今宵は、『牡丹燈籠』に引きつづき、再び三遊亭圓朝の怪談噺の映画化です。
『牡丹燈籠』にも元があったように、『真景累ヶ淵』にも原話があります。いちおう「実話」ということになっている、下総羽生村で起きた悪魔憑きの事件から生まれたもので、「累物語」など、さまざまな名前で呼ばれる話から派生した落語です。
また、落語のほうには、通称「古累」という、より原話に近い版がありますが、もう高座にかけられることはめったにないでしょう。わが家にある「古累」の録音は、先代林家正蔵(彦六の正蔵)によるもののみです。
このあたりの原型にまでさかのぼってみたい方には、高田衛『江戸の悪魔払い師』をお薦めしておきます。東横線の「祐天寺」という駅がありますが、あの祐天寺の開祖、祐天上人がエクソシズムをしちゃいます。
中川信夫監督による映画『怪談かさねが淵』は、川内康範(作詞家として知られるあの人。わたしらの世代にとっては「月光仮面」の原作者といったほうが通りがいい)の脚本で、例によって長い噺を端折るために、大幅なプロット改変をおこなっています。
◆ 下総羽生村累ヶ淵、発端の場、宗悦殺し ◆◆
三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』は、はじまったときと、終わったときでは、場所も時代も人物もまったく異なっているという不思議な物語で、現在、口演され、知られている噺は、だいたい最初の三分の一までのどこかの場をダイジェストしたものです。
映画版『真景累ヶ淵』も、落語のほうで「宗悦殺し」といっている発端の場から、もっとも有名な「豊志賀の死」を挟んで、「お久殺し」と通称されているところまでを素材に脚色しています。
映画版は、下総の羽生村からはじまるように改変していて、圓朝版では江戸に住んでいる深見新左衛門も、盲目の鍼医者にして金貸しの皆川宗悦も、ともに江戸ではなく、羽生村の住人です。
雪の降る寒い夜、深見新左衛門の家に貸金を取り立てに行った宗悦は、酔った新左衛門と口論になり、誤って斬り殺されてしまいます。新左衛門は下男に命じて、宗悦の亡骸を累ヶ淵に沈めます。
ここまでは落語と同じなのですが、ここからは大きく改変し、登場人物を減らして、簡略化にこれつとめています。深見新左衛門は奥方に肩を揉ませていて、ふと振り返ると、それが宗悦に変わっているのを見て、おのれ迷ったかと斬りつけてしまいます。しかし、よく見れば、それはやはり奥方で、すでに事切れていました。
宗悦の幻影にまとわりつかれた新左衛門は、錯乱して刀を振りまわし、外を歩いているうちに、宗悦の骸を沈めた累ヶ淵にたどりつき、宗悦の幻影を斬ろうとして水にはまって死んでしまいます。
新左衛門にはひとり息子・新吉がいて、下男はこの赤ん坊を江戸に連れて行き、新左衛門が昔世話をした、羽生屋という小間物屋の前に、新左衛門の子であることを示す守り袋を添えて置いていきます。
◆ 因果の縁はせかんど・じえねれえしよんへと ◆◆
落語では、新左衛門には二人の息子がいて、これがべつべつに育ち、複雑に運命の糸がからんで話が進んでいきますが、映画は時間の都合で簡略化したのでしょう。同様に、宗悦にも二人の娘がいたのですが、これまたお累という一人娘に簡略化されています。
えー、例によって、そろそろ未見の方は読まないほうがいいくだりに入ります。年経て新吉はおとなになり、羽生屋で手代として働いています。落語では同僚の娘、じつは宗悦の次女と恋仲になるのですが、そこは略され(おかげでこの娘は命をまっとうする)、映画では羽生屋の一人娘に惚れられます。
お久の実の母はすでに亡く、若い義母がいて、これが近所の呉服屋の息子を娘の婿にしようとしているのですが、お久は新吉が好きなので、この縁談に困り抜いています。
お久は、豊志賀(じつは宗悦の娘のお累)という師匠に富本を習っています。お温習い会があった夜、お久が稽古の本を忘れたので、新吉は夜更けに豊志賀の家にとりにいき、以前から新吉に懸想していた豊志賀に誘われて、わりない仲になってしまいます。
ここいらまでくると、落語とはずいぶんちがう展開で、原作を知っていると、かえって混乱するほどです。兄弟がべつべつの女を相手にするはずが、映画では新吉が一手に引き受けるようになっています。
新吉は結局、豊志賀の家に泊まり、翌朝、お店〔たな〕に戻ります。たとえ一番番頭が岡場所にいっても夜更けにはお店に帰るもので、手代風情が無断で外泊するなどということは現実にはありえませんが、脚本家は新吉を羽生屋から追い出したくて、強引にそういう展開にしてしまったようです。
娘が縁談を嫌がるのは新吉に気があるためとにらんでいる義母は、新吉の朝帰りに、これ幸いとばかり、いきなり暇を出してしまいます。困った新吉は、結局、豊志賀の家に転がり込み、夫婦のような生活がはじまります(落語では、ここは新吉の兄の役どころ)。
◆ 渡辺宙明のスコア ◆◆
後半に入る前に、ここで休憩。今回は無精せずに、映画からサウンドトラックを切り出しました。
『怪談かさねが淵』のスコアを書いた渡辺宙明(=「みちあき」また「ちゅうめい」とも)は、さる方面では非常に有名な作曲家です。「忍者部隊月光」「人造人間キカイダー」をはじめとする実写の特撮ドラマ、「マジンガーZ」などのアニメの音楽をたくさんつくっているのです。
新東宝映画を見ていると、ほかに作曲家はいないのか、といいたくなるほど、渡辺宙明のクレジットばかり見ることになります。石井輝男作品などにはきわめてモダンなスコアを提供していて、じつに興味深く、いずれ正面からとりあげたいと思っています。
もちろんフルスコア盤などないので、以下はすべて映画から切り出したものです。すべてモノーラル、タイトルもわたしが適宜つけました。
サンプル 渡辺宙明「怪談かさねが淵メイン・タイトル」
サンプル 渡辺宙明「二十年後」
サンプル 渡辺宙明「陣十郎死す」
「メイン・タイトル」はその名の通り、オープニング・クレジットで流れるテーマです。「二十年後」は、発端の宗悦殺しから二十年たって、成長した新吉が登場する羽生屋の場面で流れます。「陣十郎死す」はクライマクスの人死にが重なる場面(後述)のものです。
渡辺宙明オフィシャル・サイト
◆ 豊志賀の死 ◆◆
ある日、豊志賀=お累は、棚から落ちてきた三味線の撥で額にケガをします。これが思いのほか深刻で、キズは治るどころかだんだん広がり、膿み爛れていき、豊志賀は病みついてしまいます。
富本の師匠などというのは、器量がいいと男の弟子がついて繁盛するものなので、亭主面した若い男が居座っていては男の弟子は寄りつかなくなります(と噺家は説明する)。そういうふしだらな師匠のところに嫁入り前の娘はやれないというので、女の弟子もいなくなってしまいます。
ひとりお久だけは見舞いに通ってくるのですが、年増の豊志賀としては、新吉をとられるのではないかと心配で、お久を嫌います。お久のほうはいよいよ義母の無理強いに困じ果て、ひそかに新吉を呼び出して相談します。
ここに落語には出てこない大村陣十郎(丹波哲郎)という浪人がいて、お久の縁談の相手の腰巾着をしています。陣十郎は豊志賀に横恋慕していたのですが、すっかり面相が変わったのであきらめたのか、色ではなく、欲で動くようになります。
陣十郎はお久と新吉の逢いびきの仲立ちをするいっぽうで、豊志賀にそれとなくそのことを知らせます。二人が逢っている料理屋に駆け込んだ豊志賀は、匕首を振りまわして大暴れし、結局、階段から落ちて気を失います。
これで豊志賀はすっかり衰え、いっぽうお久はいよいよ縁談がイヤになり、ここに陣十郎が暗躍して、新吉と駆け落ちする手はずを整えてやります。
そろそろエンディングに入るので、ご注意を。
ストーリー・ラインは再び落語に重なります。駆け落ちの前に、直しに出した豊志賀の三味線をとってこようと新吉は出かけます。新吉と職人が話していると、三味線の絃がぷつんと切れます。ゆるめてある絃が切れるとはめずらしい、といっていると、そこへ頭巾をかぶった豊志賀があらわれ、二人は驚きます、
具合が悪そうなので、新吉は駕籠を呼んでもらいます。そして、豊志賀を駕籠に乗せ、垂れを下ろしたところに、乳母がやってきて、お累さん(豊志賀)が死んでしまった、と泣き崩れます。
そんな馬鹿な、いま駕籠に乗せたところだ、と垂れを上げると、豊志賀の姿はなく、三味線の撥だけがありました。
◆ そして誰もいなくなった ◆◆
ただアホみたいにプロットを書きつらねているだけですが、たまにはそういうのもいいでしょう。いよいよエンディング、未見の方はいくらなんでも切り上げ時です。
新吉はお久を連れて、故郷の羽生村へと逃げます。陣十郎に、なんといっても金がものをいう、といわれたお久は、家から五十両をもってきたのだから、乗り物でもやとえばいいと思うのですが、かえって足がつくと怖れたのでしょうか。
累ヶ淵にたどり着いたところで、お久は、もう歩けないとしゃがみ込んでしまいます。新吉はすこしでも先に行きたいので、お久を背負うことにします。
お久を背負った新吉が、ふと振り向くと、それはお累の膿み爛れた顔に変わっています。驚いて新吉は腰を抜かし、お久を投げ落としてしまいます。たまたまそこに鎌があり、お久は足をケガしてしまいます。
新吉は、お累ではなく、お久だったことに気づいてあわてるのですが、鎌をもったとたん、またお累の醜い顔が見え、手にした鎌で斬りかかります。お久、お累、お久、お累とめまぐるしく変化し、結局、新吉はお久を殺してしまいます。
そこに陣十郎があらわれ、気が触れたか新吉、といいます。陣十郎の狙いはお久がもちだした五十両、あっさり新吉を殺して金を奪って立ち去ろうとします。
すると、あっちに豊志賀、こっちにお久、向こうに逃げれば新吉、こちらに逃げれば(お互い面識なしの赤の他人なのに)宗悦と、そこらじゅう亡霊だらけ、メチャクチャに刀を振りまわしているうちに、杭を斜めに切り、そのするどい先端にみずから覆い被さって、陣十郎も死んでしまいます。
◆ 因果なきところに応報あり ◆◆
圓朝の長い噺は、おおむね因果応報物語で、昔から圓朝といえば因果応報かつ勧善懲悪というようにいわれています。しかし、子細に検討すると、奇妙なところがあります。
『真景累ヶ淵』の場合、豊志賀=お累がじつに憐れです。彼女は、深見新左衛門に理不尽に殺された宗悦の娘です。それなのに、仇の息子の新吉に惚れただけでなく、あっさり捨てられてしまい、無惨な最期を遂げます。作者が金貸しを恨んでいた、ぐらいしか、お累がひどい目に遭わねばならない理由は思いつきません。しいていえば、みずから新吉を誘った色好みの罪でしょうか。昔はそういう倫理観があったかもしれませんが、現代の目で見ると、それくらいしかたなかろう、です。
お久も、新吉に殺されるに値する罪を犯したとも思えません。彼女になにか非があるとしたら、親が決めた縁談を壊して、好きな男と逃げたこと、その男には内縁の妻があったことぐらいです。映画には出てきませんが、宗悦と見間違えられて、深見新左衛門に殺される按摩にいたっては、ただの行きずりで、まったく罪がありません。
そう考えると、圓朝の世界を単純に「因果応報」という言葉で言い表すのにためらいが生まれます。「因果のないところに応報だけが無数に生まれる不条理世界」というほうが、まだ『真景累ヶ淵』の実体に近いのではないでしょうか。
いやまあ、この世はいずれにしても理不尽、不条理、そうでなければ、人が出会って、憎んだり、愛したりもしない、ともいえるので、「因果応報」ははじめから条理の通ったものではないのかもしれませんが。
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