- タイトル
- Indian Summer
- アーティスト
- Glenn Miller
- ライター
- Victor Herbert, Al Dubin
- 収録アルバム
- Moonlight Serenade
- リリース年
- 1941年(?)
- 他のヴァージョン
- Nelson Riddle, Frank Sinatra, Ginny Simms, Buddy Cole
インディアン・サマーというのは、晩秋のポカポカ陽気、日本でいう小春日和(日本の場合は十月ですが)にあたるものです。なぜ、インディアンの夏なのかということについては、諸説あるようです。ということは、だれにも確たることはわからないということです。
インディアン・サマーをテーマにした曲というのは、ヴァン・モリソン、ポコ、アメリカ、ドアーズなど、それなりの数があるのですが、こうした時代の近いものはまたの機会に譲り、今回はもっとも有名な、スタンダードのIndian Summerを取り上げます。1919年(第一次世界大戦終結の年)に書かれたときには歌詞がなかったものに、1940年、アル・ドゥービンが歌詞をつけた結果、この曲は有名になったそうなので、インストゥルメンタルのほうがこの曲の本来の姿ですが、いちおう、歌詞を検討します。
◆ また出てきた六月の主題 ◆◆
ファースト・ヴァース。
You're the tear that comes after June-time's laughter
You see so many dreams that don't come true
Dreams we fashioned when Summertime was new
「年老いたインディアン・サマーよ、おまえは六月の笑いのあとにやってくる涙、おまえは実らなかった無数の夢を見てきた、まだ夏のはじめにわたしたちが見た夢を」
oldというのは、ときに微妙でやっかいな単語ですが、ここでは、愛憎なかばする呼びかけのように感じられます。oldには「(老練で)ずるがしこい」という意味もありますが、どちらかというと、そういうニュアンスが強いかもしれません。
なぜ七月や八月ではなく、六月なのかというのは明白で、六月が幸福の月だからです。そのあたりのことについては、June Night by Betty Everett、Both Sides Now by Judy Collins、A Salty Dog by Procol Harum、The Thirty First of June by Petula Clarkといった六月の記事でふれました。ずいぶん、しつこくやったものだと思いますが、歌では六月は重要なテーマでして、来年の六月には大々的に特集を組むつもりです。ん? だれか、笑いましたか?
日本語では、小春日和のことを「小六月」ともいうのは、たんなる偶然の一致ですが、ちょっと愉快ではあります。一瞬、六月はまだ盛夏ではないから、七月や八月ではなく、「小六月」というのかと思いましたが、考えてみると、太陰暦では、六月前半はともかく、後半はもう盛夏でしょう。インディアン・サマーは、夏というほど気温が上がるわけではないそうですが、そこは言葉のあやというものでしょう。小春日和のほうが理屈には合っていますが、そのぶんだけ、言葉として遊びが小さいと感じます。
夢をfashionするとして、dreams we dreamedとしなかったのは、重複を嫌ったためでしょう。ママ・キャス・エリオットのDream a Little Dream of Me(作者はジョン・フィリップス)のように、重複の効果を利用した曲もあります。
◆ 季節はずれのお化け ◆◆
セカンド・ヴァース。これがラスト・ヴァースで、コーラスやブリッジはありません。
Some heart that is broken by a word that somebody left unspoken
You're the ghost of a romance in June going astray
Fading too soon, that's why I say
Farewell to you, Indian Summer
「おまえは、だれかが語らずにすませた言葉で傷ついた心を見守りにやってきた、道に迷った六月の恋の亡霊にすぎない、だからはおまえとはもうこれきりだ」
ゴーストというのが、なんだかテレビのゴーストみたいで、ちょっと愉快です。六月の夏は実像、インディアンの夏のほうは虚像ということでしょうが、日本語には「季節はずれのお化け」なんて言いまわしもあるわけで、作詞家の意図とは関係のないところで、妙に可笑しい歌詞です。
いくつか解釈のしようがある歌詞だと思いますが、歌というのは、どう解釈してもかまわないもので、われわれは気に入ったラインだけを取り出し、それを自分の気分や身の上や過去の出来事にあてはめて聴いているものです。
なんてえんで片づけてしまうのでは愛想がなさすぎますかね。たとえば、六月に芽生えた恋がまずくなり、半年近くたって、ポカポカした晩秋の日に、その相手とバッタリ会ってしまい心が揺れた、その気分を歌っている、なんてのはいかがでしょう。お気に召さなければ、お好きなストーリーをご自分でどうぞ。歌とはそういうものです。
◆ 強力な管のアンサンブル ◆◆
コード進行のせいか、どのヴァージョンも、ヴォーカルより、バッキングのアレンジに耳がいきます。それも、どちらかというと、ストリングスより、ホーンに向いていると感じます。いちばん響きのよいアレンジはグレン・ミラーです。まあ、グレン・ミラー楽団の管楽器のコンビネーションというのは、どう転んでもいい音になるようにできているのだから当然なのですが、こういう曲だと、いちだんと心地よく感じられます。
とりわけ、ヴォーカルの冒頭部分に付される、Bb-A-Ab-Gと下降する音を中心とした、半音進行の和音のオブリガートは、ほとんどエロティックといっていいほどです。まあ、半音進行というのは、本質的にそういうものなのですが、グレン・ミラー・スタイルのアンサンブルでやると、極限の効果だと思います。いや、「トリスタンとイゾルデ」の弦による半音進行のsensualityにはひけをとるかもしれませんが!
エルヴィス以降のポップ/ロック系音楽ばかり聴かれているお客さんのために、あえて贅言を弄します。ビッグ・バンドには専属歌手というものがいて、インストゥルメンタル・オンリーではなく、合間合間に歌もやるのがふつうでした。フランク・シナトラは、ハリー・ジェイムズ楽団やトミー・ドーシー楽団の専属歌手を務めたあとで独立しています。たしか、ジェイムズ・ステュワートが主演した『グレン・ミラー物語』で見たと思うのですが、用のないときは、歌手が舞台袖の椅子にじっと坐っているのが、子どもにはなんだか奇妙に思えました。
ストリーミングをふくめて、グレン・ミラーのIndian Summerは2種類聴きました。アンドルーズ・シスターズと共演したときのラジオ・トランスクリプションだといっているものは、男性歌手(MCの紹介によると、ポール・ダグラスという人らしい)が、When sumertime was newの「summer」のところで、最高音をヒットしそこね、フラットしているのが気になりました。まあ、なかなか難曲で、そのなかでも、ジャンプやスラーがつづくこの周辺は歌いにくい難所だとは思いますが、当然ながら、きちんと歌っている人もいます。
ビッグ・バンドは譜面にしたがってプレイするので、2種のヴァージョンはほぼ同じアレンジでやっているようです。管に関しては甲乙つけがたし。
◆ ジョニー・ホッジズ ◆◆
1959年のネルソン・リドル盤は、純粋なインストゥルメンタルで、弦と管の両方が入っていますし、リード楽器も、フルート、ストリングス、フルートというように交代していきます。ファースト・ヴァースの終わり、ヴァイオリンが前に出てくるあたりから、セカンド・ヴァースにかけてがハイライトでしょう。チェロ、ヴィオラなどの低音域がいい音で鳴っています。ネルソン・リドルというと、わたしは派手なホーン・アレンジを思い浮かべてしまいますが、この曲を聴くと、ストリングスもけっして不得意ではないことがわかります。
デューク・エリントンと共演したフランク・シナトラのヴァージョンは、いいところと悪いところのモザイクです。Session with Sinatraによると、いろいろトラブルのあったプロジェクトのようで、なによりもリハーサル時間がたりなかったと、アレンジャーのビリー・メイがいっています。エリントン楽団のメンバーはサイト・リーディングが苦手だったのだとか。ジャズの世界、しかも、アレンジどおりにやるビッグ・バンドでそういうことがあるのかと、驚きました。
ビリー・メイは、べつにこれがダメな盤だといっているわけではなく、たったあれだけのリハーサルであそこまでできたのだから、もっと時間があったら、すごかっただろうといっているわけで、60年代のシナトラとしては、いいほうの盤だと感じます。
ただ、準備不足は、バンドではなく、シナトラのほうに大きな影響をあたえたような気がします。フランク・シナトラはワン・テイク・マンといわれていますが、そんなことが可能だったのは、スタジオに入る前に入念なリハーサルをし、完璧に仕上げているからです。グレン・ミラー楽団のシンガーと同じように、シナトラも、完全なミスとはいえませんが、When summer was newのsummerのところで、高音をちょっとはずしているのです。そのあとのスラー(newの語尾を上げる)も、いつものシナトラなら、完璧にうたっただろうと思います。
明るい面もあります。アルト・サックス・ソロがすごいのです。盤にはクレジットがないのですが、Session with Sinatraには、ジョニー・ホッジズという人のプレイだとあります。この本は、目に涙が浮かぶプレイだ、とまでいっています。わたしはサックス・ソロが苦手なので(複数になると大好きなんです)、まさか泣いたりはしませんし、このプレイにかぎっては好きだ、なんてこともいいませんが、好悪の感情を超えて、プレイの凄味はよくわかります。とにかく、むちゃくちゃにうまい! これほど千変万化する、ディテールに富んだ、微妙なコントロールは聴いたことがありません。
ほかにもヴァージョンがありますが、志ん生が思いきり力をこめて「いい~~~女!」といったあとみたいに気が抜けたたので、これにて切り上げます。ジョニー・ホッジズ、いい~~~プレイ! なにも、そんなに力をこめることはないんですがね。
昨夜同様、よけいなことを思いました。この曲を日本でカヴァーするとしたら、なんてずっと考えていたのですが、灰田勝彦かディック・ミネで決まりでしょう。