまくっています。わたしの好みとしては、ここまで叩くのはどうだろうかという感じで、それほど好きではありません。

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50ギターズもやはりアルバムEl Hombreでカヴァーしています。OSTではなにか笛のたぐいでやっているラレラレラという5音のリックは、ものすごくシンプルなだけに、強弱のつけかたがひどくむずかしく、アタックの強い楽器でやると、おそろしくぎくしゃくしたプレイになってしまいます。50ギターズはこのリックを、最初はギターで、後半はトランペットでやっていますが、とちらもアクセントに違和感があり、いい出来とはいえません。

ヘンリー・マンシーニは、このリックを笛のたぐい(オカリナらしい)でやっていて、そこは違和感がないのですが、うーん、どうでしょうかねえ。マンシーニにしてはめずらしいことですが、どこにもいいところのない完璧な失敗だと感じます。The Big Latin Bandというアルバムに収録されているので、リズム・アレンジはチャチャチャ風なのですが、大編成のホーンはマーチング・バンド風、というのがどうも水と油です。

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◆ その他のカヴァー ◆◆
クルーと無関係なカヴァーとしては、まずはイーノック・ライトのものがあります。これも納得の出来とはいいかねます。どうもスムーズではなくて、もうちょっとなんとかなるんじゃないのかなあ、とイライラします。マンシーニもそうですが、この威勢のいいホーンが邪魔で邪魔で癇に障ります。アメリカ製西部劇の常識に近づけようとしたのでしょうかねえ。ド演歌はアメリカでは毛嫌いされるというのは理解できますが、こんなに元気いっぱいの大西部爆走サウンドにしてまで、マイナーの臭みを取り去る必要があるのでしょうか。ここまでやるのだったら、はじめからマイナーの曲はやらないほうがいいでしょう。

f0147840_025834.jpgハンク・マーヴィンは、ギターについては、さすがは、というプレイなのですが、バックのサウンド、とくにドラムはわたしには悪い冗談にしか聞こえません。80年代以降、音楽に興味を失ったのはドラムのせいでした。

ヴェンチャーズはただ笑うしかない出来です。君たち、そこに正座しなさい、いいかい、よく聴きなさいよ、そもそもグルーヴっていうものはね、なんてんで、思わずお説教を垂れたくなってきますぜ。

こうしてみると、The Good, the Bad and the Uglyというのはよほどの難曲なのか、はたまたアメリカ人はこういう曲のアレンジがとことん苦手なのか、どちらかと考えるしかないようです。ヘンリー・マンシーニがこれほどぎくしゃくしたアレンジをするなんて、まずありえませんからねえ。まったく不得手なタイプで、どうしていいかわからなくて途方に暮れたのでしょう。

結局、まともな音楽に聞こえるのは、モリコーネのOSTと、ヒットしたヒューゴー・モンテネグロ盤だけです。まったく予想外の結果で、こんなにひどいヴァージョンばかりだとは思ってもみませんでした。やっぱり、聞き比べというのはやってみるものです。

◆ パワーアップの果て ◆◆
シリーズものの宿命なのかもしれませんが、登場人物を増やし、複雑化路線をとってきた「名無しのガンマン」シリーズも、『続・夕陽のガンマン』でくるところまできたようで、予算はどっと増えたけれど、味は薄くなったという、シリーズものの末路のひとつの典型を示しています。

リー・ヴァン・クリーフの役柄は、前作とは似て非なる血も涙もない悪漢で、bad度99パーセントの濃厚なビター・チョコレート、この「改善」はおおいにけっこうでした。イーライ・ウォラック演じる「イヤな奴」も、現代でいえばジョー・ペシかダニー・デヴィートあたりが演じる役柄ですが(ついでに昔の日本映画でいうと佐藤允向き)、ウォラックのほうがずっとugly度が高く、イヤな奴率90パーセント、愛嬌者率10パーセントぐらいの比率で、絶妙のミクスチャーです。

クリント・イーストウッド演じる名無しのガンマンは、ここではThe Goodとなっていますが、たんに他のふたりほど悪いことをしないだけで、善人などではありません。要するに、三人とも、それぞれ別種のタイプの悪党であって、このキャラクター設定は、子どものときもおおいに気に入りましたし、いまも肯定できます。

しかし、その結果できた全体のプロットはどうでしょうかねえ。前半、「いい奴」と「イヤな奴」がコンビになって、賞金稼ぎをするところは笑えます。「いい奴」が「イヤな奴」を官憲に突きだし、賞金を受け取る。いざ縛り首という段になって、「いい奴」がライフルで縄を撃って「イヤな奴」を逃がし、あとで賞金を山分けする、という商売をはじめるのです。賞金の二重どり三重どりで、徹底的に儲けようという発想は、いかにもこのシリーズにふさわしいものでした。



ふたりの関係がこじれて、敵対することになってからの中盤のやりとりも、まあ、それなりに楽しめます。西部劇としては自然な展開です。問題はそのあとで、ふたりが南北両軍の戦いに巻き込まれたあたりからテンポが遅くなり、しまいには反戦映画のようになってしまうところが、いまになると違和感があります。ヴェトナム戦争が悪化した時期につくられたからなのでしょうが、観客はそういうソーシャル・コメントをイタリア製西部劇に求めていたかどうか……。



第一作にくらべれば天と地というぐらいに予算が潤沢になったことは、この南北両軍の戦いにあらわれていて、これまでのような低予算映画ではないことははっきりと伝わってきますが、それがよかったかというと、プロットの求心力が弱まっただけにしか思えません。楽しいシーンがたくさんあり、イーライ・ウォラックの演技も楽しめましたが、結局、大満足とはいかず、時がたつにつれて、もっとも印象の薄いイタロ・ウェスタン作品へと後退していきました。

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予算増大のおかげで派手な爆発シーンになったが、派手すぎて、スタントマンやキャメラの近くにまで石が飛散し、あやうく大事故。

このあたりでわたしはイタリア製西部劇への興味を失いましたが、それはわたしだけのことではなかっただろうと思います。イーストウッドはこの三作のヒットでハリウッドに返り咲き、主演作品を成功させることで、第一級のスターになり、二度と「都落ち」することはなくなります。

それにしても、今回、シリーズの全作を見直して、おや? と思ったことがあります。インディアンが登場しないことです。すでにこのころから、先住民の扱いがむずかしくなっていたのでしょうか。わたしは中学生だったので、そのへんの記憶がなく、少々考え込んでいます。

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by songsf4s | 2009-03-27 23:58 | 映画・TV音楽
For a Few Dollars More by Ennio Morricone(OST 『夕陽のガンマン』より)
タイトル
For a Few Dollars More
アーティスト
Ennio Morricone (OST)
ライター
Ennio Morricone
収録アルバム
A Fistfull Of Dollars & A Few Dollars More (OST)
リリース年
1965年
他のヴァージョン
Billy Strange, Hugo Montengro, the 50 Guitars
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このところ暖かかった当地も昨日今日は半歩後退の肌寒さで、桜の開花にもブレーキがかかったかもしれません。いや、ブレーキがかかっても、元の蕾に戻るわけではないので、とりあえずは目に見えませんけれどね。近所の桜並木は全体としては三分ぐらいでしょうが、株によってはもう七分ぐらいというのが相当数あって、開花はどんどん進行中に思えます。

桜の前に満開になっているのは雪柳で、近所のあちこちでその名前の由来となった小さな白い花を無数につけているのを見られます。なんという名前かわからないのですが、春、芽吹くときに真っ赤になる楓があり、これもだいぶ葉が出てきて、鮮烈な色になりはじめています。この楓は秋にはくすんで枯れていくだけですが、春の赤はルビーのようなめざましい色合いです。

◆ 「前借り」があだになった邦題 ◆◆
のんびりしたミュージカルと、派手なドンパチで人が大量に死んでいく映画を交互にやってきて、今回はドンパチの回に当たるので、第一作より人死にが増えた「名無しのガンマン」シリーズの第二作、『夕陽のガンマン』とまいります。第一作の『荒野の用心棒』は、昨年、すでにとりあげています。

ふつう、ヒット作の続篇の邦題は、昔なら「続なんとか」、いまなら「なんとかかんとか2」とか「あれやこれや3」というように命名するのが大原則です。ヒット作の続篇であることを明示しなければ、客にアピールしないのだから、当然です。

f0147840_1144948.jpg『荒野の用心棒』も大ヒット作なので、この「名無しのガンマン」シリーズ第二作も当然、『続・荒野の用心棒』というタイトルでなければいけないのに、なぜそうならなかったのか? 輸入会社があさましい大ボケかまして、天下に赤っ恥を曝したのです。シリーズとはまったく無関係な、フランコ・ネロ主演のDjangoという映画に『続・荒野の用心棒』というタイトルを使ってしまったために、ほんとうの続篇にこのタイトルを使えなかったのです。愚行の大展覧会ともいえる映画邦題の歴史にあっても、これほどの超絶大愚行は後にも先にもなく、いやはや、呆れけえったもんだぜ、ご隠居さん。

フランコ・ネロなんかだれも知らないから、なんとか稼ぎたいという焦りからやってしまったフライングでしょうが、大ヒットした名無しのガンマンものの続篇がつくられる可能性をまったく考えなかったうかつさには呆れるしかありません。邦題なんかやめちまえ、という意見が出て当然でしょう。

だから、いまどきの原題まっすぐカタカナ邦題にはおおいなる問題があるにしても、わたしはこのほうがずっとマシだと考えています。たとえば『エイリアン』なんていう映画が60年代にあったとしたら、こんな素っ気ないままではすまなかったでしょう。『哀愁のエイリアン』とか『愛と青春のエイリアン』とか『荒野のエイリアン』とか『大宇宙のエイリアン』とか『明日なきエイリアン』とか『さすらいのエイリアン』とか、なにかそういう無意味な属性を付与せずにはいらない愚劣さが、われわれの心にはビルトインされているのではないでしょうか。この馬鹿げた衝動に対して、原題即カタカナという大方針は、別種の愚劣さを内包しつつも、きわめて有効な抑止策の役割を果たしていると思います。

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第一作がA Fistful of Dollars=『一握りの金のために』、そして、この第二作がFor a Few Dollars More『さらに一握りの金のために』というので、原題は平仄が合っているのですが、しかし、いまこの二作が封切られたとしても、原題即カタカナの原則を当てはめられないタイプでしょうね。いまなら、輸入会社はどういう邦題をつけるか、想像するとちょっと興味深いところです。

◆ 複雑化したテーマ曲 ◆◆
『エイリアン』が続篇ではAliensと複数形になったように(うようよ涌いて出てきたときには戦慄しましたなあ。しかも、あんなに素速く動けるとは!)、「名無しのガンマン」シリーズも、シリーズ化の大原則にしたがってスケール・アップし、ガンマンも複数になります。

いや、そういうことはどうでもよくて、肝心なのは音楽のほうでした。エンニオ・モリコーネが意識していたのかどうかは知りませんが、音楽のほうも続篇らしい仕上がりになっています。たいていの観客がテーマと誤解し、本邦ではヒットまでしてしまった第一作の挿入曲Titoliは、それこそ演歌的なメロディー・ラインで、良くも悪くも予定調和的な仕上がりでした。ギターをもってDmのスケールから外れないように弾くだけで、短時間でコピーできたのです。第二作では微妙な変化が見られます。

そこのところをお聴きいただこうと思ったのですが、適切な動画は見あたらず、以下のようなものしかありませんでした。

スパニッシュ・イントロ


なんだかむやみに画面が暗いのが難ですが、文字がスペイン語表記になっていること以外は、おおむねオリジナルと同じで、ずいぶん凝ったローカル版をつくったものだと呆れます。オリジナルでも、これと同じように文字が揺れてあらわれ、拳銃の発射音とともに一部が潰れたり、消えたり、はじかれたりします。日本では、こういうローカル化はまずしないでしょう。オリジナルのままで、下のほうにスーパーインポーズで主要なキャストとスタッフのカタカナを出すというところでしょうか。テレビで『スター・ウォーズ』の例の口上が日本語になってスクロールしたのを見たような気もしますが……。

(後日発見したクリップを追加)
『夕陽のガンマン』英語版オープニング・クレジット

いやまあ、画面はどうでもいいのです。テーマ曲は、Titoliよりやや複雑になったという印象です。口笛をリード楽器にし、そこにギターがからむという基本路線は同じですが、どちらが主役かというと、For a Few Dollars Moreはギターのほうでしょう。

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悪漢の親玉を演じたジャン=マリア・ヴォロンテもよかったが、もうひとり忘れられない悪漢がクラウス・キンスキー。あの美女の父親とは思えない病的悪人ぶりだった。左はリー・ヴァン・クリーフ。

複雑になったといっても、Titoliよりギターのラインが弾きにくいと感じるだけで、たんなる偶然の結果なのかもしれません。ギターが多用されるわりには、モリコーネの音楽にはギター的なラインは出てこず、ピアノなどのべつの楽器でつくったのだと感じます。ギターを弾いていて、ナチュラルだと感じるラインはなく、きわめて非ギター的な、自明ではないラインばかりです。そういうラインをギターでやるところが、この時期のモリコーネのウェスタン・テーマがもつ最大の魅力といえるでしょう。

◆ カヴァー三種 ◆◆
そういうところに惹かれたのか、うちにあるこの曲の三種のカヴァーは、いずれもギターものです。

まずはビリー・ストレンジ盤。これはMr. Guitar、Secret Agent Fileと並ぶボスの秀作、Great Western Themesに収録されたもので、なかなかけっこうなグルーヴです。アップテンポのアレンジで、哀愁路線ではなく、管のアレンジのせいもあって、どちらかというと威勢のいいサウンドです。このヴァージョンは、右のリンクからいけるAdd More Musicの「Rare Inst. LPs」ページで、LPリップを頂戴できるので、皆様もぜひどうぞ。

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ビリー・ザ・ボス自身が、あのアルバムは気に入っているとおっしゃるだけあって、どのトラックもハイ・レベルな仕上がりです。うかつにもいままで知りませんでしたが、これは2005年にCD化されたそうです。LPのジャケットもなんだかなあでしたが、CDのデザインもいいとはいいかねます。もっと愛情をもってつくってほしいのですがねえ。

f0147840_1244175.jpgつづいて、ヒューゴー・モンテネグロ盤。こちらはオーケストラ・リーダーですが、それほど大編成ではありませんし、メンバーもビリー・ストレンジ盤とかなり重なるのではないでしょうか。そもそも、リードギターはわたしにはビリー・ストレンジに聞こえます。ドラムはもちろんハル・ブレイン、ベースもキャロル・ケイでしょう。これもまた好みです。ハルのドラミングも楽しめます。

最後は久しぶりに登場の50ギターズ。これもAdd More MusicでLPリップを入手することができます。この曲が収録されたEl Hombreは、つい最近、AMMの木村センセのおかげではじめて聴くことができたのですが、センセが褒めていらっしゃるように、しばらくセカンド・ゴロがつづいていた50ギターズとしては、久しぶりの(ちょっと詰まってはいるが)ライト前ヒットという感じです。

このアルバムにはマカロニ・ウェスタンのテーマがいくつか収録されていますが、どちらかというと、For a Few Dollars Moreより、前作の『荒野の用心棒』の挿入曲、Titoli(盤にはTheme from "A Fistful of Dollars"と書かれているが、これは間違い。このタイトルの曲はべつにある。多くの人がタイトルバックに流れる挿入曲のTitoliをテーマだと思いこんでいる)のほうが楽しい仕上がりに感じられます。しかし、なんといっても秀逸なのは、ペレス・プラードのPatriciaのカヴァー。最初に聴いたときは思わず笑ってしまいました。この曲をこういう風にやるかよー、です。

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それにしても、録音もみごとだし(ギャレットだから、ユナイティッド・ウェスタンで録音か)、木村センセのクリーニングも行き届いていて、こういうのを聴くと、LPのほうがずっとよかったのになあ、と思います。

以上、どういうわけか、三種ともレッキング・クルーがらみのカヴァーでした。

◆ ピカロの物語 ◆◆
イタリア製西部劇の大きな魅力は音楽でしたが、それをいうなら、アメリカにだってなかなかけっこうな西部劇テーマ曲がありました。後年、そういうものが当たり前になってしまったので、いまになると不明瞭なのですが、ドラマとしての大きな魅力は、正義の物語ではなかった、ということだろうと思います。

「ピカロ」(悪漢)という言葉があり、「ピカレスク・ロマン」(悪漢小説)という言葉もあるように、このときに突然創始されたわけではありませんが、すくなくとも正義に疑問をもつようになった思春期の子どもの目には、こういう悪党じみた主人公はおおいに新鮮で、肯定できるキャラクターでした。

クリント・イーストウッド扮する名無しのガンマンは、けっして積極的な悪党ではないのですが、賞金にしか興味がないので、当然ながら、善をなすことにも無関心です。悪人ばらを片端から撃ち殺すのは、あくまでも「賞品」としてであって、彼らの悪を憎んだがゆえではない、そこのところに子どもは強く惹かれました。善か悪かなど彼にはどうでもいいことで、だいじなのは「いくら稼いだか」だけでした。そして、この設定から生じるユーモアの、シック・ジョークに傾斜したところにも、観客はおおいに惹かれ、シリーズの大ヒットにつながったのでしょう。

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賞金のかかった悪人をすべて馬車の荷台に積んだつもりが、どうも勘定が合わないと首をかしげる名無しのガンマン。

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足りなかったひとりがまだ生きているとわかって、振り向きざま抜き撃ちで斃す。

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先に帰路についたモーティマー大佐が銃声で振り返り、「大丈夫か、小僧っ子?」(Any trouble, boy?)ときく。

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「なあに、なんでもないさ、じいさん。足し算を間違えたのかと思ったけれど、もう解決したよ」(No, old man. Thought I was having trouble with my adding. It's alright now.)と答える名無しのガンマン。

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勘定が合ったところで、狙った獲物をすべて積んで、ついでにボーナスの金ももって馬車で去る名無しのガンマン。

イタリア製西部劇の出発点は、黒澤明の『用心棒』でしたが、三船敏郎演じる用心棒が「悪党気取り」にすぎず、究極のところで正義の人であったのとは異なり、セルジオ・レオーネは第一作『荒野の用心棒』では半歩だけ踏み出した「悪党の物語」への道を、この第二作ではさらにもう半歩、こんどはよりたしかな足取りで歩んだと感じます。

ただし、リー・ヴァン・クリーフ演じるモーティマー大佐が、タフな身振りとは裏腹に、じつは正義を希求するキャラクターだったのは、社会のある階層に対するエクスキューズだったのでしょうが、この悪党たちの物語をいくぶんか水で薄める結果になったように感じます。次作はそこを修正して捲土重来のつもりだったのではないでしょうか。

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by songsf4s | 2009-03-25 12:25 | 映画・TV音楽
Feed the Birds (Tuppence a Bag) by Julie Andrews (OST 『メリー・ポピンズ』より)
タイトル
Feed the Birds (Tuppence a Bag)
アーティスト
Julie Andrews
ライター
Richard M. Sherman, Robert B. Sherman)
収録アルバム
Mary Poppins (OST)
リリース年
1964年
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当地では白木蓮はもう散りはじめていますが、辛夷がほぼ満開になりました。日当たりのよいところにある染井吉野がかなり開花してしまい、この調子ではつぎの週末あたりにピークがきてしまうでしょう。三月のうちに満開というのは、子どものころより十日は早い勘定で、どうもなじめません。ちがう土地に生まれ育てば、またべつの感覚をもったはずで、十日ぐらい早くなってもどうということもなかろうにと思うのですが、人間の主観というのはおかしなものです。

◆ 英語版寿限無 ◆◆
なんだか戦争映画とミュージカルを交互にやっているようなぐあいになってきて、分裂しているような気もしなくはないのですが、どちらもたいていの場合、音楽が面白いものなので、わたしの主観としては、まあ、当然の結果というあたりなのです。いや、それにしても、『フルメタル・ジャケット』のつぎが『メリー・ポピンズ』はないなあ、という気はチラッとしています。

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『メリー・ポピンズ』の曲でいちばん有名なのは、いうまでもなくChim Chim Cher-eeです。この曲が歌われる屋根の上のダンス・シーン自体、この映画のハイライトでしょう。

この映画を見たのは中学一年のときでしたが、そのときに学校で流行ったのは、Supercalifragilisticexpialidociousでした。「寿限無」のようなもので、記憶して、いえること自体を面白がったのです。いま、そらで書いてみましたが、スペルも正確に記憶していました。

それにしても、わたしはSupercalifragilisticexpialidoucious(スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスと発音する)を記憶しているのに、ATOKの辞書は「寿限無」すら知らないのに呆然としました。こんな当たり前のことをいちいち登録させないでほしいものです。ちょっと古いことになると、ATOKはすぐに白痴同然になってしまうから、歴史のことなどを書くと、おそろしく苦労させられます。日本語そのものを扱うソフトウェアなのだから、言葉遊びに関わる固有名詞ぐらい、辞書に収録するのが義務でしょう。日本文化に貢献するぐらいの高い志でつくってくれないと困ります。



で、このへんてこりんな単語の意味はなんなの、ですよね? 映画のなかでは「なにをいえばいいのかわからないときにいう言葉」と説明されています。念のために辞書を引くと、「スーパーカリフラジリスティクエクスピアリドーシャス 《子供が英語で最も長い語として使うナンセンス語; 「すばらしい」という程度の意味もある; ミュージカル映画 Mary Poppins (1964) 中の歌に出てくるもので, いやなことを忘れるためのおまじないのことば とされている」

なんだか、この記述を読むとメアリー・ポピンズがオリジンのように受け取れます。調べてみたら、そのとおりだそうで、この曲の作者、シャーマン兄弟が、必死に考えてひねり出した言葉だとありました。辞書に載る言葉で、それをつくった人間がはっきりしているというのは、ごく稀な例じゃないでしょうか。

◆ 鳩に餌を ◆◆
いや、Supercalifragilisticexpialidouciousも楽しい歌ですが、この映画でもっともすばらしい曲は、なんといってもFeed the Birds (Tuppence a Bag)です。はじめて聴いたときは、なんという美しい曲だと溜め息が出ました。



昔の歌にはよくあった、前付けヴァースありの構成です。前付けヴァースというのは、二度と歌われない「使い捨て」のパートなので、ソングライターは、ここにもっともいいメロディーはぜったいに投入しません。

また、前付けで「解決」した感覚をつくると、つまり、適切なコード(Cに対するGなど)をもってきてしまうと、そこで曲が切れた印象をあたえてしまうので、グルグルグルグル宙を舞わせて、なかなか落ち着かせないようなコード進行にするのが原則です。わたしという人間がまた、解決しそうでしないまま、ずるずるダラダラやっているのが大嫌い、イライライライラして、脳溢血を起こしそうになります。

しかし、このFeed the Birdsの前付けヴァースは、ほとんど独立した曲になっていて、きちんと5度にもってきて、何度も解決しています。ゴミのようなつまらないメロディーでできている、という前付けの常識を多少とも打ち破る、出来のいいメロディーラインですし、マイナーでスタートしてメイジャーに転調させる、といった工夫もしてあります。そして、ヴァースに入るときに、もう一度転調させたのもうまくいっています。

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ジュリー・アンドルーズ扮するメアリー・ポピンズが降り立った家は、「桜木小路17番地」(Cherry Tree Lane No. 17)という住所で、外は桜並木になっている。映画がはじまったときも桜は満開、終わったときも満開だし、デザインも染井吉野ではなく、八重桜の系統に見える。イギリスの園芸業者は日本の開国とともにやってきて、大量の植物を買いあさっていったが、染井吉野は普及しなかった? いや、舞台はロンドンだが、ハリウッド映画だから、桜の選択にはアメリカ人の先入観が反映されているのかもしれない。

わたしはこの世の前付けヴァースの99パーセントを嫌悪しているし、じっさいの録音では、まともなイントロを加える余地をつくるためにも、曲の流れをすっきりさせるためにも、前付けは切り捨てるのが正しいアレンジだと思っていますが、Feed the Birdsの前付けだけは、切るわけにはいかないと感じます。ひょっとしたら、シャーマン兄弟というのは、すごく偉いソングライター・チームかもしれません。ふつう、前付けなんてみないい加減につくるものですが、この曲だけは例外中の大例外といっていいでしょう。

いま、ざっとコードをとってみたところ、前付けヴァースの前半は以下のような進行のようです。

Ebm/Abm/B/Bb/Ebm/Bb/Ebm
Ebm/Bb/Ebm
Db/F#/Db/F#/Fdim(?)

このEbmからDbへの転調、マイナーからメイジャーへの転調が非常に効果的です。ヴァースに入るときにも、もう一度この転調が利用されます。コードをとってみて思ったのは、比較的シンプルな進行なのに、うまく変化をもたせているということです。やはり、名前を残す人というのはちがうものだなあ、でした。なお、上記のBbのところはBb7のほうがいいかもしれません。

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◆ タペンス ◆◆
いまでも忘れないのですが、タイトルにもあるtuppenceはなんなんだ、と思いました。なにしろ中一だから、英語なんてよくわかっていないわけで(いや、それをいうなら、いまでもかなりいい加減なのだが!)、字幕で「2ペンス」といわれても困るんですよね。歌のほうが「Two pence」といっているならわかるのですがね(いま、penceのあとにsをつけそうになってしまった。だから、いい加減だっていうの>俺。学校で習ったことは右の耳から左の耳なんだからもー)。

しかし、どこにだって、したり顔をしてうんちくを傾ける人間というのがいるわけですよ。私のクラスにもそういうのがいまして、2ペンスは特殊なのだ、なまって「タペンス」と発音するのだ、と得々と解説したのです。なぜそうなるのか、いまでもわかっていないのですが、われわれが「十」を発音するとき、あとになにかがつくと、たとえば「十軒店」を「じっけんだな」と発音するようなものなのでしょう。

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東京の日本橋、伝馬町の牢屋跡のすぐ近くに、「十思小学校」という学校があったのですが、これは「じっし」小学校と発音するのだそうです。震災後の学校建築のひとつの典型で、かなり好きだったのですが、その後、近隣の学校と統合されたようで、コミュニティー・センターのようなものになったようです。いまもあの表現派風の建物が残っているといいのですが、どうでしょうか。校庭の隣には「石町の時の鐘」もあって、由緒ある場所なのです。

というわけで、ぜんぜん解決していないのですが、たぶん、タペンスは習慣的に発音が変形されてしまっただけではないでしょうか。

◆ 謎の削除 ◆◆
この映画のハイライトは、前半なら絵のなかの世界への旅、後半なら屋根の上でのシークェンスです。ところが、不思議なことに、40周年記念DVDといっしょにリリースされた2枚組サウンドトラック・アルバムには、この屋根の上で歌い踊るときの曲、Step in Timeが入っていません。まあ、曲としてはいたってシンプルですが、シーンとしてはもっとも楽しいところなので、あの盤を買った人の大多数がこの削除を不満に思ったのではないでしょうか。



大人の目で見ると、この映画のちょっと前に大ヒットしたミュージカル『ウェスト・サイド物語』のプロダクション・ナンバーのパロディーみたいな振り付けがところどころにあって、思わず笑ってしまいます。たぶん、意図的にウェスト・サイド物語に似せたのでしょう。

検索してみたところ、最近のエディションではStep in Timeを復活させたものもあるようで、慶賀に堪えません。どうも、音楽業界というところは、ソフトウェア業界と同じで、わざと欠陥商品をつくっては、あとになって、欠陥を修正したものをつくったのでまた買ってくださいという、見え透いたセコい商売をやる傾向があって、じつに下品ですな。堅気の世界では、こういうのは詐欺と呼ぶと思うのですが、詐欺は被害者のほうが悪いということなのでしょう。Pet Soundsやスペクターのクリスマス・アルバムを勘定してみると、わたしもかなりパアな詐欺被害者体質のように思われます。最近は反省して、身を慎んでいますが。

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by songsf4s | 2009-03-22 22:34 | 映画・TV音楽
ドラマーの声 その3

昨日、外出したら、花韮が盛大に咲き、雪柳もかなり咲きそろってきていました。ほんとうならもっと暖かくなってから満開になるはずの房アカシアは、すでに黄色が精彩なくってしまい、おやおやです。気候の変化へのアジャストの仕方が植物によって異なるため、ずいぶん早くなるもの、すこしだけ早くなるものがあって、あれが咲けばこれも咲く、というわれわれの先入観も、ひんぱんに微調整を強いられるようになったのかもしれません。

◆ コントラクト・シートの記載 ◆◆
なんだか奇妙な状況に陥ってしまいました。本来ならプライヴェートなやりとりに移行するべき話し合いを、ブログでつづけています。しかも、わたしだけが公開でものをいい、もういっぽうの方は非公開でわたしのみを相手にものをいう、という、透明人間を相手にタンゴを踊っているところをお見せしているような状態です。相手などいないのではないか、といわれても、釈明のしようがありません。こういう奇妙なことをあまり長くつづけるのは考えもの、そろそろまとめに入りたいと思います。

前々回の「ドラマーの声 その2」を読まれて、Kさんがまた非公開でコメントをくださいました。話はだいたい来るところまで来て、あとはもう考え方のちがい、というしかないようです。

Kさんのコメントのうち、第一のポイントになるのは以下のくだりです。

「サンディー・ネルソンのBig Sixties Beat Party!というCDの演奏者リスト10曲中8曲に、アール・パーマーを含むパーカッショニスト8名(重複除く)の記載がありますが、解説を書いたDave Burke氏は、サンディー・ネルソンの曲の99%は、ネルソンが叩いたと確信していますし、同氏が契約書を誤読するとは考えにくいです」

こういうことに関しては、わたしは事実にしか興味がなく、他人がどう「思っている」か、どう「確信」しているかにはあまり関心がありません。それはその人の考え方にすぎず、わたしの考えとはいっさい無関係です。

ここで、「事実」(といっても実見したわけではなく、伝聞だが、事実に準ずるものとして扱う)といえるのは、アール・パーマーほかのプレイヤーの名前が「契約書」すなわちAFMのコントラクト・シートに記載されている、ということです。

脇道に入ってしまいますが、「契約書」という日本語をAFMのコントラクト・シートに当てはめるのは適切とはいえません。「発注伝票」「支払伝票」のほうがまだマシでしょう。詰まった下水道を修理に来る業者も「コントラクター」ですが、そういうニュアンスの「コントラクト」です。発注元企業と請負業者間の取り決めを書き記した伝票なのです。ここに記載されたことを元に、発注者がユニオンに料金を支払い、ユニオンは手数料と年金積立金を差し引いた金額の小切手を各プレイヤーに渡す、という仕組みです。

話を戻します。アール・パーマーがスタジオに来るのはなんのためだろう、と考えたら、ふつうはドラムを叩くため、という答えが即座に出ます。ハル・ブレインがいたりすると、パーカッションにまわったりもしますが、それは1964年ぐらいからで、ネルソンの全盛期には、アールがいれば、ハル・ブレインはトラップに坐らず、パーカッションをプレイしました。

たとえば、1962年のハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスのThe Lonely Bullでは、アールがトラップ、ハルはティンパニーです。この時期の二人の位置のちがいがここに反映されています。64年のマーケッツのOut of Limitsでは、ハルがトラップ、アールはティンパニーとトライアングルです。2年のあいだに二人の立場が入れ替わったのです。

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ドラマーのキング、アール・パーマー(右)をドラム・ストゥールからどけるには、ハル・ブレイン(中央)の技量が要求された。ギタリストはトミー・テデスコ。ユナイティッド・ウェスタン・レコーダーにおけるマーケッツのセッションより。

◆ 嘘の裏にあるもの ◆◆
Kさんが、デイヴ・バークという人がコントラクト・シートを誤読するとは「考えにくい」とする根拠がわたしにはわかりません。芸能界の商品は「幻想」です。芸能ライターの使命はその商品である「幻想」の価値を上げるか、すくなくとも守ることです。

たとえば、ジョン・ローガンという、バーズの伝記を書いた人物がいます。彼はバーズのリイシューCDでも、トラック・メモを執筆していますが、「この日はマイケル・クラークがセッションに来なかったために、ジム・ゴードンがプレイした」と書いています。これを読むと、ほかの日はすべてマイケル・クラークがプレイしたのだろうと、ふつうは思います。しかし、ほかの日「も」マイケル・クラークではなく、ジム・ゴードンがプレイしていることは音を聴けばわかります。ライナーなんてみないい加減なものですが、これはちょっとした知能犯です。ちゃんと言い逃れの道(「ほかの日はマイケル・クラークがプレイしたとは書いてない、よく読め!」)をつくってから大嘘をついているのです。彼が書いた伝記にも、あちこちに意図的なミスリードが仕込まれています。

f0147840_11124443.jpgなぜそんなことをするのか? 簡単です。バーズのメンバーの一部、とくにデイヴィッド・クロスビーが、セッション・プレイヤーの関与を公にすることを望んでいないからです。ローガンは、最初のシングルであるMr. Tambourine ManとそのB面のI Knew I'd Want You以外は、すべてバーズのメンバーがプレイした、というバーズ側、とくにデイヴィッド・クロスビーの主張にいっさい疑義を挟まず、そのまま書いています。しかし、ブートレグには、デビュー・アルバムのWe'll Meet Againのセッションで、テリー・メルチャーが「ハル」と呼びかけているのが記録されていますし、タイムも正確です。クラークがこれだけ叩けるのなら、はじめからハル・ブレインなど不要だったはずで、嘘の皮もいいところです。

ついでにいうと、70年代のリユニオン・アルバム(日本では俗に「オリジナル・バーズ」と呼んでいる)について、クロスビーはぬけぬけと、みんな成長した、とのたまっています。しかし、オリジナル・メンバーがプレイしたことになっているこのアルバムについて、ジョニー・バーバータは、クレジットはされていないが、ドラムは俺がプレイした、といっています。いったい、どこがどう「成長した」のやら。70年代になっても依然としてド下手で、仲間から「おまえはジャケットに顔を出すだけでいい。ドラムはバーバータに頼んだ」といわれてしまった、二本の棒をめくらめっぽうに振りまわすだけの危険な芸能人が、デビュー・アルバムからあれほど正確なタイムで叩けるはずがないでしょうに。

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ジョニー・バーバータ

ローガンはなぜそんな嘘を書いたのか? 彼は「バーズの専門家」ということになっています。クロスビーの意向にさからって、バーズはつねにセッション・プレイヤーの力を借りて録音していた、などと書いたらどうなるか? クロスビーは二度と取材に応じないでしょう。その結果、「バーズのスペシャリスト」という看板は下ろさなければならないことになります。そういう人間がバーズの意向に逆らえるはずがありません。クロスビーのいいなりに、唯々諾々とバーズには不都合な事実を隠蔽し、ありもしなかった話を作り続けなければならないのです。

べつにローガンだけが卑怯なのではありません。こうした「専門家」はアーティストあってこその商売です。アーティストとうまくやらないかぎり、仕事はなくなってしまいます。生活費はよそで稼いでいる、アーティスト御用作家は趣味だ、ということであっても、なおのこと、アーティストを怒らせたくないでしょう。「名誉職」なのだから、名誉を失いたいはずがありません。製品の欠陥を批判するCMが存在しないように、アーティストの嘘を暴くライナーというのも存在しないのです。

だから、Kさんの「誤読するとは考えにくい」というのは、わたしには意味がわかりません。わたしなら、芸能ライターはつねに「意図的に誤読する可能性がきわめて高い」と用心します。なぜバークという人物だけが、アーティストの意向などいっさい顧慮せず、事実のみを客観的に書けると想定できるのか、その根拠が書かれていなかったので、わたしとしては、バークというのも、ふつうの芸能ライターと想定せざるをえません。

◆ 解釈のちがい ◆◆
もう一点だけ、Kさんのコメントから引用させていただきます。

「このCDの収録曲24曲のすべての契約書に、ネルソンの名前があったと〔バーク氏から〕ご連絡いただきましたが、CDの解説には、ラス・ウェイパンスキーによるインペリアル・セッション・ファイルと謳われています」

前々回の「ドラマーの声 その2」に書いたように、ネルソンの名前があってもなんの不思議もありません。プロデューサー、セッション・リーダーは彼でしょうし、プレイヤーとして記載するのも自由でしょう。会社に対してセッションの責任を負うのはプロデューサーです。プロデューサーであるネルソンが自分をプレイヤーと記載しても、なんの問題もありません。多くの場合、セッション費用はアーティストの収入から差し引かれるので、会社にとってはどうでもいいことなのです。

セッション・リーダーというのは、プレイヤーが兼任することもあります。しかし、楽器にさわらない人のほうが多数派です。そして、プレイするか否かにかかわらず、コントラクト・シートでは、セッション・リーダーがたいていプレイヤー欄の先頭に書かれます。これが混乱の元で、セッションのリーダーというと、プレイヤーだと思うのでしょうが、そんなことはないのです。プレイヤーの手配を業務とする人のことです。

Kさんが、あるいは、バークという人物が手にした材料から、わたしなら、正反対の結論を導き出すことができます。「やはり、わたしが断じたとおり、ネルソンはプレイせず、アール・パーマー以下のプロフェッショナルが影武者をつとめた」という結論です。アール・パーマーがドラムを叩く以外のことをしにスタジオに来たと考える根拠など、どこで見つけたのでしょうか。彼はザ・キング・オヴ・ドラマーズだったのです。

だから、Kさんの今回の非公開コメントに書かれていたことは、バークという人物のたんなる恣意的な主張であり、Kさんは(明示されていない根拠によって)バークという人物を全面的に信頼する、だから、それと対立するわたしの主張は信用できない、といっているだけです。Kさんがなにを信仰されるのもご自由ですが、わたしにバーク教信者になれといわれても困ります。

われわれは、ある事実をどう「解釈する」かという地点にたどり着いてしまったのです。そしてわたしは、自分の主張を引っ込めなければならない、と認識するにはいたりませんでした。逆に、自分の主張を裏づける証拠をいただいたと思っています。

結局、ほぼ想像したとおりのことでした。つまり、アーティストを信頼し、印刷されたものを信頼する、ということに基礎をおいた「信念の吐露」にすぎず、事実の厳密な検証ではないのです。どんな信念でも持つ権利がわれわれにはあります。神は存在すると信じる、という人がいたら、わたしは神など存在しないと信ずる、といいます。

なにかを信じたい、という心情は理解できます。人間としてはそうあるべきでしょう。サンディー・ネルソンがプレイしたと信じて、彼の盤を楽しむことを妨げたいわけではありません。そういうこととは関係なく、わたしは60年代のハリウッドではどのように音楽がつくられたかを細部にいたるまで照らし出し、不要な銅像に「虚偽」というラベルを貼り(壊せれば壊すが、なかなか頑丈にできているものだし、なにもないよりは嘘でもいいから銅像があったほうがいいと考える「地元の人たち」=ファンがたくさんいる)、真の貢献者の銅像を建てる作業をつづけさせていただきます。


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by songsf4s | 2009-03-20 11:44 | ドラマー特集
These Boots Are Made for Walking by Nancy Sinatra (OST 『フルメタル・ジャケット』より) その2
タイトル
These Boots Are Made for Walking
アーティスト
Nancy Sinatra
ライター
Lee Hazlewood
収録アルバム
Boots
リリース年
1965年
他のヴァージョン
Billy Strange, Lee Hazelwood, the Ventures, the Supremes, Beau Brummels
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夕食後、近所を散歩したら、白木蓮がどれも満開でビックリしました。一昨日、散歩したときには、やはり夜だったので、開花しかかっていることにすら気づかず、今日、いきなり満開になっていたから、まるで突然、出現したみたいなものでした。気がつけば辛夷の花も咲きかけていて、いよいよ春本番、桜も遠からじ、ですねえ。

さて、前々回、「ブート・キャンプ」という名称の由来はなんだろうと書いたところ、友人から、これが参考になるのではないか、といわれました。この記述によると、やはり、「軍靴」という意味での「ブーツ」から来ているということのようです。まあ、ああいう半長靴というのは、軍隊以外ではあまり履かないものでしょうからね。ここから転じて、「ブート」というと、海軍や海兵隊では新兵、新米を意味するそうです。ナンシー・シナトラの会社はBoots Enterpriseというのですが、そういう意味を意識していたのでしょうかね?

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『フルメタル・ジャケット』のブート・キャンプ・シークェンスより、「ジョーカー」(右)にブーツの靴ひもの通し方を教わる「ゴーマー・パイル」くん。彼はこういう日常生活の些事が不得手なだけなのだが、軍隊ではそれが致命的な欠点になってしまう。

もちろん、もともとブートが新兵の意味だったから、新兵訓練を「ブート・キャンプ」といったわけではないでしょう。それじゃあまるで、宮武外骨の雑誌に出ていた「馬鹿」の語源です。刺身などにして食べるバカ貝という二枚貝がありますね? 俗に青柳と呼ぶ貝です。辞書には「殻から舌状の赤い足を出すところから、馬鹿者が舌を出している状態にたとえてこの名があるという」とあります。しかし、その外骨編集の雑誌によると、「愚か者はバカ貝のように口を開けているから、『バカ貝に似ている』という意味で『馬鹿者』というようになった」というのです。そんな馬鹿な話が……。

◆ 父と娘 ◆◆
ということで、本日はThese Boots Are Made for Walkingの後半です。ナンシー・シナトラは、アメリカではデビュー以来まったくヒットがありませんでしたが、日本では早くから人気があり、わたしもTonight You Belong to Meなんかはかなり好きでした。当家のお客様、O旦那が編集、ライナー、デザインを担当なさったナンシーの初期シングル・コレクションは、リリース当時、ずいぶん評判になり、わたしもさっそく手に入れました。

アメリカでは、このあたりのシングルは存在すら知られていなくて、いまもってCD化されていないくらいですから、あのころは古い45回転盤を買う以外にノンヒットの初期シングル曲を手に入れることができなかったので、このCDはオールドタイマーをおおいに喜ばせました。

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しかし、あと知恵でいうなら、こうした初期シングルがアメリカではすべてフロップしたのは、必然だったようにも思えます。最近、ナンシーのことを調べていて、はじめて知ったことがあります。フランク・シナトラはなぜリプリーズ・レコードをつくったのか、です。

シナトラがマルチ・トラック・レコーディングを忌み嫌い、つねにバンドといっしょに「ライヴ」で歌ったというのはよく知られています。じつは、これが理由でキャピトルをやめ、リプリーズをつくったのだそうです。マルチ・トラックでバンドとシンガーを別録りにするのが当然と考えられるようになったのが気に入らず、昔ながらの録音スタイルを固守するために、自分が自分のボスになることにしたというのです。

f0147840_23555645.jpgなるほど。小津安二郎はワイド・スクリーンを嫌い、「あんな郵便ポストのなかから世の中を見るようなことは御免こうむる」といって、死ぬまでスタンダードで撮りましたが(そういえば、『フルメタル・ジャケット』はなぜかスタンダード・サイズだった)、ものをつくる人、それも第一級の人物の場合、このような頑固なこだわりは天性といっていいでしょう。

しかし、それが会社のカラーになってしまうと、客商売ではおおいに問題です。ナンシーはリプリーズが契約したごく初期のアーティストですが、社長のモー・オースティンは契約の条件として「ノー・ロックンロール」といったそうです。あの疾風怒濤の時代に「ノー・ロックンロール」では、時代遅れのシンガーとみなされ、リスナーから顧みられなかったのは、当たり前すぎるほど当たり前のことでした。ビートルズが「侵略」した1964年2月以降、アメリカ音楽界は根底から覆されるのですが、ナンシーの録音には「64年の断層」が見られないのです。

f0147840_022762.jpg同じリプリーズでも、ディーン・マーティンはいち早く、若いジミー・ボーウェンに思うままに指揮を執らせ、新しい時代に対応しました。ボーウェンは、「自分のチーム」であるアーニー・フリーマン(アレンジ)やハル・ブレインというメンバーを使い、ハルには、それまでのディノの盤には見られないような強いビートを叩かせました。そのボーウェン・プロデュースのEverybody Loves Somebody (Sometimes)によって、ディノはチャート・トップに返り咲きました。9年ぶりのことです。

この曲はまだビートルズのビルボート・トップ100日間独占の最中に録音されているのだから、メインストリーマーとしてはいの一番といっていいほどの、ビートルズ時代への「即応」でした。この素早さでディノは後半生の地位を不動のものにしたといっていいでしょう(65年には『ディーン・マーティン・ショウ』がはじまり、9シーズンつづくヒット番組になる)。それなのに、若いナンシーは依然として、「ファブ4」など存在しないかのように、古びた歌をうたっていたのです。

遅ればせながらそれをひっくりかえしたのが、リー・ヘイズルウッドとビリー・ストレンジのコンビであり、So Long babeと、このThese Boots Are Made for Walkingでした。シナトラがリーのデモを脇から聴いて、この曲はいける、といったということは、彼も時代に合わせて変わろうとしていた証拠に思えます。ナンシーがはじめて大ヒットを飛ばした直後に、シナトラもビッグ・カムバックによって、ディノ同様、後半生も大スターでありつづける根拠を確保しました。もちろん、そのときドラムを叩いていたのはハル・ブレインでした。66年春のThese Boots Are Made for Walkingの大ヒットは、同年夏のStrangers in the Nightへの序章でもあったのです。

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ナンシーとリー・ヘイズルウッド

こういうことをいうと、シナトラとラットパックのファンの方に怒られるかもしれませんが、結果から見て、溺死しかけていたリプリーズに浮き輪を投げたのは、ハル・ブレインとレッキング・クルーだったといってよいと思います。ハルの強いビートに背中を押され、シナトラ親子とディノは時計の針をビートルズ時代に進めることができたのでした。

◆ ヴェトナムへ ◆◆
どこの国でもそうですが、芸人は戦地の慰問ということをします。あの古今亭志ん生ですら、酒が豊富だというだけの理由で満州までいってしまい、命からがら逃げ帰るなんてことをしています。ものすごく臆病なのに、酒がからむと突然強くなるというのが、志ん生らしいところです(たしか、この満州での志ん生と圓生の苦難は井上ひさしが芝居にしていた)。あるいは、淡谷のり子の「別れのブルース」は中国駐屯軍のあいだでヒットし、それが国内にもどってきたのだといわれています。

『地獄の黙示録』をご覧になった方はご記憶だろうと思いますが、あの川沿いの基地で、ゴーゴー・ガールが踊るシーンがありました。あれも慰問です。で、あのシーンを見ていて、これはナンシー・シナトラがモデルだと感じました。彼女はヴェトナムへ慰問に行っているのです。そういうことも、『フルメタル・ジャケット』のなかでナンシーのThese Boots Are Made for Walkingが使われた理由のひとつかもしれません。

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『フルメタル・ジャケット』に話を戻しますが、マシュー・モダイン演じる主人公の「ジョーカー」は、軍の新聞『スターズ・アンド・ストライプス』(「星条旗新聞」と訳したりもする)に配属され、編集会議のシーンが出てきますが、上官は、「テト」(旧正月)の停戦中に大きな戦闘があるという噂を追求したいというジョーカーには取り合わず、慰問に来るアン=マーグレットの取材体勢をどうするか、などということばかりいっています。ナンシーの慰問はもうすこし前のことで、この時期にアン=マーグレットが慰問にいった事実があるのでしょう。

これで、この映画が68年のいわゆる「テト攻勢」の前後に時代設定をしていることがわかります。あのころはこちらもまだ中学生で、ただこの言葉をひんぱんに目にした記憶しかありませんでしたが、この「テト攻勢」を境に、アメリカと南ヴェトナムは「戦局、日に日に利あらず」状態に陥っていったようです。太平洋戦争でいえば「ミッドウェイ海戦」というところ。

上官が、アン=マーグレットがどうしたなどといっているうちに敵襲がはじまり、ジョーカーははじめて前線へと取材に向かうことになります。われわれも手持ちカメラの揺れとともに前線に連れて行かれ、ジョーカーとともにたっぷり「クソの世界」を見て、幸いなことに生きて帰ることになります。友を失ったり、人を殺したりしなければなりませんが、たとえクソの世界だろうと、生きていることはすばらしいという洞察を得るでしょう。では、彼らとともに、ミッキー・マウスの歌をうたいながら、無事に前線から離脱するとしましょう。



◆ カヴァー各種 ◆◆
平和な本土では、These Boots Are Made for Walkingの平和なカヴァーがいくつか録音されました。しかし、残念ながら、あまりいいヴァージョンはありません。いいものがあれば、サンプルにしたのですが、それほどの手間をかけるに足るものはないようです。しいていうと、2種類、オリジナルと同じスタッフによるものが、聴いていて腹は立ちませんし、ニヤニヤすることすらできます。

ひとつはオリジナル盤のアレンジャー、ビリー・ストレンジのカヴァー。ドラムは例によってハル・ブレイン、ベースもキャロル・ケイでしょう。ビリー・ザ・ボスは、プレイヤーの評価においては歯に衣着せぬ人なので、ドラムはハル、ベースはキャロルがナンバーワン、と断言しています。たしかに、60年代に関しては、ほかのプレイヤーを使ったことはほんの数えるほどです。いつものようにホーンをバックにしたギターインストですが、オリジナルよりすこしスピードアップして、にぎやかにやっています。

f0147840_0394861.jpgもうひとつ面白いのは、オリジナルのプロデューサー、リー・ヘイズルウッド盤。ナンシーがいない以外は、ほとんどオリジナルと変わらないので(ストリングスがあるところが最大の相違)、どういったらいいかよくわからないのですが、ヴァースのたびに「これはなになにの歌である」という紹介が入り、ナンシーからはじまって、ビリー・ストレンジやエディー・ブラケット(エンジニア。ユナイティッド所属。ワーナーおよびリプリーズの録音は、しばしばユナイティッド・ウェスタンでおこなわれた)が登場するところが、ただの楽屋落ちですが、笑えます。「エンジニアのエディー・ブラケットがいうには、そろそろこのレコードをフェイドアウトさせないと、われわれ全員、逮捕されることになる」といって、ハルががんがん派手なフィルインを投入してフェイドします。

バーバンク・フィルハーモニックというわけのわからない「バンド」のカヴァーもあります。しかし、ジャケットをひっくりかえして眺め、音を聴けば、なるほど、とわかります。スナッフ・ギャレットの企画による、「南北戦争時代風サウンド」による「現代」のヒット曲のカヴァー集なのです。Hey Judeがあるので、60年代終わりの録音と思われます。

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The Burbank Philharmonicのフロント。デザインはディーン・トーレンスのキティー・ホーク・プロダクション。構想といい、細部の処理といい、いたってお粗末で、ふつう、こういう会社にデザインは頼まないだろうなあ、と思う。

しかし、これはどんなものでしょうか。ギャレットのプロジェクトだから、メンバーはみないつもの人たちでしょうし、ドラムはちゃんとやっているのですが、このアレンジが面白いかといわれると、はてさて、なんだろうね、これは、と溜め息が出ます。チューバかなんかでイントロのベース・リックをやっているのですが、なんだかすごく尾籠な音です。

ヴェンチャーズは、もう完全に時代遅れになってからの録音で、つまらないプレイをしています。やめるわけにもいかず、苦しいですなあ。わたしはこのへんの録音は願い下げです。

スプリームズは、アレンジ、サウンドについては、ちょっと面白いところもありますが、ダイアナ・ロスの歌でカヴァーなんか聴いたって、腹が立ってくるだけです。

腹が立つといえば、ボー・ブラメルズもひどいものです。ハル・ブレインがプレイしたTriangleというアルバムを買おうとして、まちがって66というのを買ってしまい、ムッとなりました。どこにも魅力のかけらすらないバンドでした。彼らのThese Boots Are Made for Walkingは、そのまちがって買った66に収録されているので悲惨の極致、ドブ川の底に淀むヘドロみたいな音楽だなあ、やっぱり、われわれはworld of shitに生きているのかもしれない、と納得してしまうのでした。
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by songsf4s | 2009-03-18 13:51 | 映画・TV音楽
ドラマーの声 その2

3月18日追記 サンプル1のリンクを修正しました。ご不便をおかけてして申し訳ありません。

今回はナンシー・シナトラのThese Boots Are Made for Walkingの後半を、と考えていたのですが、予定を変更させていただき、『フルメタル・ジャケット』とThese Boots Are Made for Walkingの記事の後半はさらに先送りとさせていただきます。

先日、「ドラマーの声」という記事を掲載したのですが、その記事を書く前提になったコメントを投稿された方から、また非公開のコメントがあり、まだ前回の記事では委曲を尽くしていなかったらしいことがわかったので、再度、ドラマーの声とプレイの関係について論じます。

◆ 声はすれどもプレイは聞こえず ◆◆
まず、サンプルをお聴くください。ビーチボーイズのI Get Aroundセッションのテイク8と9です。

サンプル1

登場人物の判断がむずかしいのですが、トークバックでテイク・ナンバーをいっている声は(よりによって)マイク・ラヴにきこえます。なぜマイク・ラヴなんかがブースにいたかというと、おそらくこのセッションでは、ブライアンはフロアにいてベースをプレイしていたからだと考えます。わきからちょっと口を挟んでいるのは、エンジニアのチャック・ブリッツでしょう。この人の声はPet Sounds Sessionsのあちこちに記録されているので、ビーチボーイズ・ファンにはお馴染みです。SOTではブライアンに次ぐ「出演率」で、助演男優賞の対象といっていいほどです!

トークバックではテイク7といっていますが、SOTではテイク8と記録されています。ブライアンもよくやるのですが、素人なので、テイクナンバーを間違えた可能性があります。ブースの人物は重要ではないので、これくらいでいいでしょう。

さてフロアには、ビーチボーイズのメンバーとハル・ブレインとリオン・ラッセルがいたと思われます。カウントインの声は、このテイク8からハル・ブレインになります(テイク6までは不明の人物がやっていた)。

スティックを叩き合わせながらカウントしているハルは、このテイクでドラムをプレイしたのか? 厳密にはノーです。スネアでバックビートを叩いたのはデニス・ウィルソンか、または、ハル・ブレイン以外のドラマー、それもあまりタイムのよくない、16分のパラディドルでラッシュするプレイヤーです。このテイクでも、最初の16分からもう突っ込みまくっています。

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では、ハル・ブレインはなんのためにこのセッションに参加し、あまつさえカウントインまでしているのか? それはスネアないしはタムタムのリムを16分で叩いたと思われる「パーカッション」のためです。バックビートのうしろで、カラカラカラカラ16分で鳴っている打楽器が聴き取れるでしょう。

テイク9の後半、このリムの16分とタムタムやフロアタムの16分が交互にプレイされるところがあります。ここまで聴けば、ハル・ブレイン・ファンは、なーるほど、と納得します。このタムタムからフロアタムへの16分の正確なパラディドルは、明らかに彼のタイムなのです。ハル・ブレイン印がデカデカと捺してあります。だから、カウントの主はハルでも、スネアを叩いたのはハル以外のドラマー、ハルはパーカッションだった、というケースがあり、声がすればドラムを叩いたと断じてよい、とはいえないことになります。

◆ プレイは聞こえれども声はせず ◆◆
逆のサンプルをお聴きいただきましょう。同じくI Get Aroundのセッションからですが、SOTには「Track Only」と書かれています。ただし、これは間違いだろうと思いますが、そのへんについては後段で。

サンプル2

このテイクでカウントしているのはハル・ブレインではありません。だれかビーチボーイズのメンバー、たぶんブライアンかデニスではないでしょうか。しかし、そのプレイたるや、すごいものです。どの16分も正確でスピード感がありながら、ラッシュすることはありません。もちろん、わたしにはハルのプレイに聞こえます。

トラック・オンリーというSOTの記述は間違いではないかといったのは、これはリリース盤のトラックではないからです。リリース盤は、デニスがトラップに坐った、16分が前後に揺れる、ノッキングする車のようなトラックが使われているのです。「トラック・オンリー」という言葉は、ふつうはリリース盤からヴォーカルを抜いたものを指すので、このSOTの記述は誤りです。

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では、テイク番号のないこのトラックはなんなのか? そこまではわたしにもわかりません。トラップ・ドラムのみでパーカッションはないので、デモまたは初期テイクなのかもしれません。ここにパーカッションを加えることになり、デニスがやってみたけれど、うまくいかず、ハルがパーカッションにまわり、かわってデニスがトラップに坐ったのかもしれません。ここでだいじなのはそのことではないから、経緯の想像はやめておきます。

肝心なのはこういうことです。ハル・ブレインの声がはっきり聴き取れるトラックでは、ハル・ブレインはトラップ・ドラムをプレイしていない、逆にハルの声がまったく聞こえず、ブライアンまたはデニスがカウントしているトラックなのに、ハル・ブレインのドラムが聞こえるものもある、ということです。つまり、声は決定的な手がかりにはならない、ということです。

では、なにが決定的かといえば、わたしの考えでは、それぞれのドラマーに固有のタイム、チューニング、サウンド、プレイ・スタイル、シグネチャー・プレイです。これを頼りに判断するのがいちばん確実だと思います。タイムとプレイ・スタイルがハルのものに思え、しかも、カウントインでハルの声が聞こえれば、そのときはじめて声が補強証拠として意味をもちます。声だけではなにも判断できません。はっきり声がわかっても、そのセッションにその人物が立ち会ったことがわかるだけで、なにをプレイしたのか、なにもしないで突っ立っていただけなのか、そこまでは判断できないのです。

◆ 紙上の判断 ◆◆
だれでもがドラマーのタイムの善し悪しを判断できるわけではありません。では、ほかに方法はないのか? 声より当てになるのは、AFM、すなわち、アメリカ音楽家組合(American Federation of Musicians)のコントラクト・シートです。こんな用紙による、支払いの基礎となる伝票です。

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ハリウッドのスタジオはAFM Local 47(第47支部またはLA支部)の管轄だったので、47という支部名が書かれています。まず、雇用者(この場合はコロンビア・レコード)の名前、担当者署名(テリー・メルチャー)、所在地、曲名などといったことが書かれていますが、それはあまり重要ではありません。だいじなのは、下のほうの欄、プレイヤーと楽器が書かれているところです。

ただし、先頭にはたいていセッション・リーダー、すなわち、コントラクター(このセッションの人員を集めた人物)の名前が書かれます。コントラクターはプレイヤーであることもあれば、そうではないこともあります。ここに書かれたロジャー・ウェブスターはプレイヤーではないでしょう。

以下、ラッセル・ブリッジズ(リオン・ラッセルの本名)、ローレンス・ネクテル(ラリー・ネクテル)、ハル・ブレイン、ウィリアム・ピットマン(ビル・ピットマン)、ジェリー・コルブラック(ジェリー・コールの本名)、ジェイムズ・マギン(ジム・マギン)という順で、名前と住所と所属組合支部番号が書かれ、右側の欄には支払金額と年金積立金額が記入されています。

後日のオーヴァーダブ・セッションがあったりするので、コントラクト・シートも百パーセント確実な証拠にはなりませんが(モータウンは、後年、コントラクト・シートの偽造をやったと噂される)、たいていの場合は信頼して大丈夫です。したがって、サンディー・ネルソンについても、このような証拠がたくさん存在し(多少のセッションなら、ネルソンもやっただろうと考えている)、しかも、はっきりとネルソンの楽器はドラムと書かれていて、ほかに代理となりうる人物がパーカッションなどの名目で参加していない、となれば、十分に考慮に値することになります。

◆ 再度、所見 ◆◆
わたしのように、名目上のアーティストはたいていの場合、ただの木偶人形と考えるリスナーは多くありません。以前、ご紹介した、キャロル・ケイのヴィデオからのクリップで、ペリー・ボトキンが笑いながらいっているように、「Cause they ain't play any good」だったのです。バンドをやっている子どもたちは、楽器がうまく弾けなかったのです。だから、プロのプレイヤーがスタジオで代役をやったのです。だれそれは例外とか、そういうことではありません。まず百人のうち百人がダメだったと思っておくほうが安全です。

ごくたまに、ちゃんとプレイできる子どもというのもいました。ジム・ゴードンみたいに、高校生のころからすごいビートを叩いていたドラマーもいないわけではないのです(でも、そこまでうまいとスタジオが放っておかないから、バンドで有名になる前にプロになってしまう)。そういう場合は、「彼はプレイできた」と証明する必要があります。なにも証拠がなければ、ハリウッドの常識にしたがって、ただカメラの前でニッコリし、プレスコに合わせて口パクで歌い、楽器を弾くような格好をして見せただけ、と考えておくほうが安全です。わたしがこのブログで、プロとアマの役割のちがいについて論じるときは、そういう考え方が前提にあります。明白な証拠がないかぎり、バンドのメンバーはたんなる木偶人形の芸能人と自動的に分類する、ということです。

以上、申し上げたいことは、声が聞こえても、それだけでは、プレイヤーの特定においてはあまり参考にはならない、ということが第一。もうひとつは、ネルソン・ファンのKさんが、非公開コメントで言及されていらっしゃる「契約書」が、AFMのコントラクト・シートを指しているのなら、これは、きちんと読めば(プレイヤーとコントラクターすなわちセッション・リーダーを混同したりといった誤読をしない)立派な手がかりになりうる、ということです。

わたしは手書きということをしない主義なので、どうしても必要と判断しないかぎりは郵便も使いません。逆にKさんはEメイルを好まないということで、コミュニケーションは頓挫しました。しかし、逃げる気はまったくない、証拠があるなら検討する、ということだけはお伝えしたいので、このような記事の形をとることになりました。

声は重要ではありません。重要なのはコントラクト・シート、またはインペリアルないしは録音スタジオの「セッション・ワークシート」です。そこに、プロデューサーやコントラクター(セッション・リーダー)ではなく、ドラマーとしてネルソンの名前が記録され、ほかにドラムを叩けるプレイヤーがいない、というのであれば、その曲を注意深く聴くことによって、ネルソンのタイムを判断する基準を作ることができるでしょう。たとえネルソンの楽器がドラムと記録されていても、ほかにドラムを叩ける人がいれば、それだけで信頼に値しません。たとえば、「パーカッション」と記録されたプレイヤーが、ネルソンの影武者をつとめた可能性が生まれます。

ということで、郵便での連絡はご容赦を願います>Kさん。重要なセッションのコントラクト・シートをお持ちであるなら、その旨をまた非公開コメントとして書いていただきたいと思います。


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by songsf4s | 2009-03-17 01:46 | ドラマー特集
These Boots Are Made for Walking by Nancy Sinatra (OST  『フルメタル・ジャケット』より) その1
タイトル
These Boots Are Made for Walking
アーティスト
Nancy Sinatra
ライター
Lee Hazlewood
収録アルバム
Stanley Kubrick's Full Metal Jacket (OST)
リリース年(オリジナル45)
1965年
他のヴァージョン
Billy Strange, Lee Hazelwood, the Ventures, the Supremes, Beau Brummels
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だれしも勘違いからは逃れられないのですが、ブログをやっていると、それを公表してしまうので、だんだん神経質になってきます。

f0147840_16171877.jpgこのブログの最初の記事で、馬鹿みたいな間違いを書いたことに、いまになって気づきました。記事自体の出来が気に入らないので、いまさらご覧にならなくていいのですが、June Nightという曲が2ヴァースだけだったので、以前読んだ、ナンシー・シナトラの回想記“Sinatra, My Father”の一節がふとよみがえり、そのことを書いたのです。シナトラが娘に「2ヴァースの曲はベストだ」といったというのです。

この一節だけ記憶していて、その理由は覚えていなかったので、わざわざ原文にあたったのに、それでもまだ自分の勘違いに気づかなかったのだから、呆れます。シナトラはナンシーにこういったのです。“The song with the two verses is the best.”定冠詞を無視するなんて、どうかしていると思いますが、やっぱりこのへんが外国語、ボンヤリしていると、勘違いをしてしまうのでしょう。

1965年、ナンシーはリー・ヘイズルウッドのプロデュース、ビリー・ストレンジのアレンジによる、So Long Babeではじめてビルボードにチャートインします。しかし、この曲は本命の曲が完成するまでの、いわばつなぎでした。

デビュー以来、4年以上まったくヒットが出なかったナンシーのために、リプリーズのジミー・ボーウェンは、新しいA&Rとして、ディノ・デジ&ビリーにヒットをもたらした、プロデューサーのリー・ヘイズルウッドとアレンジャーのビリー・ストレンジのコンビを紹介します。リーとビリーはナンシーの家にきて、候補となる曲を聴かせました。このときに、たまたまフランク・シナトラが来ていました(ナンシー・シニアとは離婚していた)。ビリーとリーが提示したデモのなかで、ナンシーは2ヴァースしかない曲が気に入り、サード・ヴァースを書き足してくれ、とリーにいいました。

リーとビリーが帰ったあとで、シナトラが「(おまえのいうとおりだ)あの2ヴァースの曲がいちばんいい」といったのです。なにをどう読んだのやら、わたしはここで大ボケをかましてしまったわけです。2ヴァースの曲一般についての話ではなく、「さっきの曲のなかでは」“あの2ヴァースの曲”がいい、という意味だったのに!

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左からリー・ヘイズルウッド、ナンシー・シナトラ、ビリー・ストレンジ

ということで「その2ヴァースの曲」、These Boots Are Made for Walkin'が今日の曲なのです。いや、もちろん、ナンシーの注文どおり、リーがヴァースをひとつ書き足した(サード・ヴァースではなく、新しいセカンドを書いて、中間に挿入した。この変則的なセカンドの出来が非常にいい)ので、できあがったものは3ヴァース構成ですけれどね。

いまでも忘れないのですが、邦題は「にくい貴方」という生まれもつかない代物でした。バックネット直撃の大暴投、まったくかすりもしないほど遠く外れています。「このブーツは歩くためにできている→浮気ばかりしていると、あんたをこれで踏んづけて、出て行ってやるからね」という意味の歌です。

◆ 1968年ヴェトナム戦争の旅 ◆◆
1987年製作のスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』(「装甲弾」と記憶していたが、改めて調べたら「完全被甲弾」という訳語のほうが適切らしい。いずれにしても弾丸の種類)は、忘れられない映画です。映画が、というより、ナンシーのことを思いだし、そのままタワーに行って、ライノから出ていたベスト盤を買ってしまったためにです。それほど鮮烈な再会でした。もちろん、映画のなかでの使い方がうまかったので、強い印象を受けたわけですが。

キューブリックの代表作、『2001年宇宙の旅』が、簡単にいえば「あなたを宇宙に連れていってあげましょう」という映画だったように、『フルメタル・ジャケット』は、「あなたをヴェトナム戦争につれていってあげましょう」という映画です。その意味で、じつに怖い映画でした。キューブリックの前作『シャイニング』(1980)は気味の悪い映画ではありましたが、怖くはありませんでした。撮影がみごとで、画面が流麗でしたしね。

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ステディーカムを使ったこの空撮によるオープニング・シークェンスには圧倒された。30年たったいま見ても、やはりすごい。

同時期に、やはりヴェトナム戦争をあつかった『プラトーン』(「プラトゥーン」と発音するのだが!)という映画を見て、ひどく安手なメロドラマだったので呆れ果てました。どこといって変わり映えのしないありふれた「感情」をテーマに、観客の感情を操作するだけのもので、ヴェトナム戦争の当事国以外には、なんの価値もありません。みんなつらい目にあったなあ、といって、手に手を取って泣き合っただけのマスターベーション映画です。

『フルメタル・ジャケット』はそういう凡作とはまったく異なる、おそるべき「地獄の観光映画」でした。『地獄の黙示録』のような、つくっている人間自身がなにをしているのかわからなくなってしまった、大混乱ピンぼけ映画ではありませんし、『プラトーン』(プラトゥーンだっていってんじゃんか!)のような、お涙頂戴アホ映画でもありません。

f0147840_16482177.jpg『フルメタル・ジャケット』は、ただ淡々と「戦場にいる」(映画のなかではI'm in the world of shit、「クソのなかにどっぷりつかっている」と表現される)とはどういうことかを描いています。つまり、プラトゥーンのように、二束三文の象徴性をもたせようとして、メロドラマティックな手法を使うことはなく、ごくふつうの人間が、ふつうに戦争に行って、ふつうに仲間と助け合いながら淡々と戦闘行動をしても、やっぱり戦争はとことん恐ろしい、という映画なのです。キューブリックのような大監督と三流監督(プラトゥーンの監督の名前がどうしても出てこない)では、映画の作り方がまったくちがいます。いや、世界をどう見るかという根本的なところで、もう隔絶しているのです。ものごとを把握できない人間には、まともなものは作れません。

これは映画による戦争体験なので、『フルメタル・ジャケット』は、ブート・キャンプに入るために新兵たちがバリカンで坊主にされるところからはじまります。冒頭で「あなたは徴兵された」と宣言しているのです。最初の40分間はブート・キャンプでの訓練期間です。ここで人間としての尊厳を完全に剥奪され、「クソの世界」がどんなものかを、教官にたっぷり思い知らされます。



「ゴーマー・パイル」というありがたくないあだ名をつけられた新兵が、爪の検査のときに私物箱に鍵をかけ忘れていたために叱責を受け、ついでに箱の中身を検査され、ドーナツが出てきてしまいます。教官のハートマン軍曹は、今後ゴーマー・パイルがヘマをやったら、あいつを罰せずに、かわりにおまえら全員を罰することにした、ゴーマー・パイルがドーナツを食べているあいだ、おまえたちは腕立て伏せだ、と命じるわけです。これはつらいでしょうねえ。

教官や仲間にいじめ抜かれたゴーマー・パイルは、精神に変調をきたし、自分のライフルに話しかけるようになります。そして前半のラスト、訓練完了の夜、教官を射殺し、自分もライフルの先端を口にくわえ自殺してしまいます。便器に坐ったゴーマー・パイル(クソの世界にいるのです)の死体のありさまに、うへえ、と思うまもなく、すっと画面溶暗。多くの観客が、狂気に陥った人間の心をのぞき込む長い緊張から解放されて、ここでひと息つきます。

そして、画面が真っ暗なままで、アコースティック・ギターのEのストロークが流れ、チャック・バーグホーファーのスタンダップ・ベースが、クォーター・ノートの長い階段をひとつひとつ8分で刻みながらEからAフラットまで降りると、キャロル・ケイのフェンダー・ベースがEで受ける、ハル・ブレインが4分のスネアのハードヒットで入ってくる――。一小節もいかないうちに、「ナンシーだ!」と心のなかで叫んでいました。

ずいぶん長いあいだ聴いていませんでしたが、このイントロを忘れるはずがありません。あまりにも有名で、本体そのものから分離不能になっているため、カヴァー盤も、ボー・ブラメルズ以外はみなこの下降ベースをやっているほどです。プロコール・ハルムのA Whiter Shade of Paleからバッハ・イントロを切り捨てられないのと同じです。こんなイントロがつくれたら、それだけでトップ20は確保、あとは中身と運しだいでトップも望める、というぐらいですから、ナンシーのこの曲はチャート・トッパーになりました。

◆ 悪いヴェトコンといいヴェトコン ◆◆
以下の動画では、冒頭の1秒ほどのあいだ、なかばフェイドしたものながら、死者のショットがあります。その旨をご承知のうえでご覧ください。観客に強いストレスをあたえる殺人と自殺のシーンがフェイドアウトし、一息ついた、その黒味のなかでチャック・バーグホーファーのベースが下降をはじめることが、このシーンのポイントです。それなのに、ほかのクリップはこの黒味を切ってしまっているので、なんの意味もありません。以下のクリップをあげた人だけは映画がわかっているから、直前のシーンからはじめています。ただし、音がひどく小さいので、ヴォリュームをあげてください。



昔見たときは、These Boots Are Made for Walkingを使ったのは、あの時代を象徴するにふさわしい曲だからということと、ツッパリ風の歌詞とこのシーンが符合するからだと思っていました。しかし、今回見ていて、「ブート・キャンプ」(新兵訓練)とのダジャレもあるのかな、と思いました。キャンプと実戦の中間に挟まれているからです。

しかし、なぜ「ブート」なのでしょうかね。軍靴をはじめて履くから? あるいは、コンピュータの「ブートストラップ・ローダー」というプログラムと同じような、ブートの用法なのかもしれません。いまでもマシンの起動を「ブート」というのは、ブートストラップ・ローダー、つまり、最初に「ブーツのつまみ革を引っ張りあげるように自分自身を呼び出す」プログラムが起動することから来ています。ブート・キャンプとは「初期起動訓練場」というニュアンスなのかもしれません。しかし、まあ、下手な考え休むに似たり、ご存知のかたは突っ込んでください。

音を聴くなら以下のクリップをどうぞ。



ナンシーを紹介しているのはライチャウス・ブラザーズのボビー・ハットフィールドです。トラックはリリース・ヴァージョンと同じものですが、ヴォーカルはちがいます。こういうときにカラオケをバックにライヴで歌うこともなくはありませんが、まあ、ふつうはプレスコです。スタジオではフランジングでナンシーの声を太らせたそうですが、なるほど、盤とこのときの声はだいぶちがいます。

この映画はとんでもない台詞がいっぱい出てきますが、いちばん有名なのはつぎのシーンのものでしょう。Get someという叫びは「喰らえ!」といったあたりの意味です。



射手「逃げるのはみんなヴェトコンだ。じっと立っている(逃げない)奴はしつけのいいヴェトコンだ」(どうやってヴェトコンと非戦闘員を見分けるのか、という疑問に答えているという想定。ジョークがわからない人がいると困るので、くどくいえば、見分けたりなんかせず、全部殺すということ)
主人公「女や子どもも殺したのか?」
射手「ああ。たまにな」
主人公「どうしたら女や子どもを撃てるんだ?」(How could you shoot women, children?)
射手「簡単だ。狙いを前にしすぎないようにするだけでいい」(Easy. You just don't lead them so much.)

例によって、Howを使った疑問文の二重の意味を利用した台詞です。動く標的を撃つ場合は、動線を読んですこし前を狙う、というのはおわかりでしょう? 射手が「lead」とっているのはその「読み」のことです。マシュー・モダイン演じる主人公がいいたいのは、「どうしてそんな(無慈悲な)ことができるんだ?」ということなのですが、射手はHowを方法と解釈して、撃ち方のディテール――女子どもは足が遅いから、狙いが前すぎると当たらない、そこを微調整すれば女子どもも殺せる――を語っているのです。

この「How could you shoot women, children?」という疑問を、主人公はクライマクスでもう一度発することになります。ただし、こんどは他人にではなく、自分自身に向かって、心のなかでたずねるのですが。

あれこれよけいなことを書いて長くなってしまい、カヴァーを検討する時間もなかったので、2回に分けさせていただきます。以下、「その2」につづく。
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by songsf4s | 2009-03-15 16:53 | 映画・TV音楽
ドラマーの声

3月13日注記: サンディー・ネルソン・ファンの方々に配慮して、末尾に「追記」をおきました。よろしければご一読ください。

☆……☆……☆……☆……☆……☆……☆……☆……☆……☆

お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、The Best of Earl Palmer その13という記事について、コメントを寄せられた方がいらっしゃいます。しかし、個人情報が書かれているために、承認して表示するのがためらわれ、保留したままにしています。個人情報を削除したうえで、もう一度投稿をお願いしたのですが、まあ、面倒と思われるお気持ちもわかります。

しかし、逃げたわけではないので、改めてその方が提示された疑問を記事にして、当方の考えを述べさせていただきます。まず、その方のコメントのポイントだけを抜き出します。

「さて、上述の"Let There Be Drums"ですが、曲の33秒目に、注意して聴きますと、クラッシュ・シンバルとともに、私の思うに、"Yeah."と、Sandy Nelsonらしき声が聴こえますが、如何思われますでしょうか」

これを敷衍すると、サンディー・ネルソンの声がするのだから、これはアール・パーマーのプレイであると断じたわたしの意見は根拠を失うのではないか、という意味なのだろうと思います。

まず、声がするかどうかなのですが、いま、ヘッドセットを使えない状態なので、すこし音を大きくして聴きました。しかし、わたしがもっている盤のミックスでは、Let There Be Drumsの33秒前後には聞こえませんでした(タイム表示は多少ずれるが、この付近のクラッシュ・シンバルは一打だけ)。

MP3ではどうかわかりませんが、皆様もいちおうサンプルをどうぞ。それから、つぎの日曜までの限定ということで、かつてアップしたベスト・オヴ・アール・パーマーのリンクを再公開します。コメント欄をご覧あれ。こちらにもLet There Be Drumsは収録してあります。

サンプル

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このジャケットを見た瞬間、猛烈な違和を感じた。アーニー・フリーマンやプラズ・ジョンソンやルネ・ホールがいるなら、アール・パーマーもいたに決まっているのに、なぜアールの名前を落とすのだ、無礼な会社だな、と思ったのである。だが、これがドラマーのアルバムであることを思いだし、納得した。いや、納得してから、もう一度、おかしい、と思った。アールがいそうなら、きっといるにちがいない、ネルソンはものすごい下手くそだったといわれているのに、この盤のドラマーは第一級の腕の持ち主だ、論理的な結論はひとつ。ヴェンチャーズと同じように、ネルソンもプレイしなかったのだ。そして、AFMのコントラクト・シートにも、アールの名前が記録されているという情報をキャロル・ケイにもらって、この「事件」の調査は完了した。

◆ タイムとプレイの質の問題 ◆◆
声がするかどうかよくわからないから、それでおしまい、という意味ではありません。仮に声が聞こえたとして話を進めます。ヴァージョンによっては声が聞こえることがあるかもしれないからです。

でも、わたしはサンディー・ネルソンの声を知らないのです。はっきり聞こえたとしても、それがネルソンのものだと断定する知識はわたしにはありません。そもそも、それをいうなら、アール・パーマーの声もわかりません。つい先日、アールがプレイしたことがわかっているビーチボーイズのPlease Let Me Wonderのセッション・テープを詳細に検討したのですが、カウントしているのは、アールではなく、べつの不明の人物で、いちどだけ、小さく笑った低い声がそうかもしれないと思っただけでした。

ネルソンがどういう声をしているのか、わたしはまったく知りませんが、ここにネルソンの声がはっきり記録されていて、しかも、わたしがネルソンの声を判断できたと仮定しましょう。その場合でも、わたしの考えはやはり変わりません。

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ネルソンはこの曲の録音に立ち会ったとわたしは考えています。彼の盤のプロデューサーはネルソン自身とクレジットされているからです。アーティスト印税とプロデューサー印税の両方を稼げるチャンスをのがすようでは、世知辛いハリウッド音楽界では小銭も稼げません。

ハリウッドのプロはきわめて優秀で、プロデューサーがランチに行っているあいだに盤をつくってくれるから、その場にいる必要もないのですが、「じゃあ、あとはよろしく」などといってスタジオから出て行くのは、会社から給料をもらっているインハウス・プロデューサーだけで、生活がかかっている独立プロデューサーはまじめに仕事をしたようです。だからネルソンも、クレジットに値する仕事はしたのだろうと想像します。つまり、ブースにいて、指示を出したのだろう、ということです。したがって、なにかの加減でネルソンの声が入る可能性はあります。

しかし、こういうのはみな可能性をいっただけのことで、正直にいって、サンディー・ネルソンなどという、プレイが盤としてわずかにしか残っていない(彼自身の名義の盤はアールのプレイ)ひとの声を判定できる方がいらしたことに、心底ビックリ仰天しています。わたしなんか、よく知っているはずのハルの声ですら、ときどき断定できなくなるので、こんなかすかな、聞こえるかどうかもわからない程度のもので、話者を特定できるとは驚きです。ネルソンの声を判断する基準となる録音をなにかお持ちなのでしょうか。

ということで、「どう思うか」というご質問に対するわたしの応えは、「声がするかどうかもわからないのだから、声の持ち主の身元にいたっては思慮の外である。しかし、声が記録されていて、それが仮にネルソンのものであったとしても、このドラマーの正体はだれかというわたしの考えにはまったく影響しない。プレイから判断して、ネルソンではなく、やはりアール・パーマーである」です。

◆ ワン・トゥー、ワン・トゥー・スリー ◆◆
声がわかるということでは、なんといってもハル・ブレインにまさる人はいません。CD時代になってからは、むやみに彼の声が盤に収録されるようになりました。たとえば、ハニーズのベスト盤に収録されたHe's a Dollの冒頭では、ハルはスティックをたたき合わせながらイントロのギター・リックを歌っています。

サンプル1

すんげえプレイですなあ。つねにハルの代表作のひとつと考えています。不動のベスト20の一曲。

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しかし、もっと声がわかりやすいのはセッション・テープです。まずはビーチボーイズ。さすがのクルーもミスを連発した、悪戦苦闘七転八倒八甲田山死の44テイク、かのCalifornia Girlsセッションから、テイク8-12。といっても、すべてイントロでブレイクダウンしているために、ハルのカウントインを何度も聴くだけなのです。

サンプル2

f0147840_1604763.jpg途中でブライアンが、「ジェリー、もう一回練習しろよ」といった相手はジェリー・コール。そこで爆笑したのはキャロル・ケイ。ブライアンが頼りないジェリーをからかったのです。思いきり受けてしまったCKさんが、ジェリーをどのように見ていたかは、彼女のエッセイに、ハワード・ロバーツの忘れがたい皮肉(「ジェリー、いいストラップじゃないか」)として記録されています。CKさん同様、HRもジェリー・コールが嫌いだったのです。性格が悪かったうえに「もう一回練習」ですから。

もちろん、拍子や何拍目で入るかといった状況に左右されますが、ハル・ブレインはたいてい、2小節のカウントインをします。最初の小節は、スティックは4分で4回、声は2分音符で「ワン……トゥー」といいます。2小節目は、スティックはそのまま4分、ただし、3拍目まででおしまい、声は4分にして、「ワン・トゥー・スリー」と、これも3拍目までで切ります。

理由は明白です。たいていの場合、リヴァーブやディレイがかかっているので、4拍目までカウントすると、その残響が小節の頭に残ってしまうのです。じっさいに、ヘッドフォンで聴いていて、そういうミスをした曲を見つけたことがあります。ロック・バンドはそういうマヌケなことをやっても許されますが、スタジオのプロがそんなことをやったら、プロデューサーかエンジニアに怒鳴りつけられます。

◆ セッション解析 ◆◆
さて、最後は長尺物、バーズのMr. Tambourine Manのテイク1から14までのハイライト。

サンプル3

登場人物を書いておきます。トークバックで指示するプロデューサーはおそらくテリー・メルチャーです(ライナーはジム・ディクソンとしているが、たぶん勘違い。これはディクソンが指揮したワールド・パシフィックのリハーサルではなく、CBSでの本番のセッション)。プレイヤーは以下の通り。

ドラム=ハル・ブレイン
ベース=ラリー・ネクテル
フェンダー・ピアノ=リオン・ラッセル
6弦ギター=ビル・ピットマンおよびジェリー・コール
12弦ギター=ジム・マギン(ザ・バーズ)

ジム・マギンはのちにロジャー・マギンになりますが、このときはまだジムで、メルチャーももちろんジムと呼びかけています。

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リズム・ギターの二人は同じリズムで、高音弦および低音弦のカッティングをしています。低音弦のほうはファイナル・ミックスでは聞こえなくなりますが、トラッキング・セッションでは聞こえています。ジョン・ローガンのバーズ伝がダメだというのはこういうところです。ちゃんと聴けば、二人のリズム・ギターがいることがわかるのに、「ビル・ピットマンもいたと記録されている」などと寝言を書いています。

また、高音弦でのカッティングはコールとするのが定説のようですが、わたしは不賛成です。このただごとでない正確さは、ミスばかりやっていて、そのくせ、なにかというと、「ソロ、ソロ」と騒ぐので、周囲の大人たちから馬鹿にされていた「ストラップだけはキマっているJC」のプレイには思えません。ビル・ピットマン説を主張します。コールはほとんど聞こえない低音弦のカッティングをやったのでしょう。

しゃべっているのはメルチャーとハルばかりで、ほかはほとんど無言。冒頭、「フェイドでリオンは弾くのか弾かないのか、どっちだ?」(You want Leon in or out on fade?)といっているのはハルです。リオンが自分でいえばいいじゃないか、と思うかもしれませんが、ハルがいったほうがいいのです。なぜなら、ハルの目の前にはマイクがありますが(エンジニアや状況に左右されるが、ハイハットとスネアの中間、またはスネアとタムタムの中間に向けて、一本当てるのが当時のスタンダードだった)、リオンのマイクはアンプの前にあるので、プロデューサーには聞こえないのです。ハルばかりしゃべっている理由はこれです。目の前にマイクがないプレイヤーがなにかいいたいことがあると、大声を出さないといけません。Pet Sounds Sessionsにはそういうシーンも記録されています。

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どうでもいいようなことばかり書いているみたいですが、細部にいたるまで具体的にスタジオの様子を把握しておかないと、セッション・テープを聴いても、なにが起きているのかイメージできないのです。野球場の形も知らなければ、ルールも知らずに、ラジオで野球中継を聴いても、なんのことかわからないのと同じです。

さて、このトラッキング・セッションを聴いて思うのは、まずなんといっても、ハルのうまさです。テイクとテイクの合間に、マーチング・ドラムを何度か叩いていますが、こういうときに地が出るわけで、いいタイムだなあ、きれいなロールだなあ、と思います。ドラマーは美しいロールを叩けなければ半人前です。いるんですよ、そういうのがうようよ。

このマーチング・ドラムは、つねにMr. Tambourine Manのテンポでやっていることも、むむう、です。じつは、ワールド・パシフィックでのリハーサルと称するMr. Tambourine Manの初期テイクは、マーチング・ドラムでやっているのです。いや、これはハルではなく、クラークのプレイだろうと思います。ジョン・ローガンがインチキ伝記で、なんでマーチング・ドラムなんだ、なんて、およそくだらないことを書いていますが、わたしは、ハルがデモのときにやったアレンジをそのままクラークがコピーしたのだと考えています。ちゃんとテープを聴き、頭を適切に使えば、いろいろなことが解決できるんだぜ>ジョン・“御用作家”・ローガン。

なーるほど、と思ったのは、イントロのドラムの「ピックアップ」フレーズ、すなわち入口のシンコペートした16分2打プラス8分2打は、最初はフロアタムでやっていて、途中でメルチャーが「Hal, do that pickup on the snare, an' do it heavy」と指示した結果、最終的な形になったことがわかります。

また、わたしが編集でミスして削除してしまったようですが、ラリー・ネクテルに対しても、イントロを変えるように指示しています。最初はD-E-lowAだったのを、D-D-highAに変更し、しかもDからhighAへの移行はスライド・アップでやるように変えています。

この二つの決定的な変更で、イントロの最終的な形ができあがりました。こういうことが、プロデューサーの大きな仕事のひとつだと思います。リオン・ラッセルが、メルチャーは予算を気にせず(お坊ちゃんだから!)、完璧に仕上げるタイプのプロデューサーだといっていましたが、このトラッキング・セッションを聴くと、きちんとやるべきことをやっていることがわかります。

えーと、なんの話だったかというと、わたしに聞き取れる声は、ハル・ブレインとキャロル・ケイぐらいだということです。いや、ブライアンもたいていの場合はわかりますが、あとはさっぱりで、大好きなアール・パーマーやジム・ゴードンの声ですらわかりません。だから、サンディー・ネルソンの声は判断できません。どうかあしからず。でも、だれかの声がしているんじゃないか、なんて思いながら聴くのは、なかなか楽しいことだと思います。バーズのHickory Windの小さなノイズは、コード・チャートが譜面台から落ちたのだ、なんて思っています。いやはや、トリヴィアな世界でした。

◎追記
ものごとを遠まわしに、やわらかくいうのが苦手なので、ダメと感じたものは、「それほどよくない」などとはいえず、「ひどい」と書いてしまう傾向があります。その点をすこし反省して、補足します。

わたしがいわんとしたことは、ハリウッドでは、スターとプレイヤーは完全に分離していた、ということです。サンディー・ネルソンにもっとも近い例は、二つあります。ひとつはもちろんヴェンチャーズです。彼らも初期は名前だけで、プレイはすべてプロフェッショナルが代行しました。

もう一例はハーブ・アルパートです。こちらのほうがネルソンとの類似性が明白かもしれません。なぜなら、彼もプレイヤーとして自分の名前を出し、自分でプロデュースもしていますが、スタジオではプレイしなかったといわれているからです。AFMのコントラクト・シートは見たことがなく、キャロル・ケイにきいた話なのですが、アルパートの盤でトランペットをプレイしたのは、オリー・ミッチェルだそうです。

ジャズじゃないから、だれがプレイしたかなんてことは、会社にとってはどうでもいいのです。それがいい音楽で、売れそうなら、それで十分なのです(そういってはなんですが、オリー・ミッチェルより、ハーブ・アルパートのほうがハンサムだということも重要だったかもしれません)。

アルパートのトランペットがどの程度のものかは知りません。しかし、極論するなら、それは関係ないのです。ポール・マッカートニーが、自分の盤を自分でプロデュースするのは、ブースとフロアを行ったり来たりしなければならず、ものすごく疲れる、きわめて不合理なやり方だ、といっていました。主演俳優が監督も兼任すると大変なのと同じです。だから、アルパートはプロデュースするほうをとり、プレイは大エースのミッチェル以下、ハリウッドの信頼できる面々にまかせたのでしょう。

サンディー・ネルソンの盤には彼自身がプロデューサーとしてクレジットされています。わたしがネルソンだったら、ドラムを叩いてはブースに上がり、プレイバックを聴き、ダメだ、リテイクだ、などといってまたフロアにおり、またプレイし、またブースに上がり、なんて愚劣なことはしません。3時間35ドル払えば、アメリカ一のドラマーが来て、影武者をやってくれるのです。これが正しい仕事のやり方です。

だから、企画者、制作者としては、立派な仕事をしたわけで、とくに恥じることではないだろうと思います。ハーブ・アルパートも自分の盤の出来を、いまも誇りに思っているだろうと想像します。いい出来ですからね。


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by songsf4s | 2009-03-12 16:13 | ドラマー特集
On the Street Where You Live by Bob Thompson (『マイ・フェア・レディ』より)
タイトル
On the Street Where You Live
アーティスト
Bob Thompson
ライター
Alan Jay Lerner, Frederick Loewe
収録アルバム
Just for Kicks
リリース年
1959年
他のヴァージョン
OST, Nat King Cole, Shelly Manne, Enoch Light, the Miracles, the Four Tops, Marvin Gaye, Doris Day, Ray Sharpe, Andy Williams, Frank DeVol, Vic Damone, Quincy Jones
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 3月10日追記: サンプルのリンクを修正しました。ご不便をおかけし、申し訳ありません。

当ブログとしてはめずらしいことながら、今日は短く、さっと書いてみようと、この記事に取りかかりましたが、さて、どうなりますか。ヴァージョンがたくさんあるので、半分以上は無視することになるでしょう。

前々回のI Could Have Danced All Night その1のときに、『マイ・フェア・レディ』の他の曲もどっとプレイヤーにドラッグし、ざっと聴きました。最終的に二曲に絞り、どちらにしようかと迷って、オミットしたのが、このOn the Street Where You Liveです。

といっても、楽曲としてどうこうということではなく、I Could Have Danced All Nightにしても、今日のOn the Street Where You Liveにしても、ある特定のヴァージョンだけがすごくよかったわけで、実質的にロビン・ウォードと今日のボブ・トンプソンを比較し、前者のほうがよかったから、I Could Have Danced All Nightにしただけです。で、そろそろ更新しなければならないのに、『マイ・フェア・レディ』以来、見終わった映画はなく、この二番煎じとあいなったというしだい。そういえば、ちょうど八代目三笑亭可楽の『二番煎じ』を聴くのにももってこいの時季ですな。いや、ぜんぜん関係ないのですが。

◆ グルーヴ指向のアレンジ ◆◆
さて、ボブ・トンプソンのOn the Street Where You Liveです。聴いていただくのがなによりでしょう。ロウ・ファイ・ファイルで恐縮ですが、サンプルですので……。

サンプル

トンプソンのリズム・アレンジはいつも楽しくて、弦や管よりリズムのほうばかり考えていたのではないかと思うほどです。こういうアレンジャーはきわめて稀です。ふつう、アレンジャーというのは、メロディー指向というか、弦をどうするか、管をどうするかを考えたものですし、その能力でギャラを得ていたのです。

リズム・セクション、とくにポップ/ロック系では、以前にも書きましたが、プレイヤーがアレンジするのが当然の慣行でした。つまり、たとえば、ドラムならハル・ブレインが、ベースならキャロル・ケイが、ピアノならドン・ランディーが、ギターならトミー・テデスコが自分で譜面を書くものだったのです。ロックンロール時代には、アレンジャーはリズム・セクションには口を出さず、コード・チャートをわたすだけでした。口を出したくても、ハル・ブレインやキャロル・ケイよりいい譜面が書けないから、どうにもならないのです。

例外はブライアン・ウィルソンとビリー・ストレンジです。ともにリズム・セクションのプレイヤーなので、自分で譜面を書けました。いや、ブライアンの場合は、ベース以外の譜面は書かないのですが、ドラムにいたるまで、フレーズは自分でつくっていたことが、Pet Sounds Sessions収録のWouldn't It Be Niceの初期テイクにはっきりと記録されています。入口のフレーズが、自分の指示したものとちがうと、ハル・ブレインのプレイを二度にわたって遮っているのです。

以前、ボブ・トンプソンのことを調べていて、どこかのサイトで、学生時代のトンプソンがドラムを叩いている写真に遭遇しました。それを見て、やっぱりそうか、と膝を叩きました。わたしが大好きなフィーリクス・スラトキンのI Get a Kick Out of Youのアレンジは、ドラムの経験がないアレンジャーには無理ではないかと、ずっと思っていたのです。

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ボブ・トンプソンがアレンジした、フィーリクス・スラトキン指揮のアルバム、Fantasitic Percussion

このOn the Street Where You Liveは、I Get a Kick Out of Youほど、ドラムと全体が密接に縫い合わされているわけではありませんが、アレンジャーがドラム譜を書けるなら、あらかじめ譜面を用意したほうが、スタジオに入ってから細かな打ち合わせをするより、短時間でレコーディングをすませられます。ブライアン・ウィルソンのように、スタジオ・タイムを考えずに録音ができるアレンジャーなど、ほかにはいなかったのです。予算通りに仕事を終えたいなら、完璧な譜面を用意するほうが賢明です。だから、この曲でも、トンプソンはドラム譜を書いたのだろうと推測します。

I Get a Kick Out of Youが収録されたスラトキンのアルバム、Fantastic Percussionでドラムを叩いたのはシェリー・マンだということを、お客さんのオオノさんにご教示いただきましたが、このOn the Street Where You Liveのドラマーも同じタイム、同じアクセントに聞こえるので、おそらくシェリー・マンなのでしょう。ベースがうまいおかげもあるのですが、非常にいいグルーヴで、聴いていて朗らかな気分になります。

◆ オーケストラもの ◆◆
トンプソンのパーカッシヴなアレンジさえご紹介すれば、今日の目的は達したことになるのですが、もうすこしだけつづけます。

つぎに楽しいのはイーノック・ライトのヴァージョンです。こちらもトンプソン盤同様、リズム・アレンジが勝負のヴァージョンです。ボンゴとトラップ・ドラムが狂言まわしをつとめ、つぎからつぎへとめまぐるしく登場人物=リード楽器が交代する、テンポの速いコメディーのようなヴァージョンです。イーノック・ライトのものには、つねにユーモアが揺曳していて、そこが大きな魅力になっています。

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イーノック・ライトのOn the Street Where You Liveを収録したコマンド・レコードのオムニバス、Pop Special。もともとはProvocative Percussionというアルバムに収録されたらしい。

前回、ご紹介したLet's Dance Bossa Novaとはちがうアルバムに収録されているのですが、ドラマーは同じひとのようです。この曲でもI Could Have Danced All Night同様、二拍目でキックの強いアクセントを使っています。それだけなら、イーノック・ライトの好みにすぎない可能性もありますが、キックのチューニングとタイムも同一に聞こえます。いやはや、それにしてもめまぐるしいアレンジで、じつに楽しくなります。パート譜を起こすコピイストは大変だったでしょうけれど。

NYからハリウッドに戻って、フランク・ディヴォールは、スタンダード・シンガーのオーケストレーションをたくさんやったひとなので、いかにもそれらしく控えめで上品な管のアンサンブルです。こういうアンサンブルはハリウッドのお家芸で、インフラストラクチャーがこういうスケール感を生みだすのです。おかしなことに、こちらのドラマーもイーノック・ライトのものと同じような、キック一発のアクセントを使っています。こちらは一拍目ですが。

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いつもスロウ&ムーディーなジャッキー・グリーソンは、この曲ではめずらしくアップテンポでやっています。リズム・セクションはストレートな4ビート、管はディクシー気味という、やや違和感のあるアレンジで、偏見かもしれませんが、ジャッキー・グリーソンは、やっぱりスロウ&ムーディーのほうがいいと感じます。

アンドレ・プレヴィンのピアノとリロイ・ヴィネガーのベースというシェリー・マンのトリオは、I Could Have Danced All Nightのほうはかなり変なアレンジでしたが、こちらは素直にミディアムでやっています。わたしはピアノ・トリオが不得手なので、さっぱりわかりませんが。

f0147840_102189.jpgクウィンシー・ジョーンズは、Big Band Bossa Novaというタイトルのアルバムに収録されていますが、ボサ・ノヴァではなく、サンバです。いや、サンバです、はいいのですが、なんじゃこれは、というじつに珍な仕上がりで、絶句してしまいます。中間部でテナーサックスがソロをとるのですが、これがあなた、サックスだけは4ビートのストレートなジャズ・グルーヴ、まわりはずっとサンバというハイブリッド・グルーヴで、意図的なのかもしれませんが、ひどい不発アイディアで、二つの異なった曲を同時に聴かされているような不快感があります。今回聴いたものでは最低の出来。この人、有名なだけで、才能はなかったと、最近は見離しつつあります。悪いものばかりに当たるのです。

◆ 歌もの ◆◆
映画では、この曲は、フレディーという、イライザがまだコクニー丸出しの下品な花売り娘だったころから彼女に気があり、淑女としての彼女に再会してからは、「イライザ命」と心に決めた好青年が歌います。フレディーはイライザに一目会いたいと、ヒギンズの家を訪ねるのですが、イライザに面会を断られてしまい、それでも多幸症状態なので、ヒギンズ邸の周囲を歩きながら、この歌を歌ってしまうわけです。まあ、若者にはありがちな気分なのでしょう。

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これがフレディー。いままさに、音吐朗々とOn the Street Where You Liveを歌っているところ。

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これが「彼女の住む通り」。もちろん、ワーナーのバックロットにつくられたオープンセット。昔の映画はたいへんだ。この映画ではセットなかで競馬をやる!

そういう曲なので朗々と歌いがちなのです。ミュージカルのなかではそれでいいのですが、単独の録音となると、どうでしょうかね。そういうのはわたしの好みではないのです。なんたって、元をたどればがちがちのロック小僧ですからね。

そういうひとだからしかたありませんが、ヴィック・ダモーンはもろに「音吐朗々」世界で、おっとっと、とつぶやいて、つぎのトラックにジャンプ、でした。

そこへいくと、ディノはやっぱり、どこまでも「スタイリスト」です。歌もののなかでは、このディーン・マーティン盤がいちばん懐の深い歌いっぷりで、非常に好ましい出来です。

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Dean Martin "This Time I'm Swingin'"

フォー・トップス、ミラクルズ、マーヴィン・ゲイと、モータウンが3種もあるのが、おやおやです。しかも、モータウン風アレンジはゼロ。メインストリームの上品なスタイルです。全部ハリウッド録音でしょう。モータウンがなぜハリウッドで録音するようになったかは、わたしにとっては追求するに足るテーマで、何度か考えたのですが、こういうメインストリーム・サウンドがデトロイトでは不可能だったこともひとつの理由だと思います。

f0147840_1112346.jpgいや、結果から見れば、この方向は途中で消えた、とはいわないまでも、ものすごく細くなって、スプリームズのアルバムなどに多少の痕跡が残るまでに薄れてしまうので、どうでもいいといえばどうでもいいのですが、トップス、ミラクルズ、ゲイの三者が初期にメインストリーム的なサウンドを試みているというのは、モータウンがスプリームズの「爆発」直前に、そういう方向も模索していたひとつの証左といえます。早い話が、社会階層を上にのぼりたくて、ハリウッド録音を開始したのではないか、という想定に行き着くわけです。

アップテンポのボビー・デアリン(「ダーリン」読みは当家では廃止した。本来の音からあまりにも遠すぎる)は、歌詞の意味と懸け離れてしまっていて、「いい」カヴァーではないでしょうが、これくらいのほうがわたしは乗れます。ハルでもアールでもない、ジャズ系のドラマーがフィルを叩きまくっています。もう時間切れなので、これが最後、レイ・シャープも悪くありません。
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by songsf4s | 2009-03-09 23:56 | 映画・TV音楽