今後は、ほぼ毎日、なんらかの形で更新するようなことをいっておいて、さっそくその翌日に休んでしまい、申し訳ありませんでした。rssをご利用になっていないお客さんは、わたしの「宣言」をお信じになって、0時台にご訪問されたようで、カウンターの数字を見ながら恐縮してしまいました。
残り一時間でなんとかしようとあがいたのですが、5曲ほどについて、YouTubeにあるか否かとか、すでにMP3にしてあるかどうかとか、どれがマシなマスタリングであるか、などとやっているうちに時間切れになってしまいました。テキトーにやるつもりだったにもかかわらず、生半可な形ではやりにくいものだと痛感しました。
◆ R指定、だろうか? ◆◆
「『狂った果実』その3」に寄せられたコメントで、DEEPさんが藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』にふれられています。その内容については後述しますが、このコメントをきっかけに、しばらく再見していない『八月の濡れた砂』を見ようと思いたちました。
予告篇
『八月の濡れた砂』はセックスにかかわる表現が頻出する映画で、それを回避してなにかをいうことはできそうもありません。そのような言辞をお読みになりたくない方は、この記事はここらでお切り上げになるようお勧めします。いつもは上半身の話しかしないようにつとめていますが、今日ばかりは、それではすまないでしょう。
サントラ盤からのサンプルは、すでに「むつひろし『八月の濡れた砂』スコア」という記事でご紹介していますが、映画そのものを取り上げるにあたって、改めて同じものをあげておきます。
サンプル 『八月の濡れた砂』メイン・テーマ
サンプル 『八月の濡れた砂』より「朝霧の再会」
サンプル 『八月の濡れた砂』より「海へ」
サンプル 『八月の濡れた砂』主題歌(movie edit)
◆ 二人の少年、二つの典型 ◆◆
夏の明け方、バイクを乗りまわしていた清(広瀬昌助)は、海岸で向こうから若者をおおぜい乗せた車がやってくるのを見て、船の陰に隠れます。若者たちは少女(テレサ野田)を砂浜に投げ出し、下着を放り投げます。
海で体を洗っている少女・早苗に、清は「何人にやられたんだ」と声をかけ、家まで送ってやるとバイクに乗せます。まだだれもいない、兄の経営する海の家に少女をいったんおろし、家に帰って早苗のために兄嫁のワンピースをくすねて海の家にもどると、早苗はすでに去っていました。
こんなふうにシノプシスをダラダラ書いても仕方ありませんね。もっと簡略にいきます。かつて高校をやめてどこかにいっていた健一郎(村野武範)が町にもどって、清をはじめとするまだ高校に通っている同級生や、母親、その再婚相手の議員、そして清が浜辺で知り合った少女・早苗と、その姉の真紀(藤田みどり)といった人物がからんで、輪郭線の弱いストーリーが展開します。
なんだかくだらないことを書いているなあ、と嫌気がさし、いま、トイレに行き、さらにコーヒーを淹れてきました。混乱した思考を整理するには、トイレ、風呂、台所、この三カ所に行くのが最善です。今回もちゃんと道筋を見つけて帰ってきました!
『八月の濡れた砂』は、愛おしく、痛ましい映画です。それはこの映画が、われわれの多くが若いときに通り抜けることを強いられた苦痛を描いているからです。
二人の十代の少年のいっぽう、高校を退学した健一郎は、自分のまわりのルール、ないしは「世間」という名の集合体が、自分より先に生まれたというだけの理由で、自分を拘束することに腹を立て、ことあるごとにその枠組に殴りかかり、蹴りを入れます。
もうひとりの清は、健一郎が好きで、ちょっと尊敬すらしているし、同時に心のどこかで怖れてもいます。家では口うるさい兄に反抗するでもなく(両親はすでに亡くなっているという設定だろう)、暇なときには海の家を手伝うし、雨の日にはテレビ講座でコンピューター・プログラミングの勉強をする、「将来が存在することを前提にして」日常を送る少年です。
健一郎はすでに女を知っていて、世間を馬鹿にし、明日のことなど考えもしません。清はまだ女を知らず、世間を畏れ、明日のこと、つまり少年にとっては「大人になってからのこと」を心配して生きています。
この「セックス」という境界線の手前にいる少年と、向こう側に行ってしまった少年が、二人そろって「日常」という名の、ヌラヌラと手応えのない怪物に敗北する物語が『八月の濡れた砂』である、といっていいでしょう。
◆ 狎れ合わない心 ◆◆
清と健一郎、二人の違いは冒頭で提示されます。上述のように、清は、明け方の浜で不審な車を見たとき、船の陰に隠れ、若者たちが去って、安全をたしかめてから、早苗に近づきます。
健一郎は、アヴァン・タイトルで学校の校庭にあらわれ、大声をだします。清が校庭に出てくると、サッカーボールを教室に向けて蹴り上げます。
藤田敏八監督は、ていねいに二人の少年のキャラクターを描いていきます。
清が海の家を手伝っているときに、早苗の姉だという女・真紀がやってきて、清は彼女の車に乗り込みます。どこへ行くのだ、というと、決まってるでしょ、警察よ、というので、清は濡れ衣を着せられて腹を立てると同時に、怯えを見せます。
しかし、警察署まで来ると腹が据わり、清は、俺はなにもしていない、身の証を立てられる、もしも間違いがわかったら、あんたどうする、と開き直り、結局、真紀をやりこめます。
真紀が「ただ脅すだけのつもりだった」と謝ると、清は彼女をどけ、車を運転して海辺へ行きます。「どこに行くの?」といわれると、「決まってるだろう。こんどこそ、警察に突き出されてもしかたのないことをやるんだ」といい、道路から折れて山の上の空き地に車を止め、真紀に襲いかかります。
暴れる彼女を押さえ込もうと、狭い車内でくんずほずれつしているうちに、清は足でシフトレバーを折って気が抜け、「やーめた」と笑ってしまいます。この強さと弱さ、冷酷さとやさしさのモザイク模様が、この清という人物を規定しています。
健一郎の母親(奈良あけみ)は酒場をやっていて、議員(渡辺文雄)の情婦になっています。健一郎は清をつれてその酒場にくると、渡辺文雄が建設省の役人をつれてやってきて、なれなれしく「健ちゃん」などと話しかけるので、おもちゃのナイフを突きつけ、「おい、俺のお袋をどうやってたらしこんだんだよ」と罵倒します。
行動は心理の表出です。やがて明らかになりますが、健一郎は男と女が馴れ合うことを嫌っています。プラトニックな交際をしている元の同級生たちに、「さっさとやっちまえ」とけしかけ、清にも、おなじことをいいます。男女が愛をはぐくんだりするのは、彼の性には合わず、恋愛感情をともなわない性行為だけを信じているのです。
これも意味は明瞭です。男と女が馴れ合うことと、人が「この世間」と狎れ合うことはパラレルなのです。健一郎は世間を敵とみなしているから、当然、女と馴れ合うことも拒否しているのです。女をくどいてたらし込む男は、この世もくどいてたらし込んで、あぶく銭を稼いだりするのです。これが、健一郎が母親の愛人を嫌い抜く理由です。
まだ『八月の濡れた砂』は、愛おしく、痛ましい映画である理由を示せるところにまできていませんが、無理せずに、今日はここまでとさせていただきます。
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