補足というほどのものではないのですが、『娘・妻・母』を見ながら頭に浮かんだことを少々書きます。
『めし』や『娘・妻・母』の、死別の、再婚の、結婚の、といった話を細かく見ているうちに、意識が脇へ流れていきました。
成瀬巳喜男はその代表作のひとつ『妻よ薔薇のやうに』の主演女優・千葉早智子と結婚し、ほど経ずして離別しています。二人のあいだに子どもはなかったようです。
小津安二郎が生涯独身だったことはよく知られています。おかげで、原節子をはじめ、さまざまな女優が噂の種にされました。周囲の人びとの口が堅いのかもしれませんが、どうやらどれも事実ではなかったようです。小津自身と周囲が認めているのは「小田原の人」(花柳界の女性)だけです。
溝口健二は結婚しましたが、夫人はやがて重い精神疾患を患って入院したきりになってしまいます。溝口自身の「病気」のせいだというのは事実ではない、医学的な証拠があると依田義賢は証言していますが、どうであれ、晩年の溝口健二は非常に不幸だったと伝えられています。また、伝記映画には、(監督としてではなく)田中絹代に惚れ込んでいたという証言も記録されています
このような話題でご存命の人を俎上に載せるのはいくぶんか気が引けますが、鈴木清順には、エッセイにも何度か登場した夫人がいます。鈴木清順の映画監督としての「空白の十年間」(とその後の歳月も?)を支えたのは、この夫人のようです。ただし、お子さんがいるという話は読んだことがありません。
日本映画界を代表する監督たちの私生活が、いずれも「平均的ではない」のは、たんなる偶然にすぎず、なんの意味もないことなのかもしれません。しかし、なにか意味があるように受け取るのも、また人間としてふつうのことだと思います。
こういう側面を見ると、黒澤明がいちばん「ふつう」だったというのは、ちょっと意外ではあります(若き日に高峰秀子とのあいだを裂かれたという有名なエピソードがあるが)。しかし、よくよく考えると、作り方は尋常ではなかったにせよ、結果としてできあがった作品は、溝口、小津、成瀬、鈴木よりずっと「ストレートな映画」のような気もします。
◆ 生粋の未亡人・原節子 ◆◆
『娘・妻・母』を見ていて、原節子ほど未亡人の似合う女優はちょっといないなあ、と思いました。原節子というと、結婚しなかったために「永遠の処女」というラベルがつきまとっていましたが、わたしは「永遠の未亡人」と云いたくなります。そうなってしまったのには、必然的な理由がありました。
1920年生まれで、デビューが日中戦争のさなかの1935年、二十代前半の娘盛りはぴったり太平洋戦争と重なってしまい、戦後になると、娘役がきびしい年齢になっていました。
だから昭和24年、二十九歳、『晩春』ではじめて小津安二郎の映画に出たとき、「戦争のせいで婚期を逸した娘」になっていたのでしょう(ただし、同年の木下恵介『お嬢さん乾杯!』では没落貴族の令嬢役だった。再見したい映画のひとつ)。
昭和26年の小津安二郎『麦秋』では依然として「嫁き遅れた娘」、しかし昭和28年、三十三歳のときの『東京物語』では、笠智衆、東山千栄子夫妻の戦争で死んだ次男の嫁という役を演じます。このあと、彼女が出演した三本の小津映画のうち二本、『秋日和』と『小早川家の秋』が未亡人役です。もう一本の『東京暮色』では子もあるふつうの妻でしたが。
やはり、原節子=未亡人というイメージは小津安二郎の責任かもしれません。『東京物語』のけなげな未亡人は忘れがたい印象を残しますし、『秋日和』ではいきなり喪服で登場して、かつて彼女に熱を上げた「老童」たち(佐分利信、中村伸郎、北竜二)を落ち着かない気分にさせ、その妻たちを嫉妬させる未亡人を演じていました。
若い娘であった時期は戦争と重なってしまい、日本映画の全盛期にはもはや娘というにはむずかしい年齢になっていたのが不運でしたが、おかげで『秋日和』の、男たちをそわそわさせる美しい未亡人が誕生したのだから、悪いことばかりでもなかったといえるでしょう。
原節子=未亡人のイメージは、現実の彼女が生涯結婚しなかったことと重なっています。プライヴェートな生活に興味があるわけではないのですが、彼女の未亡人役を見ていると、行こうと思えばすぐに行かれる場所で隠遁生活を送っている、(きっと)上品な老婦人のことを、どうしても思い浮かべてしまいます。
そろそろ鎌倉山は秋景色が濃くなりはじめているかもしれません。1920年生まれというのが正しければ、原節子は九十歳になったことになります。
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