和風ハロウィーン怪談特集2 山本薩夫監督『牡丹燈籠』(大映、1968年) その2

今回で『牡丹燈籠』を完了するつもりです。気になさる方はいずれにしてもご自分で判断なさるでしょうが、例によって結末を書きますので、そのおつもりで、お嫌なら適当なところで切り上げてください。

◆ 『警視庁草紙』と『しぐれ茶屋おりく』の圓朝 ◆◆
『雨月物語』も中国種なのだろうと思いますが、落語の「牡丹燈籠」は中国の怪奇譚集『剪燈新話』(せんとうしんわ)を元にしていることがはっきりしています。『牡丹燈籠』の原話はすでに室町時代に訳されていて、三遊亭圓朝はこれに複雑かつ長い長い因縁話という彼のスタイルを加えて脚色、口演し、一門の噺家が今日まで伝えました。

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江戸末期から明治期の寄席では、続き物をよくやったようで、速記本にすると、優に長編小説の分量がある噺がいくつもあり(『名人長二』『塩原多助一代記』)、『牡丹燈籠』も現代の寄席ではとうていすべてを口演することのできない長さがあります。あまり長すぎて、『真景累ヶ淵』同様、後半は、えーと、そもそもこれはなんの噺だったっけ、といいたくなるほど赤の他人の展開になります。

町内の寄席に毎晩歩いて通った時代とはちがうので、続き物を高座にかける習慣はなくなり、戦後の録音を聴くかぎりでは、ほんのさわりだけですませるようになりました。たとえば『塩原多助一代記』なら「青の別れ」の場、『牡丹燈籠』なら「お札はがし」、『真景累ヶ淵』なら導入部、豊志賀の死、羽生村へ逃げる途中のお久殺しなどがよく演じられます。こういうのを飛び飛びに知ると、話がつながらず、結局、『圓朝全集』で全体を確認したくなるのです。いやもう、片端から読みました。堪能しました。

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余談ですが、寄席の続き物を描いた小説があります。川口松太郎『しぐれ茶屋おりく』では、妾である主人公のおりくが、とくに旦那に願って、圓朝の結果的に最後になった高座(追記 あとで読み直したところ、最後の高座ではなく、圓朝が、これが最後になるだろうといって『塩原多助一代記』を通しでやる)に通い詰めるところが描かれているのです。山田風太郎『警視庁草紙』以上に印象的な三遊亭圓朝の登場場面です。

◆ 護符の御利益 ◆◆
さて、最初の晩はなにごともなく終わった新三郎とお露ですが、翌る晩、お米の描いた絵図どおり、契りを交わすことになります。お米は、せめて盆のあいだだけ、夫婦になってくださいというのですが、これが比喩ではなく、かための盃までかわしてしまうのだから驚きます。

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新三郎は、お露と契りを交わすにあたって、得手勝手な武家のありようがつくづくイヤになった、などと理屈をつけますが、これは60年代終わりという時代風潮の悪影響でしょう。原作はそのようなつまらぬ理屈はつけず、惚れ合った男と女が矢も楯もたまらず抱き合うだけのことです。

さて、伴蔵=西村晃は昼間、桔梗屋の女たちのことをワル仲間に話し、笑われます。お露は落籍され、お米は女中としてお露についていったが、いよいよお床入りという日に、三崎村の寮で自害した、お米もあとを追った、というのです。

またしても酔って夜中に帰った西村晃が、気配を感じて新三郎の家をのぞきます。

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スクリーン・ショットではわかりにくいが、お露の胸は肋が浮いて、まるで骸骨。外からのぞいた伴蔵にはそれがはっきりわかる。

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脚もやはり肉が落ちている。

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本郷功次郎は気づいていないけれど、はたから見えればお露は死びと、これは大変だというので、近所の易者・白翁堂勇齋(志村喬)に助けを求めます。

勇齋は、易者に幽霊がどうなるものかといい、新幡随院の和尚に手だてを頼みに行きます。

いっぽう、西村晃に相手の娘は幽霊だとさんざん脅された本郷功次郎は、不安になって三崎村に出かけ(なんだかひどく平らだし、向こうに小高い山が見えて、谷中三崎村というより、三浦三崎に大根を買いに行ったような風景だが!)、二人とも自害したことたしかめます。

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三崎村の景。精霊棚を配してあるところに心惹かれる。

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新三郎は新幡随院のお露とお米の墓にもおとずれる。

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墓が荒らされ、鏡がなくなっていることを僧から教えられる。その鏡は、昨夜、かための印として自分がお露からもらったものだと思いいたり、新三郎は青ざめる(いや、もう死相が浮いているのだから、すでに目いっぱい青ざめているのだが!)

固めの杯まで交わした女、恋しい気持は強く、憐れにも思いはするものの、近所の人びとに、子どもたちのために生きてくれなくてはいけないと説得され、新幡随院の和尚の勧めにしたがって、本郷功次郎は護符を書いたお札で封印したお堂に二晩籠もる(うらの盆がすむまでは、この世に魂魄とどまるが、それがすぎれば心配ない)ことに同意します。

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◆ ご存知お札はがし ◆◆
ありがたい守り札と、近所の人びとが夜中じゅう一心に団扇太鼓を叩いてくれた(江戸時代、庶民のあいだでは日蓮宗がおおいにおこなわれた)おかげで、二人の死霊はお堂に入れません。

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女中は隣家の西村晃のところに行き、昔なじみの伴蔵に、お堂のお札をはがしてくれと頼みます。その夜はそれで二人は引き上げていきます。

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西村晃の女房(小川真由美)は欲深で、亭主に悪だくみをさずけます。翌る晩、また幽霊がやってくると、わたしども夫婦は萩原様のおかげで生きています、あの方になにかあったときのために、百両の金をもらえればお札をはがしましょう、といいます。

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伴蔵の女房おみね(小川真由美)。圓朝の噺には欠かせない、欲深で、それでいて浅はかなキャラクター。志ん生の「だから女の利口と男の馬鹿は突っかうっていうんだよ」といったところか。

幽霊たちはふたたびやってきて、新幡随院の墓に百両埋まっているので、それをあげるから、お札をはがしてくれといいます。

二人は三崎坂の新幡随院まで行き、墓を掘って金を手に入れ、家に戻ると、ちゃんと幽霊がやってきて、催促するので、お札をはがします。

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あとは、なるようにしかならず、明くる朝、白翁堂や近所の人が、もうこれで安心だ、とお堂を開けようとして、一カ所をお札がはがされているのを見ます。なかには骸骨と抱き合って新三郎が息絶えていました。

◆ 光と闇の風情 ◆◆
じつは、三遊亭圓朝の『牡丹燈籠』は、このあともまだまだ延々と長い因縁話があるのですが(とくにお露の一家について)、そのあたりが高座に載せられることはほとんどないと思われます。現代では、「牡丹燈籠」といえば、すなわち「お札はがし」のことといっていいような状態です。まあ、ストーリーの出来からいって、それも当然でしょう。

依田義賢=山本薩夫版のプロット改変は、あまり効果的には思えません。圓朝のプロットのほうが数段すぐれています。とくに、新三郎が肌身離さずつけていたお守りを失うにいたる話の運びなど(映画版はこのサブプロットをそっくり削除した)、じつによくできていて、ただ古いだけで古典になったわけではないと感じさせます。

また、すごく不思議なのは、「牡丹燈籠」といえば下駄のカランコロンというぐらいなのに、映画には下駄の音などまったく出てこないことです。あまりにも有名でアホらしくなったのでしょうか。でも、溝口健二の討入りのない忠臣蔵みたいで、わたしは呆然としました。

ただ、映画はやはりすごい、と思う点もあります。迎え火、送り火、精霊棚などの、昔のお盆の風情です。どういうのだか、子どものころから燈籠流しが大好きで、この映画でも、やはりいい絵だと感じました。

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燈籠流しを背景にして、新三郎とお露が出会うというのは、圓朝版にはなく、映画独自のものです。この改変は視覚的な効果もあり、また二人の新仏が、新盆に自分の魂を流すというのがヘンテコリンで、おおいに感興を覚えました。

◆ 浮かばれない女、成仏した女 ◆◆
『雨月物語』の幽霊と『牡丹燈籠』の幽霊はよく似ています。ともに男を知らぬまま死んだために、魂魄この世に留まってしまい、好ましい男に取り憑くことになります。また、介添え役となる忠実な女中がついていて、なんだか遣り手婆のように振る舞うのも共通しています。

どちらも中国種だから、中国にはそういう言い伝えが広くあるのかもしれませんが、なんとなく、ひどく日本的な幽霊の造形のようにも感じられます。西洋にもサキュバスという、夢のなかにあらわれて男の精を吸い尽くす女性型の魔物がいますが、あのような冷酷さとは、お露や若狭は無縁です。お露も若狭も、なんとも優しい大和撫子なのです。

恋は盲目なのか、あるいは、自分が相手を取り殺すことになるのを自覚していても、むしろあの世に連れて行きたいと思っているのか、彼女たちはいわば「究極の愛」を体現する存在です。

映画『牡丹燈籠』で印象的なのは、お札がはがされ、お露がお堂に入りこんできたのを見た新三郎が、うれしそうに「お露」と名を呼んで、笑顔で迎え、抱きしめることです。もちろん、煩悶から解放された喜びもあるのでしょうが、現世の義理で生きることを選んだものの、忸怩たるものがあったのでしょう。心底では、惚れた女に殺されたかったのです。

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この部分は、圓朝版では直接描かれることはなく、たんに幽霊が新三郎の家に入っていくところを伴蔵が目撃するだけで、つぎに新三郎が登場したときにはもう死んでいます。圓朝版では以下のように描かれます。

「白翁堂勇齋は萩原新三郎の寝所を捲くり、実にぞっと足の方から総毛立つほど怖く思ったのも道理、萩原新三郎は虚空を掴み、歯を喰いしばり、面色土気色に変り、余程な苦しみをして死んだものゝ如く、其の脇へ髑髏があって、手とも覚しき骨が萩原の首玉にかじり付いており、あとは足の骨などがばら/\になって、床のうちに取り散らしてあるから、勇齋は見て恟(びっく)りし」

いやはや、無惨な最期で、映画とは百八十度ニュアンスが異なります。

わたし自身は、映画版の解釈のほうが、ここに関してはすんなり飲み込めます。あれだけ惚れられたのだから、命を失うことぐらい、やむをえません。そもそも、命がそれほど大事でしょうか。わたしには、惚れた女を見限るほど大事なものには思えません(Beauty is only skin deep=美人も皮一枚というぐらいで、相手がじつは骸骨だとしても、生き身の女だって骸骨に皮を一枚かぶせただけにすぎない!)。

映画『牡丹燈籠』は欠陥が多く、出来がいいとはいいかねますが、お露と新三郎を幸せに成仏させるという解釈を提示したという一点で、「悪くない映画」といいたくなります。

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『雨月物語』でさえ、わたしは、この男は、このまま女に取り殺されるほうが、よほど幸せではないかと思ったくらいなので、山本薩夫版『牡丹燈籠』の新三郎の覚悟のほどには、おおいに共感しました。

ただ男を取り殺すだけの悪鬼、という解釈では、現世の歓びを知らぬまま死なねばならぬ仕儀に立ちいたり、はからずも魂魄この世に留まってしまった、文字どおり「浮かばれない」女たちがあまりにも不憫です。

とはいえ、圓朝版がお露を化け物として、あまり同情的に描いていないのは、おそらくは時代のパラダイムに支配された結果だろうと思います。わたしは学者ではないから、そんな考究をする気にはなりませんが、この明治と昭和の解釈の隔たりには、なにか大きなものが潜んでいそうな気がします。

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by songsf4s | 2010-10-27 23:54 | 映画