成瀬巳喜男監督『めし』(東宝映画、1951年) その2

勘定したわけではありませんが、成瀬巳喜男作品のヒロインを演じた女優で、最多出演はもちろん高峰秀子でしょう。『放浪記』『浮雲』『稲妻』『女が階段を上る時』など、秀作がずらっと並びます。戦前の『秀子の車掌さん』などという軽いものもありました。

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高峰秀子。成瀬巳喜男監督『妻の心』より。

考えてみると、子役時代から数えて、戦前、戦後の長いあいだ、主役をつとめたわけで、高峰秀子というのは、なんともすごい女優です。男優なら、六十代、七十代でもヒーローを演じた人がいますが(ケーリー・グラント、チャールトン・へストン、クリント・イーストウッドなど、わが国では佐分利信、山村聡、高倉健など)、女優の場合はそういうことは稀で、高峰秀子は例外的に華の命が長かったといえるでしょう。ああ、吉永小百合がいますね。あの人はモンスター。

そのつぎはもう飛び出た人はいなくて、晩年の作品に数本出た司葉子、その少し前が新珠三千代や淡島千景、ずっと昔の田中絹代、高峰三枝子といったあたりがヒロインを演じています。

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新珠三千代と小林桂樹。成瀬巳喜男監督『女の中にいる他人』より。

原節子が出演した成瀬巳喜男作品はほんの四、五本ですが、『山の音』と『めし』という、成瀬といえばかならず指を折られる映画に出たおかげで、「原節子=小津安二郎と成瀬巳喜男の女優」という強い印象が残ることになりました。

いや、山中貞雄『河内山宗春』での美少女ぶりもすごいし、デビュー作『新しき土』も驚きますが、まだ「モデル」のようなもので、「女優」になっていません。でも、木下恵介『お嬢さん乾杯!』や吉村公三郎『安城家の舞踏会』での没落貴族の子女は、いかにも似つかわしい役柄でした。

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以下はいずれも成瀬巳喜男監督『娘・妻・母』より。

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左からは高峰秀子(長男の嫁)、原節子(長女)、三益愛子(母)、団令子(三女)。

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◆ 顔のオンとオフ ◆◆
成瀬巳喜男作品での高峰秀子と原節子の表情を見くらべてみました。原節子の演技の特徴は視線の上げ下げです。『山の音』でも『めし』でも、スウィッチのオン・オフのように、視線が上がったり下がったりして、心理の変化を表現しています。それに対して、高峰秀子は視線の上下および顔の上げ下げはあまり使っていないようです。

ということは、成瀬巳喜男は役者に細かく指示を与えなかったという黒澤明の証言も併せて考えると、あの表情の変化は「成瀬巳喜男の演出」というより、「原節子の演技」なのでしょう。

『山の音』での気象と原節子の表情の対比の印象が強く、あれは成瀬巳喜男のスタイルのような気がしていましたが、原節子だったのですね。原節子の顔の上げ下げということでは、小津安二郎『晩春』の観能シーンで、三宅邦子に気づき、うつむいて夜叉の表情になるカットも印象的でした。

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昔の人が原節子は大根であるといい、小津安二郎がそんなことはないと擁護したのは、この顔の上げ下げ、視線の上下のせいかもしれません。わかりやすい心理変化の表現ですから。

でも、大根であるか否かはひとまず措き、『めし』と『山の音』という、静かで穏やかな映画にきびしい緊張感をあたえているのは、原節子の表情です。女性観客はどうか知りませんが、男の観客は、原節子が視線を下げるたびに、「やばい」と緊張することでしょう。成瀬巳喜男も、原さんは怖いなあ、と内心で思いながら撮っていたのじゃないでしょうか!

原節子が下を向いたら、それは否定、拒否なのですが、上原謙は、それに気づかないか、または気づかないふりをしています。そして、この「下向き」は、観客にはスコアボードのように見えます。10点差がついたところでコールド、大阪のゲームは終わり、舞台は東京と横浜に移ります。

◆ たかが猫の子一匹なれど ◆◆
どうでもいいことなのかもしれませんが、原節子が飼っている仔猫がすごく気になります。よくまあこういう猫を見つけたものだと感心するほど「微妙な猫」なのです。

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朝は亭主より先に猫にかつぶしご飯をあたえる。

仔猫らしく暴れるわけではなく(いや、そういうときには撮影しなかっただけだろうが)、ちょっと毛がぼさぼさで捨て猫のようなところがあり、背中が曲がって姿勢も悪いし、病気ではないかと思うほど動作が遅く、それでいながら、けっこう可愛いのです。

大阪にいる同級生だけで同窓会をするシーンがあり、大店の料理屋に嫁いだ同級生が原節子にききます。

級友「あたし、あなたみたいに、一日でもいいから主人と二人きりで暮らしてみたいわ。ねえ、どんなこと話してらっしゃるの?」
原節子(微笑みながら)「猫飼ってるの」

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これはなんでしょうね。この間に省略された原節子の思いを想像すると、「とくになにか話したりなんかしないわ。だから、いつも猫と話しているの」といったあたりでしょうか。あるいは「主人も猫みたいなもので、会話なんかないわ」でしょうか。

こういうところの成瀬巳喜男の処理というのはじつに細やかで、解読するのにこちらは大わらわになってしまいます。

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背中で芝居するところなんぞは、隅におけない演技派の猫。

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この映画で唯一、声を出して笑ったのも、猫がらみの会話です。島崎雪子を連れて帰郷する車中、窓外を眺めながら、原節子がつぶやきます。会話のなかの「谷口さん」とは、近所の家のおばさん(浦辺粂子)です。

「谷口さんに頼んできたけど、大丈夫かしら」
「なあに?」
「猫」

ここも素直に受け取っていいのか迷うところです。笑ったあとで、猫は亭主のメタファーかな、と思うのです。それで、あんなショボショボした、情けないような、可愛いような、微妙な猫をキャスティングしたのではないかという気がしてきます。

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それとも、ペットショップなんかあまりなかった昔は、みな和猫だから、あんなものだったのでしょうか。邦画にペルシャやシャムなどの「舶来」猫が目立ちはじめるのは、60年代に入ってからではないでしょうか(『霧笛が俺を呼んでいる』『野獣の青春』を参照あれ)。

◆ 成瀬巳喜男の町 ◆◆
原節子は矢向という駅で降ります。神奈川県民でありながら、南武線というのに乗ったのはこれまでにただの二回、さっぱり土地鑑がなくて、調べてしまいました。路線図を見ると川崎かと思うのですが、市境が入り組んだところで、横浜市の北部なのだそうです。

駅舎というのは案外建て替わらないもので、矢向駅は依然として同じ形をしています。表面は張り替えたのでしょうが、躯体は『めし』のころのままなのにちがいありません。

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なんでもないことにのようですが、わたしはこういう連続性、町の記憶というのは大事なことだと思います。矢向の町の人たちは、『めし』の重要な舞台になったことを自慢できます。ただし、画面上にあらわれるのは「川崎市」の文字で、ロケは川崎市側でおこなわれたようです(撮影許可をとるとすると、横浜、川崎の両方でとるのは煩雑だろうと考える)。

成瀬巳喜男は町を撮るのがうまい人で、いつも風景が気になります。矢向の駅の近くと設定された原節子の実家の界隈も、何度も登場するので、店の並びを覚えてしまいます。実家自体はセットですが。

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というように、母は杉村春子、妹は杉葉子(すばらしい。『青い山脈』のときよりずっといい)、その婿さんが小林桂樹という顔ぶれで、洋品店を営んでいます。

こんなふうに気をまわすのはわたしだけかもしれませんが、成瀬映画には、しばしば商売が左前になった家が登場するので、こういう店のたたずまいが出てくるだけで、このうちは大丈夫だろうか、と緊張してしまいます。こういうタイプの商店は現代では流行りませんからね。

しかし、数十年後のことはいざ知らず、どうやらこの店は現在、とくに心配事を抱えていないようで、ホッとします。成瀬巳喜男映画には、はげしい闘争は出てきませんが、こういう「静かな緊張」がずっとつづくのです。だれかが、ささいなきっかけで、重大な決心をしたりするので、画面から目を離せません。

◆ Home Again ◆◆
成瀬巳喜男の細密描写をいちいち追っていると手に負えなくなるので、前半は端折ってしまいましたが、後半はすこしストーリーを追ってみます。

実家に戻って、意外なシーンから後半がスタートします。夕食の支度ができたというときに、原節子だけはぐっすり眠っているというシーンです。夜行で着いて、午後から仮眠をしていたといったところなのでしょう。

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杉村春子は「女は眠いんだよ」と笑いながら娘を擁護します。昔は、嫁に行った女は、おちおち安眠をむさぼったりできなかった、というのは、わが母のことなどを思っても理解できますが、それを映画のなかで描写する監督はきわめて稀、ひょっとしたら成瀬巳喜男ただひとりじゃないでしょうか。久しぶりに『めし』を再見して、いちばん驚いたのはこのショットでした。

たぶん、その翌日のことなのでしょう、原節子は職安(現在はハローワークと名前を変え、体裁よくしたつもり)の外までいき、求職者がぞろぞろと建物に入っていくのを見て、たじろぎます。

彼女は、離婚も考えているので、職を探しに来たと解釈できます。もちろん、そこまではいかなくても、とにかく、遊んでいるわけにはいかないという思いがあったのでしょう。

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ここでまた、と胸(原節子と観客の両方の)を突かれる小さな出来事が起こります。これでは職を見つけるのは無理だ、と原節子が途方に暮れていると、子どもの手を引いて通り合わせた女性、中北千枝子に「あら、三千代さんじゃない?」と話しかけられます。

どうやら、二人は女学校の同窓生のようです。中北千枝子は戦争未亡人で、もう還らないとわかってはいても、ラジオの尋ね人の時間はきいてしまう、といい、つぎの瞬間、「でも、それももう売り払っちゃって、かえって気が楽になったわ」と、じつにアイロニカルな台詞をいいます。いやもう、たとえ原作にあるラインだとしても、なんともいえぬほど成瀬的な台詞です。

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あと三カ月で失業保険が切れるというのだから、彼女は明らかに職安を目指してやってきて、ここで原節子に会ってしまったのです。彼女は原節子が職安に用があるとは思っていないらしく、「ごめんなさい。あなたみたいに幸せな人にこんなことをいって」と謝ります。

当然、原節子は複雑な表情であいまいに返事を濁します。これがまたなんとも成瀬的アイロニー。じつに人の悪い監督です。成瀬巳喜男映画の特徴は、この「意識しない間の悪さ」といえるのではないでしょうか。思わず目をつぶってしまうような気まずいシーンが頻出します。

毎度甘い見積もりで、『めし』は二回ぐらいで、なんて目算でしたが、そんな簡単に片づくはずもなく、今日も「つづく」です。


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by songsf4s | 2010-10-04 23:57 | 映画