私の鶯 by 李香蘭 その2
タイトル
私の鶯
アーティスト
李香蘭
ライター
サトウ・ハチロー、服部良一
収録アルバム
私の鶯
リリース年
1943年
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ゲストライターのTonieさんによる「日本の雪の歌」、本日は「私の鶯」の後半です。

奇妙な偶然もあるものだと思ったのですが、一昨夜、就寝前にたまたま手に取った、鮎川哲也『貨客船殺人事件』の冒頭に収録された「夜の散歩者」に、つぎのようなくだりがありました。パーレン内も、わたしのお節介ではなく、著者自身による注です。

「ぼくらのあいだで議論になっているアラビエフ(正確にはアリャービエフ)はロシヤ歌曲の創始者といわれている半しろうとの音楽家だが、その作品としてあまねく知られているのは《うぐいす》一曲しかない。ボクはその理由をこれしか作曲しなかったからだといい、水木は、他に数多くの曲を書いたがたまたま《うぐいす》だけがヒットしたのだといった」

鮎川哲也は満州育ちであり、クラシック音楽の愛好者としても知られ、SP盤取引きの世界を舞台にした『沈黙の函』という長編も上梓しています。さて、そのアラビエフないしはアリャービエフの《うぐいす》が、本日の記事にどう関係してくるか、それは本文のほうでどうぞ。(席亭songsf4s敬白)

◆ クラシックと服部メロディ ◆◆
曲自体の解説は終了しました。ここからは、余談というか、「粉雪」と「鶯」をキーワードに、「私の鶯」という曲の背景に少し迫ってみたいと思います。

まず、『私の鶯』という映画の内容を紹介しないといけないのですが、結構複雑なので、ビデオのパッケージの梗概を引用します。

「ロシアの声楽家ディミトリらは、ロシア革命で祖国を追われ、冬の満州をさまよっていた。瀕死のところを、偶然、隅田という日本人に救われた。しかし、くつろぎも束の間、突然の銃声が軍閥間の戦闘の始まりを告げた。逃亡中に隅田の妻は死に、傷ついた隅田も娘満里子と別れ別れになってしまった。それから十八年、消息の知れなかった満里子は、ディミトリに育てられて美しい娘に成長していた……」

f0147840_1722276.jpgこの娘が李香蘭であるのは、いうまでもありません。映画は、ロシア語主体ですが、日本語のシーンもあり、ロシア語だけで作られた黒澤明の『デルスウザーラ』以上に独特です。映画だけでなく、曲全体に満ち溢れている雰囲気もまた独特です。いうならば、この曲はおおよそ今までのポップスの流れから出てきたとは思えない、孤高性とでもいうようなものを感じるのです。

例えるなら、服部良一メドレーとして、「一杯のコーヒーから」や「銀座カンカン娘」と一緒に歌われているところがまったく想像できない歌なのです。もちろん、後半部分に技巧が必要なところがあって、歌える人がなかなかいないというのはあるのでしょうが、それだけの問題ではないように思います。

この「孤高性」がこの歌のどこに起因するのか、1週間ほど、ずっと考えていました。この歌には、どこかピンと張りつめた空気のようなものが充満していますが、この曲自体や李香蘭が歌うという行為そのものについて、感傷的すぎるとかエキセントリックだとか、思ったことはありません。結論らしい結論は出ませんでしたが、「孤高」というのは、もう少し次元の異なる問題のように思うのです。

ポップスとクラシックとを区別して考えることが適当かどうか分かりませんが、僕がひとつ思いついたのは、この「私の鶯」だけは「音楽家、服部良一のクラシックへの憧れが凝縮されて、衒いなく具現化されている曲」だろうということです。服部良一のほかの数千曲は、○○ジャズ、○○ルンバ、○○ブルースなど、どんなジャンルの曲であれ、ポップスが基調にあるけれど、「私の鶯」だけは異なる、また、クラシックの素養のある李香蘭によって、その具現化が可能になった、と考えるのです。

f0147840_1751556.jpg『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいました。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっています。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては指導者としても申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。こうした多様性が、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

李香蘭の歌は、クラシックのプロと比較すると、多少、危うげで苦しそうな音程の所もあるのですが、それもふくめて僕は彼女の歌声が非常に好きです。ラケル・メレよりもマルタ・エゲルトよりも好きです。もっと深くクラシックを学んだ二葉あき子じゃダメだったかというと、二葉あき子には服部良一作曲の名作「バラのルムバ」があるから、あえてこの曲じゃなくてもいいじゃないですか、とお茶を濁し、意をくみとってもらえれば、と思います。

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◆ メッテル先生の教え子 ◆◆
服部良一は、自伝で「私の鶯」について以下のように語っています。

「このときは、島津保次郎監督とハルピンに渡って仕事をした。ハルピン交響楽団の指揮者シュワイコフスキー(名刺には酒愛好スキーとしゃれていた)をはじめ、全楽員の協力で楽しく現地録音することができた。ハルピン交響楽団はメッテル先生が育てた東洋有数のオーケストラである。メッテル先生の思い出も楽しい話題であった」

つまり、共通の師であるメッテル先生への思いや、先生に教わってきたクラシック曲への思いを録音に込めたのではないかということです。もしかすると、メッテル先生の先生、リムスキー-コルサコフの作った『ばらのとりこになった夜鳴き鶯』の話もしたかもしれません。

残念ながら、自伝などには、「私の鶯」のことは、あまり詳しくは書かれていませんので、思い入れのある曲ではないため記載が少ないのか、戦時中の満州についてのコメントを差し控えた結果、記述が少ないのか、あるいは、自伝に求められていたのが「日本のヒット曲」だったため、該当しなかったのか、そのあたりは分かりません。でも、この楽団との仕事に満足している様子は伝わってきますので、演奏はうまくいったと思っているのではないでしょうか。

◆ ハチローの「粉雪」 ◆◆
作詞についてはわからないところがあります。例えば、先に映画製作サイドで題名を決めて詞を依頼したのか、サトウ・ハチローが曲の題名(=映画の題名)を決めたのか、といったことです。また、詞先なのか、曲先なのかも、わかりません。

後述しますが、ボクは映画製作サイドで『私の鶯』という題を決めて、「雪の満州」に「春が来る」ような詩を書いてくれ、とプロットも示して依頼したのではないかなと思います。そして、曲にあわせて詞をつけたのではないでしょうか。

サトウ・ハチローは随筆集『落第坊主』で次のように書いています。

「ボクは、詩を先に書いて、作曲家に渡すこともあるが、たいていは曲を先へ書いてもらって、あとからボクが詞をつけている。曲がりなりにも譜が読めるから、この方法の方が便利なのだ」

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また、『ぼくは浅草の不良少年 実録サトウ・ハチロー伝』(玉川しんめい)でもこれを補強するエピソードがあげられています。同書に引用された「詩と童謡」誌の座談会で、藤浦洸、片岡忠男、古関裕而、藤田圭雄(たきお)は、次のように回想しています。

片柳 (サトウ・ハチローは)音楽学校だけは行かなかったと思うね。
古関 ところが音楽やるんですよね、ハチローさんは。詩人のなかで譜面をすぐ読めるのは、こちらの藤浦さんとハチローさんぐらいじゃないかと思うんですけれどもね。
藤浦 そうですよ。
古関 ですから詩をお願いして、曲が先にできますよね。譜面をお渡ししてちゃんと詩を作っていただけるのは、藤浦さんとサトウさんしかいなかったですね。マンドリンなんかおやりになったようですから。
藤浦 マンドリンじゃない、ギターだよ。
藤田 ええ、ギター、うまいですね。

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先の服部良一自伝には、「楽しく現地録音することができた」とあります。曲は日本で作って持って行ったものと思われますが、詞先か曲先かはわかりません。いずれにせよ、歌詞は「それ、まで」のところを除けばピッタリ合っていると思います。

f0147840_17173931.jpg「私の鶯」が作られた1943(昭和18)年は太平洋戦争のさなかで、満州を舞台にした歌も戦争に直結した内容が多いのに、この曲の歌詞が戦争とは関係のない、普遍性のあるものになっているのは、サトウ・ハチローらしい単語の選び方によるところも大きいと思います。満州(とその奥地)が戦地として題材にされるときは「吹雪」が使われますが、「私の鶯」の雪は「粉雪」です。「王道楽土」の精神にもとづき、満州に悪いイメージを持たせたくないという意図もあるのかもしれませんが、それ以上にサトウ・ハチローが「粉雪」という単語を好きなのだと思います。

サトウ・ハチローは、「わたしのうた」という詩のなかで 雪国のうたを好んで作るといっています。

「わたしは東京生まれの東京そだち(略) わたしがこのんで 雪国のうたをつくるのは どうやら二人(※)から受けついだ 血のせいらしい 血のせいらしい」※父母を指す。

そこで、サトウ・ハチローは、どんな雪の歌を作っているか、詩集をパラパラとあたると、以下のような詩が見つかります。

「日向の雪」という詩では、「長い窓に日がふるへる 路には はらり 雪が降り」、「粉雪」という詩では、「お使ひがへりの 路地口で 袖にかかったこな雪を さらりはらって ふと思ふ」

このように、いずれもはかない雪がうたわれていました。きわめつけは「こんこん粉雪」という詩です!

サトウ・ハチローは、雪国育ちではなく、東京生まれの東京そだちだから、「粉雪」のようなはかないものに目をやり、「ちいさい秋」だけじゃなく「ちいさい冬」も見つけられたのだと思います。

さらにこの詩をみていくと、「オーロラ」のところでも取り上げた、北原白秋の「さすらひの唄」の影が、チラチラと浮かんできます。「さすらひの唄」の「鐘が鳴ります 中空に」は「窓に映る大空 鐘に祈る心」と、「遠い燈も チラチラと」は「胸にともるあかりは誰も知らぬ燈火」と、プロット的には似ているのです。

オーロラの件はともかく、サトウ・ハチローは「さすらひの唄」からはじまる、大陸・曠野ソングの系譜(ゆうだいなもの、えいえん)をふまえた上で、自分の視点(ちっちゃいもの、はかなさ)で書いたことで、ディテールの細かい作品に仕上がったように思います。

◆ 「鶯」の鑑定 ◆◆
それでは、この「鶯」の正体に迫ってみます。

もともと、原作は大佛次郎『ハルビンの歌姫』とされていますが、映画の『私の鶯』という題は、撮影所側が命名したのか、サトウ・ハチローが考えたのかわかりませんでした。サトウ・ハチローは各種の資料にあまり登場しませんから、もともと映画製作サイドの岩崎昶と島津保次郎監督が考えるのが普通です。

ボクは以下のような道筋を考えました。

1)歌の上手い李香蘭を主演に据えて、音楽映画を撮ると決めた時点で、タイトルを「鶯」に決めたのじゃないか。理由としては、李香蘭は、コロムビアでは、「春鶯曲」を昭和16年に発売してるし、女性の歌声から「鶯」というキーワードを連想したのではないか。

2)万が一、サトウ・ハチローが鶯をキーワードにしたなら、彼の師である西條八十の『砂金』に収録されている「鶯」という詩の影響を受けた詩を書くに違いないが、まったく違う(『砂金』の「鶯」は月の夜のうぐいすの話)ので、詞の内容はタイトルにそって考えた。

3)万葉集以来、雪との親和性が高い春告鳥である「鶯」だが、服部良一は、この「鶯」を野口雨情作詞、中山晋平作曲の「鶯の夢」の「鶯」ととらえていない。

4)この曲のモチーフとなったのは、解説にもあったとおり、「夜鶯」=小夜鳴鳥=ナイティンゲイルだった。

5)メッテル先生の先生である、リムスキー・コルサコフの『ばらのとりこになった夜鳴き鶯』なども参考にしているかもしれないが、アリャビエフの『夜鳴き鶯』(Соловей)の展開には相当オッと思う部分がある。服部良一は「鶯」という題名をきいて、アリャビエフの曲をモチーフに作曲したのではないか。大陸では、ナイティンゲイルなのに、日本に来るとたんなる鶯に化けちゃう、これが日本らしい歌の取り込み方だ。

f0147840_17355925.jpg6)このあと黎錦光が作詞作曲した「夜來香」でも「鶯」は歌われているが、日本に来ると化ける。たとえば、「夜來香」の2番の歌詞、「我愛這夜色茫茫也愛著夜鶯歌唱」、佐伯“東京の屋根の下”孝夫作詞の「長き夜の泪 唄ううぐいすよ 恋の夢消えて 殘る夜來香」、藤浦“一杯のコーヒーから”洸「庭にうぐいすの 鳴く音もゆかしく 清い月影にゆれる夜來香」など。

というストーリーで締めくくるつもりでした。しかし、調べていく内に新たなことが分かったので、もうひとつ付け足します。『私の半生』によると、この映画の企画は次のようなものでした。

「もともとこの映画は、来日したハルビン・バレエ団の舞台に感激した島津監督が親しい友人の岩崎昶さんと一夜、ミュージカル映画の夢を語り合って構想を練り映画化を企画したのだった。非常時に許可が下りるはずはなかったのだが、二人のパトロン的な存在だった東宝の製作担当重役、森岩雄さんの政治力で、東宝と満映に働きかけた結果、満映作品という名目で当局も目をつむったものらしい」

そして、岩野裕一「『私の鶯』と音楽の都・ハルビン」(『李香蘭と東アジア』収録)によると、この映画の下敷きは『オーケストラの少女』だったそうです。同書には、1939年3月の新聞で「満州映画協会ではこの古い伝統と歴史を持つ哈爾濱交響楽団の映画化を企画しており、世界を“あツ”と云はせるやうな素晴らしい音楽映画を製作しやうと張り切つてゐる、勿論オール・スターキヤスト、テーマは“オーケストラの少女”満洲版になる模様」と報じられた、とあります。

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1938年のキネ旬ランキングでは、『オーケストラの少女』は洋画第二位でした。そして、なんと、この年の邦画第六位に豊田四郎監督の『鶯』という映画が入っているじゃないですか!!

この映画『鶯』の内容を見ると、「生き別れた娘を探す老婆や鶯売りなど様々な人々が集う」とありました。ん? 生き別れた娘! 『私の鶯』と同じようなシチュエーションです。岩崎昶と島津保次郎が『私の鶯』のモチーフにしたのは、豊田監督の『鶯』だったのではないでしょうか。

◆ 「私の鶯」の重層構造 ◆◆
最近読んだ本にこんなことがかいてありました。岡倉天心が『茶の本』で「西洋人は、日本が平和におだやかな技芸に耽っていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる」と憤っているというのです。

これについて、高橋和己は「その憤りは、やがて照り返して、日本に、そして私たちにおおいかぶさってくる。なぜなら、私達は、そうした西欧の目によって、自己の東洋における優位を確信し、自己を位置づけたからである」とコメントしています。

このように「私の鶯」という曲は、僕の仮説に従うなら、「日本」の映画(『鶯』)を参考にして、島津監督らが命名した題名(『私の鶯』)から作曲家が発想した「海外」の曲(「夜鶯」)をモチーフにする「日本の曲」という重層構造をもっている楽曲である、ということになります。

この重層構造を強く意識するということは、西洋の目だけで歌謡曲をみていないかという自問にも繋がります。極論すれば、日本の歌は、どれも東京ビートルズと地続きです。「私の鶯」は、「日本と海外の雪の歌」を映す、あわせ鏡のような存在としても、すごく重要に思っている曲なのです。

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満州タバコ「ASIA」のパッケージ。満鉄の「特急亜細亜号」をあしらっている。

参考資料
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
四方田犬彦編『李香蘭と東アジア』東京大学出版会(2001)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)
サトウハチロー『サトウハチロー詩集』ハルキ文庫(2004)
長田暁二ほか『サトウハチローのこころ』佼成出版社(2002)
サトウハチロー『落第坊主 サトウハチロー随筆集』R出版(1971)
サトウハチロー『サトウハチロー 僕の東京地図』ネット武蔵野(2005)
玉川しんめい『ぼくは浅草の不良少年 実録サトウ・ハチロー伝』作品社 (2005)
佐藤忠男『キネマと砲声-日中映画前史』リブロポート(1985)
山口猛『幻のキネマ満映 甘粕正彦と活動屋群像』平凡社ライブラリー(2006)
服部良一『ぼくの音楽人生』日本文芸社 (1993)
服部克久監修『服部良一の音楽王国』エイト社(1993)
CD『服部良一 僕の音楽人生』付属ライナーノート
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by songsf4s | 2008-03-17 23:44 | 日本の雪の歌