カテゴリ:魔女の季節( 2 )
Season of the Witch by Al Kooper and Steve Stills
タイトル
Season of the Witch
アーティスト
Al Kooper and Steve Stills
ライター
Donovan Leitch
収録アルバム
Super Session
リリース年
1968年
他のヴァージョン
Donovan, Vanilla Fudge (2 versions)
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昨秋のハロウィーン特集、いや、ジョン・カーペンターのHolloween Themeを持ち出すことを読まれないようにするために、あえてEvil Moonというタイトルにした特集の途中で、魔女の歌をまだやっていないな、と思いました。

f0147840_2245069.jpgではなにかやろうか、と思ったところで、はたと昔読んだ本の一節を思いだしました。魔女の季節といえば四月なのです。で、そのときは握りこんでしまった曲をここに登場させるというしだい。しかし、ドノヴァンがこの曲を書いたとき、ヴァルプルギスの夜祭のことを意識していたか、いや、そもそも、そういうものがあることを知っていたか、そのへんは微妙です。

今回登場する三者によるヴァージョンがYou Tubeにあるので、盤をお持ちでなく、ご興味のある方は、歌詞の検討に移る前にそちらをどうぞ。いずれもライヴではなく、通常の盤からのものなので、お持ちの方はわざわざ見るようなものではありません。

また、ここにはマイケル・ブルームフィールドの名前もありますが、ご存知のように、Super Sessionは、A面のギタリストはブルームフィールド、B面のほうはスティーヴ・スティルズというメンバーで録音され、このSeason of the WitchはB面なので、ブルームフィールドはプレイしていません。

クーパー=スティルズ
ドノヴァン
ヴァニラ・ファッジ

◆ 魔女と縫い目 ◆◆
それではファースト・ヴァース。

When I look out my window
Many sights to see
And when I look in my window
So many different people to be
That it's strange, so strange
You've got to pick up every stitch
You've got to pick up every stitch
You've got to pick up every stitch
Must be the season of the witch
Must be the season of the witch
Must be the season of the witch

「窓から外を見ると、じつにさまざまな光景が目に入る、窓を覗きこむと、ものすごくおおぜいの人間がいる、じつに奇妙だ、なんとも奇妙だ、あらゆる縫い目を拾わなければならない、きっと魔女の季節にちがいない」

意味? そんなことはドノヴァンにきいてください。ラリっていたのではないでしょうか。

セカンド・ヴァース。

When I look over my shoulder
What do you think I see
Some other cat looking over
His shoulder at me
And he's strange, sure he's strange.
You've got to pick up every stitch
You've got to pick up every stitch
Beatniks are out to make it rich
Oh no, must be the season of the witch
Must be the season of the witch, yeah
Must be the season of the witch

「肩越しに振り返ると、いったいなにが見えると思う? どこかよそのヤツが肩越しに振り返ってこっちを見ているんだ、奇妙なヤツだ、あらゆる縫い目を拾わなければならない、ビートニク連中はそこらで大金を稼ごうとしている、きっと魔女の季節にちがいない」

ここはちょっと怪談ぽい雰囲気があります。本邦なら、「それはひょっとしたら、こんな顔だったかい?」てなくだりですな。catは人間にも使うので、そのように解釈しておきましたが、文字通り猫のことを指す可能性もゼロではありません。でも、ここは人間のことでしょう。いくぶんか、猫のクリーピーなイメージを借りているかもしれませんが。

f0147840_22463371.jpgとはいえ、この歌詞で、なぜ魔女の季節なのか、しかもmustまでくっついちゃうのか、よくわかりません。必然性が感じられないところがシュールでいい、という意見もあるでしょうから、追求しませんが……。

ビートニクなんて、いま通じるのでしょうか? ほら、ジャック・ケルアックとかアレン・ギンズバーグとか、ああいう一群の芸術家連中のことです。ケルアックの『路上』なんて読みませんでした? いや、わたしは途中で投げましたがね。いま考えると、この邦題は珍ですね。原題はOn the Roadだから、そのまま訳せば『旅路』(池波正太郎!)、せいぜい『途上』(谷崎潤一郎!)あたりじゃないでしょうか。

話が横滑りしましたが、ヴァニラ・ファッジは、「ビートニク」は古いと判断したようで、ヒッピーズと言い換えています。しかし、いずれにしても、古くなってしまうのだから、いまになれば、どっちだっていいじゃないか、と思います。落語で、一両を一円と言い換えたりしますが、どっちにしろ、貨幣価値は変わってしまうから、無駄なのと同じです。

◆ エディー・ホー ◆◆
看板にはアル・クーパーとスティーヴ・スティルズのヴァージョンを立てました。しかし、その理由はアル・クーパーでもなければ、スティーヴ・スティルズでもありません。ドラムのエディー・ホーです。

あまり有名ではないし、わたしもそれほど多くのトラックを聴いたわけでもありませんが、いいタイムのドラマーなんですよ。彼がプレイした曲でもっとも有名なのは、モンキーズのDaydream Believerでしょう。あの四分三連と二分三連のコンビネーションによるフィルインは、派手ではないものの、ちょっと印象的でした。

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エディー・ホー? Super Sessionの裏ジャケで、唯一、名前と顔の一致しない人物。

なんせ、Must be the season of the witchのくだりで、ちょっとちがうところにいくだけで(といっても、ただのG-Aだが)、ほとんどはDm7とG(各ヴァージョン、キーは異なる)をいったり来たりするだけの単純な曲なので、実情をいえば、あとなにを書けばいいんだ、てなもんです。

クーパー=スティルズ盤は、この単純さをインプロヴに利用しています。がしかし、スティルズのインプロヴを聴きたい人がどれだけいることやら。CSN&Yの4 Way Streetでの、ニール・ヤングとの悪夢のギター・バトルは、わたしにとってはトラウマといってもいいぐらいで、彼の長いソロなんか聴きたくもありません。

いや、それをいうなら、ニール・ヤングもギター・ソロなんてものはいっさいしないほうがいいでしょう。ヤングにくらべれば、スティルズはずっとマシで、たとえばWooden Shipsの、トレブルを絞ったやわらかいトーンの、おそらくはフィンガリングによるプレイ(ギターはグレッチ?)なんか、なかなかけっこうでしたし、Blue BirdやBlack Queen(「色物」で統一してみた)での、強烈なアコースティック・ギターのプレイなども魅力があります。

71年だったか、アメリカでスティルズを見た友だちから聞いた話ですが、むやみに弦を切るので、スペアタイアのように、ステージにずらっとギターを並べていて、Black Queenでも弦を切ったそうです。そりゃそうでしょう。あんなにブリッジに近いところで強いピッキングをしたら、太い弦だってひとたまりもありません。しかし、ブリッジすれすれと、強いピッキングのふたつがそろわないと、あのサウンドにはならないのだから(もうひとつ、マーティンも加えるべきかも。ギブソンではあんな音は出ない)、弦を大量消費するのもやむをえないでしょう。

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左から、ハーヴィー・ブルックス、スティーヴ・スティルズ、アル・クーパー

で、このSeason of the Witchにおけるスティルズのプレイですが……うーん、つまらん、と一言いえばいいだけか! そういっては身も蓋もないのですが、スティルズは、録音をすっぽかしたブルームフィールドの代役として、やむをえず呼ばれただけです。ブルームフィールドの精神状態さえ安定していれば、この曲でも彼のプレイが聴けたでしょう。

まあ、エディー・ホーの端正なプレイを楽しめるから、わたしとしてはそれで十分です。ハイハットのキレ申し分なし、サイドスティックのサウンドも一級品。どういうわけか、ほとんど録音が残っていないこのドラマーの、これは代表作といえる一枚だと思います。

そうそう、昔はハーヴィー・ブルックスというベースには、とくに注目していなかったのですが、久しぶりに聴いて、なかなか悪くないと感じました。その後の数十年のあいだにひどいプレイを聴きすぎただけかもしれませんが。

◆ ヴァニラ・ファッジ盤 ◆◆
この曲を収録したヴァニラ・ファッジのRenaissanceというアルバムは、彼らの代表作といっていいと思います。他人の曲に奇怪なアレンジをほどこすことで売り出したヴァニラが、このアルバムでは、オリジナル曲中心にシフトし、その楽曲の出来がよかったことで、当時はおおいに気に入っていました。

f0147840_238216.jpgということはつまり、当初は新鮮に感じられたヴァニラ流の異様なアレンジに飽きたのだと、いまにして思います。どれか一曲だけを取り出せば、そして、その曲のオリジナルを知っていれば、You Keep Me Hanging Onにせよ、Ticket to Rideにせよ、She's Not Thereにせよ、もっと後年のThe Windmills of Your Mindにせよ、いまでもそれなりに面白いと感じられるでしょう。

しかし、それが束になってみるとどうか? 一見、クリシェへの批評に思えたものが、結局のところ、別種のクリシェでしかないことが露呈してしまうのです。いや、彼らのスタイルが変形されて、主としてヘヴィー・メタル方面に受け継がれ、文字通りのクリシェに堕したことには同情します。でも、それ以前に、高校生のわたしは、すでにNear the Beginningの段階でパターン化を感じとり、興味を失いました。

f0147840_024987.jpg子どものときは、ヘビのように長ったらしく思わせぶりなイントロも、なにやら粋なものに感じていましたが、年をとると、早く噺に入れ、枕を聴きに来たわけじゃない、といいたくなってしまいます。「じらし」を楽しめないようになっちゃ、もうまもなく棺桶かな、という気もしますが……。年齢によって、音楽の感じ方は180度ちがうものだな、と呆れます。

ドラムとベースのスタイルも、それまでの常識にはないものでした。中学生はそういうのが大好きだから、あのころはカーマイン・アピースとティム・ボガートのファンでした。中学どころか、大学に入ってもまだなんとなく彼らが気になり、武道館にまで、ベック・ボガート&アピースを見にいき……それでついに憑きものが落ちたようです。ティム・ボガートになにも期待できないのはカクタスで十分にわかっていたことで、人間というのは、現実を受け容れるのに長い時間を必要とするようです。

しかし、Renaissanceは、当時はよく聴いたアルバムで、もうヴァニラに興味はなくても、1枚だけいいものをあげろ、といわれれば、デビュー盤かRenaissanceのどちらかにするでしょう。リリースの時点でしか意味をもたなかったとしても、公平にいって、それが無価値ということにはなりません。あのときには大きな価値がありました。

f0147840_2312099.jpg現在のCDではあとによけいなものが加えられていますが、Season of the Witchは、LPではアルバム・クローザーなので、彼ら(またはプロデューサーのシャドウ・モートン。いまになると、あれはモートンのサウンドだったのではないかという気がする)がそれだけの意味のあるトラックと考えていたことがうかがわれます。しかし、それは時代感覚のバイアスが強くかかっていたのでしょう。いま聴くと、沈鬱で、芝居がかりなところが、やや滑稽に感じられます。この年になると、カーマイン・アピースのミスショット、とくにパラディドルがスムーズでないことも気になります。

彼らは、最近のThe Returnというアルバムでも、またこの曲をやっています。タコが自分の足を食べたようなもので、過去の縮小再生産にすぎません。アピースのタイムはいくぶん改善していますが、パラディドルで乱れる悪いクセは直っていません。まあ、ドラマーというのはそういうものです。

◆ 魔女的魔女 ◆◆
f0147840_2313148.jpgドノヴァンという人は、なんといっていいのかわかりません。それなりに好きだった曲があり(Sunshine Superman、Mellow Yellow、Atlantis、To Susan on the West Coast Waiting、Jennifer Juniper、Riki Tiki Tavi、Barabajagal、Wear Your Love Like Heaven、Song for John、There Is a Mountain)、新宿厚生年金まで見にいきましたが、だからといって、好きなアーティストだったことがあるような感覚は残っていません。Just friends, lovers nomoreではなく、はじめからjust friendsという感じで、いまも、強い好悪の感情はありません。

で、Season of the Witchです。久しぶりに聴いたら、ドラムがうまいんで、おや、イギリスにもいいドラマーがいるな、と思い、クレジットを見ました。おっと、ハリウッド録音、ドラムはエディー・ホー! うまいはずです。

ただ、タイトルとの関係で考えると、このヴァージョンはスムーズすぎるというか、軽すぎるというか、あっけらかんとしすぎているというか、物足りないというか、カヴァーがつけ込む隙がたっぷりあると感じます。

Super Sessionは、短時間でつくられたものなので、はじめから複雑な曲は排除する方針だったにちがいなく、多くはインプロヴしやすい曲なので、魔女という題材にとくにこだわった形跡はなく、たんに結果的に、ドノヴァン・ヴァージョンよりいくぶん沈鬱な、「魔女」という題材により接近したたムードが生まれたにすぎなかろうと思います。

ヴァニラ・ファッジ盤は、明らかに魔女という題材それ自体に重きを置いたアレンジです。それゆえに、歌詞の物足りなさを補うために、最後のほうに、いわずもがなの、よけいなものを付け加えてしまったのではないでしょうか。ヴァニラ盤のエンディングには以下のような台詞が加えられています。

God, god, hey!
If you can't help us, you better listen
Please...Mama, I'm cold

なにをやるのもご自由だし、とりわけ、あのころはそういうムードが充満していたので、当時は、この芝居がかりのくだりを、べつにどうとも思わずに聴いていました。しかし、いま聴くと、赤面とまではいいませんが、ちょっとばかり尻がむずむずし、早送りボタンに手が伸びそうになります。

光陰矢のごとし、流行り廃りはうたかたの夢、時の雨しずくは、ゆっくりと、しかし無慈悲に、音楽がまとっていた衣と肉を洗い流し、骨組だけの野ざらしにしてしまうものだなあ、と無情を感じる聞き比べでした。音楽がしゃりこうべになったとき、すぐれたドラマーのプレイだけが、確固たる実体として耳をうちます。
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by songsf4s | 2008-04-30 22:12 | 魔女の季節
Repent Walpurgis by Procol Harum
タイトル
Repent Walpurgis
アーティスト
Procol Harum
ライター
Mathew Fisher
収録アルバム
Procol Harum (eponymously titled 1st album)
リリース年
1967年
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明日、というより、お読みになっているみなさんの側からいうと今日4月30日の夜は、「ヴァルプルギスの夜祭」、すなわち、聖ヴァルプルガの祝日のイヴです。

聖女であるヴァルプルガがどのような因縁をもったのかわかりませんが、この夜、ドイツはハルツ山系の最高峰、ブロッケン山に魔女たちが集い、とてつもないドンチャン騒ぎをやらかすといわれています。

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冬のブロッケン山頂。聖ヴァルプルガの祝日は、春の訪れを祝うものでもあるそうで、ずいぶん寒い地方なんだなと感じる。メイデイの起源もこの祝日にあるらしい。

なんだって、聖女の祝日の前夜に魔女が集会を開くのかと、いちおう調べたのですが、謂われは不明のようです(もちろんウィキペディアの寝言は無視)。一般論として、悪魔、魔女は、聖者のカウンターパート、実体に対する影法師のような必須付属物なので、聖人の祝日があれば、それに付随して、対となる邪悪なものの祝日が必要だったのではないでしょうか。そして、聖女の祝日の前夜だから、ジェンダーを一致させて、魔女の夜会とした、というあたりでは?

「ブロッケン山の幽霊」というものがあります。ブロッケン山頂に立つと怪物に遭遇するのだそうです。これは怪異現象ではなく、気象現象です。霧がスクリーンの役割を果たし、自分自身の影がそこに拡大投影され、奇怪な形象となってうごめくのを、「幽霊」といったのです。まさに、幽霊の正体見たり枯尾花。ちなみに、枯尾花とはススキの異名であると辞書にあります。コンプレンデ? あ、こりゃドイツ語じゃないか。

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ブロッケン山の幽霊は、べつにブロッケン山に特有の現象ではなく、より一般的には「グローリー」(後光のこと。日本では「稲田の後光」といわれることもある)といわれる現象の一支部みたいなものです。4月30日の夜に魔女が大宴会を開くという伝説と結びつき、この普遍的気象現象が、世界的にこのように呼ばれることになってしまったのでしょう。

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グローリーの一例。現代人から見れば、ちょっとした光学現象にすぎない。科学というのは、考えてみると、一面で罪なものである。

彫刻家ベンヴェヌート・チェリーニは、ある霧の朝、この「グローリー」現象に遭遇し、みずからの頭部に後光がさしているのを見て、ついに俺も聖者に列せられたか、なにしろ俺は天才だからな、と思ったそうです。こういう幸せな人は、幸せなまま死んだのではないかと思います。わたしは理性をもって地上を統べるのをよしと考える人間ですが、残念ながら、理性で幸せになった人の話というのは、とんと聞きませんなあ。

◆ 曰く因縁枯尾花 ◆◆
ヴァルプルガの登場する曲など、わたしはプロコール・ハルムのRepent Walpurgisしか知りません(世の中にはオカルトに傾斜した音楽というのが山ほどあるので、しかるべき方面にはゴロゴロしているのかもしれない)。そもそも、ヴァルプルガなどというものを知ったのからして、この曲のせいなのです。

しかし、聖女に向かってなぜ「悔い改めよ」などというのか、不思議なタイトルです。多くの人がこのタイトルを不可解に感じるからでしょう、プロコール・ハルムのオフィシャル・サイトで言及されています。以下、作者のマシュー・フィッシャーによる説明。

Well, I don't think it means anything, really. As you may already know, I got the idea for the chord sequence from a Four Seasons record called Beggin'. Apart from the organ introduction it was a pretty co-operative effort. Rob, in particular, added a lot with his guitar-playing. The Bach prelude was, I think, Gary's idea. We were thinking of doing the whole prelude as a separate piece but Gary suggested putting it in to break things up a bit.

How the title came about was that we were trying to decide what the mood of it was. I thought it was all very angst-ridden and hence suggested 'Repent'. Someone else (probably Gary or Keith) thought it evoked images of Walpurgis Night (demons and such). Eventually we decided to put the two together.

「じつのところ、とりたてて意味などないと思う。たぶん気づいているだろうが、コード進行は、フォー・シーズンズのBeggin'という曲からアイディアを得ている。オルガンによるイントロをのぞけば、Repent Walpurgisは共同作業の産物だ。とくにロブ(・トロワー)はそのギター・プレイで多くのものを付与している。バッハのプレリュードは、たぶんゲーリーのアイディアだったと思う。われわれは、あのプレリュード全体を独立した曲としてやろうとしていたのだけれど、ゲーリーがちょっとした変化を与えるためにRepent Walpurgisに組み込もうといいだしたのだ。

タイトルはこういういきさつで決まった。どういうムードでプレイするか、ということを話し合ったとき、わたしは、全体が怒りの感覚で満ちていると考えたので、『悔い改めよ』という言葉を持ち出した。だれか、たぶんゲーリーかキースが、『ヴァルプルギスの夜祭』をイメージさせる、といった。結局、このふたつをつなげてタイトルにしたというしだいだ」

タイトルの前半と後半は命名者が異なり、したがって、前後半に連関はないという、幽霊の正体見たり枯尾花でした。ここで言及されているブルッカーのピアノ・ブレイクは、the Prelude No 1 in C majorというものだそうです。うちにあるささやかなバッハのグレイテスト・ヒッツ(!)には収録されていませんでした。

◆ ハルムにも長いお別れを ◆◆
プロコール・ハルムのRepent Walpurgisといっても、いくつかのヴァージョンがあります。まずは、オリジナルというか、デビュー盤に収録されたヴァージョン。これがもっとも人口に膾炙しています。じっさい、日本では、長年にわたってJunのコマーシャルに使われていたので、アーティスト名や曲名を知らなくても、あのハモンドのフレーズを聴けば、ああ、あれがそうか、と思いだされる方はたくさんいらっしゃるでしょう。阿井喬子が「Jun, clasical elegance」と例のあの声でいう企業イメージCMです。

f0147840_23525185.jpg当時は知りませんでしたが、これはショート・エディットだったことが、のちにわかりました。オリジナルのロング・ヴァージョンは、Pandora's Boxという、オルタネート・テイク/ミックス集に収録されています。何小節目にハサミが入ったか、なんてことをいっても詮ないので、わかりやすくいえば、ブルッカーのピアノによる、メイジャーに転調するバッハ・シークェンスが、ロング・ヴァージョンでは二度繰り返され、その前後にマシューのハモンドや、トロワーのギターがくっついています。この部分が切られて、5分少々の短縮版がつくられたわけです。オリジナルは、わが家のプレイヤーの表示では7分29秒となっています。

f0147840_23543576.jpg盤になっているものとしては、ほかに95年のライヴ、Long Goodbye(なんでハルムがチャンドラーの長編のタイトルを使っているのか?)収録ヴァージョンがあります。メンバーとしては、もちろん、B・J・ウィルソンはいないものの、ブルッカーのほかに、マシュー・フィッシャーとロビン・トロワーもいて、そこそこのものになる可能性もあったと思います。しかし、マシューがハモンドではなく、パイプ・オルガンをプレイしているのが致命的で、おおいに違和感があります。もちろん、BJほどの表現力のあるドラマーはめったにいるものではないので、ドラムは馬鹿馬鹿しいかぎり。

もともとが沈鬱荘重な曲ですから、ひとつまちがえば茶番になるわけで、このLong Goodbyeヴァージョンを筆頭に、ライヴはどれもあまり出来がよくありません。

まだBJがいた73年のテレビ・ライヴも、あまりいいとは思いません。このときのオルガンはクリス・コピングだと思いますが、どうにもこうにも退屈で聴いていられませんし、BJもとくに好調とはいえません。そもそも、テンポが遅すぎます。

ギターは日本にも来たなんとかいうプレイヤーでしょうが、武道館のときはトロワーに交代して加入したばかりで、譜面を見ながらやっていたのが、ここでは譜面なしになってよかったね、としか思いません。カメラが見当違いのところばかり追っているのにも苛立ちます。

このヴィデオで面白いのは、BJが、フロアタムの横に、ティンパニーぐらいの大きさの追加タムを置いていることがわかったことだけです。いや、それとも、ティンパニーそのものだったのか?

もっと近年のものになると、もう箸にも棒にもかからないひどさです。ギターもドラムも、なんのアクセントもつけず、間の取り方も変化させず、どの音も同じウェイトで、ただ平板にずらずらと機械的に並べているだけで、PCスクリーンのなかに入りこんでいって、殴りつけたくなります。

しかし、音に表情をもたせない平板なプレイというのは、この何十年かの支配的傾向であり、彼らはその「いまどきのプレイヤー」にすぎないのでしょう。わたしが同時代の音楽を聴かなくなった最大の理由は、ドラマーが「表現」をやめ、「表情」を失ったことです。クリック・トラックがもたらした惨禍なのか、シークェンサーに合わせなければならなくなったからなのか、それとも、プログラムされた「機械のドラマー」が増えて、それと同化してしまったのか、そのへんはよくわかりませんが。

◆ 『ファウスト』のヴァルプルギス ◆◆
それにしても、ヴァルプルギスの夜祭というのは、こういう沈鬱荘重なムードだと考えられているのでしょうかねえ。

これを題材として取り入れたものとしては、ゲーテの『ファウスト』が有名だというので、やむをえず、三十数年前に挫折した挑戦を継続してみました。『ファウスト』第一部の終盤、「ワルプルギスの夜」の場から感じられるものは、メッカへ向かって何十万人もの巡礼が移動する光景に近く、たいへんな馬鹿騒ぎだということです。メッカの巡礼は大げさとしても、関ヶ原で勝った東軍が、ロック・バンドか野球チームのように、即日移動で佐和山城に向かったときの、家康が激怒した大渋滞の混乱を思わせるものです。

プロコール・ハルムの曲で、このゲーテの描写(といっても、まさか眼前に見た光景を描いたわけではないが!)に近いのは、In Held 'Twas in Iの第二楽章、'Twas Teatime at the Circusではないでしょうか。まあ、宴たけなわのあとには、なにか隠微なことがあろうと想像するのはごく自然で、そういうイメージなのかもしれませんが。

しかし、『ファウスト』には、ヴァルプルギスの夜祭が二度登場します。第二部の第二幕「古代ワルプルギスの夜」の冒頭に出てくる魔女エリクトーの台詞をスキャンしてみました(池内紀訳)。

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どうでしょう。このへんになると。Repent Walpurgisの荘重なムードに近いかもしれないと感じます。

しかし、わたしという人間は、「荘重」とは縁がなくて、なんだって、子どものころ、この曲が好きだったのか、その答はいまになるとブロッケン山の霧のなかです。しいていえば、いま聴いても、冒頭のマシューのサウンドとプレイは好ましく、この一点かもしれません。わたしにとっては、プロコール・ハルムとはマシュー・フィッシャーのオルガンであり、BJのドラミングにほかならなかったのですから。
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by songsf4s | 2008-04-29 23:57 | 魔女の季節