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藤田敏八監督『八月の濡れた砂』(日活映画)その3

昨夜、更新したあとで、『八月の濡れた砂』をご覧になっていない方は、前回で話が終わっていることがおわかりにならなかったかも知れないと思いました。あれでほぼエンディング、あとはキャメラが空撮に切り替わり、エンド・タイトルが出るだけです。

コンテクストにおける役割、意味合いは異なるにせよ、やはり、『狂った果実』のエンディングを意識していたのだと思います。

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『狂った果実』エンディング直前の空撮ショット

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『八月の濡れた砂』エンド・タイトル

◆ 同級生? ◆◆
わたしにとって『八月の濡れた砂』はめずらしいタイプの映画です。最初に見たときより二回目のほうが、二回目のときより三回目である今回のほうが、ずっと面白く感じられたのです。

なにもわかっていない子どものころに見た映画はべつとして、それなりの年齢、たとえば高校生以後に見た映画のいいものは、初見のときの印象が強く、それが再見で強まることはあまりありません。再見はたいていの場合、「快感の追体験」なのです。

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この映画がつくられた1971年、わたしは高校三年生でした。劇中の彼らと同学年なのです。この映画を見たのは公開時ではなく、すこしあとのことですが、その時点ではまだ、登場人物たちが自分と同じ年齢に設定されていることが、無心にこの映画を見ることを妨げたのだと思います。この映画が撮影された町の山ひとつ向こうの町に住んでいた時期だったこともあって、フィクションを楽しむための、ちょうどよい距離感をつかめなかったということもあるでしょう。

わたしは、くそまじめではなかったにしても、基本的には法律を遵守する子どもだったので、彼らの振るまいは、若いころにはおおいに抵抗がありました。いや、健一郎(村野武範)が、「世間」という枠組に殴りかかる気分には共感しましたし、車を強奪したりといったことは了解の範囲でした。でも、レイプには抵抗があったのです。

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この映画が描いたレイプは、それ自体を表現しようとしたものではないことが、だんだんわかってきました。この『八月の濡れた砂』シリーズの一回目に書いたように、それは「世間と狎れ合うことへの強い拒絶の意志」をあらわすものだったのです。

『八月の濡れた砂』に出てくる性行為はすべてレイプです。しかし、「画面の外で」起きたこととして間接的に表現される早苗の集団暴行以外は、「なかば合意のもの」あるいは「時間をかければ合意されたかもしれないもの」です。彼らは、相手が同意の可能性をほのめかしても、それを拒否し、不同意のまま強行してしまうのです。

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清は深夜、シフトレバーを折ってしまったために真紀がおいていったままの車に行き、シートに坐っているうちに眠りに落ちてしまいます。明け方、目が覚めると、早苗がいて、車に乗り込んできます(サンプルをアップした「朝霧の再会」はここで流れる)。早苗はシートを倒し、

「しないの、お姉さんにしたようなこと?」

といいますが、清は折れたシフトレバーをもてあそび、「俺はまだ顔を洗っていないんだ」といって、早苗の挑発には乗りません。女が積極的になると、男は鼻白む、という意味かもしれませんし、たんに「そういう気分にはなっていない」だけかもしれません。でも、この映画の大きな文脈においては、ここで清は、合意による狎れ合いを拒否した、と解釈することもできます。

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いや、単純に、ここで早苗の挑発に乗ってしまえば、彼女が永遠に優位に立つことになるのを、清は直感的に見抜いたのかもしれません。あるいは、のちに明らかにされることですが、集団暴行にあったことを、彼女がどのように受け止めているかが不確かで、それがわかるまで彼は身動きできなかったのかもしれません。

彼らの振るまい(清と健一郎のレイプはニュアンスが異なるのだが)の意味が明瞭になるにつれて、初見のときにあった違和感は薄れ、おおいなる共感へと変わりました。最初は「抵抗感はあるが印象に残る映画」だったものが、つぎには「日活末期の見るに足る佳作」となり、今回は「日本映画史上屈指の秀作」と考えるようになりました。

ほんとうに人間の感覚というのはおかしなものだと思います。若いころには共感の妨げになった環境の近似が、年をとってみたら、共感の大きな理由に変じていたのです。

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彼らとわたしは、たんに年齢と生活圏が近かっただけで、似たような生活をしていたわけでもなければ、共通の世界観をもっていたわけでもありません。でも、きっと同じ体臭をもっているだろうと思います。

『八月の濡れた砂』に描かれた世界は、わたしが生きた世界によく似ているし、わたしには「かつてあの空気を吸って生きていた」という明確な記憶があります。そして、その「空気」は、いまとなっては自分自身の過去のように愛おしく、そして哀しいのです。『八月の濡れた砂』もまた、『乳母車』のように、「いつまでも終わってほしくない、ずっとこの世界にいたい」という強い思いをもたらす映画でした。

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◆ スコアの果たした役割 ◆◆
日活映画では、音楽が重要な役割を果たしてきましたが、この「最後の日活映画」も、その伝統の掉尾を飾るにふさわしい音楽の使い方をしています。ただし、日活黄金時代の音楽とはずいぶん隔たったところで成立しているのですが。

『八月の濡れた砂』のスコアは、8ビートとそれ以外のもの、という2種類に分けられます。8ビートについては、ドラムのグルーヴが好みではないし、とりたてて面白いわけでもないので、ここでは言及しません(ただし、こういうタイプの音楽は、さる方面では発掘対象になっているらしい)。

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面白いのは、メイン・テーマおよび主題歌という2種類のメロディーの各種ヴァリアントです。すでにサンプルにしてありますが、重複をいとわず、もう一度リストをあげておきます。

サンプル 『八月の濡れた砂』メイン・テーマ

サンプル 『八月の濡れた砂』より「朝霧の再会」

サンプル 『八月の濡れた砂』より「海へ」

サンプル 『八月の濡れた砂』主題歌(movie edit)

この4トラックのなかには、石川セリが歌った主題歌「八月の濡れた砂」のヴァリアントはないので、今回、新たにサンプルをアップしました。

サンプル 「波に浮かぶ恋人たち」

これは前回ふれた、清と早苗が一緒に泳ぐシーンで流れます。

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さらにもう1トラック、こちらはメイン・テーマのヴァリアント。健一郎がヤクザたちにやられて、家で寝ている場面で流れるものです。

サンプル 「失望のボサノヴァ」

「朝霧の再会」がオーボエやヴァイオリンをリード楽器にしているのに対し、こちらは、冒頭部分ではハーモニカをリード楽器にしているので、より叙情的なサウンドになっています。さらにいうと、『狂った果実』の「ラヴ・テーマ」(というタイトルはわたしが勝手につけたのだが、正式タイトルの確認は手間がかかるので略)をも想起させます。いや、スコアを書いたむつひろしにその意図があったかどうかはなんともいえませんけれどね。

こうしたスコアのリリシズムが、シーンの味わいを決定しているケースもありますし、映画を見終わったときの後味も、スコアによる部分が大きいと感じます。

清は二度にわたって真紀を犯そうとします。最初は未遂、クライマクスは既遂ですが、どちらのシーンでも、リリカルな「メイン・テーマ」が流れるところが、この映画のスコアの特徴といえます。ふつうなら、こういう場面ではちがうタイプの音楽をつけるでしょう。

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とりわけ、前回くわしくふれた、早苗の向ける銃に健一郎が対峙する場面の、あの曰く言い難い叙情性は、村野武範の表情と「メイン・テーマ」のサウンドが融合して生まれたものです。音楽がなければ、あそこまでパセティックにわれわれの心に迫ってくることはなかったにちがいありません。

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◆ むつひろし=松村孝司 ◆◆
『八月の濡れた砂』のスコアは、映画音楽を得意とした作曲家(たとえば佐藤勝)の手になるもののような、四方八方に目を配った精緻な仕上がりのものではありません。しかし、「メイン・テーマ」と主題歌の二つのリリカルなメロディーを使ったヴァリアントで押し通すという方針のおかげで、映画の印象を左右するほどのものになっています。

しかし、それだけの仕事をした人のことが、調べてもよくわからないのです。いや、「昭和枯れすすき」と「グッド・ナイト・ベイビー」という、二曲のメガヒットの作者であることはいいでしょう。そして、作曲のかたわら、楽曲出版社の経営もしていたということまではいいのですが、それ以外のことはほとんどわからないのです。映画関係のデータベースで調べたかぎりでは、ほかに映画スコアはないようです(『八月の濡れた砂』一本しかスコアを書いていないこと自体、重要な情報だが)。どなたか、むつひろしのディスコグラフィーやバイオをご存知の方、ご教示いただければ幸いです。

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石川セリ歌う主題歌「八月の濡れた砂」は、エンディング・タイトルで流れます。この映画にふさわしいメロディーであり、サウンドだと思いますが、歌詞もおおいに気になります。みごとに映画を象徴しているのです。ラッシュを見てから書いたのでしょうか? あるいは脚本を読んでから書いた? どうであれ、着きすぎもせず、離れもせず、うまく映画の世界とパラレルになるように書かれた歌詞だと感じます。

思い出さえも残しはしない あたしの夏は明日もつづく

というところで、そうだよなあ、と思います。ドラマティックになにかが起きる、始まりと終わりのある世界ではなく、なにが起きても痕跡は残らず、輪郭の弱いロウ・コントラストの世界がつづくのです。

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なお、主題歌のイントロとオブリガートに使われている楽器は「アルパ」というものだそうです。名前が示すようにハープの一種で、音は一般的なハープよりアタックが強く(いや、この曲ではそのようにプレイしただけかも知れないが)、それがこの曲に微妙な味わいを加えています。

いや、ホント、微妙な味ですなあ。あるときはムード歌謡のように聞こえたり、べつの部分ではブラジル音楽のように聞こえたり、色合いが繊細に変化していくところにおおいなる魅力があります。

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『八月の濡れた砂』を再見しようと思いたったのは、そもそも、どこで撮影されたのかを確認するためでした。そして、この三回目でその問題にもふれるつもりだったのですが、濃密な映画を相手に格闘して疲労困憊してしまったため、今日はここまでとし、もう一回だけ延長させていただきます。引っ張ってしまってすみませんね>DEEPさん。次回、かならずあの店にふれます。でも、結論は予想通りではありませんよ。



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by songsf4s | 2010-05-13 23:54 | 映画・TV音楽