- タイトル
- 77 Sunset Strip
- アーティスト
- unknown (TV OST)
- ライター
- Jerry Livingston, Max Steiner
- 収録アルバム
- TV Themes
- リリース年
- 1958年
- 他のヴァージョン
- Video All Stars, Warren Barker & Warner Brothers Star Instrumentalists, Frankie Ortega Trio With Sy Oliver & His Orchestra, Mundell Lowe & His All Stars, Ralph Marterie
「サーフサイド6」を取り上げた以上、「サンセット77」を無視するわけにはいきません。でも、じつのところ、このドラマについてはほとんどなにも記憶がないのです。かろうじて覚えているのは、テーマ曲と、あのマーキーと、そして、エド・バーンズの髪の毛(いや、櫛というべきか!)、それにコニー・スティーヴンズ……と思ったら、それは「ハワイアン・アイ」のほうでした。それくらい記憶があいまいなのです。
結局、たかだか半世紀で、テーマ曲とマーキーにまで縮小してしまうのだから、記憶というのははかないものです。しかも、このどちらも、あとから見たり聴いたりした記憶にすぎないかもしれないのです。いや、曲だけはしっかり覚えていました。これでわかることは、視聴覚の印象は強いが、ストーリーのような論理にかかわるものは、印象に残らないということのようです。
その音楽はどうかというと、Surfside 6同様、明るく軽快で、あの当時のテーマの典型的なつくりです。しいていうなら、セヴンスの音を強調しているところが特徴でしょうか。リフ・オリエンティッドな曲で、変形ブルーズ・コード進行といえますが、ロック的感覚は薄く、ビッグバンドの響きが強く残っています。
ただし、いまになって、おや、これは、と思う点があります。ベースがアップライトではなく、すでにフェンダーになっているのです。時代にふさわしい音を、という狙いからきたのでしょうが、時期尚早といいたくなるほど意外です。1959年の段階では、ジャズ系でフェンダーを使った例はごく稀です。
◆ ウォーレン・バーカーのチャチャチャ・アレンジ ◆◆
シンプルなリフ・オリエンティッドのつくりになっていることが好まれたのか、あるいはドラマが大ヒットしたからなのか、Surfside 6とちがって、77 Sunset Stripはそれなりにカヴァーがあります。
もっとも楽しいのは、ウォーレン・バーカー(正確には、Warren Barker & Warner Brothers Star Instrumentalistsという長い名義になっている)のチャチャチャ・ヴァージョンです。バーカーは、テレビを中心に活動した作曲家で、「サンセット77」の時期には、ワーナーのスタッフとして、各種番組の音楽監督をつとめていたようです。どうでもいいといえば、どうでもいいようなことなのですが、「奥様は魔女」で、サマンサが鼻をクニュクニュやって魔法をかけるときの音楽(効果音というべきか)も、バーカーの作曲だそうです!
バーカー盤77 Sunset Stripは、チャチャチャを名乗るほどで、当然、ティンバレスやカウベルなどが活躍しますが、気になったのはギターです。50年代終わりのハリウッドの代表的ギタリストはだれかというと、とくに映画関係にしぼっていえば、筆頭はバーニー・ケッセルとハワード・ロバーツでしょう。
もちろん、ルー・モレルとか、ボブ・ベインとか、アル・ヴィオラとか、さまざまなプレイヤーがいますが、そういう人たちは除外していいと感じます。このウォーレン・バーカーの77 Sunset Strip Cha Chaに使われているギターは、ギブソンではなく、フェンダー・テレキャスターか、すくなくとも、ソリッド・ボディーのギターに聞こえるからです。
この時期のビッグバンド系のセッションなら、ふつうはギブソン(L6など)、ないしはそれに近いフルアコースティックのジャズギター(エピフォンなど)を使います。テレキャスターはロック系、それもロカビリー、カントリー系で使う楽器で、ビッグバンド系のセッションに呼ばれるプレイヤーの使用楽器としてはきわめてマイナーなのです。
50年代から60年代前半のハリウッドの代表的セッション・ギタリストのうち、テレキャスターをプレイしていたことがわかっているのは、まずなんといってもバーニー・ケッセル、つぎがハワード・ロバーツ、そして、まだ駆け出しだったトミー・テデスコです。これがクイズなら、わたしはバーニー・ケッセルに持ち点を賭けます。しかし、トミー・テデスコだったりしたら面白いなあ、とも思います。事実を究明するのも面白いのですが、勝手な空想をしながら聴くのも面白いものです。
このテレキャスター(または類似のソリッドボディー・エレクトリック・ギター)の採用は、ビッグバンド系のセッションとしては異例のことでした。わたしはハリウッドのサウンドの変遷はよく知っているので、このギターの音は突出して聞こえます。ほとんど場違いといっていいくらいです。ウォーレン・バーカーとしては、新味を出したかったのでしょう。
たとえその時点では成功したとはいえなくても、こういう小さな工夫の積み重ねが、最終的に「時代の支配的サウンド」を変化させていくことになるのです。
◆ 映画、テレビ、芝居、そして音楽 ◆◆
ニール・サイモンの自伝を読んでいたら、思いがけず、自分の研究に関係のある一節に出くわしました。
だれが考えたって、ニール・サイモンといえばニューヨークです。ブロードウェイの人なのですから。劇作家としては、当然、映画やテレビとの関わりが多くなるのでしょうが、とりわけ、若いころのサイモンは、放送関係の仕事で生活を支えながら芝居を書く、という暮らしだったそうです。もちろん、ニューヨークで。ところが、50年代なかばに、ニューヨークの仕事が激減し、背に腹は代えられず、サイモンはいやいやハリウッドにいき、しばらく仕事をし(たとえば、ジェリー・ルイスと)、そして、馬鹿馬鹿しくなり、またニューヨークに戻ります。
あんなヤシの生えているような場所でコメディーが書けるか、というサイモンの述懐には思わず笑いました。南の島で哲学なんか生まれるものか、というだれかのセリフにそっくりです。人間、暮らしよい土地では怠け者になる、という意味なら、哲学もコメディーも生まれない土地で暮らすほうが、われわれ凡人にとっては幸せだということになるでしょう。ヤシの生えているような場所にだって、音楽は生まれるわけで、わたしには、それで十分に思えます。
それはともかく、問題は、ニール・サイモンが、生きるためにやむをえず「パーム・トゥリーなんかが生えている」土地にいかねばならないほど、ニューヨークから完全にテレビの仕事が消えた、ということです。これは、映画、放送、音楽の世界を横断して、50年代に起きた地殻変動の結果なのです。
40年代終わりから、ハリウッドのメイジャーにさまざまな災厄が襲いかかります。まずは、反トラスト法訴訟によって、「スタジオ・システム」の支柱だった、「製作、配給、上映」の垂直統合の解体が決まり、直営館を切り離すことになります。早い話が、日銭が入らなくなり、キャッシュフロウが極端に悪化するのです。
また、これは財政には直接の関係がないのですが、「非米活動委員会」による、いわゆる「赤狩り」によって、多くの人材が現場を、ときには国をも追われます。そして、テレビの普及です。このままいけばハリウッドは終わりだ、という危機感が生まれました。
どこの国でも同じでしょうが、テレビの普及とともに、映画スタジオは、その技術を使って、テレビ番組制作にかかわっていくしか、生き残る道がなくなります。会社としても、個人としても、そういう道をたどった例は山ほどあります。わが国でいえば、たとえば、東映はテレビ番組制作会社に変身して久しく、日活アクション末期にすばらしい作品を残した長谷部安春は、いまやテレビ時代劇の巨匠です。
50年代なかば、ハリウッドのメイジャーは、いっせいにテレビ番組制作に乗りだします。その結果、ニューヨーク制作のテレビドラマはまたたくまに消滅してしまい、ニール・サイモンは、ニューヨークで死ぬか、ハリウッドで生きるか、という選択をしなければならなくなったのです。
このような米テレビ界の変化の余波は、遠く日本にまでおよびます。われわれが子どものころに見たのは、すべてこのようにして生まれた、映画スタジオの制作になるドラマだったのです。
◆ スタジオ・システムの崩壊 ◆◆
ワーナー・ブラザーズは、テレビ進出が遅れました。しかし、「シャイアン」のヒットで遅れを挽回し、こんどは攻勢に転じた、その先鋒が「サンセット77」でした。この番組が大ヒットしたおかげで、路線が決まったといえるでしょう。
以後、ワーナー・ブラザーズは「私立探偵たちの集団劇」という「サンセット77」のフォーマットをもとに、つぎつぎにカーボン・コピーのようなドラマをつくります。それが先日取り上げた「サーフサイド6」であり、「ハワイアン・アイ」です(そして、このドラマ群は、ドナルド・ウェストレイク/リチャード・スタークのジョン・ドートマンダーと悪党パーカーのように、あるいはエド・マクベインのスティーヴ・キャラレとホープ弁護士のように、あるいは「CSI」の各署の刑事たちのように、同じ世界を共有し、ときには協力して「広域事件」を解決する。いや、ドートマンダーとパーカーは探偵ではなく、泥棒だが!)。そういう意味で「サンセット77」は、WBにとっても、ハリウッド製ドラマの歴史にとっても、ポイントとなるものでした。
かつて、ハリウッドのメイジャー・スタジオは、どこもスタッフ制をとっていました。映画の製作にかかわるあらゆる人員に給料を払っていたのです。ワーナー・ブラザーズは、メイジャー・スタジオのなかで、60年代までスタッフ制を維持できた唯一の会社です。他のスタジオは、50年代のどこかで、スタッフ制を維持できなくなり、プロジェクトごとにフリーランスを雇うようになりました。外部プロダクションへの委託もはじまります。WBが60年代までスタッフ制を維持できたひとつの要因は、テレビ制作の成功だといわれています。だから、「サンセット77」は重要な作品なのです。
ヘンリー・マンシーニは、ユニヴァーサル映画の音楽部の社員として映画音楽の世界に入ります。マンシーニが最初のオスカーを得たのは、そのユニヴァーサル時代に編曲をした『グレン・ミラー物語』でのことです(もっとも好きな音楽映画のひとつ!)。しかし、ユニヴァーサルは50年代なかばにスタッフ制を維持できなくなります。ヘンリー・マンシーニも解雇されました。あの時代のハリウッドは失業者の町だったのです。
かつては、スタジオから解雇されれば、他のスタジオに雇われないかぎり、映画の仕事はできなくなりました。どこのスタジオも社員だけで映画を製作していたからです。しかし、50年代の解雇の嵐はちがいます。スタッフ制からフリーランス制への切り替えにともなって起きた一斉解雇なのです。
ヘンリー・マンシーニは、たまたま解雇されたときにブレイク・エドワーズにばったり顔を合わせ、解雇のことを彼に話しました。エドワーズは、テレビドラマの仕事を引き受けたところだけれど、興味があるか、とマンシーニを誘いました。それが「ピーター・ガン」です。マンシーニはこのドラマの音楽によって、創設されたばかりのグラミー賞の第一回受賞者となります。
そして、エドワーズの引きによって、本編の世界に返り咲き、映画音楽作曲家としての名声を確立したのが『ティファニーで朝食を』のスコアと、主題歌のMoon Riverです。ヘンリー・マンシーニの場合、ハリウッドのスタジオ・システムの崩壊は、いくぶんかの回り道ではあったものの、結局、キャリアに大きくプラスすることになったのです。
◆ 音楽の都の誕生 ◆◆
スタジオにスタッフとして雇われていたのは、マンシーニのような作曲家、アレンジャーだけではありません。映画製作にかかわるすべての人間が囲いこまれていました。当然、プレイヤーたちも給料をもらう社員でした。そして、マンシーニ同様、彼らの大部分も、50年代の解雇の嵐のなかで職を失います。プレイヤーも、プロジェクトごとに、その都度、フリーランスとして雇われることになったのです。
ハリウッドの映画スタジオは極端な閉鎖社会です。映画の世界に入る確実な近道は、スタジオ関係者の子どもに生まれることだったほどです(じっさい、「二世」が山ほどいるのはご存知だろう)。だから、50年代なかばまでは、腕があり、映画音楽の仕事をしたくても、伝手がなければ、どうにもなりませんでした。
ところが、そこに起きたスタジオ・システムの崩壊で、事情は一変しました。プレイヤーは、ミュージシャン・ユニオンを通じて、特定のレコーディングに雇われるようになりました。つまり、通常のレコード・ビジネスと同じシステムになったのです。スタジオに属していなくても、実力があり、ユニオンに所属していれば、映画音楽の仕事ができるようになったのです。
これがアメリカ中のミュージシャンをハリウッドに引き寄せるニンジンになりました。アール・パーマーは伝記のなかではっきりいっています。自分がニューオーリンズなんていう田舎町でお山の大将をやっているときに、あっちではみんな、映画やテレビで稼ぎまくっている、と。
アール・パーマーが故郷のニューオーリンズを去って、ハリウッドに移住した裏には、当然ながら複数の理由がからみあっていたのですが、仕事の面にかぎっていうなら、もっと大きな仕事をし、もっと大きく稼ぎたいと思って、ハリウッドを選んだのです。アール・パーマーがハリウッドの土を踏んだのは1957年です。「ちょうどいいときに、ちょうどいい場所」にやってきた彼は、たちまちセッション・ドラマーのキングになります。
アール・パーマーのように、すでに十分な実績があり(なんといっても、ファッツ・ドミノとリトル・リチャードのドラマーだったのだから)、業界に名が売れていた人はエリートです。底辺には、ノン・ユニオンで低賃金なデモの仕事をする、無数の若いミュージシャンがいました。みな、アール・パーマーのようなファースト・コール・プレイヤーになって、大金を稼ぐことを夢見ていました。トミー・テデスコ、グレン・キャンベル、ハル・ブレインといった世代は、そういうミュージシャンの階層の底辺から頂点まで階段を上っていったのです。
スタジオ・システムの崩壊によって職を失い、フリーランスとして成功しなかったプレイヤーもたくさんいたはずです。いっぽうで、スタジオの門戸が開かれたことによって、つぎの時代を支えるミュージシャンが続々とハリウッドに群れ集まりました。60年代にいたり、かつての「映画の都」ハリウッドが、「音楽の都」としてふたたびよみがえるにいたった理由は、このように、映画界の動きの函数として捉えることによって、はじめて明瞭に理解できるのです。
低賃金のデモで食いつないだ若いミュージシャンたちは、やがて本番のレコーディングに雇われるようになり、さらには、ラジオやテレビ、そして、あこがれの本編のサウンドトラックでもプレイするようになっていきます。50年代にスタジオ・システムが崩壊しなければ、彼らのような映画界にコネクションのない人間は、スタートラインに立つことすらできなかったでしょう。
「サンセット77」や「サーフサイド6」や「ハワイアン・アイ」を見ていたころ、わたしはまだ1枚のレコードも買ったことがありませんでした。しかし、なぜ60年代は黄金時代になったのか、さまざまな資料を渉猟してその背景を徹底的に追求する過程で、テレビの前でいつも我慢できずに眠ってしまった子どもは、すでにあのときに、秘密の一端にふれていたことを、卒然と覚りました。たとえ、いつも事件が解決する前に眠っていたにしても!