- タイトル
- Ride the Wind
- アーティスト
- The Youngbloods
- ライター
- Jesse Colin Young
- 収録アルバム
- Ride the Wind
- リリース年
- 1968年(Elephant Mountain収録オリジナル・スタジオ・ヴァージョン)
風薫る五月となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。小生、寄る年波には勝てず、趣味の野良仕事がこたえ、息も絶え絶えの毎日です。
ということで、風薫る五月は、風の歌特集をやらかしてみます。しかし、いま泥縄で検索してみたところ、よけいなもの(window、Kai Winding、Earth Wind & Fire、その他もろもろ)が引っかかるせいもあって、先月の馬鹿ソング特集をはるかにうわまわる厖大なヒット件数になってしまい、手のつけられないありさまです。
そのくせ、はじめから念頭にあったのはたった4曲だけ。どうやらスタート早々、「メインテナンス」のために、ちょっと休まないといけないであろうことが、もうすでに予測できる困った特集であります。
ということで、本日はまず、五月は風の歌特集にしようと決めた、そのそもそもの動機となった曲、ヤングブラッズのRide the Windです。
◆ 知覚の扉の向こう側 ◆◆
ほとんどインストゥルメンタルみたいな曲だから、歌詞も音で聴いていて、意味を気にしたことはなく、死ぬほど聴いたわりには、さて、どんな歌詞だったか、という状態です。好きなのはライヴ盤ですが、歌詞はスタジオ録音にしたがっておきます。ファースト・ヴァース。
In the stream of the wind flow
And you will know the reason why I ride the wind
Ride the wind leave your mind behind
Feel the rush of suspended time
That gets you high
And thats why I ride the wind
「風に乗ろう、風の流れに夢をただよわせよう、そうすれば、僕が風に乗る理由がわかるだろう。理性をあとにして風に乗ろう、時が止まる快さを感じてハイになろう、だから僕は風に乗るんだ」
はじめに「ハイ」という言葉が出てくるのは、つまり、そういう歌だよ、という宣言ないしは説明なので、高度何メートルか、などとトンチンカンなことは考えないでください。
短めのインストゥルメンタル・ブレイクをはさんでブリッジへ。
Drink'em until your senses overflow
And you will find that you can grow by letting go
Come on let it go
「色彩が虹のように燦めくのを見よう、知覚が溢れでるまで色彩を飲み込もう、そうすれば、なすがままにすることで自分が成長するのがわかるだろう、さあ、なすがままにしよう」
タブレットを飲み込んて30分もたち、知覚の変化に抵抗せず、「なすがまま」にしていると、やがて自分が「成長」したか、逆に縮小したか、または部屋が縮退したような感覚が生まれるといわれています。圧倒的な色彩感覚と聴覚の変化も起こるそうです。また、自分は鳥だと思いこむのもよくある現象で、じっさいに窓から飛び出してしまうこともめずらしくないとか。サウンドにはそのけはないのですが、このブリッジは、Ride the Windがサイケデリック時代のど真ん中で書かれたことを雄弁に語る、リアルな描写といえるでしょう。
◆ 「目」を開く ◆◆
またインストゥルメンタル・ブレイクとブリッジをはさんで、セカンドにして最後のヴァースへ。
You can feel all you need to know
Be open eyed and open wide
And ride the wind, ride the wind, ride the wind...
「風に乗れ、口笛を聴け、知る必要のあることはすべて感じ取ることができる、目を見開き、大きく開いて、風に乗れ、風に乗れ」
知る必要があることはすべて感じ取ることができるのも、やはり知覚の変化がもたらす現象です。しばしば、世界の秘密を解明した錯覚に陥るといわれています。目は開いたほうがいい人もいるでしょうし、つぶったほうが世界を見られると考える人たちもいます。ただし、ここでいっている「目」とは、両眼のことではなく、もうひとつの目、「知覚の目」である可能性が高く、この第三の目を開けというのであれば、このヴァースもリアルな描写といえるかもしれません。これで、「スペース・コリダー」に突入する準備は整い、「風に乗」って光と色彩と音響と「世界観知覚」の時間がはじまります。
ライヴ・ヴァージョンでは歌詞は変形されていますが、基本的には、ライヴらしく、オーディエンスへの呼びかけ(youの前にpeopleをはさんだり、come onを入れたりなど)が加えられるだけです。
◆ ギター・バンドからピアノ・トリオへ ◆◆
ヤングブラッズは、ニューヨーク=ボストンのフォーク・コミュニティーを行ったり来たりしていた3人のフォーキーに、バックビートなんか叩きたくなかったけれど、一文無しで選択の余地がなかったジャズ・ドラマーが加わって生まれたグループです。
まだジェリー・コービットがいて、ニューヨークで録音し、フィーリクス・パパラーディーがプロデュースしたセカンド・アルバムまでと、コービットが抜け、ハリウッドやサンフランシスコで録音するようになったサード・アルバム以降は、極論するなら、別個の音楽と見たほうがいいと感じます。
もちろん、時代の変化も大きく作用し、サイケデリック以後、多くのバンドが変貌を遂げています。ヤングブラッズも、ラヴィン・スプーンフル風のスタイルから、なんといえばいいのかわからない時期(ジャズ・オリエンティッド・エレクトリック・ピアノ・ドリヴン・ア・ラ・ジャグバンド・フォーク・ロック???)を通過し、最後はアク抜きしてふやけたロカビリー・バンドのようなものになって死にます。
初期のラヴィン・スプーンフル的な時期も、当然ながら好きですが、その後のへんてこりんなバンドの時期が、わたしとしてはもっとも楽しめました。アルバムでいうと、Elephant Mountain、Rock Festival、Ride the Windの時期です。といっても、スタジオ録音はElephant Mountainだけで、あとの2枚はそれをライヴでやったようなものにすぎないのですが。
◆ 「バナナ」と名乗る男 ◆◆
Ride the Windという曲は、Elephant Mountainのアルバム・クローザーとして、最初はアコースティックな形で登場しました。
ジェリー・コービットという人をどう評価するかによるでしょうが、Elephant Mountainというアルバムは、わたしはヤングブラッズの代表作だと考えています。ポップであるより、アーティスティックであるほうがいい、などとは断じていいませんが、しかし、このケースでは、アーティスティックな方向にシフトしたことが、いい結果を生んだと感じます。
なにしろサイケデリックとトータル・アルバム・ブームの最中に録音された盤ですから、よけいな遊びやらSEやらがいっぱい入っていますが、楽曲の出来もいいし(Sunlight、Beautiful、Quicksand、Smug、Rain Song、そしてインストゥルメンタルのOn Sir Francis Drakeなど)、最初の2枚にくらべ、ゆるめのほうにグルーヴが微妙に変化したことも美点になっています。数ある「ペパーズの子どもたち」のなかでも、上位にくる一枚でしょう。
さまざまな変化のなかでいちばん大きかったのは、ジェリー・コービットがいるあいだは、基本的にはギターを中心とするサウンドだったのが、このアルバム以後、バナナ(ローウェル・レヴィンガー)が、ギターよりもアコースティック、エレクトリック、両方のピアノを弾くことが多くなり、ちょっとよそにはない不思議なサウンドが生まれることです。
なぜ不思議かというと、バナナのピアノはどうひいき目に見ても「うまい」とはいえず、そもそも、ピアノっぽくないラインを弾くのですが、それが妙に味のあるプレイなのです。こんな推測に同意してくれる人はほとんどいないでしょうが、わたしは、バナナはバンジョーのプレイを、そのまま鍵盤上に展開したのだと考えています。Rock Festivalに収録されたInterludeという、バンジョー・インスト(バンジョーもうまくない!)を聴いて、ピアノとバンジョーのラインがよく似ていると感じました。
バナナというプレイヤー自身が、そもそも不思議なキャラクターなのです。ギターもバンジョーもうまくないうえに、ピアノもテクニカルではなく、しかし、マンドリンだの、ペダルスティールだのと、なんでも手あたりしだいにプレイし、どれも味があるのです。まあ、ピアノがいちばん面白いと思いますが。
バナナのピアノが好きだなんていう変わり者は、わたしぐらいかと思っていましたが、1970年だったか、ゲーリー・バートン・カルテットで来日したとき、スティーヴ・スワローが、ヤングブラッズが好きだ、といっていました(ほかにトラフィックと、たしかグレイトフル・デッドもあげていた。俺と同じだ、趣味がいい、と思った記憶あり!)。
そのときはとくに意味のある発言とは思いませんでしたが、後年、バナナのソロ・アルバム、Mid-Mountain-Ranchで、2曲だけですが、スティーヴ・スワローがゲストでベースをプレイしているのを聴き(スワローはアップライト、フェンダーの両方をプレイするが、このときはフェンダーのみ)、あ、ほんとに好きだったのかよ、と驚きました。しかも、1曲(Great Blue Heron)はストレートな4ビートです。このときのバナナのピアノがまた下手くそなんですが、じつに味があって、ピアノ・トリオなんか大嫌いなくせに、この曲はじつに楽しく感じます。ドラムのジョー・バウアーも、こっちが本職なので、きれいなブラシ・ワークをやっています。
◆ ゾウの山に吹く風 ◆◆
例によって、話が脇道に入っていってしまいました。Ride the Windは、うちには3ヴァージョンあります。68年のElphant Mountain収録スタジオ・ヴァージョン、71年のアルバムRide the Wind収録のライヴ・ヴァージョン、そして、後年のブート(69年録音)に収録されたライヴ・ヴァージョンです。
スタジオ盤は、ドラム、ベース、アコースティック・ピアノ、ヴァイブ、コンガという楽器構成で、バナナがヴァイブをダブルでやった可能性もゼロではありませんが、おそらく、本職のプレイヤーの仕事でしょう。盤には、special thanksとして、ジョー・クレイトン、プラズ・ジョンソン、デニス・スミスという人への謝辞があります。プラズはもちろんいわずと知れたサックス・プレイヤーなので、クレイトン、スミスのどちらかがヴァイブ・プレイヤーなのだろうと思います。
ジェリー・コービットはこのアルバムの録音中に抜けました。Smugのように、コービットが参加していることがわかるトラックがありますが、Ride the Windは、もうトリオになってからの録音と思われます。コービットが抜けたことで、バナナがギターよりピアノを弾くことが多くなったのは、ギター一本よりは、ピアノ一台のほうがマシだ、と思ったからではないでしょうか。いや、たんに結果から逆算しただけの推測ですが。
このアコースティック仕上げのスタジオ盤Ride the Windも、十分に魅力的なトラックです。2コードに簡略化されてしまう、後半の長いインストゥルメンタル・パート(ヴァースは、D-C#-C-B-G-Gm-Bb-Aという、変則的進行)は、ヴァイブなりピアノなりが前に出てソロをとるという感じではなく、いわば環境音楽的に、呪文のように同じ場所をグルグルまわるのですが、単調さがいいほうの目に転がったと感じる、気持のよい浮遊感があります。
◆ ライヴ・ヴァージョン ◆◆
時代の流行だった「パワー・トリオ」(ジミー・ヘンドリクス・エクスペリエンス、クリーム)ならぬ、こんな「パワーレス・トリオ」で、ライヴなんかよくやったものだと思いますが、人間、なんとかしようという意志があれば、なんとかなるもののようです。カリフォルニアに移住して以後のヤングブラッズは、ライヴ・バンドとして活躍するようになります。
バナナは、ライヴではアコースティック・ピアノは使わず、かの有名なエレクトリック・ピアノを弾いていて、Ride the Windも当然エレクトリックでやっています。イントロで即座に拍手が起きているところから考えると、この時点ですでに、代表作とみなされていたのかも知れません。シングル・カットされたわけではないのですが。
バナナはおそらく正規の教育を受けたわけではなく、セルフ・トレインド・ピアニストなのでしょう。そういう人にとっては、鍵盤の軽いエレクトリックのほうがはるかに弾きやすく(本職のピアニストにとっては逆らしいが)、ライヴ盤Ride the Windのグッド・グルーヴは、主として、バナナのリラックスしたプレイがもたらしていると感じます。
トーンがまた独特で、これほどやわらかいエレクトリック・ピアノのサウンドというのをわたしは知りません。クレイグ・ダージの疳に障る金属的なフェンダー・ピアノのまさに正反対で、これもまたバナナらしいグッド・フィーリンを生む一要素になっています。
バナナというのは、なにをやってもつねにロウ・キー、どんな場面でもレイド・バックしているプレイヤーで、人柄がそのまま音に出たのではないかと感じます。子どものころからずっと、そういうイメージでバナナを見てきました。バナナなんて名乗る人物は、人に騙されることはあっても、人を騙すことはないにちがいありません。
ジョー・バウアーは、ロック・バンドなんかやりたくなかったと断言しているだけあって、非ロック的な曲になると、リラックスしたプレイをします。Ride the Windは4/4ですが、ノーマルな8ビートではなく、バウアーにとっては、やりたいタイプの音楽と、やりたくないタイプの音楽の中間あたりではないでしょうか。タイムは比較的いいほうなので、サイドスティックやライド・ベルといった、もともと得意としたプレイを中心としたRide the Windは、楽しんでいることが感じられます。これも、このヴァージョンを心地よいものにしている要素です。
ジェシー・コリン・ヤングは、ヤングブラッズを発足する以前は、ギター一本でうたう典型的なフォーキーだったことが、キャピトルに残されたSoul of a City Boyというアルバムでわかります。ギターをベースに持ち替えた瞬間から、Get Togetherのプレイのような、本職も真っ青のグルーヴを生み出せるものかどうか、いくぶん引っかかるものを感じます。
ヤングブラッズの初期のプロデューサーは、フィーリクス・パパラーディーです。したがって、ひょっとしたらヤングはベースを弾かなかったのかもしれない、という疑いがきざしても無理はないでしょう。断定は避けますが、アルバムRide the Windに収録されたライヴのGet Togetherは、テンポがやや速いこともあって、スタジオ盤のような瞠目するほどのグッド・グルーヴではありません。
しかし、初期はどうあれ、Elephant Mountain以降はヤングがベースをプレイしたのはまちがいないでしょう。元フォーキーにしては、上出来だと思います。なにしろ、3人しかいないので、ベースが弱いと、冗談抜きで「パワーレス」になっちゃいます。
いいシンガーはいいベーシストの素質をもっているものです。ベースというのが、すぐれてハーモニックな楽器だからです。ヤングのプレイにも、シンガーとしてのハーモニー感覚が感じられるラインがよく出てきます。タイムも悪くありません。ただし、ヤングブラッズのベースで非常にいいと感じるのは、Get Togetherなどの初期のスタジオ録音のほうです。
◆ ふたたびギター・バンドへ ◆◆
残るヴァージョンは、ブートなので、簡単に。そもそも録音が悪く、バランシングもひどいので、それが興を殺ぐ結果になっています。なんたって、イントロでいちばんよく聞こえるのは、キック・ドラムなんですから。
この時期には径の小さいキックを高めにチューニングし、ヘッドを外して、毛布などでミュートするのが主流です。つまり、「リング」させない、短くシャープなサウンドということです。ところが、バウアーのキック・ドラムは、たぶん、大昔のジャズ・ドラマーがよく使った、径が大きいタイプで、チューニングも低くしているように聞こえます。まるでコンサート・ベース・ドラムのように「リング」しているのです。これは、サイケデリック時代どころか、それ以前だって、ポップ/ロックの世界ではあまりお目にかかれません。
しかし、それ以外はべつにマイナス要素はありません(バウアーのタムタムやスネアの使い方はどの時期もあまり好きではないが)。この69年の段階で、ライヴでのRide the Windのアレンジはすでに固まっていたことがよくわかります。71年のアルバムRide the Wind収録ヴァージョンそのままのスタイルなのです。
Sugar Babe、フレッド・ニール作のDolphinなど、アルバムRide the Windと重なる曲は、いずれも、後年の形と変わりありません。Sugar Babeは、ライヴでのピアノ・ヴァージョンのほうが、Earth Music収録のギター・ヴァージョンよりはるかに楽しめます。コービットが抜けたことが、いいほうに作用した曲でしょう。まあ、ライヴでのSunlightのベースレス・アレンジはいただけませんが。
ヤングブラッズはアルバムRide the Windが録音された71年に、ほぼ壊れたとみなしていいでしょう。この年にジェシー・コリン・ヤングはソロ・アルバムをリリースしていますし、翌年にはバナナもソロ・アルバムを出します。
ヤングが新しい楽曲を自分のアルバムのほうに投入した結果、Good and Dusty(71年)とHigh On A Ridgetop(72年)という、ヤングブラッズの2枚のスタジオ盤は、気の抜けたロックンロール・カヴァーで埋め尽くされることになります。まともな曲はヤングの旧作Dream Boatと、バナナのHippie from Olemaぐらいしかありません。
しかし、あの音楽スタイルで、トリオというのは、はじめからかなり無理があり、うまくできる曲の幅が極度に狭いため、むしろ、68年から71年までよくもったと感じます。そして、この苦しい状態が独特のサウンドを生み、それが大きな魅力になったのもまちがいありません。
末期には、マイケル・ケインというベースを入れ、ヤングがギターに転じて、初期のようなギター・バンドにもどりますが、そうなってみると、たんにうまくないギターが二人いるだけの凡庸なバンドにしか聞こえないのだから、なんとも皮肉なものです。