カテゴリ:風の歌( 27 )
サンプラー 嵐のギター:ジョー・メイフィス、グレン・キャンベル、ドゥエイン・エディー
タイトル
Hurricane
アーティスト
Joe Maphis
ライター
Larry Collins
収録アルバム
Flying Fingers
リリース年
未詳(late 50's?)
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なんだか、夜になっていきなりドンとお客さんがまとまっていらして、なにごとかと思ったのですが、どうやら池部良死すの報があって、それで検索していらしたようです。

いや、当家で過去に取り上げた池部良主演映画は市川崑監督『暁の追跡』(「その1」「その2」その3)だけで、池部良を目当てにいらしても、たいしたことは書いてなくて、申し訳ないようなものですが。

◆ 疾きことハリケーンの如し ◆◆
今日は成瀬巳喜男の『娘・妻・母』は一休みして、軽くギター・インストをいってみます。2007年10月の嵐の歌特集で取り上げたジョーメイフィスのHurricaneと、ドゥエイン・エディーのBlowin' Up the Stormの2曲をまとめていきます。

まずはジョー・メイフィスのクリップから。作者ラリー・コリンズとの超高速ギター・オン・ギターです。

ジョー・メイフィス&ラリー・コリンズ Hurricane


ラリー・コリンズはこのときいったい何歳なのでしょうか。わたしがはじめてギターを弾いたときより若いのはまちがいないところで、それでこれだけ弾けちゃうのだから、わたしがプレイヤーとして絶望的だったのは、弾く前から定められていたことなのだなと納得してしまいます。

このモズライト・ダブルネック・コンビは何度も共演しています。つぎの曲も、メイフィス単独の録音がありますが、こっちのほうがずっとずっとアクロバティック。

ラリー・コリンズ&ジョー・メイフィス Flying Fingers 二人羽織ヴァージョン


ついでに引っかかったクリップ。

グレン・キャンベル&コリンズ・キッズ


こういうのを立てつづけに見ると、ガッカリしてしまいます。アメリカの子どもは50年代からずっと、テレビでごく当たり前のようにこういうギタリストたちのプレイを見ていたのですよね。ノーキー某のことをうまいギタリストだと思っていた60年代の日本の子どもの憐れなこと! あの程度ではドサ廻りしかできないから、日本くんだりに来ていたのでしょう。

さて、ジョー・メイフィス単独の録音によるHurricaneをサンプルにしました。

サンプル Joe Maphis "Hurricane"

◆ 遅きこと夏台風の如し ◆◆
同じく2007年の嵐の歌特集から、もう一曲ギター・インストをいってみます。ジョー・メイフィスが高速のほうのエクストリームなら、ドゥエイン・エディーは低速(そして低音)のほうのエクストリームでしょう。オリジナル記事は2007年10月の「Blowin' Up the Storm by Duane Eddy」です。

サンプル Duane Eddy "Blowin' Up the Storm"

オリジナル記事にも書いたことをすこしだけ繰り返しておくと、この曲は1963年のアルバム、Twangin' Up a Storm!に収録されたもので、作者はデイヴィッド・ゲイツ、ドラムはクレジットがなくても明らかにアール・パーマーとわかります。

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ドゥエイン・エディーのドラマーは、初期はツアー・バンドのジミー・トロクセルとクレジットされていますが、60年代に入るとあれこれと入り交じるようになります。よくわからないトラックもたくさんありますが、ハリウッド録音のアルバムはアール・パーマがしばしばストゥールに坐っています。

ただし、Tokyo Hitsという日本の曲のアルバムはハル・ブレインだということを畏友オオノ隊長が発見され、また、つい先日、AMMのキムラセンセがThe Biggest Twang of Them Allもハル・ブレインだとツイッターでおっしゃっていました。アールのほうが多く、ハルはすくないだろうと思います。また、ずっと後年、80年代だったか、ジム・ケルトナーがストゥールに坐ったトラックもあります。

どちらかというと、ジョー・メイフィスのHurricaneより、ドゥエイン・エディーのBlowin' Up the Stormのほうが飽きがこなくて、わたしには好ましく感じられます。やっぱり音楽はスポーツとはちがうのでした。



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Flying Fingers
Flying Fingers


Twangsville/Twangin' Up A Storm
Twangsville/Twangin' Up A Storm
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by songsf4s | 2010-10-11 23:54 | 風の歌
サンプラー・シリーズ1 Ned DohenyのOn and On
タイトル
On and On
アーティスト
Ned Doheny
ライター
Ned Doheny
収録アルバム
Ned Doheny (eponymous title)
リリース年
1973年
他のヴァージョン
Dave Mason and Cass Elliot
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今日、すでにつくってあるファイル・ホスティングのアカウントを総点検しました。ストリーミングができるかということと、残りの容量です。

その結果、Divshareと4sharedはストリーミング可能とわかり、両方ともほとんど使っていないので、合わせて14GBほどの残量があります。mediafireは二つアカウントがあって、片方はほとんど未使用なのですが、ストリーミング機能はないようです。

バンド幅の問題は、当家の場合は心配しなくていいだろうと思います。バンド幅というのは、一定期間にどれだけ「流せる」か、ということです。たとえば1日に1万人のユーザーが1ギガバイトずつ、わたしのアカウントにあるものを聴く、などということはできないようになっているのです。もちろん、そんなにたくさんの方はいらっしゃらないし、たとえば、box.netで見ても、ひと月の割り当てバンド幅の1割程度しか使っていないので、急激にお客さんが増加し、頻繁にサンプルにアクセスする、などということが起きないかぎり、その点は心配しなくても大丈夫と思われます。

なんのためにそんなチェックをしたか? このところ、以前のように、毎日のように更新するという状態に戻したいという気持が強くなっているのですが、それほどの時間の余裕はありません。なんとか方法はないものか、と考えたのです。

先日、ジョニー・スミスのStranger in Paradiseのサンプルをアップしたことから思いついたのですが、過去の記事のうち、サンプルをつけなかったものを、すこしずつ補足するのはどうだろうかと考えました。これなら、面倒な話はすでに終わっているので、それほど時間がなくてもできそうな気がします。

box.netはストリーミングを主に考えてユーザー・インターフェイスがデザインされていてわかりやすいのですが、Divshareや4sharedはそうなってはいなくて、とくに後者はわかりにくいかもしれません。そのへんは慣れていただくしかないでしょう。

ストリーミングの方法についての疑問点はコメント欄でお答えしますが、「ストリーミング以外のこと」(なにをいっているのかはおわかりですな?)をなさる方法についてはお答えしかねます。まあ、わかりにくいのはストリーミングのほうで、「それ以外のこと」のほうが簡単でしょうけれど!

◆ 延々と引っ張ったOn and On ◆◆
手間のかかる映画の記事はやめる、ということではありません。映画のほうは週に2回程度にし、残りの日を音楽に充てる心づもりです。

さて、過去記事の逆襲第一弾です。一昨年の五月の記事「On and On by Ned Doheny」にはつけられなかったサンプルを補足することにしました。歌詞だのなんだのといったことは、一昨年の記事で詳述したので、そちらのほうをご覧ください。

サンプルにいくまえに、オリジナル・ヴァージョンであるデイヴ・メイソン=キャス・エリオット盤On and Onののほうを片づけておきます。たいした出来ではないのでYouTubeで十分でしょう。



さて、主役のほうに移ります。On and Onの作者はネッド・ドヒーニーなのですが、メイソン=エリオット盤のほうが先にリリースされたので、ドヒーニー盤はセルフ・カヴァーということになります。今日は4sharedアカウントなので、いつもとはちがいます。すごく小さい(というか細い)プレイヤーが表示されます。

サンプル Ned Doheny "On and On"

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Ned Doheny "Ned Doheny" front cover.

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Ned Doheny "Ned Doheny" back cover.


On and Onだけでは愛想がないような気がするので、セカンド・アルバムのHard Candyからもサンプルをどうぞ。

サンプル Ned Doheny "Sing To Me"

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Ned Doheny "Hard Candy" front cover.

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Ned Doheny "Hard Candy" back cover.


さわやかさが身上の人なので、どちらの曲も風薫る五月に聴くにはちょうどいいサウンドだろうと思います。


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Ned Doheny デビュー盤
Ned Doheny
Ned Doheny


Ned Doheny Hard Candy
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by songsf4s | 2010-05-09 23:27 | 風の歌
Santana by Nelson Riddle
タイトル
Santana
アーティスト
Nelson Riddle
ライター
Riddle, Rowles, Satterwhite
収録アルバム
Love Tide
リリース年
1961年
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今日は晦日なので、先月の馬鹿ソング特集のように、店ざらしになった曲を列挙しようかと思ったのですが、今回はちょっと多すぎて、ダブりをとったりといったリスト作りが面倒でやめました。かわりにインタールードのようなインスト曲を取り上げます。

いま、晦日と書いて、なぜ「晦」を使うのだろうかと、数十年前に思うべき疑問を遅まきながら感じました。「気持を韜晦する」などという韜晦と同じ字じゃないですか。月の最後の日を「みそか」というのは、三十日の訓であることはわかりますが、当て字にせよ、なぜ「晦」なのか?

漢和字典を見たら、あっさりわかりました。「晦」の字義は「みそか。つごもり。陰暦の月末で、月のないやみ夜。〈対語〉→朔(ついたち)」とあります。字訓としては「くらし」(暗し)もあるということで、隠れていること、暗いことをいうわけです。本心を隠す「韜晦」という言葉にこの字がある理由も、これでよくわかりました。

月の最後の日を「晦日」というのは、太陰暦であるべきだということになりますが、こういう生活に根ざした言葉というのは簡単には消えないという、これもまた一証左なのでしょう。つぎの新月、太陰暦の「晦日」は6月4日で、だいぶずれています。考えてみると、季節についてなにかいうのなら、太陰暦にしたがうべきなのかもしれません。右側のメニューにあるカレンダーが太陽暦しか使えないに決まっているので、そんなことをやって遊ぶことはできませんが。

◆ フェーン風 ◆◆
さて、本日の曲は、ネルソン・リドルのSantanaです。Santanaといったって、あなた、カルロス・サンタナといった人名じゃござんせん。この曲を風の歌特集のフェイドアウトに持ってきたについては、ちゃんと理由があるのです。

どこかで手があがっていますね。はい、そちらのあなた、どうぞおこたえになってください。そうです、正解です。ビーチボーイズのKeepin' the Summer AliveにSanta Ana Windという曲が入っていましたが、あれと同じ風のことを、Santanaと略すことがあるのです。

ビーチボーイズのSanta Ana Windの冒頭は以下のようになっています。

Here in Sothern California there is a weather condition known as the Santa Ana Winds

Fire wind, oh desert wind
She was born in a desert breeze
And wind her way
Through Canyon Way
From the desert to the silvery sea

In every direction
See the perfection
And see the San Gabriel Mountain scene

f0147840_23424728.jpgfire windであり、desert windだというのだから、乾燥した熱風なのは明らかです。南カリフォルニアのフェーン風を、土地では「サンタ・アナ」と呼んでいて、リエゾンが起こり「サンタナ」と略称されるようになったわけです。サンタ・アナは地名で、六甲颪、筑波颪に近い風の命名法です。ただし、サンタ・アナ山地(そういうものは存在しない)からの颪ではなく、モハーヴェ砂漠などの北東の砂漠地帯からの風で、主としてサンタ・アナ一帯に吹く、ということのようです。

気象事典にはサンタ・アナはフェーン風であると書いてあるので、山を越える間に乾燥するわけで、サンタ・アナの場合、サン・ゲイブリエル山地を越えてくるそうです。だから、ビーチボーイズのSanta Ana Windにサン・ゲイブリエルが出てくるのです。

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サン・ゲイブリエル山地とロサンジェルス市街 右上、すなわち北東が砂漠地帯、中央の山地がサン・ゲイブリエル、左下寄りがLA。砂漠地帯からの北東風がサン・ゲイブリエル山地を越えて乾燥し、フェーンとなってLAに吹きつける。

十数年前、仕事で世界のさまざまな風について調べたとき、この「サンタ・アナ」という風を知り、フェーンだと書いてあるので、嫌な風じゃないか、どうしてビーチボーイズはそんなものを歌にしたのだ、と不思議に思いました。で、歌詞をちゃんと聴いてみると、つまり、セイリングには好都合だということなのですね。日本だって、サーファーは、台風が近づくと上機嫌になるわけで、それと同じです。

◆ ベースの扱い ◆◆
さて、ネルソン・リドルのSantanaです。リドルといえば、50年代なかごろから60年代にかけてフランク・シナトラのアレンジャーをつとめたことで有名です。Santanaが収録されたアルバム、Love Tideは1961年リリースで、まさに「ネルソン・リドルのシナトラ時代」(あるいは、「シナトラのネルソン・リドル時代」)の真っ最中につくられたものです。

f0147840_23551644.jpgしかし、さすがにシナトラに重用されたアレンジャーだけのことはあります。シナトラのムードを、自分のアルバムに投影したりはしていません。じっさい、このアルバムにはシナトラもうたった、ハロルド・アーレンとテッド・ケーラー作のIll Windも収録されていますが、1955年のフランク・シナトラ盤(こちらのアレンジャーもリドル)と、1961年のネルソン・リドル盤では、まったく異なったアレンジをしています。そういってはなんですが、歌手に気を遣わないですむぶん、リドル盤のほうがムードのあるストリングス・アレンジで、わたしの好みはこちらのほうです。

Santanaは、楽曲としては比較的シンプルですが、なかなかいい曲です。映画のテーマに使ってもいいくらいです。アレンジ面では、ひとつ、おや、と思うことがあります。ベースの扱いです。アップライトが入っていることはまちがいないのですが、そのラインの上にダンエレクトロ6弦ベース、いわゆる「クリック・ベース」を載せて、輪郭をつけたのかと思いました。

アップライトまたはフェンダーといった「ほんもののベース」の上に、ダンエレクトロを載せてベースラインに輪郭をつけ、同時に厚みをあたえるのは、ロック系のハリウッド産ポップ・ミュージックで盛んに利用された手法です。ひょっとしたら、ネルソン・リドルがその手法に先鞭をつけたのかと、ちょっと緊張しました。

f0147840_23562785.jpgしかし、よく聴くと、ダンエレクトロではなく、ギターの低音弦でベースラインをなぞっているようです。なーんだ、そうだったのか、と思ったのですが、よく考えると、これだって「先鞭」にはちがいありません。ベースラインに輪郭をつける楽器が、ギターであっても、ダンエレクトロ6弦ベースであっても、同じことだからです。考え方の方向性は同一であり、たんに実現方法がすこし異なるだけです。じっさい、同じ手ざわりのサウンドになっています。

この低音部の作りを聴いて、「定説」、いや、それほど大げさなものではなく、このことを声を大にしていっているのは、わたしをはじめ、仲間内のことにすぎないので、てめえで勝手に定説化しただけの「観察にもとづく仮説」ですが、そいつを自分で壊す必要があるかもしれないと感じました。いずれ、この手法の出現例を時間軸に沿って並べ、きちんと検証するつもりです。

オーケストラ・リーダーとしてのネルソン・リドルは、ヘンリー・マンシーニやビリー・メイほどすごいとは思わないのですが、このLove Tideというのは、ちょっとエキゾティカ風味もあって、なかなか好ましいアルバムです。これからの季節にちょうどいいのではないでしょうか。

◆ シャドウズのSanta Ana ◆◆
おまけとして、べつのサンタ・アナ風をもう一吹き。シャドウズにも、Santa Anaという曲があります。この曲が収録されたアルバム、The Sound of the Shadowsは彼らの代表作で、選曲もよく、プレイもサウンドもけっこうで、いろいろな曲をプレイ・アロングしました。Bossa Rooなんか、いまだにちゃんと弾けないのですが、でも、弾いて楽しい曲です。

いまこの曲を流して、弾いてみたのですが、手が自然に動くというわけにはいかないし、キーも忘れていたので、Bossa RooやDeep Purpleほどよくプレイした曲ではないのは明らかですが、ある程度は覚えていました。

f0147840_2358480.jpgこのアルバムにはWindjammer(帆船)という曲も入っています。風というのは、やはり、さわやかなイメージがあるので、曲のタイトルに使われるのではないでしょうか(Ill Windのような例外ももちろんありますし、暴風の歌もありますが)。

歌詞のある曲では、内容と関係なく、windだのbreezeだのといった言葉を使うわけにはいきませんが、インストは、好きなようにタイトルを付けることができます。だから、風の歌特集をやろうと思い、HDDを検索したら、ほかのキーワードにくらべ、インスト曲の含有率が異常に高かったのだと思います。windやbreezeがタイトルに使われていると、なんとなく、いい曲のような気がするのではないでしょうかねえ。しませんか?
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by songsf4s | 2008-05-31 23:55 | 風の歌
Lonely Too Long by the Young Rascals
タイトル
Lonely Too Long
アーティスト
The Young Rascals
ライター
Felix Cavariere, Eddie Brigatti
収録アルバム
Collections
リリース年
1967年
他のヴァージョン
David Cassidy
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今日は長丁場になりそうなので、枕は短めに。昨日は、こんな記事は公開しないでおこうかと思ったのですが、前半を公開してしまった以上、後半も公開しないわけにはいきませんでした。右側のメニューには載せず、検索しないかぎり見えないようにする、という妥協案で、自分のなかの反対意見を抑え込んだしだい。

今日は正反対の曲、アッパー系のサウンドで、昨日の鬱を相殺しようと思います。しかし、歌詞がどうこうなんて曲ではないので、今日も歌詞の検討はしません。ただ、風の歌特集にこのLonely Too Longを持ち込むには、多少の手続きが必要なので、そのことだけは書いておかないと、当ブログの規則に抵触してしまいます。

本日の曲、Lonely Too Longのサード・ヴァースの冒頭は以下のようになっています。

Now look at me, glidin' to this world of beauty

滑空するように、というのだから、風がなければできない、というこじつけです。これで手続きは踏んだので、本題に入ります。

◆ コーラスのプレイ ◆◆
わたしのドラミングにたいする基本的な考え方、趣味嗜好の基礎をつくった人はふたりいます。デイヴ・クラークとディノ・ダネリです。この二人をご存知の方なら、これだけで十全にご了解いただけ、今日の記事はここで終了してもいいくらいです。ディノ・ダネリのドラミングといえば、Lonely Too Longで決まりなのです。

まあ、それではあまりにも愛想がなさすぎるので、つづけますが、降るとなったらどしゃ降り、書くとなったら徹底的に書くので、ドラミングにご興味のない方は、ここらで切り上げていただきたいと思います。今日はドラミングの話だけで終わる予定です。デイヴィッド・キャシディーのカヴァーも、たぶんふれる余裕はないでしょう。

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ではいきます。Lonely Too Longには、アルバム収録のステレオ・ミックス・フル・ヴァージョンと、モノ・ミックスの短縮シングル・ヴァージョンがあります。ここではアルバム・ヴァージョンにしかふれません。モノではドラムがよく聞こえないからです。

構成を確認しておきます。Lonely Too Longはコーラスから入り、そのあとにヴァースが出てきます。I've been lonely too long以下がコーラス、As I look back以下がファースト・ヴァースです。

この曲でもっとも印象に残るのは、このコーラスとヴァースの対比です。いえ、ドラミングがちがうということで、楽曲の譜面上の話ではありません。

コーラスは比較的ノーマルなパターンで叩いています。左手は2&4、ただし、右手は、ライドやハイハットではなく、スネアを8分で刻んでいます。スネアだということがノーマルでないだけで、これがライドやハイハットなら、いたってノーマルです。

キックは8分2打、8分休符、8分1打、2分休符というパターンです。小節の前半だけ叩き、後半は休み、というやや変則的なパターンですが、だからといって、異様なパターンというほどでもありません。まあ、子どものときは、へえ、こういうのもあるんだ、と思いましたが。

f0147840_0171647.jpgときおり、シンバルが邪魔だと感じることがあります。Lonely Too Longも、スネアで8分を刻もうという積極的な策ではなく、シンバルを入れるのはやめよう、という基本方針から出てきた、たんなる結果としてのスネアによる8分ではないかと思います。

そう感じるのは理由があります。右手を遊ばせたまま、左手だけでバックビートを叩いてみればわかります。タイムが不安定になるほど叩きにくく感じます。投手のフォームでだいじなのはグラヴを持った手の使い方だといいますが、それと同じです。グラヴを持った手を躰に縛りつけられたら、まともなピッチングはできません。ドラマーは右手のリードによって、左手で安定したバックビートを叩いているのです。だからディノ・ダネリは右手を遊ばせておくことができず、シンバルより目立たないスネアで軽く8分を刻み、バックビートを安定させたのだと考えます。

スタジオのプロというのはおそろしいものです。いま具体的な曲を例示できないのですが、ハル・ブレインは、右手は完全に遊ばせたまま、左だけはバックビートを叩くというプレイを何度かやっています。ふつうの人が聴いても、シンバルが鳴っていないだけと思うかもしれませんが、わたしは、よくそんなおっかないことを平気でやるなあ、プロフェッショナルはすごいもんだ、と心底感心してしまいます。

つまり、ディノ・ダネリはあくまでもバンドのドラマーであって、スタジオのプロのような、どんなパターンにもその場で対応できる卓越した技術はもっていない、ということです。ダネリの美点はそういうところにはないのです。なによりも元気のよさが身上です。いや、元気がよくてタイムが悪いと、最悪のパターンになってしまいますが、タイムがよくて元気があるのです。このふたつの条件を満たしていれば、バンドのドラマーは十分に務まります。しかし、ダネリはそれだけのドラマーにすぎないというわけではありません。

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◆ ヴァースのプレイ ◆◆
中学生だったわたしは、冒頭のスネアのロールだけで完全に乗りました。それにつづくコーラスのプレイも力強く、やっぱりギターはやめて、ドラムをやろうと思ったほどです。カッコいいなあ、と惚れ惚れしました。

しかし、何度か聴いているうちに、ヴァースのプレイに引っかかるものを感じ、注意深く聴いてみました。キックが変だったのです。コーラスのキックはちょっと変わったパターンにすぎませんでしたが、ヴァースのキックはアブノーマルでした。

ヴァースは8小節で成っています。最初の5小節はたぶんキックはまったく使っていません(一カ所、軽く入れているかもしれない)。最初にキックが聞こえるのは、6小節目の最後の拍のシンコペートした裏拍です。

いまだから、シンコペートしたのとなんのと理屈付けて納得していますが、子どものときは、ん? なにこれは? でしたよ。真似しようとして、「シャドウ・ドラミング」しても、なかなかキックを入れるタイミングがつかめませんでした。むずかしいのです。高度なプレイなのです。

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スネアをシンコペートさせるのはむずかしくありませんが、キックをシンコペートさせるには、それなりの訓練が必要です。ブラスバンドでは両手の使い方は教えてくれますが、足の訓練はいっさいしません。使わないのだから当然です。子どものわたしは、ここではじめてキック・ドラムのむずかしさ、パターンに収まらない使い方というのを学びました。まあ、子どもだから、七面倒なことは考えず、ただ「カッコいいなあ」とむちゃくちゃに興奮しただけですが。

もうひとつ注意を促しておきたいのは、ヴァースでキックが出てくるのはこのシンコペートした4拍目だけだということです(正確には、コーラスへのつなぎ目のフィルインを補強するためにキックを何打かしている)。たったの1打。これはもうアブノーマルという以外にいいようがありません。

◆ ニューオーリンズの下半身不随ドラマー ◆◆
ずっと後年、20年まえぐらいのことですが、ディノ・ダネリのインタヴューを読みました。いま読み返している余裕がないので、記憶で書きますが、ダネリは、若いころにニューオーリンズにいて、そのときの見聞について語っています。

f0147840_0252422.jpgニューオーリンズで、ダネリはお年寄りの変わったドラマーと親しくなったのだそうです。そのドラマーは下半身不随でした。それでもキックを叩いていたというのです。彼はセットの脇にスタンドを置き、そこからゴムバンドを垂らして、右の太ももを吊り上げていました。まるで事故で入院中の患者です。

で、キックのアクセントを入れたいときには、右肘で、この吊り上げた右膝をぐいと押し下げる。すると、その動きが足に伝わり、キック・ペダルを押し下げる。ペダルの先端のマレットがキックのヘッドを叩く。ゴムバンドの張力で太ももはふたたび吊り上げられ、ペダルも元にもどり、つぎの一打の準備が整う、とこういうメカニズムでキックを叩いていたというのです。肘でコントロールするのだから、当然、高速でキックを叩くことはできません。たまに、雨垂れのように入れるだけなのです。

これを読んでわたしは「そうだったのか!」と叫びましたよ。ダネリはこのドラマーから学んだことを、Lonely Too Longのヴァースに応用したにちがいありません。ふつう、ああいうキックの使い方は思いつくものじゃないですからね。

◆ 「パターン」の呪縛 ◆◆
そのときは、それで納得しましたが、いまになると、もうひとつ思うことがあります。ロックンロール時代以前は、「キックのパターン」などというものはなかった、ということです。ロックンロール・ドラミングでは、フィルのない「空の小節」では、キックを一定のパターンで叩くのがパラダイムです。

しかし、スウィング時代のドラミングもそうですし、モダン・ジャズでもそうですが、キックはあくまでもアクセントとして、「ときおり」叩くものです。キックはグルーヴの担い手ではなかったのです。スウィングでも、モダン・ジャズでも、グルーヴはベースが中心になってつくります。だからこそ、ジャズ・ドラマーはタイムが悪くてもなんとか務まったのです。結果的に、タイムの悪いドラマーを大量生産する悪弊を生みましたが、ロック・ドラマーがそれを修正してバランスをとったので、まあ、結果オーライです。

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話が脇に逸れました。つまり、雨垂れキックでも、ジャズの場合はなんの違和感もなかったのであり、ダネリが親しくしていたニューオーリンズの下半身不随ドラマーは、たぶん、非常にノーマルなドラミングをしていたにすぎないのです。

ジャズ・ドラミングとロック・ドラミングは決定的に異なる性質をもっています。ジャズではドラムはたんなる飾り、アクセントにすぎません(もちろん例外は山ほどあるが、いまは原則の話をしている)。極論するなら、あったほうがいいけれど、なくてもなんとかなる程度の楽器にすぎないのです。だから、ライドを刻むだけで、スネアはほとんど使わないなんてことも、平気でやれるのです。

それに対して、ロックンロールでは、ドラムはもっとも重要な楽器です。ロックンロールはグルーヴの音楽であり、そのグルーヴのもっとも重要な担い手は、ベースではなく、ドラムなのです。ドラムが乱れたら、全体が崩壊します。つねに安定したビートを提供しなければならないのです。ロックンロールをロックンロールたらしめている根源的要素は、ドラムの安定した力強いビートが生みだすグルーヴなのです。これがなければ、ロックンロールとはいえません。

これが、いわば「呪い」となって、ロックンロール・ドラマーを呪縛します。イントロの冒頭、イントロからヴァースへの移行、ヴァースからコーラスへの移行、そうした繋ぎ目だけは変わった動きをしてもオーケイ、それ以外はじっとメトロノームの役割を果たそうとするのが、ほとんど本能になります。だから、スネア、シンバル、キックの「パターン」というものが必要になるのです。

Lonely Too Longのヴァースで、ディノ・ダネリがやったことの本質は、このパラダイムに対する疑問の提示です。たまには(強調しておくが、あくまでも「たまには」)パターンから自由になってもいいではないか、という提案です。子どもだったわたしは、これに強く反応したのです。「そういうやり方もあるのか!」という感動です。

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◆ 「ドラム小僧」の魅力 ◆◆
分析なんてものは、下手な考え休むに似たりでしかありません。いまでは、あの「Lonely Too Longショック」の正体をきれいに分析することができます。でも、それでは本質から遠ざかるばかりです。

では、どこに本質があるのか。「技術と精度に裏打ちされた力強さ」というあたりじゃないでしょうかねえ。Lonely Too Longがへたれドラミングだったら、興味をもたなかったに決まっています。まず最初に受け取ったのはエネルギーです。その力強さに惹かれて、繰り返し聴いているうちに、細部に耳が行くようになって、やがて隠れた工夫に気づき、ビックリした、といったあたりでしょう。

ディノ・ダネリはほんとうにいいドラマーでした。バンドのドラマーとしては、プロコール・ハルムのBJ、デッドのビル・クルーズマン、ホリーズのボビー・エリオットらと並んで、子どものころ、もっとも好きだったプレイヤーです。

ダネリのいい時代は、ラスカルズの全盛期と重なります。デビュー盤はまだビートに不安定なところがありました。すばらしいプレイがしばしば聴けるようになるのは、Lonely Too Longが収録されたセカンド・アルバム、Collectionsからです。

f0147840_0523837.jpg3枚目のアルバムGroovin'では、A Girl Like Youでの、「ちょっと大人になった」(微妙にタイムが遅い)ドラミングが印象的でした。つぎのOnce Upon a Dreamでは、シングルで聴いたIt's Wonderfulの、最初はなにをやっているのか分析できなかったフィルインに目を丸くしました。Singin' the Blues Too Longでは、クラッシュ・シンバルのミュートという伝統的手法を教えてもらいました。

5枚目のFreedom Suiteは、当時はべつに違和感なく聴きました。Any Dance'll Doなんか、すごくカッコいいなあと思いました。しかし、いまになると、ここが分岐点だったのかもしれないと思います。

初期のダネリは微妙にタイムの早いドラマーでした。目立つほど突っ込んだりすることはなく、まして、走ったりすることはありませんでしたが、でも、ほんのかすかに早いのです。この微妙に早いタイムがダネリのエネルギーの正体だと思います。しかし、すでにA Girl Like Youでその片鱗を見せていますが、ディノ・ダネリは急速に「大人に」なっていったドラマーで、やがてタイムが後ろに移動し、ほぼ理想的なところに落ち着きます。

それが端的にあらわれたのが、Freedom Suiteからシングル・カットされ、彼らにとって2曲目のビルボード・チャートトッパーになったPeople Got to Be Freeです。この曲では、ダネリはいつものエネルギーの奔出は抑え、「テイストフル」なスネアワークをしています。大人のプレイです。あの時点では、これはこれで、ダネリらしい、立派なプレイだと思っていました。

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でもねえ、あとになって、CBS移籍後のアルバム、The Island Of Realを聴いて、あれえ、どうしちゃったんだ、と首を傾げました。ぜんぜん面白味のないドラミングをしているのです。しばし考えて、原因がわかりました。どうしたもこうしたも、ただ年をとっただけなのです。あの元気いっぱいのドラム小僧はいなくなり、「大人のドラマー」が大人のプレイをしていたのです。

で、さかのぼって考えると、もうPeople Got to Be Freeのときから、そういう方向へのシフトがはじまっていたことに気づきます。人間だから、年をとります。不可抗力だから、ダネリを責める気は毛頭ありません。でも、あの元気いっぱいのドラミングで子どもを感動させたドラマーがいなくなってしまったのは、やっぱり、ちょっと残念なのです。
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by songsf4s | 2008-05-30 23:53 | 風の歌
Blowin' in the Wind その2 by Bob Dylan
タイトル
Blowin' in the Wind
アーティスト
Bob Dylan
ライター
Bob Dylan
収録アルバム
Free Wheelin'
他のヴァージョン
Cliff Richard, the 4 Seasons, Trini Lopez, the Hollies, Johnny Rivers, Cher, Billy Strange, Hugo Montenegro, the Searchers, the Sidewalk Swingers, Marianne Faithful, Stevie Wonder, the Kingston Trio, PPM, Bob Dylan

昨日、残りは明日片づけるなんてことを書いてしまったので、今日という日が存在してしまったのですが、困ったなあ、と手をこまねいています。聴くのも書くのも死ぬほど面倒なのです。書くほどのヴァージョンはもう残っていません。残りはみな退屈、これで今日は店仕舞いしても、まったく差し支えないと思います。

昨日は、「変わり種アレンジをしよう」という意志の感じられるヴァージョンがあったのですが、今日は、「ただやった」ものばかりで、エネルギーが感じられず、音楽のエネルギーを受け取って、その力で書く当方としては、もうエネルギー・レベルが最低、書く力なんか全然湧きません。躁鬱の気のある人間としては、躁のあとの鬱状態。人はどれほどたくさん退屈な音楽を聴かねばならないのか、人が人たる存在になるためには、とディランにききたくなります。読むと鬱が伝染するので、みなさんもこれ以上読まないほうがいいでしょう。

◆ ディラン盤 ◆◆
で、今日は馬鹿レースではなく、退屈レースと思うしかありません。これは頭を使わないですみます。だって、ディランのオリジナルに決まっています。もう退屈の王者。わたしは、ギター一本で語る、というスタイルにはまったく反応しません。音楽のうちに勘定することすらしません。はい一丁上がり。

つぎに退屈なディランは、Rolling Thunder Revueです。大ウケにウケているところがまた馬鹿馬鹿しい。

つぎは、Before the Floodヴァージョンでしょうか。ザ・バンドのグルーヴが悪いのはわかりきった話で、書くにも値しません。だるくてだるくて、鬱病になりそうです。いまいちばん聴きたくないのがこういうダメなグルーヴ。ほんとうに鬱病の引き金になります。

唯一、まともな音楽に感じられたのは武道館のライヴ。音楽の形になっています。もう鬱にダイヴする直前なので、なにも手間をかける気にならず、パーソネルの確認もしませんが、まともなドラムとベースです。ディランも、めずらしくうたおうとしています。「シンガーをやっている」ときのディランは好きです。ディランの楽曲はむかっ腹の立つものが多いのですが、シンガーとしては昔から好んでいます。

ひとつ、鬱を救ってくれることがあります。わたしはディランを、すごく頭のいい詐欺師だと思っています。上等な詐欺師です。なぜ上等かといえば、一度はじめた詐欺を誠実に継続したからです。その証拠に、いまだに騙されて満足している人たちがたくさんいます。これが詐欺師の理想的なあり方です。ひょっとしたら、途中から、自分でも天才だと思うようになっただけかもしれませんが、内実なんかどうでもいいのです。結果がすべてです。

◆ その他のヴァージョン ◆◆
残りもみな退屈。退屈だと罵倒し、いたぶって遊ぶ気も起きないほど退屈です。罵倒するのだって、こちらの内部エネルギー・レベルを高めなくてはなりませんが、気分は死体並みに冷え切っています。

ネズミ講の被害者って、加害者でもあるわけですよね。他のヴァージョンはみなあの状態です。ディランの詐欺に騙された被害者が、こんどは加害者になって、シリアス馬鹿の増殖に手を貸しているという構図。

ネズミ講信者獲得競争でトップに立ったのは、いわずと知れたPPMヴァージョン。パラグラフの途中ですが、ほんとうに憂鬱になり、Blowin' in the Windのどんなヴァージョンも、それ以外のどんな音も聴けなくなったので、もうこれで終わりにします。ぜんぶ退屈。くだらない曲です。やっぱり、クリフ・リチャードの脳天気な原曲完全解体ヴァージョンがいちばんよくできています。退屈な曲は、アレンジとサウンドで楽しくするしかないでしょう。って、そのまえに、もっと楽しい曲をやれよ、ですが。
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by songsf4s | 2008-05-29 23:54 | 風の歌
Blowin' in the Wind その1 by Cliff Richard
タイトル
Blowin' in the Wind
アーティスト
Cliff Richard
ライター
Bob Dylan
収録アルバム
Kinda Latin
リリース年
1966年
他のヴァージョン
The 4 Seasons, Trini Lopez, the Hollies, Johnny Rivers, Cher, Billy Strange, Hugo Montenegro, the Searchers, the Sidewalk Swingers, Marianne Faithful, Stevie Wonder, the Kingston Trio, PPM, Bob Dylan
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今月の風の歌特集は、じつは昨日までで終わりなのです。とくにアイディアもないので、月の残りは寝ていようかとも思ったのですが、四日も寝るわけにはいかないので、アンコールみたいに、だれでもご存知の軽い曲をいきます。といっても、この曲はあんまりだよなー、と書いている当人も感じています。

当ブログは、ブログであるからして当然ですが、世の中がどうなっているかなんてことはまったく気にしていません。得手勝手に、好きな曲を選択しています。近ごろは、ふつうのブログの顔をしながら、宣伝をやって金を取っているなんていう器用なブログがあちこちにあるそうですが、不幸にも、残念にも、無念にも、当家にはそんなおいしい話の噂すらなく、開設以来、だれも一銭もくれたことがありません。

口をはさむスポンサーがいないので、楽曲の選択はおおむね気随気ままにやっていますが、ときおり、「客観」というモーローとした、あら怪しやなあ、の概念がどこからか勃然とわき起こり、わが脳裏を徘徊しはじめ、世間体を気にしたりすることもあります。

昨夏、べつにいい曲とも思っていないSummertimeを取り上げちゃったりしたのが、その典型です。気随気ままのつもりでいながら、このていたらくなんだから、「世間体」というのはおそろしいパワーを持っているものです。あんまり力の行使をしないでほしいものだと思います。世間が迷惑します。

わたしは勝手気まま、夜郎自大を絵に描いたような人間のつもりでいるのですが、やっぱり、どこか世間体を気にしていて、風の歌特集なんていうと、世間で重要と思われている曲も、いちおう、念のために、プレイヤーにドラッグしちゃったりするのです。ものすごくたくさんあっても、やっぱり、こまめにドラッグしちゃうのです。あまりの数の多さに、それ自体が面白くなってしまうのです。守銭奴の心境ですな。数を数えることそれ自体が目的と化すのです。

で、深夜、ひとり秘かに、チャリン、チャリンと怪しい音をたてながら、Blowin' in the Windを数えてみました。ん? 意外に少ないものですな。「金にきれいな」人生を送ってきた余禄というべきでしょう。クリスマス・ソングだと、もっと圧倒的な物量作戦でくるのがありましたもんね。しかも、LPとCDとか、LPのオリジナル盤とベスト盤、CDのオリジナル・リイシューとベスト盤とボックス、なんていうダブりもあり(ホリーズのBlowin' in the Windが8種類もあるのは正気の沙汰ではないが)、圧縮すればごく一握り。じゃあ楽勝だ、と決めつけて、気楽にあぐらをかいて書きます。

◆ 人は何本のバラを踏みつぶさなければならないだろうか? ん? ちがうか ◆◆
いまさら、この曲の歌詞がどうなっているかなんてことを知りたい方はいらっしゃらないと決めつけ、でも、切り捨てる度胸はないので、全ヴァースまとめて以下にペーストします。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, 'n' how many times must the cannonballs fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

How many years can a mountain exist
Before it's washed to the sea?
Yes, 'n' how many years can some people exist
Before they're allowed to be free?
Yes, 'n' how many times can a man turn his head
And Pretend that he just doesn't see?
The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

YES, 'N' how many times must a man look up
Before he can see the sky?
Yes, 'n' how many ears must one man have
Before he can hear people cry?
Yes, 'n' how many deaths will it take till he knows
That too many people have died?
The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

日本語に移すこともしません。当家のような重箱の隅をせせるブログにいらっしゃるぐらいの方なら、この曲の「訳詞」とやらぐらい、一度は目になさっているでしょう。なにをいまさら、ちゃんちゃらおかしい、仮名で書けば「ちやんちやら」だ、ですよ。

◆ クリフ・リチャード盤 ◆◆
こういう曲は妙にシリアスなところが困ります。子どものころは、いちおう、かしこまって聴いちゃったりしましたが(しかし、冒頭はhow many roseなのだと思った。文法上、rosesでなければならないから、そう聴き取るのは無理、ということも理解していなかった)、この年になると、そんな馬鹿はやりたくてもできません。

で、思考が短絡しました。馬鹿をやるなら、徹底しなければ意味がありません。中途半端は馬鹿も利口も等しくダメ。馬鹿路線でいこうと思ったとたん、思考が三段跳びをやめ、棒高跳びで結論に達しました。もっとも馬鹿っぽいカヴァーがいちばん偉い、つぎに馬鹿っぽいのが二番目に偉い、こういう基準で評価しよう、と。

反論はございましょうが、「なにをいまさらちやんちやらおかしい」の曲を取り上げるんだから、なにも曲がないというわけにはいきません。どうしたって趣向が必要です。本日の趣向は「馬鹿くらべ」と決めたので、もう手遅れです。文句あるかよ、あるはざない、と神君植木等公の御遺訓にもあります。

で、栄えある馬鹿Blowin' in the Windレースのナンバーワンは、二位とは鼻の差ですが、クリフ・リチャード盤に決定。こんな馬鹿なBlowin' in the Windはありません。すごいものです。もうイントロからしてボンゴがチャカポコして、ラテンですからね。ラテンですぜ、ちゃんと読んでくれましたか? ラテンのBlowin' in the Wind。アルバム・タイトルだって、Kinda Latinなのだから、(たぶん)まちがいありません。

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ここまでやってくれると、もうアナーキズム、テロリズム、カーリー女神ですよ。これほど原曲の深刻さを笑い飛ばせばリッパ! ザッパのまじめな批評(Anyway the Winds Blowって曲をつくった)なんか、これにくらべれば、ディランへのお追従同然じゃん、と思います。それくらい破壊的。

で、このヴァージョンのもうひとつ偉いところは、これだけのアホ馬鹿アレンジをしながら、ああだこうだを忘れて(とくに眉間に皺の寄った歌詞を忘れて)無心に聴くと、これっていい曲じゃん、と思わせるところです。

ホント、いい曲なんですよ。ヒットしそうなほどです。ヒットしなかったんでしょうかねえ。なら、シングル・カットしなかった会社がアホだったか、リスナーがツンボだったかのどちらかです。いまディスコグラフィーを調べたら、45はなくて、ただのアルバム・カット。馬鹿ですねえ。どっからどう見ても、正真正銘のヒット曲です。現にうちではヘヴィー・ローテーションでプレイされ、シンコペートした管のイントロ・リック入りで鼻歌になるほどの大ヒット中です。

◆ 4シーズンズ、トリニ・ロペス ◆◆
二位はフォー・シーズンズ。これもアホに年季が入っています。なんたって、アルバム・タイトルがThe Four Seasons Sing Big Hits by Burt Bacharach, Hal David, and Bob Dylanっていうんですからね。バカラック=デイヴィッドとボブ・ディランは同じ平面上にあると宣言しているのです。一瞬、すげえアナーキズム、と思ったのですが、これはわたしの心得違い。彼らのほうが正しいのです。歌は歌にすぎない、それ以上でもそれ以下でもない、というのが評論家以外のまっとうな生活人の考え方でしょう。

f0147840_00999.jpgイントロのピアノはこないだやったばかりのCast Your Fate to the Windのいただきのように聞こえます。あとはいつものフォー・シーズンズ・スタイルで、数小節のあいだは、ShellyとBlowin' in the Windがいっしょはまずいだろ、という気がチラッとしたりもするのですが、すぐに忘れちゃいます。いっしょでいいんです。しかし、このドラム、下手です。いや、バックビートは安定していますが、いくつかフィルで拍を食って、バックビートに戻るときに辻褄を合わせるという、非常によろしくないことをしています。ゲーリー・チェスターではなく、べつのドラマーではないでしょうか。

三着は、トリニ・ロペス盤。これもかなりのパアでんねん。いつものあの調子ですよ。世にいう「パーティー・サウンド」ってやつです。ご存知ない? じゃあ、ジョニー・リヴァーズの「ゴーゴー・サウンド」はどうです? あれの原型、三歳上ぐらいのお兄さんて見当です。それもご存知ない? じゃあ、忘れてください。

f0147840_03448.jpgBlowin' in the Windも、いつものトリニ・ロペスです。あのサウンドがなぜスタイルになったかといえば、なんでも飲み込める合切袋、ドラヱもんのどこでもドアだからです。どんな曲だろうと、その気になれば、パーティー・サウンドになります。ひとたび、「パーティー・サウンドのトリニ・ロペス」という名が確立してしまえば、あとは鯛焼きをつくるみたいなもので、鉄板の型に小麦粉を溶いたのとあんこを流し込んでいくだけです。

クリフ・リチャード同様、トリニ・ロペスもまた、歌詞がなにをいっても馬耳東風、おネエちゃんたちを侍らせて、楽しく、あくまでも脳天気にBlowin' in the Windをうたっています。音楽だから、こうでなくちゃね、というお気楽ぶりで、頭が下がります。実るほどこうべを垂れる稲穂かな。あ、これは誤用、すなわち慣用句の不適切な適用。

この時期(1965年)のトリニ・ロペスはハル・ブレインの可能性が高いのですが、この曲のドラマーは判断できませんでした。ずっとライドとサイドスティックだけで、フィルインといえるようなものは皆無なのです。サイドスティックだけじゃあねえ。でも、タイムの正確なうまいドラマーです。アコースティック12弦のリードも、これはうまい人だ、とひしひしと感じますが、残念ながら活躍しません。きっとおなじみのだれかさんでしょう。

◆ ホリーズ、ディランをうたい、ナッシュ、ディランをうたわず ◆◆
うれしくなるほどお馬鹿なヴァージョンは、残念ながら以上で売り切れです。以下は、そこそこお馬鹿なヴァージョンばかり。

着外、払戻金ゼロのそこそこお馬鹿Blowin' in the Windの代表は、ホリーズ盤。でも、馬鹿をやるつもりはなく、結果的に馬鹿に聞こえただけ、というところが弱いですなあ。こういうのを聴くと、馬鹿をやるというのは、知的操作なのである、と思いますね。だから、ホンモノの馬鹿には、面白い馬鹿はやれないのです。いくぶんかの知性が馬鹿を面白くするのです。

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いっときますが、わたしはホリーズの大ファンです。68年の渋谷公会堂も見にいき、大いなる感銘を受けて帰り、あんまり感銘を受けすぎた結果、自分のバンドで、ホリーズをやろうぜ、と大騒ぎし、できるわけないじゃんと、いつにもましてバンドメイトに迷惑がられたほどです。じつにはなはだしい迷惑だったようで、いまだに、ホリーズの話になるたびに、あのときのことを持ち出されます。On a Carouselはダメだったろう、つぎがDear Eloiseで、これもちょっとやってギヴアップ、なんて、水子供養をされてしまうのです。象は忘れないといいますが、幼友達の記憶力たるや、象が裸足で逃げますぜ、って、靴を履いてから逃げる象はいませんな。座敷に上がるまえから裸足でしょう。いや、象は座敷に上がりませんが。

で、このBlowin' in the Windを収録したアルバム、The Hollies Sing Dylanには曰く因縁怪談話怨霊譚がついています。当時は有名だった話です。曰く、この盤の企画が持ち上がったとき、グレアム・ナッシュが、ホリーズにディランが歌えるわけないだろ、といって辞め、CS&Nが生まれることになったというのです。

まあ、なんです、たしかに、The Hollies Sing Dylanの出来はよくありません。この失敗が祟って、このまま消えても不思議はなかったほどのきわだった失敗作でしょう。でも、だからといって、グレアム・ナッシュが正しかったのだ、なんてチラとも思いません。どっちも平等に馬鹿だっただけです。馬鹿だったけれどナッシュは結果オーライ、馬鹿だったのでホリーズは結果ナット・オーライだったにすぎません。

f0147840_064316.jpgホリーズにディランが歌えるわけがないとは、なんて言いぐさだよ、です。幼すぎます。青すぎます。クリフ・リチャードを見なさい、トリニ・ロペスを見なさい、フォー・シーズンズを見なさい、リッパにディランの曲をうたっているじゃないですか。ホリーズにできないはずがないでしょうに。

ディランの曲はほかとはちがう、という呆れた事大主義的勘違いを、ナッシュも、他のホリーズの面々もやらかしてしまったのです。結果ナット・オーライと、結果オーライは、同じ勘違いがもたらした結果の表と裏にすぎません。いや、ナッシュのゴタクは、たんなる理屈付け、「性格の不一致」みたいな、適当かついい加減なな理由にすぎなかったのでしょう。要は、もうホリーズにいたくなかっただけだろうと思います。

では、ホリーズはどうすればよかったのか? 答は風になんか舞っていません。ディランの商売道具なんかに騙されちゃいけませんよ。あれはシリアス馬鹿評論家どもをケムに巻く方便です。ウォーホールの缶詰のコマーシャルといっしょ。あの二人は血を分けた兄弟としか思えませんよ。評論家を愚弄する手つきがまったく同じです。

答はそこにデンと坐っています。ほかの曲と同じように、お気楽にうたえば成功したのです。じっさい、もうすこしでそうなるところだったのに、惜しいなあ、と思います。ボビー・エリオットとバーン・カールヴァートは、たんに、なにも考えていなかったのか、あるいは、なあにがディランだ、くだらねえ、と思っていただけか、いつものようにふつうにやっています。

ドラマーやベーシストといった地道な生活人は、ウォーホールやディランの目くらましには引っかからないのです。缶詰を描いた絵を見たら「缶詰の絵だねえ」と思うだけで、よけいな霊感など受け取りません。いや、ウォーホールが嫌いだといっているのではありません。世間を完璧にたばかったスーパー詐欺師として心から尊敬しています。

まあ、とにかく、ボビーとバーニーのごくまっとうな生活人ぶりを評価して、ホリーズ盤Blowin' in the Windは4位としましょうや。やっぱり、ボビーはいいなあ、と思うから、それでいいのです。

◆ ジョニー・リヴァーズとシェール ◆◆
お馬鹿サウンドの元祖総本家勧進元大問屋であるハリウッドで製造されたBlowin' in the Windは、トリニ・ロペス盤ばかりではありません。

トリニ・ロペスのパーティー・スタイルをいただいて、ゴーゴー・サウンドで売り出したジョニー・リヴァーズのBlowin' in the Windも、当然、ほぼ、いつものようなサウンドでやっています。でも、トリニ・ロペスほど脳天気度が高くないのが欠点です。「ほぼ」であって、「完全に」いつもどおりでないところが弱点です。

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これくらいの時期からジョニー・リヴァーズのドラマーはハル・ブレインになるのですが、この曲はちがうでしょう。タイムがやや早く、ちょっと突っ込んでいます。ベースはジョー・オズボーンなのでけっこうなプレイですがね。まあ、こういうサウンドの場合、遅いよりは早いほうがずっとマシに聞こえるので、ミッキー・ジョーンズだか誰だか知りませんが、こういうドラミングは次善ではあります。

サウンドはそこそこですが、問題はジョニー・リヴァーズのほうにあります。Where Have All the Flowers Goneなんか、これでもか、といわんばかりに脳天気にやったくせに、ディランの曲となると、ミスター・ゴーゴーでも、いくぶんか、かまえてしまうのだから、くそまじめ馬鹿評論家のプロパガンダも馬鹿になりません。

なんだっていってみるものですな。世の中には騙されやすい人間がたくさんいるのです。ウォーホールが成功したのなら、その戦略を忠実に音楽界に翻訳したディランが成功しても不思議はありません。俺の作品がわからない奴は脳みそが足りない、と暗示してやるのです。脳みそが足りないシリアス馬鹿評論家にかぎって、そうは思われたくないものだから、わかるわかる、などとわかったようなことをいうのです。

こういうくそまじめにお高くとまった曲は、爆破粉砕するしかないのですよ。それ以外にカヴァーする方法があったら、教えてもらいたいですね。クリフ・リチャードは、無意識馬鹿が意図的自覚的馬鹿に勝っただけという、結果オーライにすぎないかもしれませんが、みごとにくそまじめ曲を粉砕しています。ただの曲じゃネエか、ただの曲としてうたやいいんだ、答なんかどこにあろうと知ったことか、王様は裸だ、です。

で、やっぱりなにも考えていなかったふしのあるシェール盤も、もうすこしだったのに、惜しいなあ、という出来。これはハル・ブレインでオーケイでしょう。とくにいいプレイではありませんがね。一カ所、フィルインで拍を食ったところがあるのが気に入りません。ハル・ブレインだってミスをするのですが、そういうのはプロデューサーが聞き逃さず、リテイクしてもらいたいのです。

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ソニー・ボノの戦術というのはじつに単純で、簡単にいうと、「低予算サルにもわかるスケール・ダウン通俗スペクター・サウンド」です。シェールの初期の盤のすべてに、この定義を当てはめられます。ソニー&シェール名義のものも同様。もちろん、彼女のBlowin' in the Windもこの定義のど真ん中です。

シェールのAll I Really Want to Doがヒットし、競作となったバーズ盤が完敗した、というのはなかなか愉快な現象です。ここから読み取れることは、ディランだろうがなんだろうが、ヒットチャートに登場する曲は、本質的に「ヒット曲」なのだ、ということです。つまり、流行歌だということ。シリアスだろうがなんだろうが、そんなことはリスナーの知ったことじゃないのです。

バーズとしては、自分たちのシリアスなヴァージョンが、シェールの脳天気なヴァージョンに負けたのは心外だったかもしれませんが(じっさいには、とくにシリアスなヴァージョンというわけでもないんですがね)、出来をくらべれば、当然の結果です。シェールのAll I Really Want to Doは「いい曲」に聞こえ、ラジオで流れればいい気分になるでしょうが、バーズ盤はダメです。バッド・ヴァイブレーション。グッド・フィーリンのほうがヒットしたのは当たり前です。

ひるがえって、こういう結論になります。バーズのMr. Tambourine Manは、ディランの楽曲としてヒットしたわけではない、たんに流行歌としてよくできていただけである、と。

よけいなことばかり書いていたら、いつのまにか文字数制限の崖っぷちに立っていました。残りは明日に持ち越させていただきます。
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by songsf4s | 2008-05-28 23:59 | 風の歌
Ripple by Grateful Dead その2
タイトル
Ripple
アーティスト
Grateful Dead
ライター
Robert Hunter, Jerry Garcia
収録アルバム
Reckoning
リリース年
1971年(オリジナル・リリース)
他のヴァージョン
Jerry Garcia, Chris Hillman
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昨日のつづきで、今日は各ヴァージョンの検討です。まずは例によってヴァージョン一覧。

studio 1970……American Beauty
studio 1970……single ver. (remastered "American Beauty")
1971.04.29……Ladies And Gentlemen...The Grateful Dead
1980.09.26……Reckoning
1980.10.23……Reckoning (alternate take)

うちにはこれだけしかない、ということなのですが、盤としてリリースされたものも、LP、CDではほかにありません。Dead AheadというDVDに収録されたヴァージョンがあるだけです。

f0147840_23341787.jpgいっぽう、他人のカヴァーは10種以上あります。デッド自身のヴァージョンより、他人のカヴァー・ヴァージョンのほうが多いなんてことは、これだけアーカイヴ放出が進んだいま、ちょっと考えにくいことです。ジェリー・ガルシアのソロ・プロジェクトや、ロバート・ハンターのヴァージョンといったセルフ・カヴァーを繰り入れても、まだ他人のカヴァーにぜんぜん追いつきません。なにしろ、いつもはぞろぞろと並ぶ、Dick's Picksシリーズ収録ヴァージョンがゼロなんですからね、驚きますよ。最大級のアーカイヴ・テープ・サイトにいって検索しましたが、ヒット件数ゼロ。プライヴェート録音が存在する可能性もきわめて低いでしょう。

つまり、ライヴではあまりやらなかった曲ということになります。いや、人気はあるんですよ。わたしもAmerican Beautyでデビューしたときからこの曲が大好きでしたし、ライヴ・ヴァージョンを聴くと、イントロのギター・リックだけで、待ってました、今日はこの曲を聴きに来たんだぜ、ってくらいのものすごい大歓声が沸きます。

それなのにヴァージョン数が一握りだというのは、どういうことか? たぶん、純粋にアコースティックの曲だということです。デッドのライヴにアコースティック・セットがあったのはごく一時期だけだったため、この曲がプレイされることは稀だったのでしょう。

◆ シンガロング・ソング ◆◆
Rippleという曲は、ガルシアとハンターが書いた最高の「シンガロング・チューン」、つまり、オーディエンスがいっしょに歌える曲です。じっさい、デッドの曲でいっしょにうたって楽しめるものは、このRippleだけではないかと思うほどです。

シンガロング・ソングの特徴は、

1 コードがシンプル
2 メロディー・ラインがシンプルで、ピッチがジャンプしたり、半音進行があったりはしない
3 気持よくうたえる
4 歌詞や音符が混み合っていない(単位時間あたりのワード数、音符数が少ない)
5 覚えやすい(理想としては、簡単な事前の説明だけで記憶可能であること)

といったあたりではないでしょうか。もちろん、シンガロング・ソングといったって、明確な定義があったりするわけではないので、どうとでもいえますがね。要するに、簡単でうたいやすい曲、ということです。上記の条件のうち、Rippleにあてはまらないのは5だけでしょう。

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◆ オリジナル・スタジオ・ヴァージョン ◆◆
いちばん馴染んできたのは、もちろん、American Beauty収録のオリジナル・スタジオ・ヴァージョンです。American BeautyのB面はいい曲がいいぐあいに並んでいて、よくこちらの面だけ聴いたものです。CDになって、しかもボーナスがついちゃったりすると、トラック6から10まで聴く、となってしまい、意味不明で、つまらないですなあ。

いや、つまらないだけでなく、B面のトップ、そしてラストは特別な位置としての意味をもっていたのに、それがわからなくなってしまうのは、「実際的な問題」でもあるでしょう。RippleはB面のオープナーです。それだけのウェイトがかかっているという点を見逃すわけにはいかないのです。

さて、そのオリジナル・スタジオ・ヴァージョン。イントロからして好きでした。いま聴いてもグッド・フィーリンがあります。とくに、このやさしいサウンドのなかで、フィル・レッシュのややトレブルをきかせたトーンの、ラインが明確なベースが目立ちます。ビル・クルーズマンのめったにやらないブラシもなかなかよろしくて、当時は、意外に柔軟なプレイヤーなのだと認識を改めました(前作のWorkingman's Deadのときから、認識を改めていたが)。

ドラムとベースがドライヴするタイプの曲ではないのですが、Rippleもやはり、他のデッドの曲と同じように、レッシュ=クルーズマン・コンビが、グッド・フィーリンの基礎をつくっているのは明白です。とりわけレッシュのプレイは、昔から好んでいます。

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American Beauty タイトルはAmerican Realityとも読めるようにデザインされている。

久しぶりにスタジオ盤に戻ってみると、ガルシアの声のおだやかさに、ちょっと驚きます。デッドはどんな意味でも「ヴォーカル・グループ」ではなく、ガルシアとボブ・ウィアの歌が下手だとそしる人はいても、デッドのヴォーカルがいいと褒めた人はいないはずです。

しかし、いまになって考えてみると、結局、わたしはデッド、とくにガルシアのヴォーカルが好きだったようです。ほかの曲でもそうですが、Rippleのカヴァーを聴くと、この曲はデッドじゃなければダメだと感じます。それは、レッシュ=クルーズマンのグッド・グルーヴではなく、ガルシアのヴォーカルのせいです。歌というのは、うまいか下手かではなく、relateできるか否かなのだ、ということかもしれません。

◆ シングル・ヴァージョン ◆◆
デッドを聴く人間というのは、シングル盤を買うタイプではありません。これははっきりしています。デッドのチャート・ヒットというのはごく一握りにすぎませんし、そもそもシングル・カットに適した曲ですら少ないのです。

f0147840_2354797.jpgしかし、ちゃんとシングル盤はリリースされています。もっとも、わたしはスリーヴを見せられても、へえ、そんなデザインだったのか、なんて思うくらいで、ほとんど記憶がないほどで、関心をもったこともありませんでしたし、シングル・ヴァージョンがラジオから流れたなんて記憶すらありません。70年ごろ、FENが夜中の番組でLive/Deadを全曲かけたのは記憶していますが。昔からもっているのは、ベスト盤に収録された、Dark Starのシングル・ヴァージョンだけです。

だから、いまになってシングル・テイクがボーナス・トラックとしてCDに収録されると、へえ、というだけで、あとは口ごもってしまいます。Rippleのシングル・ヴァージョンは、アルバム・ヴァージョンとはミックスが異なりますが、どうも、テイクそのものは同一ではないかという気がします。ランニング・タイムが異なるので、当然、編集がおこなわれていることになります。調べると、セカンドとサードのふたつのヴァース、およびコーラスがひとつ切られていました。

たしかに切るならここだろうと思います。切るのは惜しいな、と思うのは、Let there be songs to fill the airのラインだけです。しかし、歌詞のあるヴァースを切って、最後のラララーというナンセンス・シラブルのシンガロング・パートを残したのは正解でしょう。切りにくい箇所だったということもあるでしょうが、デッドが、この曲のポイントは、シンガロングできることだと考えていたからでもあるでしょう。

しかし、結論としては、このヴァージョンはいりません。やはり、フル・ヴァースうたうべきだし、そもそも、コーラスが一度しか出てこないのは納得がいきません。ほとんどのデッドヘッズはシングルを聴いたことがないものなので、ボーナスとして入っているぶんには、へへえ、ではありますがね。

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◆ デッドのライヴ・ヴァージョン ◆◆
まず、Ladies And Gentlemen...The Grateful Dead収録の1971年ヴァージョン。スタジオ録音とほぼ同時期に録音されたもの。デッドのアコースティック・セットは、70年から71年ごろまでおこなわれていたということですが、このヴァージョンの録音はその時期にあたり、しかも、アコースティック・セットにふさわしい曲でありながら、エレクトリックでやっています。

イントロの冒頭ですでに受けていますが、わたしにはどうもピンと来ないヴァージョンです。テンポが遅すぎるし、クルーズマンがスティックで軽くバックビートを入れているのも気に入りません。スタジオ同様、ブラシでやるべき曲だと思います。しかし、リリースされてまもない時期に、ちゃんとウケているのは、どういうことでしょうね。デビューと同時に、「俺たちの曲」と位置づけられた?

つぎは10年近く飛んで、1980年の15周年ツアーの復活アコースティック・セットを記録したダブル・アルバム、Reckoningヴァージョンです。わたしは、世評に反して、このツアーを記録した盤は、アコースティックのReckoningも、エレクトリックのDead Setも、ぜんぜんいいと思いません。デッドのもっとも好かないアルバムといってもいいほどです。

その理由は明白で、まず、ピアノのキース・ゴッドショーが抜けて、ブレント・ミドランドが加入したことです。デッドの歴史で、こんなにガッカリした「事件」はありません。このとき、デッドヘッズとしてのわたしは一度死んだといっていいくらいで、このアルバムで関心を失いました。
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いや、じつはそれ以前に、アリスタに移籍して以降のデッドのスタジオ盤にはずっと違和感がありました。Terrapin Stationも、Shakedown Streetも、Go to Heavenも、みんな「なんだかなあ」「どうしちゃったんだ」でした。76年にミッキー・ハートが復帰したのも気に入りませんでした。ドラムはひとりのほうがいいのです。まして、そのひとりが、ビル・クルーズマンのようにタイムのいいドラマーで、あとから来たのがあまりタイムがよくない場合は!

しかも、ReckoningとDead Setの選曲はかなり退屈なのです。とくにアコースティック・セットを記録したReckoningは、おなじみのアコースティック・デッド時代の曲はほとんどやらず、トラッド曲が多くて、ろくに聴きませんでした。

そのなかで、唯一気に入って、繰り返し聴いたのが最後に収録されたRippleでした。ピアノがゴッドショーなら、もっとすばらしいものになったのはいうまでもありませんが(ミドランドは死ぬほど退屈なフレーズしか弾けず、意外性もへったくれもあったものではない)、総じていい出来です。

いつもハーモニーを外すウィアの歌が、そこそこ合っているのも、distractされなくて、助かります。クルーズマンがスタジオと同じようにブラシでやっているのもけっこう(だから、そういったじゃないか>ビリー)。アコースティック・セットでは、ミッキー・ハートはパーカッションにまわっているので、二人のタイムのズレに頭が痛くなることもありません。

しかし、このウケ方はなんなんでしょう。ものすごい盛り上がり方。このツアーで評判になったのは、Rippleだったのかもしれません。なにしろ、ブック・チケット(ツアーの全公演を見られる)を買うファンが少なからずいるので、ツアーが進むにつれて、Rippleを待ちかまえるようになった可能性があります。ふつう、イントロだけでウケるといったって、1小節ぐらいはかかるはずなのに、ガルシアが冒頭の3音を弾いたころには、もう大歓声が沸き起こるのだから、なにごとだ、と思いますよ。

f0147840_025569.jpg二つめの12枚組ボックス・セット、アリスタ以降のアルバムを収録したBeyond Descriptionで、このツアーにおける、べつのRippleが陽の目を見ました(現在はばら売りのReckoningにも収録されている)。こちらは歓声が4分音符ひとつ分遅れていますし、本格的な大歓声になるのは、ガルシアのヴォーカルに入ってからです(って、そんなこと、どうでもいいか)。やっぱり、こちらも大ウケ大歓声です。わたしにいわせると、手拍子もけっこうだけれど、みんな、もっと大声でうたえよ、なんですがね。

オーディエンスからデッドのほうに注意を移すと、やはり、こちらのヴァージョンは劣っています。なによりも、ブレント・ミドランドのヴォーカルのミックスが大きいことに機嫌が悪くなります。ボーナスはボーナス。

◆ その他のカヴァー ◆◆
ジェリー・ガルシアによるセルフ・カヴァーは、うちにはひとつだけブートがあります。調べてみたところ、それほど何度もやったわけではなく、正規盤でも2種類しかないようです。これはジョン・カーンと二人でやったプロジェクトで、カーンはもちろんベース、ガルシアはアコースティック・ギターとヴォーカルです。

Rippleは、いきなりギターをミスり、やり直していて、ブートだなあ、と思います。出来はけっして悪くありません。でも、ぜひ聴きたいかというと、そういうこともありません。以前、この盤を取り上げたときにも書きましたが、こういうヴァージョンもあるんだなあ、と思うだけです。

もうひとつ、クリス・ヒルマンのカヴァーがあります。1982年のアルバム、Morning Skyで取り上げたものです。デッド関係のサイトで見るかぎり、これはデッド関係者以外による最古のRippleのカヴァーのようです。

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Hickory Windの記事を書いたときには忘れていたが、このアルバムにはクリス・ヒルマンによるHickory Windのセルフ・カヴァー(オリジナル盤でハーモニーをつけたのだからそういっていいのでは?)が収録されている。グラム・パーソンズのセルフ・カヴァーには敵するべくもないが、こちらはこちらで悪くはない。

デッドのスタジオ・ヴァージョンでは、ゲストのデイヴィッド・グリスマンがマンドリンをプレイしています。クリス・ヒルマンは、バーズ加入以前はブルーグラス・バンドのマンドリン・プレイヤーです。そういうことから、マンドリンを中心としたヴァージョンを想像するかもしれませんが、じっさいに目立っている音はアル・パーキンズのドブロです。

すごくいいヴァージョンというわけではありませんが、そこそこのグッド・フィーリンはあります。なによりも重要なのは、このヴァージョンが皮切りとなって、Rippleは古典化の道を歩みはじめたということです。以前にも書いたとおり、古典への第一歩は、作者から切り離された、「独立した作品」として扱われることだからです。

Rippleの「古典化」はまだ道半ばです。他人のカヴァーが出現するまでに10年以上かかっている、「ゆっくりした」曲なのです。しかし、着実に古典への道を歩んでいます。わたしは、デッドの曲のなかで、Rippleは、Uncke John's Bandと並んで、もっとも歌い継がれる可能性の高い曲だと思っています。数十年後にも、だれかがうたっているのではないでしょうか。

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参加ミュージシャンは、ハーブ・ペダーソン、バーニー・レドン、バイロン・バーライン、アル・パーキンズ、ケニー・ワーツ、エモリー・ゴーディーで、プロデューサーはジム・ディクソンと、80年代のアルバムにはめずらしく、「知っている」人たちばかり。カメラマンまで昔なじみのヘンリー・ディールズ。知らないのはエンジニアと犬(へザーという名だそうな)だけだった。

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by songsf4s | 2008-05-27 23:59 | 風の歌
Ripple by Grateful Dead その1
タイトル
Ripple
アーティスト
Grateful Dead
ライター
Robert Hunter, Jerry Garcia
収録アルバム
American Beauty
リリース年
1971年
他のヴァージョン
Jerry Garcia, Chris Hillman
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風の歌特集も、ホーム・ストレッチに入ってみると、プレイヤーに残っているのは、なんだか帯に短したすきに長しみたいな曲ばかりになってきました。

冬の冷たい風ははじめから対象にしていません(タートルズのLet the Cold Wind Blowが代表)。しかし、秋風ぐらいなら、プレイヤーにドラッグしてあります。フォルダーをつくり、原稿も途中まで書きながら、結局、「時鳥厠半ばに出かねたり」の曲もあります。

リリース・デイトがはっきりしない、なんていうのも困ります。いや、是が非でも、と思うほど好きならば、不明としてやってしまうのですが、どうしようかな、というボーダーライン上の曲の場合、棚上げにする理由になります。

そもそも、プレイヤーの楽曲一覧をつらつら眺めてみると、この特集をはじめたときから、必ずやると決めていたものは、もう一曲しか残っていません。これをやってしまえば、あしたに死すとも可なり、なのです。というわけで、この特集に登場することがはじめから決定していた、グレイトフル・デッドの三曲のラスト・バッター、Rippleです。

You Tubeには、この曲のスタジオ録音と、80年代のライヴ・フッテージべつの日のライヴがあるので、よろしかったら、ご覧になってみてください。

◆ 自己言及メタ・ソング ◆◆
Rippleは、ロバート・ハンターの詩としては相対的にわかりやすい部類で、今日はスムーズにいくことを願っていますが、当てごととなんとかになってしまうかもしれません。それではファースト・ヴァース。

If my words did glow with the gold of sunshine
And my tunes were played on the harp unstrung
Would you hear my voice come through the music
Would you hold it near as it were your own?

「ぼくの歌詞が黄金色の陽光で輝くなら、ぼくの曲が弦を張っていないハープで演奏されるなら、音楽のなかからぼくの声を聴き取ってくれないか? そして、それが自分のものであるかのように、そばにおいてくれないか?」

と書いて、われながら「おいてくれないか」は変だろうと思うのですが、とりあえず、代替案は思いつきませんでした。この場合のholdは、「保持する」という意味でしょう。いや、歌詞というのは、一元的理解はできないもので、いやいや、そうじゃなくて、言葉というのはつねに何重もの意味を背後に引きずっているもので、holdの「抱く」というニュアンスも無視できません。keepではなく、holdであるのは、意味のあることなのでしょう。

でも、そういうことをいって重箱の隅をせせりはじめると、ものごとは進まなくなるので、ものすごく下世話な言葉で言い換えて、強引にまとめます。つまり、hold it nearは、「気に入ったら、いっしょにうたってくれ」と呼びかけているのだと考えます。

ハンターの歌詞には、音楽、バンド、聴衆を題材としたものが多いということは、Stella Blueや、つい先日取り上げたUncle John's Bandなどで繰り返しふれました。この曲もその一例、もっとも代表的な「自己言及ソング」です。

この点については後半でもう一度ふれますが、このヴァースで肝心なのはYouです。だれと解釈してもかまわないような書き方になっていますが、デッドヘッズは、自分たちのことだと思っています。これはデッドとそのファンの歌である、と昔から考えられているのです。いや、デッド歌詞注釈サイトが盛っている事実が端的に証明しているように、デッドヘッズだって明快に理解しているわけではないのです。「ただなんとなく」「これは俺たちの歌だ」と「感じている」だけです。それが正しいかどうかではなく、重要なのは、「そう受け取られている」事実のほうです。

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◆ 静けさや泉波立つ歌の声 ◆◆
セカンド・ヴァース。

It's a hand-me-down, the thoughts are broken
Perhaps they're better left unsung
I don't know, don't really care
Let there be songs to fill the air

「それは出来合の安物、考えは形を成していない、ひょっとしたら、うたわずにすませるほうがいいのかもしれない、わからない、どっちでもかまいはしない、歌よ、宙を満たせ」

ここはもう、わからんなあ、と思いつつ、でも、let there be songs to fill the airって、かっこいいじゃん、ぐらいに「感じて」おけばそれでいいんじゃないでしょうか。うたって気持ちよければ万事オーライなのです。

thoughts are brokenのあとに、between the singer and the listnersがあるのかもしれません。デイヴィッド・ドッドはそういう解釈を提示しています。それもひとつの解釈ではありますが、あくまでもひとつの解釈に「すぎない」ともいえます。

コーラス。

Ripple in still water
When there is no pebble tossed
Nor wind to blow

「静かな水面[みなも]にたつさざ波、小石が投げ込まれたわけでもなければ、風も吹いていないのに」

どの記事か忘れましたが、ロバート・ハンターは日本文化に関心があることにはすでにふれました。それが歌詞に直接にあらわれた代表的な例がこのRipple、それも、このコーラスであるといわれています。これは俳句なのだというのです。五七五です。シラブルを勘定してみてください。厳密にはちがうと思いますが、五七五を「シラブル」とみなし、それを前提に書いたものなのだそうです。

もうひとついうと、ここから俳句を連想するとしたら、芭蕉の「古池や」でしょう。「静けさや岩にしみいる蝉の声」も連想するかもしれません。また、原因がないのに結果が生じたように見えることから、禅の公案も連想します。日本について雑多なものを読み、そこから生まれた歌詞であるのは、まちがいないでしょう。

「さざ波」とはなにか? もっともシンプルな解釈は「音」「歌」でしょう。石が投げ込まれなくても、風がなくても、音が鳴れば、水面は振動します、なんて、こういうときに、こういう小理屈をいっちゃいけませんな。

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◆ ぞろぞろ ◆◆
サード・ヴァース。

Reach out your hand if your cup be empty
If your cup is full may it be again
Let it be known there is a fountain
That was not made by the hands of men

「もしもきみのカップが空ならば、手を出したまえ、カップがいっぱいなら、またいっぱいになるだろう、人の手でつくられたのではない泉があることをカップに教えてやろう」

むむう。ぐうの音も出なくなるようなヴァースでありますなあ。とりあえず、こういうときは辞書の記述を眺める、ということになっています。cupとはなんなのか? カップ、杯といった器物以外の意味としては、まず「酒」それ自体というのがあります。これは日本語でも同じ。「杯を交わす」という表現は、いっしょに酒を飲むことをいうわけですから。

もうひとつ、通常の連想からやや遠いところにあるのは「《聖書中の種々の句から》運命の杯、運命(fate)、経験(experience)」という語義。用例として「a bitter cup 苦杯 《人生の苦い経験》」「drain the cup of sorrow [pleasure, life] to the bottom [dregs] 悲しみの杯[歓楽の美酒, 憂き世の辛酸]をなめ尽くす」、「Her cup (of happiness [misery]) is full. 幸福[不幸]が極点に達している」「My cup runs over [runneth over, overflows]. 幸福が身に余る《Ps. 23: 5》」の四種があげられています。Ps.とはPsalm(サーム)すなわち、旧約聖書の「詩篇」の略で、そこからの引用という意味です。

My Cup Runneth Overというエド・エイムズの曲がありますが、そのまんまです。あまり好みではないので、気にしたこともありませんでしたが。ともあれ、emptyと、runnesth over(あふれる)はまさに対の関係にあり、この連想は大外れではない可能性もあります。コーラスに出てくる「泉」は「人の手でつくられた」のではないというのだから、ふつうはムジナがつくったとか、カッパがつくったとか、狸がつくったなどとは思わず、紙がつくった、ちがうってば、神がつくったと考えます。しいて宗教臭を排除するなら、「大自然の恵み」でしょう。われわれの文化では、やおよろずの神々と大自然は渾然一体ですけれどね。

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頓狂なことに、わたしは落語の「ぞろぞろ」を思い浮かべてしまいました。あれだって、神様(いや、神社に祀られているほうの神様であって、godとは他人の空似だが)が手配したことでしてね。まあ、ハンターの知識は芭蕉がいいところで、落語までは知らないでしょうが! このへん、西洋人の日本理解は半チクなのです。われわれはローレル&ハーディーだって、アボット&コステロだって知っているのに、あちらは志ん生すら知らないのだから、彼我の知的落差は華厳の滝を超えて、ナイアガラ瀑布規模、ローレル・キャニオン・サイズです。

なにも解決できませんでしたが、ここは「無限に豊穣なるもの」のイメージだけ受け取っておけばよかろうと思います。それ以上に重箱の隅をせせりたい方は、デイヴィッド・ドッドのサイトをご覧あれ。聖書どころか、イエイツまで飛び出して、大騒ぎです。イエイツの「かげろう」はけっこうですなあ。西洋の詩でもっとも好きです。Rippleにはぜんぜん関係ないですがね。

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◆ 導き、導かれる者 ◆◆
フォース・ヴァース。

There is a road, no simple highway
Between the dawn and the dark of night
And if you go no one may follow
That path is for your steps alone

「夜明けと闇夜のあいだに道がある、真っ直ぐなハイウェイではない、そして、きみがその道を行っても、だれもついていく者はない、その道筋はきみだけがたどるものなのだ」

ふーむ。go on your wayということでしょうかね。以前にも書きましたが、わたしは若年のころから「だれにも似ないように」を信条としてきました。それゆえに、こういうラインは、深く考えずに、天と地のあいだにあるはおのれのみ、他は斟酌の必要なし、なにごとにも信念を枉げるな、というように、短絡的に受け取ってしまい、自動的に他の解釈の道を閉ざしてしまうようです。よって、これ以上、踏み込みません。たとえそうしたくとも、踏み込めないのです。

コーラスをはさんで、最後のヴァースへ。

You who choose to lead must follow
But if you fall you fall alone
If you should stand then who's to guide you?
If I knew the way I would take you home

「先導することを選んだ者は道にしたがわなければならない、だが、倒れるときはひとりで倒れることになる、きみが立っているならば、では、だれがきみを導くのか? ぼくが道を知っているなら、きみを家までつれていくだろう」

頭上にクエスチョン・マークが飛びかうヴァースです。leadとfollowは対立する概念というか、べつの主体がおこなう動作であり、同一の主体がleadし、followするというのは、ちょっと考えこむところです。答えが出なければ、考えても、考えなくてもいっしょ、努力だの、経過だのは、この世では無意味、結果がすべてなので、意味のないことを書いてしまいました。つまり、さっぱりわからん!

「倒れるときはひとり」というのは、日常感覚のレベルでよくわかります。自分自身を含め、だれかが倒れても、「あー、倒れるぞ」とか、「あ、倒れた!」という顔で眺めているしかないのです。

三行目は、また禅の公案のようになって、意味が行方不明になります。そも、standはfallの対立概念として出てきただけなのか、それとも、walkの対立概念として、stand still、つまり「立ち止まってしまう」といっているのか、そこもわかりません。わたしの頭はここで短絡し、「要するにさあ、おのれを導く者は、おのれ自身のほかにだれもいない、生きるとはそういうことだ、っていいたいわけよねー」と、ごくがさつに、かつ、お手軽にまとめてしまいました。

そういう方針だと、最後の行も反語で、「知らないのだから、家に帰る手助けはできない」という意味になります。「家」は出発点という意味なのか、すごろくの「上がり」、あるいは野球の「ホーム」のような、「最終目的地」なのか、そのへんは受取手の考え方しだいではないでしょうか。

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デッドの曲としてはめずらしく、Rippleのヴァージョンはごく一握りですが、あわただしく片づけるわけにもいかないので、今日はここまでとし、各ヴァージョンの検討は明日以降に先送りさせていただきます。
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by songsf4s | 2008-05-26 23:48 | 風の歌
ギターを持った渡り鳥 by 小林旭
タイトル
ギターを持った渡り鳥
アーティスト
小林旭
ライター
西沢爽、狛林正一
収録アルバム
アキラ3
リリース年
1959年
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今月の風の歌特集では、日本の曲をどうするか、はじめたときからずっと悩んでいます。悩みに悩んで、とうとうあと一週間になってしまったので、ど真ん中のストレートにしました。

いや、ど真ん中のストレートは、当家の場合、はっぴいえんどだろうというご意見もございましょうが、わたしの頭のなかでは、やはり上座にデンと坐っているのはアキラなのです。なんといえばいいんでしょうねえ……。いい音楽というのは、それが流れた瞬間、その場の色を染め上げてしまうものだと思います。たとえば、映画のなかで、フランク・シナトラのNew York New Yorkが流れると、「そういうムード」になるでしょう? あれです。

はっぴいえんどの風の歌も、何度かCMに使われ、「そういうムード」をもっていることが証明されています。でもねえ、「ギターを持った渡り鳥」の「そういうムード」パワーたるや、「風をあつめて」どころじゃないですよ。いや、反論はしかと承る覚悟ですが(「しかと」が「シカト」と変換されてしまった。気が向けばユーザー皮肉るFEPかな)、でも、小林旭とはっぴいえんど、どっちが偉いか、と子どものケンカをすれば、これはもう、アキラというしかないでしょう。反論されても、子どものケンカだから、拳固で決着つけるしかありませんぜ。「拳をね、こう、隠しもってるんだね、貯蓄拳固……なんて」と志ん生もいっています。

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◆ 風がそよぐよ 別れ波止場 ◆◆
今日は歌詞とコードをいっしょにご覧いただきましょう。たんにタイプの手間をはぶきたいだけですが。

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かすれている文字はDm7です。じっさいのキーはEbなので、盤に合わせて弾きたい、あるいは小林旭と高音比べをしたい場合は、転調してください。

このコード譜に問題があるとしたら、「夜にまぎれて」のAでしょう。ここはペダルポイント的にDmのルートを半音ずつ下げるほうが合うと思います。コードでいうと、Dm-Aaug-Dm7というあたりです。コードネームにすると変なところにいくように見えますが、指板上では1本の弦を半音ずつ下げるだけ、キーボードならさらに楽です。

もう一カ所、「どこへゆく」のDm7とCのあいだに、G7をはさむほうがいいでしょう。IVから直接にIにもどるのではなく、一度VにいってからIにもどるというノーマルな手続きを踏んでいます。これがあると、「解決」した感覚、一巡した感覚になりますから。

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『ギターを持った渡り鳥』 小林旭と浅丘ルリ子。背後は函館の市街。

いきなりコードの話になってしまったので、先にその点からいきます。ポップ・ミュージック的にいうと、2行目までがヴァース、3行目から5行目までがコーラスになっています。ヴァースのコード進行はいたってノーマルです。

この曲の勝負は、アキラが例の脳天に突き抜けるハイ・ノートをヒットする、パセティックな味わいのコーラスのほうにあります。コードはおおむねノーマルに動きますが、メロディー・ラインは、半音ずつ上げたり下げたりするところが出てきて、ピッチの悪い歌い手(たとえば、かくいうわたし)がうたうと、気持ち悪く聞こえるくだりです。よほど自信のある方以外は、カラオケでは歌わないほうがいいでしょう。もっときびしい難所のある裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」同様、a must to avoidです。

うっかり、「脳天に突き抜ける」などと書いてしまいましたが、「ギターを持った渡り鳥」の最高音は「ファ」です。「ファ」ぐらい、わたしだって若いときは出ました(この年ではもう無理。ヴォイス・トレーニングを受けているキムラセンセにお任せします)。

なぜ、「ファ」ぐらいで「脳天に突き抜ける」と感じるかといえば、それはもう、これこそがアキラの武器だったからです(過去形で書かなければならないのは残念)。グラム・パーソンズがあの低音のクラッキングでリスナーをノックアウトしたように、アキラはハイ・ノートで聴き手の「魂をもっていく」のです。「フランク永井は低音の魅力」「漫談の牧伸次は低脳の魅力」なら、「小林旭は高音の魅力」なのです。

作曲の狛林正一は、そういうアキラの特長を生かすために、「ギターを持った渡り鳥」のコーラスに半音進行を使ったのでしょう。「これぞアキラ節」という、オーセンティシティーを確立する曲だったと感じます。

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『大草原の渡り鳥』 小林旭と宍戸錠。

◆ 「不良」の見る映画 ◆◆
1959年といえば、わたしはまだ小学校にも上がっていなくて、残念ながら、「渡り鳥シリーズ」は、リアルタイムでは、最後のほうのぐずぐずに崩れたものを見たボンヤリとした記憶があるだけです。

小学校に上がるまえからひとりで映画館に行っていましたが(幼稚園が休みのときは、託児所代わりに、お隣といっていいほど近くの大映東映併映館に「あずけられ」ていた。昼食後、映画館に連れていかれ、夕食前になると母親が「ごはんですよ」と迎えにきた。テレビ普及以前のお話)、日活だけは、ひとりでいくのを禁じられていたのです。

しかし、裕次郎と吉永小百合の映画はかなり古いものでもリアルタイムで見ています。裕次郎は母親のお供、吉永小百合は兄のお供なので、見られたのです。でも、父親がアキラのファンというぐあいには話がトントンと運ばず、だれも連れていってくれませんでした。ほかの映画館はぜんぶひとりでいっていたのに、日活だけは不可。これが当時の日活の価値だったといっていいでしょう。昔の表現でいうと、「不良の見る映画」です。

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『口笛の流れる港町』 小林旭と宍戸錠。

山田風太郎が、戦争直前の旧制中学時代、映画館に入ると退学だったということを書いていましたが、小林信彦のエッセイによると、戦後なのに、日活映画を見るのを禁じていた学校があったそうです。わたしが通った小学校では、そんなことはありませんでしたが、両親に禁じられたということは、あの時代、世間では「日活は不良の温床」というのは常識だったのでしょう。「不良」なんて言葉もいまでは懐かしいですがね。

じっさいには、大部分は禁じなければならないようなものではなく、穏当な映画ばかりです。とくに「渡り鳥」は、アウトロウと見られがちな流れ者が主人公ではあるものの、簡単にいえば、各地の地上げ屋(たいていが金子信雄)との終わりなき戦いの物語で、いたってモラリスティックです。

小学校高学年になると、親には東宝か洋画館にいくようなことをいって、日活にもぐりこんでいましたが、ロビーに怖い中学生や高校生がとぐろを巻いていて、通りかかる小心な小学生から小銭を巻き上げる、なんて気配もありませんでした。ほかの映画館といっしょです。ゲーム・センターのほうがよほど危険だったでしょう(もちろん、そちらのほうは、学校がきびしく立入禁止を言い渡していた。自動車模型のレーシングが流行していたころ、何度か兄に連れていってもらったことしかない)。だいたい、映画館に入ったら、映画を見るだけで忙しく、ほかのことなんかやれるはずもないのです。

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『渡り鳥いつまた帰る』 アキラとジョー。

◆ ♪あかーい、夕陽よー ◆◆
フラン・オブライエンの『第三の警官』に登場するド・セルビー教授が、「旅の記憶は一枚の写真のようなものになってしまう」という趣旨のことをいっていましたが、あらゆる記憶は、最終的には、スティルへと縮小していくような気がします。

映画館を託児所としていた時代に見た無数の東映時代劇の記憶は、結局、万事が解決し、旅に出ることにした主人公が、日本晴れの富士山に向かって歩いていく光景にまで縮小してしまいました(茶屋でだんごを食べていた子分の三下が、主人公がいなくなったのに気づき、あわてて「旦那、だんなー、待ってくださいよ~」と、これまた富士山に向かって手を振りながら走っていく、というシーンも追加される)。

では、「渡り鳥」はどこに圧縮されたかというと、アヴァン・タイトルで、小林旭が馬に乗って峠にあらわれ、眼下の風景を見下ろす、真っ赤な文字のタイトルが、起きあがってくるように、バーンと表示され、「あかーい、夕陽よー」で「小林旭 浅丘ルリ子」と併記で名前が出る、というシーンです。

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『大草原の渡り鳥』

なんでしょうねえ、あの晴れやかな気分は。いい年した大人としては、馬鹿馬鹿しいと思うのですよ。でも、「あかーい、夕陽よー」が出てきたら、もうそれ一色に世界が染め上げられてしまいます。このパワーはなんなのか?

まず第一に、やはりこのテーマ曲がじつによくできているということでしょう。並べて比較したわけではありませんが、映画ごとに新たに録音していたのだと考えています。いくつか、「あれ?」と感じたものがありました。もともと、かすかにそういう要素が組み込まれているのですが、カントリー&ウェスタン的なアレンジのものもありました。なかには、違和感があって、乗れないなあ、と感じた作品もありました。ということはつまり、このテーマ曲が、映画を見る気分を決定づける要素になっているということです。

当たり前です。プロットは似たり寄ったりで、意外性はなく、想像したとおりに運んで、想像したとおりに終わるようにできています。それがプログラム・ピクチャーというものです。すべては「パッケージ」されているだから、「同じ」テーマ曲が流れるのは死活的に重要なのです(東宝はこの点を理解していなかった。ゴジラが「シェー」をやったり、トゥイストを踊ったりすることに、子どもはどれほど失望したことか! 小林旭がテスコのギターを背負い、グヤのアンプを馬腹に提げて登場したら、だれだって失笑するはずで、それと同類の間違いを犯したゴジラ映画は当然、衰微した。え? そういう問題じゃないって? 問題はギターの種類ではなく、つねにギターを背負っているのからして変だ? いや、それをいうと映画が成立しなくなるので、いいっこなし)。

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『渡り鳥いつまた帰る』 アキラとジョー。はじめは敵役の悪党だったジョーは、いつのまにか滝伸次の相棒のようになっていた。

ノスタルジーにいくぶんか目を曇らされているのかもしれませんが、ああいう、晴れやかな気分になるシーンというのは、洋邦問わず、70年代以降の映画では出くわしたことがありません。やはり、楽天的な時代が生んだものではないかという気がします。

昭和30年代が、戦後日本の黄金時代であったかのようにいう気は毛頭ありません。あの時代は貧しすぎます。飢餓線上の極貧の生活をしている人がいても、べつに不思議とも思わなかった社会を、時間がたったからといって肯定するほど、わたしは度胸の据わった嘘つきではありません(「小心な嘘つき」ではある!)。現に、「渡り鳥シリーズ」は昭和30年代の日本の悪と闘う物語でした。あそこに描かれていたのは、現今とまったく同じ、もっている金額の多寡がなによりも重要な社会です。そんなものを肯定できるはずがありません。

でも、それでもなお、「あかーいー、夕陽よー」とアキラの声が流れたとたん、ほんの一瞬だけ、あれはいい時代だった、という錯覚に陥ります。当時の日本がよかったわけではなく、それが歌の力であり、小林旭という稀有のシンガーの力だということです。

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西沢爽『雑学 東京行進曲』 「ギターを持った渡り鳥」の作詞家は、いつのまにか音楽史家になっていた。すばらしい戦前期流行歌研究書で、おおいに感銘を受けた。

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by songsf4s | 2008-05-24 23:55 | 風の歌
Trade Winds by Frank Sinatra
タイトル
Trade Winds
アーティスト
Frank Sinatra
ライター
Cliff Friend, Charles Tobias
収録アルバム
His Way: The Best of Frank Sinatra (originally 78 release)
リリース年
1940年
他のヴァージョン
Billy Vaughn, Bonnie Guitar (as "Down Where the Tradewinds Blow")
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当地では、この五月は気温の差が大きく、こたつを片づけたのを後悔する日が数日あったかと思うと、昨日今日は暑くて、わが家でもっとも気温が高い場所である、仕事机に載せた寒暖計は28度までいきました。もうTシャツ短パン(というと、最近はハーフパンツだろうに、といわれるが、「Tシャツ、ハーフパンツ」はリズムが悪い)です。

おかげで、ちょっとためらっていた、このTrade Windsを取り上げる気になりました。でも、よく考えると、貿易風というのは、「恒風」と言い換えようという提案もあったほどで、季節に関わりなく、つねに吹いているんですよね。それなのに、夏のもののような気がするのは、赤道に向かって流れ込む偏東風だからなのでしょう。寒いところには吹いていませんからね。音楽のうえでも、おおむね、わたしの誤った観念と同じような扱いをされているようです。

◆ 東西ともに「貿易」風 ◆◆
それではファースト・ヴァース。

Down where the trade winds play
Down where you lose the day
We found a new world where paradise starts
We traded heart way down where the trade winds play

「貿易風がたわむれ、日々を忘れる場所で、パラダイスが生まれる新しい世界を見つけた、貿易風がたわむれる遙かな場所で、ぼくらは愛を誓った」

はなからむずかしくて、くじけそうになります。lose a dayだと、win a day「勝利を手にする」の反対の意味のはずですが、それでは意味が通りません。よって、loseを「敗れる」の意味ではなく、「失う」のほうだとみなし、文脈から考えて、「忘れる」といいたいのだと解釈しましたが、自信なんかかけらもありません。

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trade heartも山勘です。「交換する」という意味から、「心を交換する」、ということはつまり、愛を誓う、といったあたりであろう、なんて考えただけです。trade windのtradeに引っかけたのでしょう(シナトラは単数形でうたっていうように聞こえるが、ボニー・ギターはheartsと複数にしているように聞こえる。複数のほうがいいのではないか? くどくいえばtrade our heartsなのでは?)。

しかし、Beyond the Reef by Elvis Presleyのときに書きましたが、trade windのtradeは貿易という意味ではなく、「通った跡」「通った道」という古い意味で使われていて、これを「貿易風」とするのは誤訳なのだそうです。だから、「恒風」などの代替案が生まれたのですが、結局、定着しなかったようです(いま、変換してみたら、ATOKの辞書に「恒風」はなかった)。

なるほど、「恒風」のほうが筋は通っているのでしょうが、これが定着しなかったのは無理もないと思います。まず、語呂がよくありません。同音異義語もあります。なによりも、観念的で硬く、イマジネーションを刺激しません。「貿易風の吹くサンゴ礁の島」なら20万円払って旅行したい人がいるでしょうが、「恒風の吹くサンゴ礁の島」では、せいぜい5万円の叩き売りがいいところでしょう。

言葉というのは、本然的に「呪文」なのです。だからこそ、われわれは言葉に縛られ、言葉に喜び、言葉に悲しみ、言葉に生き、言葉に死にます。呪力をもたない言葉に価値があるとはだれも考えないのです。たとえ誤訳であっても、なにがしかの呪力をもつ、「貿易風」という言葉は今後も生きつづけるでしょう。

そもそも、このヴァースでのtradeの二重の使い方を見ると、英語文化においても、trade windの言葉の由来は忘れられ、「貿易+風」という意味で使われている気配がうかがわれます。

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◆ ことは定石通りに運び ◆◆
セカンド・ヴァース。

Music was everywhere
Flowers were in her hair
Under an awning of silvery boughs
We traded vows the night that I sailed away

「あたりは音楽であふれ、彼女の髪には花がさしてあり、大きな枝の銀色に燦めく葉の下で、ぼくらは誓いをかわした、出帆の夜に」

いかにも昔の歌らしい、絵に描いたようなロマンティシズムです。出帆したということは、語り手は異邦人、相手は地元の女性ということになるのでしょう(ボニー・ギターは女性なので、このあたりを微妙に変更している)。女性向けのいわゆる「ロマンス小説」では、依然としてこういう設定が使われたりしているのでしょうか。

ブリッジ。

Oh trade winds, what are vows that lovers make
Oh trade winds, are they only made to break

「ああ、貿易風よ、恋人たちの誓いとはなんなのだ、ああ、貿易風よ、それは破られるためのものなのか」

詠嘆調なんて、わたしだって書きたくはないんですよ。「嗚呼、紅涙に咽ぶ花子さんなのでありました」なんて、シャレにもなりません。でも、これは大昔の歌ですからね。いかんともしがたいのです。いまどき、風に呼びかけたりしたら、ふつうは笑いますよ。いや、去年、当家では「♪か~ぜが~呼んでる~、マイ~トガ~イ~」という曲を取り上げましたが!

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ラスト・ヴァース。

When it is May again, I'll sail away again
Though I'm returning, it won't be the same
She traded her name way down where the trade winds play

「五月になったら、また船出するつもりでいる、あの土地に戻ることになるが、こんどはいつもとはちがう訪問になるだろう、あの貿易風がたわむれる土地で、彼女は名前を替えてしまったのだから」

結婚して姓が変わることを、trade one's nameと表現するのかどうか知りませんが、この文脈ではそうとしか解釈のしようがありません。結局、彼女は地元の男といっしょになってしまい、そこへ語り手が再訪するのでしょう。ん? ドラマがはじまるのはここからなんじゃないでしょうか?

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◆ フランク・シナトラ盤 ◆◆
フランク・シナトラ盤Trade Windsは、1940年6月27日の録音と記録されています。マスター番号は2種類あるので、オルタネート・テイクがあるものと思われます。

これはまだシナトラはトミー・ドーシー・オーケストラの専属歌手だった時期のもので、当然、スウィング時代のスタイルでアレンジされています。つまり、歌が出てくるまえに、イントロではなく、長いバンドの演奏(この曲では、シナトラのヴォーカルが登場するのは1分をすぎてから)がある、あのスタイルです。

パーソネルを見ても、わたしにはチンプンカンプンの時期なのですが、ドラムはバディー・リッチとなっています。残念ながら、活躍していないというか、ドラムの音そのものが聞こえません。叩いているとしても、ごくごく控えめにブラシかなんかでやっているのでしょう。

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Tommy Dorsey and Frank Sinatra

Fools Rush In その2 by Frank Sinatraのときにも書きましたが、この時期のシナトラの歌は、もうおそれいってしまうしかありません。声はいいし、ムードはあるし、いうことなし。時代の寵児になって当然です。

バンドのプレイもけっこうなものです。いきなり出てくる音は、オルガンのように聞こえますが、1940年にはまだハモンドは誕生していないことを思いだして、まじめに聴いてみました。どうやら、ミュートした複数の金管が重なった音のようです。ソロをとるトロンボーンは、当然、トミー・ドーシーなのだろうと思います。これまたムードがあります。トロンボーンという楽器はアタックが弱く、向き不向きがあると感じますが、Trade Windsのように、ふわっとした曲にはふさわしいリード楽器です。背後でつねに薄く鳴っていて、ときおり前に出てくるクラリネットもけっこうなものです。

この時代の音というのは、はっきりとしたスタイルがありますし、有名どころの場合、それぞれのオーケストラごとに、独自の楽器編成とアレンジがあります。そういうものは、いずれクリシェになってしまうのですが、これだけ時間がたつと、まさに古き良き時代のサウンドに感じられます。そういうものがお好きなら、この曲なんざあ、こりゃたまらん、極楽、極楽、という音です。

◆ ビリー・ヴォーン盤 ◆◆
うちにはTrade Windsは、あと2種類しかありません。ビリー・ヴォーン盤は、当然ながらインストゥルメンタルです。オーケストラというのは、サウンドで売るものなので、特長となるスタイルのないバンドが長続きすることはありません。ビリー・ヴォーンも、多くの曲は、代表作であるSail Along Silvery Moon(タイトルは知らなくても、曲を聴けば、ああ、あれか、とおわかりになるはず)のスタイルでやっています(日本の場合、Perly Shellすなわち「真珠貝の唄」のほうが有名かもしれないが、あれはちょっと系統が異なる)。

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ビリー・ヴォーンのTrade Windsは、Sail Along Silvery Moon同様、基本的には木管のアンサンブルで、チェンジアップとして、部分的にヴァイブラフォーンやトランペットがリードをとったり、この曲の南国ムードに合わせて、ペダル・スティールがオブリガートを入れる、といったアレンジです。これはこれでけっこうなものです。

ビリー・ヴォーンもやはりハリウッド・ベースだったようで、60年代になると、ハル・ブレイン以下、おなじみのメンバーが参加した盤があるようですが、このTrade Windsは1959年のリリース(シングルA面になっている)なので、まだそれらしき音はしていません。

◆ ボニー・ギター物語 ◆◆
録音時期は前後しますが、1957年のボニー・ギターのヴァージョンもあります。こちらは歌もので、ペダル・スティールとウクレレの入ったハワイアン・スタイルでやっています。マーティー・ロビンズという恰好の例があるように、ペダル・スティールのある楽器編成を利用して、カントリー・シンガーがハワイアンをうたうのもめずらしいことではなく、この人もカントリー系なのかと思いましたが、そういうことではないようです。

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ベア・ファミリーのアンソロジーには、ボニー・ギターのくわしいキャリアが書かれていますが、これを読んで、二度、へえー、と驚いてしまいました。第一は、彼女が、芸名のとおり、ギタリストであるばかりでなく、おもな仕事はセッション・プレイヤーだったということです。

時期としては50年代後半のようなので、キャロル・ケイよりも早いことになります。自分の盤では、目の覚めるようなプレイはしていなくて(そもそも、ソロはほとんどないし、あっても、典型的なこの時代の「間奏」で、メロディーのヴァリエーションを弾くだけ)、腕前のほどはよくわかりませんが、ちゃんと弾けない人が、セッション・ワークなどできるはずもないので、一定のレベルではあったのでしょう。ジャズ的なコード・ワークをしている曲があって、そのあたりにしっかりした基礎がうかがわれます。

キャロル・ケイは「めずらしい女性スタジオ・プレイヤー」といわれることを嫌っています。まず第一に、女だからファースト・コール・プレイヤーになれたわけではない、性別に関係なく、それだけの技術をもっていたからだ、といいたいのです。「女っぽいプレイなんか一度もしたことがない」といっています。じっさい、彼女のプレイをご存知の方なら、スタイルには女性的なところなどないのは、いまさら繰り返すまでもないでしょう。

もうひとつは、あの時代、女性プレイヤーはけっしてめずらしくなかった、というのです。長い年月のあいだに多くは忘れられてしまったが、彼女の周囲には女性プレイヤーがすくなからずいたと証言しています(残念ながら、わたしの知らない名前ばかりで、記憶しなかったため、彼女があげたプレイヤーをいまここに記すことができない)。そういわれたときは、ふーん、そうだったのか、と思っただけですが、こうして、ジャズ・インフルエンスト・レイディー・ギタリストが、キャロル・ケイとすれ違ってもおかしくない場所で働いていたことを知ると、なるほど、と膝を叩いてしまいます。

しかし、ボニー・ギターはまだ50年代のうちにスタジオ・ワークをやめ、故郷のシアトルに戻りました。ここからがまた驚きの第二の人生なのです。ほら、シアトルとギターとセッション・プレイヤーという三つのお題で、話が作れるじゃないですか。そう、ヴェンチャーズです!

ボニー・ギター、いや、ここからは本名のボニー・バッキングハムのほうがいいかもしれません。どうであれ、ボニーは、友人が持ち込んだデモ・テープをきっかけに、べつの友人、ボブ・ライスドーフ(発音は不明だが、Reisdorfというスペルを手がかりに、他の名前におけるreisの発音を見ると、いずれも「ライス」なので、仮にこう書いておく。Reisを非英語的に「ライス」とするなら、後半にもそれを適用し「ライスドルフ」としたほうが整合性がとれるかもしれない)と共同でレーベルを設立します。ドールトン/ドルフィンの誕生です。

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設立のきっかけとなったテープは、フリートウッズのCome Solftly to Meでした。この曲がビルボード・チャートトッパーになるのは、1959年4月のことなので、ドールトン/ドルフィンの設立時期もその数カ月まえとわかります。

残念ながら、ライナーはヴェンチャーズについてはろくにふれていません。まあ、勘繰れば、シアトルでどうこうなどと書くと、丸ごと大嘘になってしまうから、あえてふれなかったのでしょう。ボニー・バッキングハムが、ヴェンチャーズをどう思ったかすらわかりません。リバティーに配給をまかせた段階で、法律的な権利(つまり、金)だけを保留し、あとはリバティーにまかせたのではないかと推測します。

ヴェンチャーズのレーベルのオーナーが、セッション・ギタリストだったとはねえ! 世の中、たくまぬ皮肉といいうのはあるものですなあ。悪いことはできませんぜ、おのおのがた。

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by songsf4s | 2008-05-23 23:56 | 風の歌