- タイトル
- Skylark
- アーティスト
- Tak Shindo
- ライター
- Hoagy Carmichael, Johnny Mercer
- 収録アルバム
- Brass and Bamboo
- リリース年
- 1960年
- 他のヴァージョン
- Tal Farlow, John Lewis, Paul Weston, Ray Anthony, Art Blakey & the Jazz Messengers, Hoagy Carmichael, the Singers Unlimited, Supersax & L.A. Voices, Dinah Shore, Linda Ronstadt
中休みを入れつつ、ひと月ほどにわたってお楽しみいただいた、Tonieさんによる「日本の雪の歌」特集でしたが、読み終わってみて、「隠れたお題」は「近代日本における欧米文化」だった、と感じました。
「真白き富士の嶺」や「新雪」や「雪ちゃんは魔物だ」は、原曲が西洋ものであることがはっきりわかっています。「かくれんぼ」や「私の鶯」にも、「参照」したと考えられる西洋の曲がありましたし、きわめて日本的題材を扱っているように見える「お座敷小唄」ですら、音楽的な骨組にまでストリップ・ダウンすると、「純粋に」といっていいほど西洋音楽的です。近代日本の音楽に西洋的「オーセンティシティー」の概念を持ち込んでも、たぶん、なにもわからないだろう、というのが、Tonieさんの特集を読んでのわたしの結論です。
西洋人は、すくなくともオーセンティシティー(「正統性」と「正当性」と「純粋性」を足して3で割ったような意味で使っていますが)の問題に悩まされないのだから、その点だけでも幸せだな、と思いました。しかし、もう一度、頭をめぐらせてみたら、はたして、そういっていいかどうか、自信がなくなりました。ほんとうに欧米の人間は、文化的オーセンティシティーの問題から解放されているのか?
そう思ったのは、春の曲をリストアップしていて、西洋と東洋の「仮想的狭隙」で仕事をしたミュージシャンのことを思いだしたからです。
◆ 霧の中のmeadow ◆◆
今日の主役は楽曲ではないのですが(といいつつ、柄にもなく、タル・ファーロウ盤のコピーに挑戦してしまった!)、恒例なので、ちょっとだけSkylarkの歌詞を見ます。ファースト・ヴァース。
Won't you tell me where my love can be?
Is there a meadow in the mist
where someone's waiting to be kissed?
「ヒバリよ、なにかぼくに告げることはないのか? ぼくの愛する人がどこにいるのか教えてくれないか? どこかに口づけを待つ人のいる霧に包まれた緑の丘はないのか?」
meadowというのは、辞書には「採草地、(永年)牧草地、草地、草刈地《特に 川辺の草の生えた未開墾の低地; 樹木限界線近くの緑草高地》」とあり、pastureを参照せよ、といっています。
直訳するとあまり詩的ではない日本語になってしまいますが、「♪僕は英語の習いたて」のころ、Till There Was Youの歌詞カードでこの単語を拾い出し、辞書で意味を知ったときは、じつにいい言葉だと思いました。この言葉の直後にオーギュメントの音が入る、子どもにはエキゾティックに響いたコード進行とともに、meadowsという言葉の響きも深く脳裏に刻み込まれました。meadowはかならずしも高い場所ではないのですが、Till There Was Youの連想(There were bells on the hill)で、「丘」としました。
セカンド・ヴァースは以下のようになっています。ヒバリが出てくれば春と決まっていますが、ほんとうに春の歌だという証拠として示します。
Where my heart can go a-journeying
Over the shadows in the rain
To a blossom covered lane
時間とスペースがもったいないので、歌詞は以上で切り上げます。今回は、楽曲はただの枕、エクスキューズにすぎません。ジョニー・マーサーはいい作詞家ですが、この歌詞はわたしのテイストにはちょっと甘みが強すぎます(こんなブログをはじめたせいで、義務的にスタンダードを大量かつ集中的に聴いたため、スタンダード・アレルギーを発症してしまったせいもある。ピアノ・アルペジオのイントロやスネアの「ブラシ廻し」を聴くと、ボーズを殴りつけたくなる!)。春の歌だとわかれば、それでSkylarkの役目は終わりです。
◆ 合わせ鏡の無間地獄音楽 ◆◆
さて、今日の主役は、ジョニー・マーサーでもなければ、ホーギー・“ウィシュボーン”・カーマイケルでもなく、アルバムBrass and BambooでSkylarkを取り上げた、アレンジャー、作曲家、音楽学者、南加大のタク・シンドー教授です。
当ブログではしばしば言及している、キャピトルのUltra Loungeシリーズの1枚、Space Capadesに収録されたStumblingのアーティストとして、この人の名前をはじめて見たとき、うかつにも、インド系かなあ、などと思ってしまいました。まぎれもない琴の音が鳴っているというのに! おそらく、漢字で書けば新藤、進藤、真藤といった苗字で、名前は「たけし」を縮めたものだそうです。日系二世のミュージシャンなのです。
そうとわかったとたん、わたしの額から、筑波山の麓でとった四六のガマのように、たらーり、たらーりと膏が流れはじめました。Stumblingという曲のサウンドは、明らかにエキゾティカだからです。ご存知ない方のために説明すると、「エキゾティカ」というのは、アメリカ人が「はるか海の向こうにあるといわれる」国々からやってきた「ように」聞こえる音楽として、仮想的に生みだしたものであって、現実の東洋音楽とは、又従兄弟の知り合いのそのまた知り合いの家のはす向かいの家の二階の四畳半の間借人ぐらいの血縁にすぎないのです。
しかるにですな、タク・シンドーは、アメリカ生まれとはいえ、日系人、それも、ジョンだのトムだのジムだのといった生まれもつかぬファースト・ネームではなく、たけしという、立派な日本人の名前を持つ人です。そういう人が、なぜ現実の父母の国を、音楽的な竜宮城かアトランティスかムー大陸のようなものにしてしまうのか? ここでわたしの思考は、四方を鏡に囲まれた四六のガマの無間地獄に陥り、脱出できなくなってしまったのです。
◆ 日本人を演じた日本人 ◆◆
「ハリウッド」という言葉は、しばしば音楽にまつわる疑問に解決をあたえてくれます。ハリウッドではどんなことでも起こる、とレイモンド・チャンドラーが保証したぐらいでしてね。タク・シンドーだって、仕事場がハリウッドならば、チャンドラーやハメットやフィッツジェラルドですらそうしたように、なんでもやるしかないのです。そう考えれば、シンドーが日本人としての「根」は棚上げにし、ハリウッド人種が空想するJapanese rootsを利用して、音楽をつくっていったのだということは容易に想像がつきます。
今回調べていて、タク・シンドーに関する詳細な学術的研究を見つけました。この論文のおかげで、いろいろな事実がわかりましたが、大筋において、自分の想定を修正する必要は感じませんでした。
最晩年のインタヴューで、彼は、ハリウッドが自分に求めるものを、ハリウッドの空想に鋳型に合わせて提供しただけであり、日本の現実の音楽を反映したわけではない、という趣旨のことをいっています。ハリウッドに働くあらゆる人間の必需品であるプラグマティズムを、タク・シンドーも実践しただけなのです。まぎれもない日本人の血のおかげで、彼が「これが日本的である」といえば、ハリウッドはそれを信じたのです。それはそうでしょう、シンドーは、ハリウッド人種にわかるものだけを提示したのですから。
しかし、わたしの脳中の四六のガマはまだ消えません。やっぱり、どこかねじれていると感じるのです。そのねじれはハリウッドの力をもってしても、真っ直ぐにはなってくれません。
いったい、どこを基準点にして見ればいいのか、そこがわからないのです。シンドーは音楽的にはジャズをルーツとしたアメリカ人ミュージシャンであり、日系人として、大人になってから日本の音楽を学問的に研究し、その過程で琴などの楽器もプレイするようになりながら、いっぽうで、一時的ではあれ、アメリカ人が空想する架空の東洋の音楽を生みだす作曲家、アレンジャーとしてハリウッドで活躍しもしたのです。
さらにもうひとつ、わたしという、日本人でありながら、日本の音楽にはまったく興趣をおぼえず、子どものころからロックンロールばかり聴いて純粋培養的に育ったリスナー、という次元まで加わり、複雑性は幾何級数的に増大して、なにから手をつければ、このねじれを解消できるのかわからないほどです。
そもそも、これは先達の方たちがすでに繰り返し言及しているはずのことですが、日本人がエキゾティカを聴くことそれ自体が、「自分たちが他国の人間にどのように“空想”されているかを知ろうとする」行為であり、それだけですでに「メタ」なのです。
エキゾティカの作り手が白人でありさえすれば、この程度のメタは現代では当たり前のことで、マーティン・デニーやアーサー・ライマンやレス・バクスターを聴いているぶんには、ちょっと収まりかえって、片頬に皮肉な笑みを薄く浮かべつつ、「一次元メタ」を楽しむことができます。
いや、さらに一歩進めて、日本人がつくる疑似エキゾティカないしはメタ・エキゾティカであっても、それはそれで、「シャレね」と理解し、二次元の「メタ・メタ」をクリアすることもできます。
しかし、アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系ミュージシャンが、アメリカでつくった疑似日本風音楽(しかも、それがまったくオーセンティックではないことを、日本音楽の研究者でもある作り手は百も承知していた)を、日本人として聴くのは、もう一次元あがった「メタ・メタ・メタ」で、めまいを起こしそうな経験なのです。
◆ アレンジャー「進藤たかし」 ◆◆
どうも落ち着かない、と感じながらもタク・シンドーを聴くのは、ひとつには、彼がかなり腕のいいアレンジャーだからです。Skylarkにも、それはあらわれています。この曲でも、ハリウッドが彼に求めるもの、「オーセンティックな日本」風味である、琴のオブリガートを入れていますが、それを取り去れば、(自己撞着気味の表現だが)「オーセンティックなハリウッド音楽」であり、この曲の他のヴァージョンより、わたしにはずっと好ましい出来に感じます。
上記の論文を読んではじめて知ったのですが、1960年代、シンドーは日本ビクターの仕事で日本を訪れ、日本の曲を録音しています。アルバムの存在を知らなかったのだから、もちろんもっていません。この論文に付された「春の海」と「桜」の冒頭のみのサンプルを聴いただけです。
タク・シンドーは、ここではハリウッドで利用したエキゾティカ的装飾(琴のギター的ストロークやゴングなど)はいっさい使っていませんし、もちろん、メロディーを崩して、なんの曲だかわからないものに仕立てるようなこともしていません。ジャズにルーツをもつ日本人アレンジャーの仕事であってもおかしくないような、日本的な曲のまっとうなオーケストラ・アレンジです。やはり、シンドーが腕のいいアレンジャーであることを確認できました。
これでわたしのガマの油も引っ込んだかというと、逆に倍加してしまうのが想像力のおそろしいところです。鏡に囲まれた四六のガマがおのれの姿を見て、たらーり、たらーりと膏を流すのは、想像力のせいなのです(いかに四六のガマとはいえ、所詮、カエルにすぎない、カエルに想像力があるか、などという脇筋の些細な疑問は、この際、棚上げに願いましょう)。タク・シンドー編曲・指揮による「春の海」に「編曲・服部克久」と書いてあれば、なるほど、と思うはずなのに、タク・シンドーと書いてあるばかりに、わたしの想念はやはりメビウスの環を描きはじめます。
アメリカで生まれた日系アメリカ人ジャズ・ミュージシャンが、長じて日本の音楽を研究し、日本にやってきて、日本人リスナーのために、宮城道雄の曲をアメリカ的センスでオーケストレートする、というのは、やはり、ちょっとアングルを変えただけの「鏡地獄」的状況なのです。
さっきから同じことばかり書いているような気がしてきたので、頭を冷やすために、本日はここらで切り上げさせていただき、明日以降にSkylarkの他のヴァージョンをざっと見ることにします。