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川口松太郎と溝口健二の『雨月物語』補足と訂正 付:代表作抄
 
新藤兼人監督没だそうです。享年百、赤飯を炊く年齢の大往生で、めでたい、というべきでしょう。最近のお若い方は、大往生も、赤飯もご存知ないらしく、めでたい、というツイートはついに目にしませんでした。

当家では、以前、新藤兼人映画で面白いと思ったものは一本もない、と書きましたし、いまさら口を拭う気もありません。わたしにとってはきわめて相性の悪い映画監督のひとりで、もはや、見てみようという好奇心も起こりません。

ひとつだけ気になったことがあります。新藤兼人は脚本家としても傑出していた、という意見をいくつか見ました。それ自体についてはなにも考えはありません。なにかいうほどの数は見ていないのです。しいていうと、市川崑の『暁の追跡』のときに、新藤兼人の脚本がひどいと書いたほどで、とにかく苦手なのです。

いや、新藤兼人がすぐれた脚本家かどうかは知りません。しかし、その新藤兼人によるすぐれた脚本のなかに、鈴木清順監督の『けんかえれじい』を入れるのには、おおいなる抵抗、違和感があります。

当家では何度も鈴木清順映画をとりあげ、そのつど強調しました。鈴木清順は、脚本をまったく重視しない監督であり、彼の最初の仕事は、脚本をずたずたにして、自分らしい映画の土台へと変換することである、と。

鈴木清順映画ではプロットはあまり意味をもたず、重要なのは、なにを描くかではなく、どう描くか、です。ストーリーではなく、視覚的なディテールに重心の大半がかかっているのです。

以上は鈴木清順映画一般に通じる大原則。もう一点あります。なにで読んだのか忘れてしまったのですが(木村威夫の『映画美術』かもしれない)、そのような清順の手によって、いつものように、脚本などクソ食らえと大改変した『けんかえれじい』の試写を見て、新藤兼人が激怒した、という話が伝わっているのです。

脚本を書いたご当人が激怒するようなものを、その人の脚本の代表作に算入するのはどんなものでしょうか。映画の出来がよかったからといって、脚本がよかったと、まっすぐに逆算するのは賛成できません。

とりわけ、鈴木清順のように、台本なんか会社が寄越すもの、そんなもので映画は撮れない、自分の映画は自分のやり方で撮ると公言している監督をつかまえて、手放しで脚本をほめたりすると、監督も、脚本家も、双方ともに腹を立てるのではないでしょうか。

◆ 原作ならず ◆◆
てなことを枕に、今回は石原裕次郎の映画を、と思っていたのですが、なにしろ相手は三時間半の大作、ただ見るだけでもおおごと、サウンドトラックの切り出しだって、2GBのwavファイルを相手に悪戦苦闘して、今日は準備が整いませんでした。

ツイッターで最近フォローしてくださった方が、先日の溝口健二と川口松太郎の記事について、背景情報を寄せられたので、今日はそれをもとに訂正と補足をしておきます。

多くの溝口健二映画のシナリオを書いた依田義賢の『溝口健二の人と芸術』という本がありまして、わたしも若いころに読んだのですが、中身は忘れてしまいましたし、当家の溝口=川口シリーズの冒頭に書いたように、一昨年、蔵書をほとんどすべて整理したときに、映画関係の本も手放してしまいました。

で、その本によると、『雨月物語』は、映画の企画と小説が同時進行だったのだそうです。返信のツイートにも書きましたが、アーサー・C・クラークが、スタンリー・キューブリックと共同でシナリオを書き、映画とパラレルで小説を執筆した『2001年宇宙の旅』と同じパターンです。後年の露骨な商業主義ノヴェライゼーションとは、いくぶんかニュアンスが異なりますが、しかし、箱に入れるなら「原作」ではなく「ノヴェライゼーション」です。謹んで訂正させていただきます。

お浜が映画では生き延びたのは、会社からの注文があってのことだったと依田義賢は証言しているそうです。会社といったって、溝口健二の映画に注文をつけられるのは、永田雅一しかいなかったのではないでしょうか!

アーサー・C・クラークの小説とスタンリー・キューブリックの映画では、とりわけエンディングのニュアンスが大きく異なったように、『雨月物語』も映画と小説では結末が異なり、後味も大きく異なっていました。たんなる偶然かもしれませんし、そこに映画と小説の本質的な違いがあらわれるものなのかもしれません。

◆ 人情馬鹿列伝抄 ◆◆
溝口=川口シリーズを書いた直接の動機は、溝口健二の映画を見たからではなく、いまやほとんど売れないと古書店の番頭氏が保証した、川口松太郎の本を数冊まとめて読み返し、もったいないなあ、いいものがたくさんあるのに、と思ったからです。

○人情馬鹿物語
いろいろあったものの、結局、川口松太郎は『人情馬鹿物語』の作家、というところに落ち着いたように思います。若き日の作者自身と思われる「信吉」という作家志望の青年と、その師匠である講釈師の悟道軒円玉(実在)をめぐる人々の、古風な義理と人情のあやなす連作短編です。

なぜ作家志望の信吉=川口松太郎が講釈師の弟子になっていたかというと、円玉は躰が弱く、この物語ではもう講釈はやめて、速記本作者になっていたからです。そして、講談速記が発展したものが、時代小説であり、大衆小説のひながたなのだ、というのが、大衆文学の歴史では常識となっています(講談社の最初の社名は「大日本雄弁会講談社」といった。講談速記本からスタートした)。

たしか半村良が『雨やどり』のあとがきで、これは川口松太郎の『人情馬鹿物語』に範をとった連作短編であり、オマージュなのだという趣旨のことを書いていて、それでまだ学生だったころに『人情馬鹿物語』を古本屋であがないました。

一読、なるほど、と納得がいきました。いずれも、なんともいえず胸にしみる話柄ですし、古い東京のおもかげが行間に揺曳するところにおおいなる魅力があります。

半村良は、連作『雨やどり』と同じ登場人物による続篇に『新宿馬鹿物語』というタイトルをつけました。

○続・人情馬鹿物語
『人情馬鹿物語』は、のちに代表作といわれることになるわけで、評判も悪くなかったのでしょう。続篇が生まれています。

続篇も基本的には正篇と同じような雰囲気で、引き続き悟道軒円玉も登場しますが、すこし時代の下った話も入っていました。やはり、正篇ほどの密度、完成度とはいきませんが、しかし、正篇が気に入った読み手には十分に満足のいくものでした。

○非情物語
タイトルが示すように、『人情馬鹿物語』と同様の連作短編形式をとり、同様に、やるせなくなるような人の情けの物語が集められていますが、悟道軒円玉の時代ではなく、大東亜戦争後の時代を背景にしています。

息子の川口浩から聞いたものを書いたという「親不孝通り」という短編は、それこそ、川口浩とその夫人の野添ひとみの主演で映画化したらよろしかろうという話です。浩は、親父の小説は古い、と批判したそうですが、彼がこの話を書きなよと語った物語は、結局、川口松太郎的な、『人情馬鹿物語』的な結末を迎えます。

川口松太郎は身辺の人物を題材にした短編をたくさん書いているので、当然、幼なじみの溝口健二も何度か登場しています。『非情物語』収録の「祇王寺ざくら」には、溝口健二や依田義賢と遊びに行った祇王寺での出来事が描かれています。

また、大映専務としての執務の様子を描くくだりもあり、古い日本映画を愛する人間には興味深い付録になっています。

○しぐれ茶屋おりく
連作短編と長編の中間のような形式の、各章読み切りの短編をつないだ長編です。

明治の中頃(だったと思う)、吉原の妓楼の女主「おりく」が、妓楼を養女にゆずって、鐘ヶ淵のあたりの寂しい場所に料理茶屋を開き、努力によって店を繁盛させながら、時代の変転が気に入らず、店を閉じるまでの物語です。

おりくは、若いときに吉原の妓楼に買われながら、主人に気に入られ、結局、見世には出ないまま、主人の囲われものになります。その没後、女だてらに妓楼を経営しますが、養女が大きくなり、婿を迎えたので、なかば引退するようにして料理屋を開きます。妓楼を営んでいたころは身を慎んでいましたが、茶屋を開いてからは、もういいだろうと、これまでの人生の報酬として、おりくは男道楽を自分に許します。

したがって、話はおおむね、おりくが惚れた男たちの肖像という形になるのですが、しかし、これまた、人と人のつながりというのは摩訶不思議だなあ、というところに落ち着く、いかにも川口松太郎らしい話材ばかりです。

浅草生まれなので、川口松太郎は芸事をよく知っています。当然、落語や講釈にもくわしく、彼の語り口自体にそれが血となって流れていますが、『しぐれ茶屋おりく』では、もっと直接的に、芸人たちの肖像という形で表現されています。

とりわけ、おお、と思ったのは、おりくの若き日の回想に登場する三遊亭圓朝です。圓朝ですよ!

おりくの亭主は寄席が好きで、おりくもやがて芸に深い関心を抱くようになります。亭主から圓朝の『塩原多助一代記』がいかにすばらしいかをきかされたおりくは、晩年の圓朝がこの長い続き物を高座にのせたときに、毎晩通い詰めて圓朝の芸を堪能します。

この連作のなかで、圓朝が登場する短編は、プロットとしてすばらしいわけではないのですが、圓朝の姿がなんとも慕わしく、これほど噺家の高座姿を筆に乗せるのがうまい作家はほかにいないのではないかと感じます。

三遊亭圓朝は1900年没、川口松太郎は1899年誕生、どう考えても、川口松太郎は圓朝の高座を知るはずがありません。しかし、おそらくは悟道軒円玉あたりから、くわしく話をきいたのでしょう、じつに真に迫った圓朝の肖像が描かれています。なんせ、安藤鶴夫も一目をおいた作家ですからね。

○古都憂愁
これまた連作短編ですが、背景になったのは、いつもの東京下町ではなく、タイトルが示すとおり京都です。

川口松太郎は大映の専務だったので、撮影所のある京都にしばしば滞在したようで、『古都憂愁』は、いわば京の芸妓をあつかった『人情馬鹿物語』です。

当然ながら、こちらにも溝口健二は登場します。同じ浅草生まれでも、川口松太郎は東京と京都を行ったり来たりしていましたが、溝口健二は戦前から京都暮らしでした。そして、こちらに収録された溝口健二がらみの話は、溝口自身の映画『お遊さま』のロケをめぐる物語なので、溝口ファンは目をお通しになったほうがよかろうと思います。ううむ、そんな話があったのか、とちょっと感銘を受ける短編です。

いま思い出しましたが、半村良の『ながめせしまに』に収録された諸篇の一部は、『古都憂愁』に範をとったもののように感じます。


そろそろ時間切れ、なんの準備もなく、手元に該当の本のないまま(引越準備で大部分は段ボールに収めてしまった)、エイヤッと乱暴に書いてしまい、ちょっと恥ずかしいようにも思うのですが、このブログはもともと音楽をあつかっていたもので、それが映画を扱うのも逸脱、小説となるとさらに守備範囲からはずれるので、勢いのついた時でないと書きにくく、一気にやってしまいました。

上掲のほかに映画(成瀬巳喜男監督、長谷川一夫、山田五十鈴主演)や芝居にもなった『鶴八鶴次郎』は、おおかたの人の認める代表作ですし、中篇『風流深川唄』も、感銘の深いものでした。川口松太郎らしい話柄とはいいかねますが、代表作に数えられることもある『皇女和の宮』も、一気に読ませる長編です。

そのうち、映画と込みで『鶴八鶴次郎』を取り上げられるといいのですが、それより『蛇姫さま』でしょうかね!


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by songsf4s | 2012-06-01 23:54 | 書物
ドゥームズデイ・ディザースター補足 半村良『収穫』

米調査「新聞、テレビは10年後に消える」

なんて記事がありました。消える、というところまではいかないでしょうが、一部の人だけが好む、取るに足らないマイナーなメディアになっているでしょう。テレビは早くなくなるべきですが、本が形を変えて生き延びるように、テレビもなにか生き残りの道を見つけるでしょう。テレビはまったく見ませんが、本は依然として毎日読んでいます。いまのところ、電子メディアに替えたいとは思いません。それしか方法がなくなればあきらめますが。

◆ 一斉職場放棄 ◆◆
『妖星ゴラス』を皮切りに、ドゥームズデイ・ディザースターを扱った映画や小説のことを書いているときに、あれもそうだったな、と思いだしながら、現物が見つからなくて取り上げなかった小説があります。半村良の処女作『収穫』です。

f0147840_23514694.jpg半村良の『収穫』もまた、小松左京の『こちらニッポン』や広瀬正の『ツィス』と同じように、人死にはほとんどありません。自然の大災害は起きないので、ディザースターとは呼びにくいのですが、『こちらニッポン』や『ツィス』と同じような味があります。

語り手は日比谷の映画館に勤める映写技師です。世界情勢は緊迫し、この半日、海外から羽田に到着した便はなく、日本を発った便はみな消息を絶ってしまったと、新聞に書かれているのを語り手は読みます。語り手がまだ二十代でひとり暮らし、テレビをもっていないことが暗示されていることにご注意。1963年ならそれも不思議ではなかったのです。

電波も共産圏からはまったく届かず、ついにフランスからの電波も途絶えたと新聞には報じられています。そこまで読んで顔を上げると、二人の映写助手が仕事の手を休め、ボンヤリしていたので、語り手はどやしつけます。しかし、助手は穏やかな笑顔で「やっと来ましたね」といいます。

語り手は館内の容子が奇妙なのに気づきます。いつもならドッと笑いが起こるところなのに、なにも反応がないのです。ロビーに行くと、売店や案内係の女性従業員も、映写助手と同じように、ポカンと遠くを見る目をしています。

ロビーのテレビのスウィッチを入れると、ブーム・マイクが垂れ下がって、そのまえでコーラス・グループがぼんやり突っ立っているのが映し出され、語り手は戦慄します。

案内係に声をかけると「早く行きましょう」といわれ、助手にも「主任は行かないんですか」ときかれてしまいます。どこへ行くというのだときくと、「だって、聞こえているでしょう……。あそこへ行くんです」といいます。

◆ 1962年のジョン・ウェイン西部劇 ◆◆
ちょっと脇道に入りますが、この映画館でいま上映しているのはジョン・ウェイン主演の西部劇だそうです。『収穫』が書かれたのはおそらく1962年、この年に製作されたジョン・ウェインの西部劇はジョン・フォードの『リバティ・バランスを射った男』とオムニバス映画『西部開拓史』の二本です。作者はどの作品とは書いていないので、好みで『リバティ・バランスを射った男』と仮定しておきます。

さらに脇道。ハル・デイヴィッドとバート・バカラックが書き、ジーン・ピトニーが歌ったThe Man Who Shot Liberty Valanceという曲がヒットしています。しかし、これは映画には出てきません。映画のために書かれ、録音されたものなのですが、パラマウントと楽曲出版社とのあいだでなにかトラブルがあったとかで、映画には使われませんでした。



べつに悪い曲ではないものの、とくによくもなく、ジョン・フォードのタッチとは水と油です。映画主題歌というのは、映画にピッタリくっつくのではなく、ちょっと距離をとった、汎用性、独立性のあるもののほうが好ましいと思います。映画のタイトルを連呼するような曲は問題外です。

◆ 銀座を行くレミングの群 ◆◆
『収穫』に戻ります。まだジョン・ウェインの映画の途中だというのに、観客が帰りはじめたのを見て、語り手は驚き、外に出てみます。日比谷の映画街はひと気がなくなったものの、晴海通り(いや、たぶん、この時代にはそうは呼んでいなかった。半村良は「電車通りに出てみると」というように、固有名詞は使っていない)は雑踏していて安心します。

f0147840_23533789.jpgしかし、よく見ると、すべての人が同じ方向、尾張町の交叉点に向かって歩いているのに気づき、また不安になります。車や都電(まだあった。オリンピック前の東京を描いた小説なのだ。それだけでうれしくなる)はまったく通らず、ただ人びとが歩く音だけがしています。

ここで広瀬正の『マイナス・ゼロ』に出てきた、戦前の銀座の描写を思いだします。主人公の時間旅行者は、車が少なくて静かだろうと思っていたのですが、あにはからんや、たいていの人が下駄を履いているので、足音がものすごくうるさいと感じるのです。

閑話休題。「電車通り」を尾張町方向に向かって歩く人びとは、まったくの無表情か、なにかすごく楽しいことでもしているような笑みを浮かべています。語り手は群衆の行方を見とどけようとします。人の群は尾張町交叉点を通過し、三原橋(このとき、下はまだ運河か?)をすぎて、まるでレミングの大群のように海のほうに向かっています。

語り手は晴海の自分のアパートにもどります。東京湾には口を開けた巨大な半球が浮かんでいて、人びとはそこにつぎつぎと飲み込まれていました。そして、その球が光り輝き、見えなくなると、つぎの球があらわれて、また人間を飲み込みはじめました。

通りにはまだ人がいますが、建物はどこも無人になってしまい、銀座に戻った語り手はデパートで高級品を漁り、空腹になったのでホテルに行きます。日比谷のホテルというと、あの時代なら日活ホテルと考えて大丈夫でしょう。

翌日、語り手は車で東京中を走りまわりますが、見かけるのは犬と猫ばかり、人間はまったくいません。桜田門で銃を手に入れ、主人公はパトカーを拝借し、サイレンを鳴らしながら走りまわります。ようやく、ひとりだけ人間を見つけますが、どうやら手術中に「事件」が起きたらしく、腹のあたりは血まみれで、語り手が駆け寄ったときには息絶えていました。

主人公は勤め先の発電機を利用してホテルに電気を送り込み、一人きりの生活をはじめます。ホテルには無線機を備え付け、東京のあちこちに、自分の居所を赤ペンキで書いて、この種の物語の登場人物がみなそうするように、生存者と接触することを生きる目標にします。

◆ 普通の人々の異常な経験 ◆◆
キリがないので、このへんでプロットを追うのは終わりにします。後半は他の生存者とのコンタクトと原因の究明なので、書かないほうがいいでしょう。

ディザースターと呼ぶのはためらいを感じますが、『収穫』もまた、『こちらニッポン』や『ツィス』と同類の「無人都市物語」であることはまちがいありません。そして、この三者のなかでは、『収穫』が最初に発表されています。

『収穫』は「SFマガジン」のコンテスト応募作で、受賞作なし、小松左京の「お茶漬けの味」(小津の映画を意識していたと思うのだが)とともに佳作入選だったと記憶しています。しかし、福島正実がなにを望んでいたかは措くとして、『収穫』は受賞に値します。

「処女作にすべてがある」かどうかは微妙なところですが、語り手が自分の平凡さを強調するところは、のちの半村良の諸作に通じます(たとえば『闇の中の黄金』)。『収穫』は、平凡であることが特殊だという物語(わかるように書くと具合が悪いのであいまいにした)で、いかにも半村良らしい設定です。

半村良のどの長編だったか(『聖母伝説』?)、主人公が百枚の中編小説を一気に書き上げ、翌朝、コンテストの締切ギリギリに郵送する描写があります。これを読むと、『収穫』は平凡な(と自分では信じている)人間の生への祈りだったことが実感されます。あまりいい心理状態で書かれたものではなく、作者はそれまでの生活を捨てようとし、その区切りとして、スプリングボードとして、ふつうの心理状態ならできないことをやってみるのです。

そのころ、川口松太郎の『人情馬鹿物語』を読んで、主人公が歌舞伎座だか松竹だかが募集した芝居台本のコンテストに応募する場面が出てくるのを知りました。半村良の直木賞受賞作『新宿馬鹿物語』(訂正。対象となったのはこの連作のうち「雨やどり」)は、川口松太郎の『人情馬鹿物語』へのオマージュとして書かれたものです。なるほど、あれがこうしてああなったか、と納得しました。川口松太郎の応募作も、やはり祈り、明日への願い、人生の区切りとして書かれたのです。

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福島編集長は、半村良の「生活」小説が気に入らなかったかもしれませんが、この作家の小説に飽きが来ないのは、ふつうの小説のように書かれているおかげです。年を経るとともに、川口松太郎の影響の色濃いことがしだいに痛感されてきました。


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by songsf4s | 2010-11-01 22:31 | 書物
静かな破滅、騒々しい破滅―小松左京『こちらニッポン』と広瀬正『ツィス』 その3

1970年代は「危機の時代」でした。いや、正確にいうと「危機ブームの時代」でした。公害に対する危機感が頂点に達したからなのか、ノストラダムスのブームのおかげか、日本沈没のおかげか、なんだかよくわかりませんが、野坂昭如の「この世はもうじきおしまいだ」がヒットするようでは、たしかにおしまいのような気配が漂っていたのでしょう。

野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リターン


久しぶりに聴くとすごいですね。いや、久しぶりじゃなくてもすごかった記憶がありますが。いえいえ、作家としてはやはりたいした方だと思います。好きな短編がいくつもあり、ときおり読み返したくなります。つねづね、『火垂るの墓』の妹のように静かに死ねたらと願っています。

◆ 災厄のCシャープ ◆◆
これまでの二回、小松左京の『こちらニッポン……』に並べて、広瀬正の『ツィス』(1971年、河出書房新社刊)を外題に掲げてきたのですが、やっと再読を終わりました。何回も読んでいるのに、よく忘れられるものだと感心してしまいます。

神奈川県の海岸の町、C市で、若い女性が、妙な音に悩まされていることを精神科の医師に訴えます。医師は音響学の専門家を紹介し、この女性の聴覚(絶対音感がある)をテストした上で、機材をC市に持参し、市の協力を得て予備調査をおこないます。

C市にはPという海岸のホテルがあるというので、茅ヶ崎と断定してかまわないでしょう。ホテルはパシフィック・パークと措定して、小説中の描写と矛盾しません、他のC市に関わる描写(東海道線が通っているなど)もすべて茅ヶ崎を指し示しています。

調査の結果、「ツィス」すなわちCシャープの純音が持続的に鳴っていると考えられると発表されます。細かいことを思いきり端折ると、この「ツィス」音はしだいに大きくなっていき、はじめは一握りの人にしか聞こえなかったものが、ほとんどの人が聞こえるようになり、やがて生活に支障を来すほどの騒音になっていきます。

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広瀬正という人は、工科出身で、しかもサックス・プレイヤーだったという経歴の持ち主です。これは小説にもストレートに反映され、代表作の『マイナス・ゼロ』では昭和初期の家電製品や音響製品の考察に生かされたり、『エロス』では戦前の音楽状況(紙恭輔が登場する!)や、主人公がつくる曲にそれが反映されています。

『ツィス』でも、やはり「音」というものが、音楽的かつ音響学的に考察されます。そんなことはわからなくてもかまわないのですが、ドミナントやサブドミナントがなにを指すか(あるいはコードで、IとかIVとかVとかがなにを意味するか)を知っていると、ニヤニヤしたり、感心したりすることができるのが『ツィス』という、「無人都市」小説なのです。

たとえば、こういう描写はどうでしょう。

「耳に聞こえてくる純音が非常に強くなると、一緒に高調波の音が聞こえてくるようになる。たとえば自動車レースで、マフラーをつけない、ものすごいエキゾースト・ノイズが、倍音をともなった、より太く、たくましい音に聞こえる、あれだね」


こういうことを書ける小説家はそうたくさんはいません。若いころ、広瀬正を特別な人と思っていた所以です。

もちろん、綿密な調査をすることで有名な作家でしたから、調べもしたでしょうが、経歴(というか本来の嗜好というべきか)に由来する素養も、この空想物語に堅牢無比の土台をあたえています。広瀬正の小説がどれも腐らないのは、無数の事実がきわめて論理的に配置されているおかげでしょう。

◆ 音の擬似イヴェント ◆◆
ツィス音はしだいに強くなっていき、C市はもちろん神奈川県全体に被害がおよび、そこまでいけば、当然、東京でも先行きが憂慮されるようになります。もちろん、自治体や政府は対応せざるをえなくなり、いっぽうでさまざまな社会現象も起きます。

そうしたことを、広瀬正は新聞や雑誌記事などを織り込みながら、悠揚せまらざるテンポで書いていきます。音楽雑誌の座談会という章は、この作家ならではで、マスキング効果(たとえばアナログ盤で、無音部の「リル」ではスクラッチが大きく聞こえるが、音が鳴りはじめるとノイズはほとんど聞こえなくなることに代表される現象)の話を中心に面白く読ませます。

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前半の中心になるのは音響学者ですが、後半は聾唖のイラストレーターの視点から語られます。

ツィスの原因は地震の原因と同じものと想定され、人為的な操作はできず、「自然にやむ」のを待つしかないと学者は主張します。そして、それには数年がかかり、それまでにツィス音は耳栓なしでは一秒もがまんならないほどの強さになると推測されます。

東京都は一千万の都民を疎開させることになりますが、後半の主人公である榊英秀は、ツィス現象にからんで、聾唖のイラストレーターとして有名になったおかげで、都から疎開後の東京をリポートすることを依頼され、都民の財産を保全するための「留守部隊」といっしょに、東京に残ることになります。

昔、ダニエル・ブーアスティンの『幻影の時代』という本があり、そこから擬似イヴェントという言葉が生まれ、SFの世界でも「擬似イヴェントもの」というのが流行りました。『ツィス』も「もしもこれがこうだったら……」という擬似イヴェントものの色彩が強く、広瀬正は、とほうもない音が広大な地域を覆うとなにが起きるか、ということをていねいに描いています。

たとえば、車の走行速度は15キロに制限されてしまいます。市民はみな耳栓をしているので、これは当然ですが、そのあとが「なるほど」でした。疎開が終わって、留守を守る二千人と数百台の車輌しかないという状態になってからは、夜間は45キロに緩和されるというのです。ほとんど人のいない町では、ヘッドライトをつけていると、遠くからでも光でわかるからだというのです。こういうことがリアリティーをあたえ、物語の外壁を堅牢に固めることになります。

◆ 人口ただいま二千人 ◆◆
疎開がはじまると同時に、いろいろ面白いことは起きるのですが、いちいち書いている終わらなくなってしまうので、そのあたりは端折ります。

人死にはほとんどないし、世界滅亡の危機というわけでもない『ツィス』を、この文脈のなかでもちだしたのは、ひとえに疎開後の東京の描写があるからです。前回、映画『地球全滅』と、小松左京の『こちらニッポン』は、都市が無傷のまま、人だけが消えてしまうタイプのディザースターだと書きましたが、『ツィス』もそれに近いのです。

ただし、『こちらニッポン……』と『地球全滅』は生存者を求める話でしたが、『ツィス』はちがいます。市民が留守にする数年のあいだ、少数の人間が東京を管理するのです。都の職員、警察官、消防士たちは組織化され、いくつかの近接する宿舎(帝国ホテルや第一ホテルなど)に住み、都庁機能を受け継いだ第一生命館(むろん、現今の超高層ビルではなく、GHQが使ったのと同じ建物、『日本のいちばん長い日』で、東部軍管区司令部として出てきた建物)などに勤務します。

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イラストレーターの榊英秀は、聾唖者なので運転免許をもてないのですが、交通機関もない無人の東京を動きまわる必要から、特別に教習を受け、免許を得ます。広瀬正は、不遇の時期にたつきとしたクラシックカーの模型で、世界的な作家として名声を得たそうで、主人公に、疎開した人が置いていったT型フォード(フォードを大企業にした大量生産車。広瀬正には『T型フォード殺人事件』という長編ミステリーもある)をあずからせます。このあたりは、作者にとっての「願望充足小説」的な部分なのでしょう。数分の1のスケールのモデルTはつくったことがあるそうですが、ほんとうはフルスケールの本物がいいに決まっています。

 通りには人っ子ひとり見えなかった。車もいなかった。日劇の前のガードにも電車は走っていなかった。
(略)
 歩行者と車がいないだけでなく、歩道も車道も、清掃局と衛生局の手で清掃され、塵ひとつ残っていなかった。だから、まるで特撮映画用の模型のセットのように見えた。(略)
 たしかに、東京の町は変わり果てた姿になっていた。東京都内は、昨夜から、留守部隊関係の建物がある所以外は、電気も水道もガスも、供給が完全に止まってしまった。東京は、ゆうべ、死んでしまったのだ。
 どのビルも、どの店も、固くシャッターが閉ざされていた。が、数寄屋橋交差点の向こうの銀座の町は、けっして、くちはてたゴースト・タウンではなかった。衛生局によって薬品洗滌されたビルの肌は、つやつやと輝き、店々の看板は生き生きとした色彩を見せていた。それはマダム・タッソーの蠟人形にも似た妖しい美しさがあり、初夏の陽射しを受けて、いまにもわらわらと溶けはじめるのではないかとさえ思われた。
 圧倒的なむなしさが、まわりをとりかこんでいる。これは、エドワルド・ムンクの“叫び”の正反対であり、しかも究極的には同一なのではあるまいか。(後略)

といったように銀座付近が描かれています。広瀬正は銀座生まれの京橋育ちだったか、その逆だったかで、『マイナス・ゼロ』には昭和七年の銀座から京橋にかけての精密な描写があります。

銀座生まれのミュージシャンだから、四丁目の山野は、時代こそ異なれ、『マイナス・ゼロ』にも『ツィス』にも登場させていて(『エロス』にも登場させたかもしれない)、どういうわけか、広瀬正の登場人物と一緒にあの店にはいるのは心躍る経験です。

◆ 須臾のディザースター ◆◆
日本を沈没させるために、小松左京が長々とていねいに手順を踏んで、読者のだれもがプレート・テクトニクスの専門家になったような気がしはじめたころ、やっと日本を沈ませたように、広瀬正も、長々と音と騒音と人間の感覚を論じ、われわれの社会が騒音にどう反応するかを綿密に描写してから、東京を無人にします。

嗚呼、それなのに、無人になってからエンディングまでのあいだのなんと短いことよ。疎開拒否の残留者を捜したり、江戸橋付近で大火災が起こり、これが窃盗団の陽動作戦とわかって(「ダイ・ハード」シリーズは得々としてこの手を繰り返しているが、すでにエド・マクベインが「87分署」シリーズの「デフ・マン」ものでやっていたし、ほぼ同時期に広瀬正も『ダイ・ハード3』のような絵図を描いてみせている)、鍛冶橋(もちろん、日銀を連想させようとして選ばれた場所)に急行して捕物になる、なんていうエピソードはありますが、あんなに手間暇かけて完成させた「無人東京」を、作者は惜しげもなくほんの20ページほどで崩壊させてしまいます。

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このアンチ・クライマクスと、エピローグの謎解きは、直木賞選考委員のあいだで不評だったそうですが(ほんの数作書いただけで急死したせいもあって、候補には何度もなったが、ついに受賞はなかった)、まあ、擬似イヴェントとしてもやや強引で、九仞の功を一簣に虧く、なのかもしれません。

でも、わたしは年をとってバランスということを気にしなくなったので、エンディングがうまくいっていないとしても、それがなんだ、と思います。200ページまではすごく面白くて、最後の25ページがそれほど面白くなかったとしても、ミステリーの謎解きとはちがうのだから、わたしは気にしません。肝心なのは、200ページまでの充実した時間です。しかも、『ツィス』は、わたしがもっとも好きな「無人都市」ものなのだから、ソリッドなリアリティーをもって無人都市を描き出してくれればそれで十分です。

昔とちがって、最近の映画は、CGで水や火や爆発をリアルに描けるようになったおかげで、とてつもない大災厄を視覚化できるようになりました。それがダメだというのではありませんが、ドゥームズデイ・ディザースターのファンとしては、やっと実現してみたら、なんだか味気ないなあ、と軽い失望を味わいました。

それに対して、小松左京の『こちらニッポン……』や広瀬正の『ツィス』のような小説は、いつ読んでも感興が湧きます。われわれに視覚的想像力をフルスロットルで働かせるように要求するタイプの物語だからでしょう。

今後も恐るべきディザースターを描く映画はあらわれるでしょう。そういうものもつねに興味深いだろうと思いますが、いっぽうで、文字で構築されたディザースターの魅力が色褪せることもないにちがいありません。


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ツィス 広瀬正・小説全集・2 (広瀬正・小説全集) (集英社文庫)
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悪魔のハンマー 下  ハヤカワ文庫 SF 393
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by songsf4s | 2010-10-21 23:57 | 書物
静かな破滅、騒々しい破滅―小松左京『こちらニッポン』と広瀬正『ツィス』 その2

◆ J・G・バラードの変容する世界 ◆◆
『妖星ゴラス』からディザースター話に入りこんでしまったのですが、案外奥の深いジャンルで、小説のほうに手を出すと、収拾がつかなくなるのに、まずいことをした、と昨夜、寝につきながら思いました。

小学校のころから、この世界がべつのものに変容するという「お話」が大好きでした。あかね書房の「少年少女世界推理文学全集」というものがあり、この子ども向けの叢書(以前にも書いたことがあるが、伊坂芳太郎、横尾忠則、宇野亞喜良などのすごいイラストレーター陣だった)の最後のほうに『ドウエル教授の首』というSFが収められていました。

f0147840_22543541.jpgここから「SF」というものを読もうという気になり(なにしろ、東宝映画ではおなじみだったので)、子どもの小遣いでも大丈夫という理由で、創元文庫の棚を見ていき、『沈んだ世界』という本を買いました。作者はJ・G・バラード。

バラードの読者は、小学生がそんなところでなにをウロウロしているのだと思うでしょうが、その時点では「ニューウェイヴSF」も「内宇宙への旅」も知ったことではなく、扉に書いてあるシノプシスを読んで、水没してしまった世界を舞台にした(あのころはポンペイの遺跡も好きだった)冒険物語だと思ったのです。

子どもはすごいもので、バラードの晦渋さも内省も、全部丸ごと無視して、面白い冒険小説だったと満足しました! ほんのしばらく前までは都市として機能していた場所が水没し、そこに入りこんでいくという設定があれば、わたしにはそれで十分で、作者がなにを考えようが無関係、そこから勝手に絵を作り上げて遊んでいたのでしょう。

f0147840_22552760.jpgアラン・ケイが、ゲームの解像度を上げることについて興味深いことをいっています。「人は精細な画像をもとめてゲームをするわけではない、みずからの空想の中に入りこむスウィッチを必要としているだけである」

ゲームのみならず、映画についても、小説についても、同じことが云えるかもしれません。J・G・バラードのSF界での位置など毫も配慮しない子どもは、彼の奥行きのある小説をたんなる「スウィッチ」として利用したのでしょう。

小松左京とはまったく方向性のちがう作家ですが、バラードもじつに多くのディザースターものを書いています。たんに、ちょっと変なだけです。

『狂風世界』なんていうのは『ツイスター』よりちょっと変、『燃える世界』も『原子力潜水艦シービュー号』の兄弟、といえるかもしれません(いえないかもしれない!)。ただし、『結晶世界』までいくと、いったいこれはなんだ? です。いえ、代表作といわれるのも当然の出来だと思いましたが、ディザースターとはいいにくいようです。

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以上二葉は『原子力潜水艦シービュー号』より(訂正。映画版の邦題は「地球の危機」だったが、原題は映画、TV、小説すべてVoyage to the Bottom of the Sea)。ヴァン・アレン帯がどうこうして(くわしいことは失念)、とてつもない高温になるという、一種のディザースターだが、潜水艦が舞台なので、あまりディザースターらしい絵はなかったと思う。そもそも、異常な高温はけっこうだが、空が赤くなるというのはいかがなものか。いやまあ、小学校のときは疑問を抱かず、素直に見たが……。

◆ 「この世と人と悪魔」 ◆◆
きちんと準備をしてからとりかかればいいのに、『妖星ゴラス』のスピンオフのようにしてはじめてしまったので、あとからあとから、ドゥームズデイものをはじめとするさまざまなディザースター作品が思い起こされ、頭のなかは大混乱、当然、書くこともあちこちに飛びます。

大昔にハリー・ベラフォンテが無人の町を歩く映画をテレビで見たような気がしました。突然、絵が見えたのです。調べてみたら、『地球全滅』(1959、The World, the flesh and the Devil=「この世と人と悪魔」。劇場未公開で、上記邦題はテレビ放映時のもの)というタイトルだそうです。

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話の中身はきれいに記憶から飛んでしまいましたが、ハリー・ベラフォンテは鉱山技師で、調査の最中に事故で坑道から出られなくなり、数日後にやっと脱出したら、戦争があったために、だれも人がいなかった、というところからはじまるようです。

核戦争後の世界が、なぜ数日で安全になったのか、シノプシスを読んでもよくわからないのですが、ハリー・ベラフォンテは生存者を求めてニューヨークにやってきて、一握りの人に出会い、そしてなにが起こるか、という展開のようです。

話が面白いかどうかはわかりませんが、絵柄はすばらしいので、いつか再見し、きちんととりあげたいと思います。

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◆ 安全な破滅 ◆◆
このハリー・ベラフォンテ主演の『地球全滅』は、原因こそ異なれ、そして目指したものも異なるようですが、結果的にできあがった絵柄は小松左京の『こちらニッポン……』に似ています。主人公は、なんとか生存者を見つけようと、無人の都市を彷徨するのですから。

『こちらニッポン……』は映画ではありませんが、頭のなかで視覚化をせずに小説を読む人はいないでしょう。『地球全滅』(しかしなあ、というタイトルだなあ)のことはしばらく忘れていましたが、この二者は、無傷で都市が残ったという点で、ドゥームズデイ・ディザースターのなかでも、サブジャンルを形成できそうな気がします。戦争や大災害などがあると、ふつうは壊れてしまいますからね。

たいした例があるわけでもないのに、サブジャンルもハチの頭もないものですが、でも、都市を独り占めしたときの、「起きてみつ、寝てみつ、四畳半の広さかな」みたいな空しさには、複雑な味わいがあります。

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なんといいますか、われわれの問題のほとんどは、社会の一員であることから来ます。もちろん医学的な問題はこのかぎりではないのですが、人間関係の悩みや経済的な問題はすぐれて社会的であり、人間関係と経済の問題が解決されれば、あとは健康問題ぐらいしか、われわれを苦しめるものはないでしょう。

都市が丸ごと無事に残り、自分以外の人間はゼロか、限りなくゼロに近い「人間真空地帯」に投げ出されたら、トラブル・フリーのパラダイスかもしれないと思うことがあります。

ところが、人間の自我を支えているのは他者です。他者が誰もいなくなれば、われわれの自我はゲシュタルト崩壊の危機に直面します。他人がいて、はじめて自分というものの存在を規定できるのに、その「器」が消えてしまったら、われわれの自我は形を失って流失してしまうでしょう。

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『地球全滅』のポスター。これはタイトルの絵解きなのだろう。「男と女と悪魔」と解釈できる。

だから、この世にひとりで投げ出された『こちらニッポン……』と『地球全滅』の主人公が、事態を把握した瞬間、すぐに他の生存者を求めて彷徨をはじめるのです。この世に自分ひとりしかいないというのは、たぶん、究極の悪夢なのでしょう。

高校のとき、「ユートピア」という言葉がトーマス・モアの小説からきたことを習ったとき、そういう年ごろでもあったので、わたしはせせら笑いました。わたしの愛する破滅ものフィクションによれば、ユートピアは反ユートピアと一体化して実現するのです。

自我が他者を必要とする以上、地獄の壁を這い上がって、隣の敷地に転がりこんでも、そこはタイプの異なる地獄だということに気づくだけです。『カジノ・ロワイヤル』で、ウディー・アレンが死刑場から脱出するのといっしょです。

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しかし、それでもなお、無人都市に強く惹かれるのは、どういうことなのでしょうか。「この世界から休暇をとる」というあたりかな、と思うのですが、自分でもよくわかりません。

毎度、外題に広瀬正の『ツィス』を掲げているのに、なかなか登場させられず、恐縮です。記憶を新たにしようと読み直している最中で、次回は大丈夫だと思います。


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by songsf4s | 2010-10-20 20:55 | 書物
静かな破滅、騒々しい破滅―小松左京『こちらニッポン』と広瀬正『ツィス』 その1

本日も引きつづきディザースター話です。

前回、『ポセイドン・アドヴェンチャー』や『タワーリング・インフェルノ』のような、災害とも呼べない、小規模な事故では、わたしの好みのディザースターではないということを書きました。どういうのが好きかということを短いリストにすると――。

1 地球規模の大災害であること。
2 じっさいに大災害が起き、人類は絶滅寸前になる。
3 わずかな生存者たちが知恵と勇気で敵対的環境に立ち向かう


ディザースター映画のサブジャンルとして「doomsday disaster」つまり「全世界滅亡ディザースターもの」というのがあるようですが、おおむねそのようなものです。

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これに当てはまる映画で目立つものは、近年でいうと、『2012』と『ザ・デイ・アフター・トゥモロー』の二本しか思いつきません。『日本沈没』(オリジナル、リメイクとも)はかなり近いのですが、日本から脱出さえすれば、文明世界で生活ができるというのが決定的に弱いと感じます。

しかし、『2012』と『ザ・デイ・アフター・トゥモロー』というのも、ちょっとなあ、です。『2012』は例の「ノストラダムスの予言」にもとづくディザースター映画で、まあ、とにかく、これまでのこの種の映画でいちばん騒々しくて、いちばん忙しくて、いちばん派手であることはたしかでしょう。

『2012』では、地殻変動かなにかで、『日本沈没』のようなことが全世界規模で起こります。世界の国々は秘かに資金を出し合って中国でXXX(人によっては当たり前と思うだろうが、マヌケなわたしは意外に思ったので伏せておく)をつくっていて(やっぱりコストの問題でしょうな!)、これに間に合うか間に合わないかという、イヤな話になります。

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大部分の人びとにとっては運と力と努力は関係なし、金と地位がすべてという前提です。いえ、主人公は運と努力をめいっぱい使って特権階級のなかに割り込むのですが、やはり、ひどく後味の悪いものでした。

さらにいうなら、危機に次ぐ危機のジェットコースター・アクションはけっこうなのですが、そりゃねーだろー、という無理矢理の連続で、サスペンスなんかゼロ、ただただ馬鹿笑いしてしまいました。

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近ごろは『ダイ・ハード』の3、4をはじめ、アクションものはぜんぜんリアルではない(橋の上から船に飛び乗ったり、くずれた高速道路からVTOLの翼の上に落ちたり)のが流行で、その延長線上といったあたりなのかもしれません。

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以上はすべて『2012』より

『ザ・デイ・アフター・トゥモロー』のほうは、異常気象によってものすごい高潮が起きたあと、こんどは急激な気温低下によって世界中が凍りついてしまう話で、当然、破壊は『2012』より控えめです。カタストロフまでの時間的余裕がないので、特権階級のためのシェルターがないのはけっこうでした。

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高潮で陸に揚がった大型船が大通りを行く。

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ここまでは『ザ・デイ・アフター・トゥモロー』より

そして、この二本がともにローランド・エメリッヒ監督なんですね、これが。ディザースター映画に奥行きも味わいもあったものではないから、どうでもいいようなものですが、やっぱりこの人はドスンバタンするだけなのだなあ、と索然とします(ついでにいうと、エメリッヒの『インディペンデンス・デイ』も、『宇宙戦争』パターンのディザースター映画に分類できる)。

結局、どれも帯に短したすきに長し、設定はいいけれど仕上がりはいまひとつであったり、いい映画なんだけれど、好みとしてはもっと破滅の縁までいってくれないとダメ、億単位の人が生き残るようでは破滅とは云えない、などという調子です。

◆ ディザースター作家・小松左京 ◆◆
今日は小説のほうに目を向けてみます。日本でいちばんたくさんディザースター小説を書いた作家は小松左京ではないでしょうか。

ご存知『日本沈没』を書く以前、キャリア初期に、『復活の日』という細菌原因型ドゥームズデイ・ディザースター小説を書いていることはSFファンなら先刻ご承知でしょう。深作欣二監督、草刈正雄主演で映画にもなりました。

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もちろん『日本沈没』は典型的なディザースターですし(『第2部』は読んでいないが、ディザースター小説のようには思えない)、やはり映画になった『首都消失』も、変形ディザースターといえるように思います。

(ディザースターとは関係ないのだが、いま著作リストを見ていて、「春の軍隊」を読み返したくなった。リストにはないが、もうひとつ、「お糸」というのは、連作にして欲しくなるようないい設定だった。江戸時代的並行宇宙の羽田空港というのがよかった!)

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わたしは一度も小松左京ファンであったことはないのですが、かなりの量を読んでいることに気づき、いま驚きました。「SFマガジン」を創刊号から揃えて片端から読んでいたのだから、まあ、自然にそうなってしまったのでしょうが、しかし、ディザースター好きのせいで、そういう味を求めて手を出していたのかもしれません。

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◆ 静かな破滅 ◆◆
小松左京が書いたディザースター小説のなかでいちばん好きなのは『こちらニッポン』(なんだか、記憶では末尾に三点リーダーがついて『こちらニッポン……』だったような気がするが)です。引越のときに手放したか、さっきちょっと探してみても見つからず、読み返さずに書きます。

『こちらニッポン』では、ローランド・エメリッヒ的な、ケレンたっぷりの破壊のかぎりを尽くした破滅はありません。主人公が目覚めたら、どこにも人間がいなかったのです。いえ、野っぱらに放り出されるわけではなく、東京のど真ん中で目覚め、首都から人が消えたことを発見するのです。

わたしはこういう設定だけでもう乗ってしまいます。無人都市と聞いただけで、ぜひ見てみたい、読んでみたいと、ディザースター好きの血が騒ぎます。都市から人が消えるなら、とりたてて破壊などなくてもかまわないのです。いちばん簡単なのは巨大な自然災害などで人をみな殺してしまうという設定なので、破壊ものが多いだけでしょう。

もう記憶が薄れかかっていて、アルジャーノン状態ですが、たしか、ビルの屋上から周囲を見まわして、煙が出ているのを見つけ、そこを目指してすっ飛んでいき、やっと他の生存者を発見、というくだりがあったと思います。

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文明と人間の問題を考えつづけた作家の小説ですから、話はそういう線に沿って展開します。現代のインフラストラクチャーは、無人でもしばらくのあいだは自動的に運転される、なんていうのは、はじめて読んだときは、へえ、と思いました。だから、電気もガスも水道もしばらくは使えるのです。

そして、都市には膨大な物資が蓄積されているわけで、当面、生きていくことはできるとわかり、主人公は生存者を求めて東海道を西に向かいます。記憶しているのでは、無線を使って人を見つけたり、連絡を取ったりするところも出てきました。電話は不通になってしまったのでしょう。いまなら、しばらくは使えるかもしれません。

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しかし、あの時代はウェブがないので、そのあたりのことは考慮されていませんが、いま、このインフラが消えたらきびしいでしょうね。まあ、当面の生存には差し支えないのですが。だれかが、無線を使ったPCネットワークの構築を考えるかもしれません。どなたか、『こちらニッポン第2部』をお書きになるなら、そのあたりはプロットの眼目になるでしょう。

なんだか、まだなにも書いていないような気がするのですが、時間がなくなってしまったので、今日はただスクリーン・ショットだけをごらんいただき、残りは次回に持ち越しとさせていただきます。

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by songsf4s | 2010-10-19 23:33 | 書物
十蘭世界の多層的連鎖――『定本久生十蘭全集』を読む

PC環境のセットアップというのは面倒なもので、じつはまだスキャナーをつないでいません。それで昨日は写真が1枚しかない記事になってしまいました。まあ、スキャンしようにも、その材料がほとんどないので、重い腰をもちあげてスキャナーを接続する気も起きないという悪循環なのですが。

従来、久生十蘭の写真というのはそれほどたくさんはなくて、手元にあったものはすでにスキャンして過去の記事に貼りつけてあります。ところが、今回の国書刊行会版全集の月報には二葉ずつ未見の写真があり、へえ、と思いました(写真の提供者は夫人の縁者なのかもしれない。以前、十蘭の遺品から従軍日記が発見されたことを報じた新聞記事には、夫人の妹さんが見つけたとあったように記憶している)。

で、その写真をここに掲載できればいいのですが、スキャナーが……。ま、とにかく、今日も『イージー・ライダー』のつづきは棚上げにし、書物の話です。

◆ 『ココニ泉アリ』 ◆◆
『定本久生十蘭全集第六巻』は、昔からタイトルだけ見て気になっていた、『ココニ泉アリ』から読みはじめました。十蘭作とはとうてい思えないほど、導入部がひどく混雑渋滞して、だれがだれで、なにをいっているのかさっぱりわからず、なるほど、三一版全集や薔薇十字の「コレクシオン・ジュラネスク」などで収録を見送られたのも無理はない、といったんは納得しました。

いや、そこが十蘭、我慢して読み進むうちに、むむう、と居ずまいを糺して、気合いを入れ直しました。やっぱりふつうの小説ではなかったのです。久生十蘭ともあろう人が、どこにも読みどころのない話を書くはずもなく、冒頭の停滞ぐらいでへこたれそうになったことをおおいに恥じました。いや、十蘭ともあろう人が、速度を要求される新聞小説で、これほどノリの悪い導入部を書いたこと自体は考究に値するので、研究者はこの点を見落とすべきではないと思いますが。構想が固まらないまま連載がスタートしてしまい、「走りながら考えた」ような気もします。話が前進せずに、その場でぐるぐる環を描く導入部なのです。

ところが、いったん動きはじめると、あれよあれよというまに、話は意想外な方向へ進んで面食らうところは、いくぶんか処女長編『金狼』に近い味があります(暴力団の勢力関係というところで、チラッと『魔都』も想起するが)。いっぽうで、敗戦の日を描いた『だいこん』のノアール版のような気味合いもいくぶんかあり、入り組んだ舌触りの物語でした。

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これまで未刊だったのも理解はできますが、十蘭の読者が読まずにすましていいようなものではないこともまちがいありません。シベリア抑留者のことは戦後史をあつかった本で何度か読んでいますが、このような視点から描かれた戦後世相とシベリア抑留者の小説というのは、ほかに例がないのではないでしょうか。じつに意外な抑留者の扱いでした。

長年、久生十蘭ビブリオグラフィーでただの記号として見てきたものの実体にふれ、秀作とは言い難いものの、そこは久生十蘭、一山いくらの書き手とはまったく次元の異なるところで物語をつくっていたことを確認でき、おおいに満足しました。

◆ 福井もの ◆◆
コレクション・ジュラネスクの戦後篇『巴里の雨』に収録された「花合わせ」の福井某が登場する物語がほかにもあって、連作になっていたということも、今回の国書版全集ではじめて知りました。

「花合わせ」は十蘭らしい、すっとぼけた味わいの短編(福井はさる未亡人の家のカボチャと自家のカボチャの花合わせをするつもりだったが、まごまごしているうちにやり損ない、気がついたら、カボチャではなく、瓢箪が生っていた!)でしたが、同じ福井が登場するものでも、『定本久生十蘭全集第6巻』収録の「風流」と「すたいる」の二作は、「没落」というモティーフが導入された結果、沈鬱かつ複雑なサーガへと変貌しています。「連作」というより、スピンオフというべきかもしれません。

「花合わせ」を書いたときには、同じ人物を使って「風流」や「スタイル」のようなトーンの異なる話を書く意図はなかっただろうと想像します。「花合わせ」に登場させた男女のその後を書こうとしたら、話が横にずれて、べつの構想が浮かんできたのでしょう。

どうであれ、「風流」で描かれた世界像が「すたいる」の終盤でドミノ落としのように引っ繰り返されていくところは圧巻です。この連作についても、いつものように、「十蘭の小説には『読まなくてもかまわないもの』というのはない」と感じました。

◆ 「野萩」への遠い道 ◆◆
久生十蘭が、「同じような話」をいくつもつくり、自分が過去に書いたセンテンスやパラグラフをそのまま「転生」させることについては、これまでにもいろいろなことがいわれてきました。その可否はひとまずおくとして、以前、当ブログでもふれた「野萩」のヴァリエーションを読めたことも国書版全集第6巻の収穫でした。

「野萩」は、太平洋戦争開戦後の残留邦人引揚船で帰国する息子を迎えに横浜に出向いた母のことを、その姪の視点から描いた話で、肝心の息子は登場しないまま、磯子の料亭での静かな時間の向こう側に、波乱の物語を間接的に描出した短編です。高校のときにはじめて読んで以来、十蘭のもっとも好きな作品のひとつでありつづけています。

最初に読んだエディションは、近所の古書店で購った「新潮小説文庫」という新書版叢書の一冊『母子像』収録の旧仮名版でした。しかし、これは友人に貸したらなくされてしまい、以後、三一版全集の新仮名エディションで読んできました。国書版全集はありがたやの旧仮名で、耽読しました。これで活版だったらいうことがないのですがね。

「窓ぎはに坐って待ってゐるうちに、六十一になる安が、ひとり息子の伊作の顔を見たさに、はるばる巴里までやってきた十年前のことを思ひだした」

とくるわけで、いまからでも遅くない、正字正仮名にもどそう、といいたくなります。小説の失墜は仮名の改悪からはじまったにちがいありません。もっとも、「淼茫」と書いて「べうばう」なんてルビになっている(『定本久生十蘭全集第五巻』収録「内地へよろしく」p.64下段)と、一瞬、目の進みが止まりますけれどね。新仮名で書けば「びょうぼう」だというところにたどり着くまでに1、2秒を要してしまいます。

上の引用は、「野萩」の冒頭を開いて、目についたセンテンスを書き写しただけですが、いかにも十蘭らしい、四辺がピンと延びた文章になっていて、粛然とします。久生十蘭はドラマーでいえばバディー・リッチ、とほうもないテクニックの持ち主ですが、リッチのドラミングの本質は、テクニックではなく、タイムであるように、十蘭の文章の本質も華麗なるレトリックではなく、この「野萩」の冒頭のような、独特のセンス・オヴ・タイムに裏づけられた簡潔な措辞にあります。

いや、もちろん、行くところ可ならざるはない途方もない文章技法のヴァーサティリティーも、やはり久生十蘭の大きな魅力のひとつです。『ファントマ』の擬古文での翻訳なんていうのは、その昔、仰天しました。

いくつあるかは知らないものの、「野萩」にはヴァリアントがあるようで、『定本久生十蘭全集』の第6巻には、ともに「おふくろ」というタイトルの、内容の異なる未完の二篇が収録されています。いずれも「野萩」以前に発表されたもので、フランスではなくアメリカを舞台にしたりといった違いはあるものの、共通のモティーフが使われています。

若いころというのはつまらぬことに潔癖なもので、「西林図」(「野萩」同様、新潮小説文庫版『母子像』に収録されていた)のヴァリアントである「骨仏」や「水草」を読んだときは、なんとなく釈然としませんでした。しかし、この年になると、潔癖とはほど遠くなり、十蘭が試行錯誤の過程をそのまま作品として発表しておいてくれたことに感謝し、興味深く「野萩」、オリジナルの「おふくろ」、リメイクの「おふくろ」の三者の共通点と相違点を勘考しつつ読了しました。

ふたつの「おふくろ」と「野萩」の関係は、「下書き」と「完成した作品」といっていいと思います。「野萩」にはきびしく彫塑された結果であるストイシズムがあり、ふたつの「おふくろ」を豊穣にしているディテールの多くが削除されているからです。

しかし、同時に、この三者は、同じ出発点からたどりついた、「たんに異なる結果」ともいえるのではないか、とも感じました。わたしは「野萩」のストイシズムを好みますが、「おふくろ」の豊穣なディテールを好む人だってたくさんいることでしょう。

二篇の「おふくろ」は「野萩」にいたるまでの途中経過のようにも思えますが、いっぽうで、同じ発想から生まれたべつの物語とも見ることができます。十蘭のこの種の同じモティーフを使った縁戚関係にある作品群というのは、重複と見るべきではなく、並べて立体的に味わうべきものだと、今回の全集で認識を新たにしました。

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◆ 短編作家という固定観念 ◆◆
かつて三一版全集を編集し、十蘭に関する数編のエッセイを通じて若い十蘭読者に多大な影響をあたえた中井英夫の言説は、いまになると、ずいぶん遠いものに感じられます。今回、新版全集で『内地へよろしく』『祖父っちやん』『ココニ泉アリ』などの未刊行長編を読んで、その感を深くしました。

中井英夫は「短編小説の復権」ということをしきりに唱え、そういうことをいうときには、十蘭の諸編をかならず引き合いに出しました。まあ、十蘭には飛び抜けて素晴らしい短編がたくさんあるので、それ自体は当然のことと思います。

問題は、久生十蘭は短編作家であり、長編のいいものは少ない、とくりかえし書いたことです。そういう中井英夫の言葉を読んだとき、こちらは高校生だったり、大学生だったりしたこともあり、また中井英夫が『虚無への供物』の作家であるというオーラに幻惑されて、つい、それを鵜呑みにしてしまい、厳密に検討せずに来てしまいました。

今回、中井英夫が三一版全集からオミットした長編を読んで、久生十蘭=短編作家という固定観念はきっぱり捨てるべきだと確信しました。それは短編を愛した中井英夫の極端にバイアスがかかった言説にすぎません。中井英夫ではないわれわれは、そろそろ「長編作家久生十蘭」の研究に取りかかるべきです。

たしかに、「完成度」という尺度ではかるなら、十蘭の長編は、彼の短編のような完全主義に貫かれているわけではなく、そのかぎりにおいては中井英夫のいうとおりだと思います。しかし、十蘭の長編がバランスを失し、ときには未完になってしまうのは、長編が不得手だからではないと考えるようになりました。

『ココニ泉アリ』を読んでいて思ったのですが、十蘭が長編でしくじるのは、プロットがあまりにも複雑であったり、きわめて微妙なことを表現しようと、野心をもって高みを目指すがゆえのことで、うまくいかなかった長編が退屈であったり、凡庸であったりすることはないのです。どれもおおいに楽しめました。

短編小説を極度に偏愛した作家の久生十蘭=短編作家論はそろそろ忘れていいでしょう。長編を愛する読者の目には、久生十蘭はきわめてすぐれているだけでなく、きわめて挑戦的、野心的長編作家なのです。国書版全集に収録された未刊行長編を読めばそのことがよくわかります。

『定本久生十蘭全集第5巻』に収録された、『内地へよろしく』『祖父っちやん』という戦争中に書かれた二篇の未刊行長編にもきちんとふれたかったのですが(どちらもおおいに興奮した)、それはまたの機会ということにし、次回は、なんとか『イージー・ライダー』に復帰したいものと思っています。


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定本 久生十蘭全集〈5〉小説5 1944‐1946
定本 久生十蘭全集〈5〉小説5 1944‐1946


定本 久生十蘭全集〈6〉
定本 久生十蘭全集〈6〉
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by songsf4s | 2010-07-27 23:31 | 書物
橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』と小林信彦『黒澤明という時代』

引っ越し準備でデスクを廃棄するためにPCをばらしたときには、すぐにまたつなぐつもりだったのですが、とてもそのような余裕はありませんでした。さらに、引越先にはすでに電話があり、事情があってそれを変更することはできず、これまでのプロヴァイダーは使えないことになり、引越後に改めて手配したために、はからずもひと月以上もご無沙汰することになってしまいました。

亭主留守のあいだは、パートナーがときおり開いて、コメントの確認やお知らせの代筆やインデクスのメインテナンスなどをしていました。インデクスのおかげで、ページヴューがドッと増えて記録的な数になったりもしたそうです。また、コメントもいくつかいただきましたが、ちゃんと自分の目で読み、自分でタイプできる環境ではなかったので、レスは失礼させていただき、さきほど公開だけしました。どうかあしからず。

◆ 晴読雨読 ◆◆
これだけ長く休んだのは当ブログ開闢以来のことで(昨年の一月、まるまるひと月休止したのがこれまでの最長)、なにごともなかったように『イージー・ライダー』のつづきを書くというのも、どうも据わりが悪いようで(いや、書こうとしたのだが、うまく気分をリジュームできなかった)、今日は四方山話でそろりと入り直すことにします。

このひと月あまりのあいだ、ウェブに時間を使わない分、読書量がかつての非ウェブ時代の半分ほどまで回復しました。といっても、万巻の書を処分する(数えるような愚は犯さなかったが、万にはわずかに欠けるかもしれないものの、丼勘定で8000~9000冊だったと考えている)のに大汗をかいたあとなので、もう本を買う気はまったくなく、わずか200冊弱にまでそぎ落とした蔵書と、図書館で借りてきた本を読んだだけですけれどね。以下、七月の読了分。

『定本久生十蘭全集第5巻』
『定本久生十蘭全集第6巻』
日影丈吉『内部の真実』『赤い子犬』
獅子文六『箱根山』『楽天公子』『浮世酒場』
佐々木譲『ベルリン飛行指令』
石坂洋次郎『陽のあたる坂道』『あいつと私』『丘は花ざかり』『白い橋』
陳舜臣『方壺園』
川口松太郎『窯ぐれ女』『非情物語』『続人情馬鹿物語』『忘れ得ぬ人忘れ得ぬこと』
島田一男『社会部記者』
橋本忍『複眼の映像――私と黒澤明』
小林信彦『黒澤明という時代』
半村良『平家伝説』『獣人伝説』
柳家小満ん『べけんや わが師、桂文楽』
富田均『聞書き 寄席末広亭』

この年になると、新しいものになど興味がわかず、ほとんどは再読再々読四読五読……n読です。『楽天公子』は十回目ぐらいでしょうか。このなかで初読は『複眼の映像 私と黒澤明』『べけんや わが師、桂文楽』『忘れ得ぬ人忘れ得ぬこと』、そして、二冊の『定本久生十蘭全集』のうち、単行本未収録作品群だけで、あとはみな再読以上です。

川口松太郎をはじめて読んだのは二十代はじめのことでしたが(半村良が『新宿馬鹿物語』のあとがきで、川口松太郎『人情馬鹿物語』へのオマージュなのだと書いていたため)、年をとるにつれて読み返す頻度が高まり、今回のジェノサイド並みの書籍大処分でも、一冊も捨てませんでした。こういう忘れられた作家は、古書店も見離しているので、いったん売ってしまうと、あとで思わぬ苦労をする怖れがあるのです(まあ、『人情馬鹿物語』だけは一定の間隔でリプリントされるだろうが)。古書価はかぎりなくゼロに近くても、そんなことはこの場合、関係ないのです。

ひねくれ者は、こういうもはやだれも話題にしない作家にはおおいに肩入れするわけで、いずれ稿を改め、大々的に書くつもりですが(溝口健二にからめて取り上げる方法もある。川口松太郎は大映の専務であり、京都撮影所長もつとめたし、溝口とは幼なじみで、溝口映画のスタッフでもあった)、とりあえず落語ファンには『しぐれ茶屋おりく』をお勧めしておきます。主人公のおりくさんが、若いころ、旦那にねだって寄席にいくわけですな、するってえと、そのとき高座に上がっている師匠が……なのですよ! 山田風太郎『明治波濤歌』よりギョッとしましたぜ。

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◆ 会ってはいけなかった男 ◆◆
マーシャル・ソラルによる『黄金の男』のテーマ曲以来、当家の記事を裏から支えてくださっている「三河の侍大将」Oさんが、私信のなかで橋本忍『複眼の映像』に感銘を受けたとおっしゃっていたのですが、図書館にあったので、わたしも一読し、やはり感銘を受けました。

以前にも書いたことがあるのですが、わたしは黒澤明のシリアスな映画というのが不得手で、『羅生門』のどこが面白いのかさっぱりわからず(いや、宮川一夫の撮影は圧倒的だが)、『静かなる決闘』にはむかっ腹を立てました。『生きる』も、「きっと立派な映画なのだろうなあ」とよそごとのように思うだけで、なんだか教科書を読んでいるような気分でした。『椿三十郎』を見て、はじめて「うまい」「すごい」「面白い」と、楽しい映画を見たときの言葉が出ました。

ということで、わたしは黒澤明のファンではありません。好きなのは『椿三十郎』『天国と地獄』『野良犬』、悪くないと思うのは『用心棒』(ただし『荒野の用心棒』のほうが好き)、『七人の侍』『隠し砦の三悪人』といったあたりです。わたしという人間が、「タメにするところのあるもの」、すなわち、メッセージ性の強い、「主張のある」作物を受けつけず、『生きる』のような話材には、「お父さん、お説教ならまたの日にしてください。わたしはもう小学生ではありません」と我慢できずに座を立ってしまうにすぎず、黒澤明の力量とはなんの関係もないのですが、でも、説教の多い人だなあ、ほっといてくれよ、と辟易してしまうのです。

阿佐田哲也が、古今亭志ん生のことを「滑稽噺だけやっていればいいのに、なにかというと人情噺をやりたがるのが困りもの」と書いていましたが、わたしはこの言葉は黒澤明にいうべきだったと思います(志ん生には、三遊派の頂点に立つ人間としての義務があるから、たとえやりたくなくても、たとえば「鰍沢」を後世に伝えなければならなかったわけで、情状酌量の余地がある。まあ、たまに木戸銭払って寄席に入ったら、その日の志ん生は「文七元結」だった、なんてことになると、金返せといいたくなっただろうけれど)。アクションだけやっていればいいのに、シリアスな話を作りたがるのがじつに困りものです。

さて、橋本忍の『複眼の映像――私と黒澤明』です。黒澤ファンには『羅生門』や『七人の侍』のバックステージが非常に興味深いでしょうが、わたしが感銘を受けたのはべつのところ、野村芳太郎が橋本忍に面と向かっていった橋本忍評です。

「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」

いやはやなんとも、まったくもってごもっとも、というしかありません。橋本忍に出会ってしまったがために、シリアス病が黒澤明の宿痾の病となって、フィルモグラフィーが濁ったのです。くだらない寄り道をせず、面白い映画をつくることに徹すれば、黒澤はキングになったはずだというのです。『椿三十郎』のような映画を五、六本撮ってみなさい、ハリウッドが湯水のように資金を提供したでしょうに。

いやまあ、黒澤明自身のなかに、もともと橋本忍的な要素が多量にあったことが根本原因なのですが、それでもなお、菊島隆三や小国英雄との共同作業なら、黒澤明の「タメにしたい」「お説教を垂れたい」悪癖は稀釈されたにちがいなく、野村芳太郎は橋本忍にそのことをいったのです。

それにしても、わたしは『ゼロの焦点』『張込み』『砂の器』といった松本清張原作ものや、『八つ墓村』『白昼堂々』『事件』を見た程度なので、なにもいえないのですが、野村芳太郎というのはすごい人ですねえ。たった一言で黒澤明と橋本忍の両方のシルエットを切り取ってみせるなんて、そうそうできることじゃありませんよ。

もちろん、野村芳太郎が橋本忍とは何度も仕事をしたことがあり、踏み込んだことをいえる関係にあったからこその言葉でしょうが、橋本忍が衝撃を受けることがはじめからわかっていながら、遠慮なしに論評したところは、やはり人物です。

◆ 『黒澤明という時代』 ◆◆
ついでといってはなんですが、小林信彦『黒澤明という時代』も読んでみました。すると、最後の章に、この書の直接の契機は野村芳太郎の黒澤明/橋本忍評だとあって、やっぱりねえ、でした。

わたしのように、リアルタイムで最初に見た黒澤映画は『赤ひげ』だったなどという縁なき衆生(そのつぎの『どですかでん』でもろにコケて、以後、長いあいだ黒澤には興味をもたなかった)とはちがい、『姿三四郎』から見てきた人だし、すぐれた映画評のある作家だから、わたしの凝り固まった偏見を是正するなにかがあるかと思ったのですが、とくにそういうことはなく、また、野村芳太郎の黒澤評をどう受け取ったかもよくわかりませんでした。わたしのように単純に「そうだ、そのとおり! 百パーセント同意する」ではないはずで、そこのところを読みたかったのですが、たんに「そこまでいっていいのだ」(野村芳太郎のように遠慮なくいっていい、の意)と思ったとあるだけで、論評は加えていません。それは本全体を読んでくれればわかる、ということなのでしょう。

小林信彦は、『黒澤明という時代』のなかで、何度か、「劇場で見てほしい」ということと「映画は公開の時に見なければダメ」ということをいっています。うーん、はてさて。前者はとくに文句はありません。映画はフィルムで見たほうがいいに決まっています。しいてケチをつけるなら、「現代という環境にあっては」フィルムで見たうえで、なおかつDVDなどのヴィデオ・パッケージ化したものも見るべきである、と補足したくなる程度です。

しかし、後者は困惑します。いや、ぜんぜんわからない、というわけではありません。小説や絵画などとは異なり、映画やポップ・ミュージックは、時代の直接の関数として生みだされるのだから、それを生みだした空気のなかで味わうのが理想である、といった意味なのでしょう。

じっさい、目下当ブログで書き進めている『イージー・ライダー』など、まさしく時代の関数として生まれ、大ヒットした結果、時代の気分のありように大きな影響を与えた映画です。1969年に高校生があの映画を見て感じたことと、いまわたしがDVDで見ながら分析していることとのあいだには、大きな隔たりがあります。

でもねえ、自分が生まれる前に公開された映画について、リアルタイムで劇場で見なければダメ、といわれちゃうと、やはり困惑します。つまり、あとから見た人間がなにかいっても意味はない、みな的はずれ、といっているに等しいわけで、それをいったらおしまいよ、と車寅次郎になっちゃうのですね。

戦後生まれの小僧がヴィデオかなんかでちょこちょこと見て、たとえば、「『生きる』なんか退屈な説教にすぎない」などといった「暴論」を吐くのに何度も接した結果、「その時代にその映画がもった価値」というほうに力点を移動させすぎてしまったのでしょう。行きすぎです。

「リアルタイムで大画面で見た」経験を軽視したりはしません。なるほど、その時代にはそういう意味をもっていたのだな、と納得することもしばしばあります。でも、それは自分の経験ではないのだから、究極においては「よそごと」にすぎず、あくまでも「聞き置く」だけの「参考意見」にすぎません。

前の段落を書いてから、時間をかけて熟考しました。たとえば、いま、二十歳の人間が、どこかのブログに、「『イージー・ライダー』には退屈した。あの時代には、南部の保守主義の恐ろしさというのは、アメリカ人のマジョリティーにとっては大きな衝撃だったのかもしれないが、いまでは訴求力をもたなくなってしまった」と書いてあるのを読んだとしたらどうでしょうか?

むろん、賛成はしません。でも、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」ともいいません。こういう評言を読んだら、ああ、こいつと俺はまったく考え方がちがう、なにも共通点がない、頭から尻尾までぜんぜん無関係、と感じて、一分後には読んだことも忘れてしまうでしょう。

わたしは他人がどう思うかにはあまり関心がなく、その意味で「冷たい」人間です。重要なのは「自分がどう感じるか」だけであって、ほかのことは付けたりにすぎないと思っているのです。ひるがえって、他人の意見に「ホットに」反応し、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」とくりかえし書く小林信彦は、わたしよりずっとコミュニケーション能力に富んだ、温かい心の持ち主なのかもしれません。

ちょっと強引なパラフレーズかもしれませんが、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」というのは、すなわち「もっとつくった人間の心に迫り、それを受け取った人びとの心情に想像力を働かせてほしい」という願いなのでしょう。そういう意味なら、理解できなくはありません。

心情的には小林信彦のいうことも、まんざらわからなくはありませんが、でも、突き放していえば、失礼ながら、年寄りの繰り言です。「複製の時代」にあっては、あらゆるものが記録され、頒布され、無数の文脈のなかに配置し直されるのであり、結果として「評価の無限増殖」は避けられません。どこかに明快な軸をおき、中心と辺境の区別をつけたいのかもしれませんが、残念ながら、そういう概念はもはやこの巨大な蜘蛛の巣のどこかにまぎれて、捕捉不能になってしまったようです。

ほんとうは久生十蘭全集の話になるはずだったのですが、軽い枕のつもりで書きはじめた黒澤明のことが長大になってしまったので、新版全集で陽の目を見た十蘭の未刊行長編については次回に持ち越します。


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文庫
複眼の映像―私と黒澤明 (文春文庫)
複眼の映像―私と黒澤明 (文春文庫)

四六版
複眼の映像 私と黒澤明
複眼の映像 私と黒澤明



黒澤明という時代
黒澤明という時代
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by songsf4s | 2010-07-26 21:08 | 書物
獅子文六『やっさもっさ』に描かれた占領時代の馬車道通り

めったにそんなことはしないのですが、ごくたまに、IEで当ブログを表示することがあります。いやもう驚いてしまいますよ。最近のIEは使っていないのですが、古いヴァージョンだと、CSSの解釈が独特で(「ひどい」「デタラメ」の婉曲表現)、弱視者用設定かと思うようなドカーンという文字に、スカーンという字間行間になって、笑ってしまいます。

もともと、わたしと同年代の方々の視力減退に配慮して、文字が小さいと読みにくいからと、OperaやFirefoxでの表示を大きめにしてあるのです。それを、IEはさらに拡大してしまうから、メチャクチャなことになっているわけです。IEユーザーのなかには、ここはなんでこんなにドカーンの文字にスカーンの字間行間なのかと思われている方がいらっしゃるかもしれませんが、そういう事情なのでどうかあしからず。

しかし、世の中、文字はみな拡大傾向にあるわけで、IEのドカーン、スカーンは今の主流なのかもしれません。わたしも、Operaの「0」キー(表示を拡大)は頻繁に使っています。海外のニュース・サイトなんか、蚊の大群みたいで、さっぱり文字に見えないところがありますからね。

◆ 視力に依存しないOperaの新ページ内検索機能 ◆◆
最近、Operaは劇的に改善されました。Firefoxは使わなくなってしまったほどです。速度面でもFirefoxより数段速くなったのですが、もっとも劇的なイノヴェイションは、ページ内検索機能です(わたしはIEは6のまま放置しているので、よそでも実現されている機能のことを、そうではないかのように思っているかもしれないが)。

さて、Operaのページ内検索機能です。たとえば「ドン・マクリーン」ぐらいの長さの言葉を検索するのなら、旧式のページ内検索でも、それほど困りはしません。

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右側のメニューにカーソルが入っています。

では、「19」はどうでしょうか?

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よくわからないでしょうが、中心のあたりの「リリース年」の下にカーソルが入って、ハイライト表示になっています。これは、すくなくとも老眼の人にはきついはずです。同じことをOperaでやると、

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このように、検索された文字以外の部分を暗くするので、目的の文字列がハイライト表示になり、瞬時にしてどこにあるかがわかるようになりました。

こんな簡単なことで解決できたわけで、むしろ、いままで実現されていなかったことのほうが不思議に思えてきます。グーグルで検索して、どこかのサイトに飛び込み、目的のキーワードを検索する、という、いたって日常的な作業で、これほど便利なものはなく、Operaだけしか使わなくなった所以です。

まあ、いずれ他のブラウザーもこの機能を実装すると思いますが、天下を取ったように見えたときが最大の危機だということを、IEの愚昧とFirefoxの怠惰は教えてくれます。

◆ 獅子文六『やっさもっさ』の記憶ちがい訂正 ◆◆
年をとると視力も衰えますが、記憶力もめだって衰えます。記憶でものを書くのは非常に危険なのですが、ブログでは忙しくて、つい、それをやってしまいます。

先日、「横浜映画」という記事のなかで、「『やっさもっさ』(渋谷実監督、淡島千景・小沢栄太郎主演、1953年、松竹)は未見ですが、たしかに獅子文六の原作は終始一貫横浜を舞台にしています。開巻いきなり、GIの町だったころの馬車道通りの描写があり、ほほう、と思いました」なんてことを書きました。

そう書いたあとで、就寝前に獅子文六全集を引っ張り出し、『やっさもっさ』の冒頭を読んだら、これが品川の御殿山にある元宮様の邸宅における慈善バザーの様子、では、つぎの場面かと先を読むと、これが横浜根岸にある孤児院の描写、馬車道のバの字も出てきませんでした。

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やむをえず、翌晩、つづきを読むと40ページをすぎたところで、ようやく主人公が根岸の家を出てバスに乗り、めでたく本町4丁目で下車、馬車道通りを歩きはじめ、安堵しました。

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しかし、食いしんぼの獅子文六も、ハンバーガーのような下賤なものには興味がなかったのか、馬車道交叉点の珈琲屋のハンバーガーにはふれていません。この店が小説に登場するのは矢作俊彦の『真夜中へもう一歩』まで待たなくてはいけないのでしょう(じつは、店内の様子を描写したこういう物語もある。事情を知っている友人たちはここで嗤うだろうが!)。

◆ 「ビルドゥング・ロマン」だろうか? ◆◆
『やっさもっさ』は、処女長編『金色青春譜』以来、獅子文六が得意としたビルドゥング・ロマンのヴァリエーションで、主人公たちが若い世代ではなく、中年だということがかつての諸作とは異なっています。しかし、これはビルドゥング・ロマンといってはいけないのかもしれません。

辞書の定義を見ます。

「主人公が幼年期の幸福な眠りからしだいしだいに自我に目覚め、友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく過程を描いた長編小説」

この定義からすると、やはり主人公は若年者でなければいけないのですが、文六描く『やっさもっさ』の夫婦は、まるで現代の中高年の幼稚化を見越していたかのように、いい年をして「友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく」のです。

そう考えると、以前書いた、中高年のラヴ・ストーリーより、中高年のビルドゥング・ロマンのほうが、現代に合っているかもしれません。いや、石坂洋次郎の中高年たちも「友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく」ので、行き着くところは同じでしょうけれど。

横浜は進駐軍の接収がひどく、あとから読むと呆然とするようなことがたくさん起きました。なんたって、山下公園が日本ではなく、あそこにかまぼこ兵舎が並んでいたというのには唖然としてしまいます。子どものころ、大人たちが「山下公園」という言葉にこめていたニュアンスを思いだし、あのかまぼこ兵舎の写真を見ると、なるほど、そういう意味だったのか、と思います。やっとの思いで取り戻した宝物だったのでしょう。

自分が見聞きした範囲でいうと、やはり本牧から根岸にかけての一帯がひどく異国的だったことが印象に残っています。本牧デポは再開発されて久しいのですが、根岸はいまもところどころに「根岸ハイツ」の痕跡があります(いや、この数年行っていないので、当てにならないが)。このあたりを小説に書き残しておいてくれたのも矢作俊彦で、『マイク・ハマーへ伝言』を読めば、かつての雰囲気が眼前に彷彿としてきます。

『やっさもっさ』に描かれた横浜の変貌で、もっとも目を惹くのは、繁華の中心が野毛に移ったという点です。伊勢佐木町の主要な建物や劇場が米軍に接収されてしまった結果だそうですが、関東大震災で下町が壊滅し、一時的に神楽坂が非常に繁華な町になったのによく似ています。

◆ フィーリクス・スラトキン補足 ◆◆
昨日の「ラウンジ春宵二刻」では、フィーリクス・スラトキンのものを二曲サンプルにするつもりで、うっかりひとつを忘れてしまいました。

サンプル Felix Slatkin "On the Street Where You Live"

この曲は、ボブ・トンプソンのヴァージョンですでに取り上げています。

Bob Thompson "On the Street Where You Live"

スラトキンと、彼のアレンジャーだったボブ・トンプソンのヴァージョン、両方並べてみて、どちらが面白いか、いや、それは書かずにおきます。
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by songsf4s | 2010-05-02 00:05 | 書物
そして写真だけが残る(ことになるだろう) その7 『真説・日本忍者列伝』と『萬川集海』

相変わらずオークション出品物のデータ作りと出品に追われていて、なんだかわけのわからない日々を送っています。

昨日は楽天に日本史関係の本を数十冊出品しました。おもに、二十代のときにゾッキで買ったものですが、ビブリオマニアならご存知のように、一時期、古書店にあふれたゾッキ本も、やがては値が付くようになることもあります。

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田中貢太郎『支那怪談全集』桃源社刊 これもゾッキだったが値が付きつつある。

そもそも1970年の暮れ、古書店巡りをはじめたとき、澁澤龍彦は「ゾッキ」の王者でした。桃源社の本がみなゾッキになってしまったので、『黄金時代』『犬狼都市』『妖人奇人館』『異端の肖像』『澁澤龍彦集成』などが、どこの本屋にもおいてありました。後年、こうした本はみな値が付いてしまったわけで、ゾッキといえども、あだやおろそかにはできません。

わたしはいつだって本や盤を買うのに汲々としていたので、できるだけ安く買うように心がけました。となれば、高い歴史関係の本も、自然、ゾッキをこまめに買うようになります。歴史関係でゾッキといえば、まず人物往来社です。昨日出品した歴史関係の本の多くも人物往来社(または新人物往来社)刊行のものです。

桃源社が昭和40年代に出した多くの本が、ゾッキになったにもかかわらず、その後、古書価があがったように、人物往来社の本も、なかにはもう買えないような値段になっているものもあります。

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『真田史料集』第二期戦国史料叢書2

これなんか、ゾッキで1000円台で買ったと思うのですが、いま検索したら、函イタミなんていうだらしのないものでも15000円がついていました。この値段ではわたしには買えません。うちにあるものも美本ではありませんが、こういうものは骨董品ではなく、実用品なので、価格は状態にはあまり左右されません。将来、なにか戦国時代のことを調べそうな気もするのですが、15000円なら売っちゃえ、という気分です。

◆ 「真説」だって? ◆◆
なにごとも好きずき、捨てる神あれば拾う神あり、牛よりも鯨のほうが知的だから大事だなどという西洋人的単細胞にはほど遠い人間なので、どんな本にも、なんらかの価値があるだろうとは思います。

鯨やイルカのほうが牛や豚よりエラいとはおもわないものの、でも、どれを食べるといったら、おのずから階梯があります。鯨の刺身、牛、豚の順で、イルカはあまり食べたくありません。かつてイルカを食べたことがありますが、ビーフジャーキーのような干し肉になっていて、硬くて往生しました。

わたしはアプリオリにものごとに絶対的価値をあたえて、牛や豚は殺してもいい、鯨やイルカは殺してはいけないなどというドグマに気づかないほど知性のない人間ではありません。でも、好みをいうなら、鯨肉の刺身のほうが牛のステーキより好きです。

だから、読みもせずに軽んじるわけではないのですが、こういう本は好きか、といわれると、言葉に詰まります。

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大上段に「真説」とかまえられると、うひゃ、といってしまいます。大昔に買った本なのですが、いまだに通読していません。荒地出版もしばしばゾッキになっていたので、これもゾッキとして安く買ったのだと思います。目次なんか見てみますか? イヤだ? まあ、そういわずに。

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うーむ。発行年(昭和39年)とあとがきから判断するに、山田風太郎の忍法帖シリーズに端を発した忍者ブームにあやかりつつ、著者としては、ああいうものではいかん、と便乗ものではないところを見せつつ書いたというあたりのようです。

しかしですな、スパイというか諜者(素波、乱波)としての忍者はいいとして、それ以外のことはみなファンタシーでしょう。そういうことを取り上げた本が「真説」を標榜し、ファンタシーの極北である風太郎の忍法帖を暗に批判するのは受け取れませんね。

◆ 重い、重い、人生は重荷を背負って…… ◆◆
いや、ファンタシーとしてのニッポン忍術はたいしたものです。いまだにりっぱに日本文化海外浸透の一翼を担っているのですからね。英語のブログなんか見てごらんなさい。The Red Shadowなんて映画のことが話題になっています。このうえは、西洋流忍法もののダサさを修正するために、10巻本くらいの英語版山田風太郎傑作集が早く出版されるように祈るのみです。昔考えた『くの一忍法帖』の英訳タイトル――Kuno Itchy, the Real Ninja Story。なんか猥褻そうでしょ?

いや、そんなことを書こうとしたわけではなく、オーセンティシティーを標榜する忍術書に対する、素朴な、しかし、きわめて論理的な疑問です。

忍者の武器がありますね。手裏剣、撒きびし。あれはいうまでもなく鉄製であります。映画やドラマでは、忍者の襲撃というと、十字手裏剣がバンバン飛んできて、そこらの樹木だの板塀だのにカッ、カッ、カッ、カッなどと突き立つのがつねです。でも、これは無理でしょう。

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『真説・日本忍者列伝』バックカヴァー

まず第一に、鉄だから、すごく重いにちがいありません。十字手裏剣20枚といったら、数キロでしょう。ほかに撒きびしなんてものも運搬するわけですが、これも鉄ですよ。1平方メートルあたり三個なんてチマチマした撒き方では効果は上がらないだろうから、数十個はもつにちがいありません。これでさらに数キロです。三キロぐらい?

忘れてはいけないのは、長刀です。あれだってキロの単位でしょう。忍者用は軽いのかもしれませんが、それにしたって鉄の棒ですからね。爪楊枝とはわけがちがいます。

つまり、忍者というのは、スーパーに行って、砂糖と塩と牛乳と醤油と米を買ってきたぐらいの感じで歩いていたことになります。このフル装備で一昼夜に四十里を駆け抜ける、なんてことまでやるんだから、まさに超人的、って、まさかねえ。

◆ 忍者はジャラジャラ、ガシャガシャ ◆◆
まだ疑問はあります。忍者の本分は「しのび」でしょう。だれにも気づかれぬように行動できてこそ「忍び」であり、情報収集ができるはずです。それが、手裏剣と撒きびしをガチャガチャいわせて、鍛冶屋の出前みたいな音を立てていては商売あがったりです。

「えー、甲賀の里よりまかり越しました忍者でござい、国友鍛冶謹製、直輸入十字手裏剣はいかが、『飛びくない』もあるぞな、ジャラーン、ガシャガシャ」

手裏剣だって刃物ですからね。裸で持ち歩いてはケガをします。たとえ音はたててもよいとしても、ケガをするわけにはいきません。そんな馬鹿なことはしないだろうって? たしか、尾張藩士・朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』だったと思いますが、今日、ご城内でだれそれが立ち上がろうとして小刀が抜け落ち、太股を刺してしまった、などという記述が数回にわたって出てきます。

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『鸚鵡籠中記』は刀が装身具になってしまった平和な時代のものですが、飾りだからといって、鞘の「鯉口」が緩くなったまま修理せずにほうっておくと、立ち上がろうとして柄が下になる姿勢をとると、刀身が抜け落ちてしまうのです。また「安全装置」として、紙縒で柄と鞘を結んでおくことも広くおこなわれていたはずなのですが、そういうことも怠る武士が少なくなかったことを『鸚鵡籠中記』の記述はうかがわせます。

話を戻します。手裏剣だの「くない」だの撒きびしだのといった小型の刃物をバラでたくさんもっていたら、危なくて歩けません。管理が必要でしょう。どうしたのでしょうか。電気工事の人が腰にぶら下げるキャンバス地の道具入れみたいなものでももっていた? 静音と安全の両方を考慮して、十字手裏剣はもちろん、撒きびしもひとつひとつ包んでしまっておく、なんてことでは、いざというときに発砲できない日本の警察官と同じで、武器を持っている意味がなくなってしまいます。

時代劇では、麻かなにかの袋に撒きびしをまとめて入れてあるというのを見た記憶があります。でも、そんなものでは、ジャラジャラうるさくて、天井裏だの縁の下だのに潜んだりはできないに決まっています。

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「ちょっと待ってね、撒きびしはまとめておくとうるさいからひとつひとつキャンディーみたいに紙にくるんであるのよ。手裏剣だって1枚1枚個装になっているから、いっぺんには出せないのね、そこんところ、わかってほしいなあ、オレ、忍者だから、音はたてらんないのよ」なんていっているあいだに、忍術のにの字も知らない武士に、白刃一閃、抜き打ちで首を飛ばされちゃいます。

◆ 水蜘蛛で立ってみれば…… ◆◆
いや、忍法も忍者もウソッぱち、くだらない、といっているわけではありません。忍法書の古典『萬川集海』に書かれたようなことは「オーセンティック」な忍術であり、立川文庫の『忍者地雷也』や、山田風太郎の「忍法筒涸らし」は馬鹿馬鹿しいファンタシーである、というような言い方はできない、というだけです。どちらも等しく荒唐無稽のファンタシーです。

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忍法の基本文献といわれる(いやあ、そんなオーセンティックな代物ではないのだが!)『萬川集海』を収録した人物往来社の『日本武道全集第四巻 砲術・水術・忍術』。これもゾッキで買ったが、いまやちょっとした値が付く。となれば俗物としては、やはりオークションに出すことになる可能性が高い。まだ秘蔵しているが。

「水蜘蛛」という「かんじき」のいとこみたいなものなんか、子どものときですら笑い飛ばしていました。浮き袋でサーフィンするようなもので、物理的に無理です。海や川では役に立つはずがなく、城の壕を渡るためのものという想定でしょうが、それだったら、ほかにいくらでも現実的な方法があるでしょう。レンジャー部隊式にかぎ縄を使えばいいじゃないですか。

「水蜘蛛」は、現代の購買者と同列の知性のない武将を騙すためのプロモーション用ギミックなのだろうと想像します。織田信長なんか、あやかしのたぐいが大嫌いな早すぎた近代人だったので(あの徹底した坊主嫌いには感動する)、水蜘蛛のデモンストレーションなんかやったら、その場で首を刎ねられたでしょう。

忍者の戦いは情報戦です。デマゴギーも情報戦の重要な戦術です。忍者が駆使するというガジェットのたぐいは、すべて忍者たちの意図的なデマの流布としてはじまったものではないでしょうか。手裏剣を投げるような事態に立ち至っては、情報戦は失敗です。だから、そうならないように、忍者というのはなにをするかわからない不気味な存在である、と宣伝することを、だれか頭のいい「上忍」(なんていうのが本当にいたかどうかも知らないけれど)が思いついたのだという気がします。

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◆ コストは? ◆◆
最後にもうひとつ。いじましいことをいって恐縮ですが、いまとちがって、戦国時代には、鉄は高価でした。いまどきのだぶつき鉄鋼市場、しじゅうダンピング騒ぎをしている業界とは、当時の鉄業界はちがいます。戦国時代には鉄鉱石を輸入できなかったはずで、国内に産出するわずかな鉄鉱石と砂鉄が原料だったのでしょう(ただし、火薬製造に必須の硝石が国内には産出せず、輸入されていたという話もあるので、鉄鉱石の輸入量はきちんと調べる必要があるかもしれない。だが、たとえ輸入が多くても、価格下落要因にはならなかっただろう。どちらにしろ貴重品であることに変わりはない。また、硝石=硝酸カリウムは思わぬところで生成されるのだが、長くなるので略)。

山崎の戦いで明智光秀が落ちのびようとして、あっさり殺されてしまったことに端的にあらわれているように、落ち武者狩りは儲かる商売でした。武器と武具が高く売れたからです。売らずに、自分が使う鋤、鍬の原料にすることもできたでしょう。

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『萬川集海』より「水蜘蛛の図説」。うーむ、いにしえの少年雑誌の豪華組立付録のようであるな。

「伊賀越え」が徳川家康生涯の大難のひとつといわれるのも、同じ理由によります。防備の甘い武士はよってたかって殺すにかぎる、というのがあの時代の百姓の考え方です。じっさい、伊賀越えでは、家康に同行した穴山梅雪(武田信玄のいとこ)が殺されています。

いや、伊賀越えは謎だらけで、梅雪の死因も諸説あります。ウィキペディアには、このとき、家康に同行したのは34人などと見てきたようなことが書いてありますが、わたしが調べたかぎりでは、史料によって同行者の人数も名前もまちまちで判断できず、脱出ルートすら明確ではありません。それどころか、このとき、家康は落ち武者狩りで殺されたとして、墓まで残っているのだから、歴史は闇の中ですよ。いや、だからこそ、つぎつぎと時代小説が書かれるわけですが。

話を戻します。武器武具を奪うためによってたかって武者を殺す百姓がそこらじゅうにあふれているときに、手裏剣だの、撒きびしだの、金に等しい価値のある鉄の塊を放り投げて歩くとは、ずいぶん太っ腹だなあ、と感心してしまいます。

だれか、手裏剣の製造コストというのを計算してくれないでしょうかねえ。安くはできないと思いますよ。原材料が高いうえに、すべてカスタム・メイド、そんな高価なものを何十枚もぶん投げていたら、採算割れで、忍者業界は失業者であふれてしまうにちがいありません。

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これまた『萬川集海』より「水掻き」。いやはや。これでシュノーケルと水中眼鏡があれば、夏休み海の子ども三点セットの完成。

いやはや、くだらないことを書きつらねたものです。いえ、手裏剣排斥運動をしているわけではありません。時代劇では、あのカッ、カッ、カッ、カッ、と十字手裏剣が刺さるショットは必要でしょう。高価だからと、あとから回収する忍者が登場する映画だって、あっても悪くはないとは思いますがね。

「リアル・ニンジャ・ストーリー」は、きっとジョン・ル・カレの『ドイツの小さな町』みたいなものになってしまうでしょう。ガジェットもギミックもなし、徒手空拳の情報戦です。

だから、「水蜘蛛」がどうしたなどという本は、まったくリアリスティックではなく、頭から尻尾までまるごとファンタスティックの側に立っていることを自覚するべきなのです。忍法筒涸らしのオリジネイターに嫌みをいう権利はないのです。そういう前提でなら、『真説・日本忍者列伝』も読みどころなきにしもあらずでしょう。


くノ一忍法帖 山田風太郎忍法帖(5) (講談社文庫)
くノ一忍法帖 山田風太郎忍法帖(5) (講談社文庫)
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by songsf4s | 2010-03-24 22:51 | 書物
そして写真だけが残る(ことになるだろう) その5 柴田錬三郎作・横尾忠則挿絵『絵草紙 うろつき夜太』

前回の末尾で予告したとおり、今日は造本に凝りに凝った一作、柴田錬三郎の『うろつき夜太』です。といっても、柴錬の書いた部分はあれこれいうほどの出来ではなかったと記憶しています。いつもの柴錬とは違う、変な話でしたが、それだけのことにすぎず、どちらが面白いといったら、いつもの柴錬のほうがわたしの好みです。いつもの柴錬とは、『赤い影法師』だの、『剣は知っていた』だの、『江戸群盗伝』だの、『柴錬立川文庫』だの、そういった作品群のことです。

『うろつき夜太』が忘れがたいのは、横尾忠則のエディトリアル・デザインと全編にちりばめられたイラストレーションのおかげです。ただ「流した」だけのページというのは皆無、イラストが無数に配されているのみならず、見開き単位でどんどん組版デザインまで変わっていく、編集者とタイプセッターの悪夢が現実化したような本です。

この本については、これ以上とくにいうべきことはないようです。もともとは「週刊プレイボーイ」に連載されたものだそうで、わが家にある単行本は、その連載の版面をそのまま束ねただけのものと思われます。

ということで、あとは実物をご覧いただきます。これはまもなくオークションに出すので、スキャンしてノドを割る危険を冒すわけにはいかず、ただ本を開いて端のほうをべつの本で押さえて、デジカメで撮影したものです。ごく一部を除けば、見開きをそのまま収めています。

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表紙と帯。下の写真は背。


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写真からはわからないだろうが、ここは本文の文字色を細かく変化させている。ゲラに色指定を書き込む手間を考えると鬱病になりそう!

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上のページを拡大した。緑色のなかにところどころ赤い文字が散らしてある。補色にしたのは意図的なのだろうか? 赤緑色盲の人には色の変化はわからない!

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ひとつのデザインから二つの実体をつくった。こういう処理もうまい。上のモノクロの見開きと、下のカラーの見開きは並んで出てくる。

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以上の絵からもある程度読み取れるでしょうが、最後には、主人公うろつき夜太は、海を渡り、革命時代のフランスにたどりつきます。横尾忠則に刺激されて、柴錬としては精いっぱい飛翔してみたつもりなのでしょうが、結果から見れば、横尾忠則の土俵に引きずり込まれて、我を見失っただけに思えます。

いや、『赤い影法師』を書いた時代とは年齢も違えば、キャリアの厚味(というか、早い話が「書き疲れ」)もちがうわけで、無いものねだりをしてはいけないのでしょうね。こういうことをやってみるのは、その試み自体が失敗しても、あとで迂回した成果をもたらすことがありますが、柴錬の場合はどうだったのでしょうか……。
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by songsf4s | 2010-03-20 23:49 | 書物