以前、ハチドリはあの小さい体で、どうやってメキシコ湾を横断して渡りをするのかという話を読んだのですが、いま確認しようとしたら、ふだんよく開いているその本が見あたりませんでした。このところの整理のために、どこかに一時的に避難しただけなのですが、それがどこだったか……。
今日は一気に『刺青一代』のクライマクスにいきたいのですが、これがメキシコ湾並みに巨大で、一気に渡れるかどうか心許ないのです。二度に分けるのはシャクだけれど、結局、そうなるかもしれません。
毎度のことですが、今回も話は全部書いてしまうことになるでしょう。ストーリー重視で、なおかつ、この映画をご覧になる予定がある方は、お読みにならないほうがいいと思います。
いや、鈴木清順映画においては、プロットのプライオリティーは極端に低いのです。カラー映画ならまずなによりも色彩、つぎに画角などのショットのデザイン、編集でのつなぎ方、こうしたもののほうに重要性があります。そして、『刺青一代』のクライマクスは、まさに色彩最優先の映像なのです。
◆ 後半のプロット ◆◆
小松方正に騙されて金を失った高橋英樹と花ノ本寿の兄弟は、鉱山の採掘をしている山内明経営の土建会社に雇われることになります。
ここでプロットを錯綜させる要素がいくつかあります。花ノ本寿が山内明の妻である伊藤弘子に惚れ込み、彼女の暗黙の了解のもとに、入浴中にデッサンし、それをもとに仏像を彫り、それをきっかけにこの恋が周囲に知られてしまうのが第一点。
山内明は、自分の組はヤクザではない、土建会社である、という剛直な人間で、鉱山の仕事をとりたいヤクザの組と敵対することになる、というのが第二点。
高橋英樹と花ノ本寿の兄弟は、殺人を犯したので、もちろん警察からも追われているのですが、高橋英樹を抹殺しようとした彼の組からも、当然ながらつけ狙われています。組から三人の刺客がやってきて、山内明を邪魔者とみなす組にわらじを預けます。これが第三点。
以上がクライマクスで収斂します。
山内明の土建会社で事務を執っている小高雄二(和泉雅子をわがものにしようとしているので高橋英樹を目の敵にしている)が、敵である河津清三郎に内通し、高橋英樹と花ノ本寿に疑いがおよぶように偽の証拠を残して坑道を爆破し、さらに山内明を狙撃します(というか、わざと外したのだから脅迫が目的だが)。
同時に花ノ本寿と伊藤弘子の危うい関係も表面化して、花ノ本寿はどこかに逃げ、山内明は高橋英樹を妨害工作の容疑者として監禁します。伊藤弘子は仕事以外のことに興味のない夫をなじりますが、この措置には、高橋英樹を保護する意味もあったことがあとで明らかになります。
高橋英樹をつけ狙う元の組の刺客が、地元の組の人間に伴われ、山内明のところにやってきて、高橋英樹を渡してほしい、といいますが、山内明は、彼らは犯罪者だから警察に引き渡す、といって取り合いません。
いったんは飯場を逃げ出した花ノ本寿が戻ってきて、兄と一緒に逃げようとしますが、そこへ山内明があらわれ、おまえたちのような犯罪者がいると迷惑する、金をやるから新潟へ行け、そこにこれこれの船があり、その船長は俺と旧知だから、満州に連れて行ってくれるだろう、といいます。
二人はいったん港町のほうに行きますが、花ノ本寿はどうしてももう一度だけ伊藤弘子に会いたいといい、兄は仕方なくそれを許し(刺客のひとりが近くにいることを弟に気づかせないようにするところが面白い)、松尾嘉代のカフェで待つことにします。
カフェの二階の部屋から外を見る高橋英樹と、鏡台の前に坐った松尾嘉代の描写から、二人が閨をともにしたことがうかがわれるのですが、ここでの松尾嘉代の満ち足りた表情がじつに色っぽくていいのです。
花ノ本寿は電車に乗ろうとして、小松方正に見つけられ、ヤクザ者たちに捕らえられてしまいます(ここで伊藤弘子を追って花ノ本寿が小松方正がすれちがった以前のシークェンスが生きる)。
いっぽう、山内明は土建業者の会合のために、神戸組の河津清三郎の屋敷に行きますが、談合はまとまらず、破談になってしまいます。そこへ騙されて伊藤弘子がやってきて、庭に暴行を受けた花ノ本寿が倒れているのをみとめ、抱き起こします。
伊藤弘子は山内明とともに捕らえられ、花ノ本寿は、高橋英樹の居所を云えといわれて、おまえたちの組の者を殺したのは兄ではない、自分だ、と明かして、刺客たちに斬られてしまいます。
高橋英樹がカフェで待っているところに、高品格をはじめとする鉱山の仲間が瀕死の花ノ本寿を運んできます。「親方と奥さんが神戸組に……」という弟の言葉に、俺が助けに行くと請け合います。
◆ 橋を渡って向こう側へ ◆◆
ここから先は、ほとんどセリフがありません。東映任侠映画同様、敵対する組に殴り込みをかけるわけですが、ほとんど正反対といってもいいほどニュアンスが異なります。駈けだす高橋英樹の背中に「組」という荷物はありません。自分を裏切り、自分の愛する者に害をなす連中を討ち果たすことだけが目的であり、なにも背負っていないのです。
いや、そんなことはどうでもいいのです。肝心なのは、『花と怒涛』の新潟の景と同じように、ここからは「この世の出来事」ではなくなる、ということです。『花と怒涛』より明快に、芝居がかりで転換するので、鈴木清順映画に馴れていない人でも、はっきりと「異界」に入ったことがわかるでしょう。
どこで異界に入ったか? じっさいにご覧になればすぐにわかりますが、河津清三郎の屋敷で花ノ本寿が斬りつけられたところからです。斬られた直後に、画面左から赤くなっていくのですが、そんなことが現実にあるはずがなく、リアリズム描写ではないことはわかりますし、清順ファンなら「はじまったな」と思うところであり、かつての池袋文芸座での回顧上映なら、客からかけ声がかかり、拍手が起こるところです。
このあとの、カフェで待つ高橋英樹と松尾嘉代の描写も「あの世」に入っていますが、カフェに運ばれてきて花ノ本寿が息を引き取ったところからは、文字どおりあの世で、常識に囚われていては、ここから先のシークェンスは理解不能です。
高橋英樹に松尾嘉代が傘を渡すところからは完全に芝居がかりで、ここで映画はさらに「あの世」に入りこみます。
ついで、橋の手前で、向こうから橋を渡ってくる日野道夫との殺陣(敵ではないのだからここは理屈が通らないのだが、例によって、ただ出てくるだけではつまらない、という調子で、たんに観客に対する目くらましとして演出された場面かもしれない)があり、刀を受け取って、高橋英樹は橋を渡ります。これはまさしく橋懸かり、橋の向こうは「あの世」の本舞台です。
やはりクライマクスの核心にはたどり着けず、入口どまりでした。もう一回『刺青一代』をつづけることにします。
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