成瀬巳喜男の『浮雲』は、すごい映画だとは思うものの、好き嫌いのレベルに降ろすと、なんともいいようがありません。いえ、嫌いだということを遠まわしにいっているのではなく、ほんとうに曰く云い難いのです。
いやもう、成瀬巳喜男の作品全体も、感じていることを言語化できないまま、見ればやっぱり面白いと思うのです。暗いなあ、重いなあ、と思いつつ、やっぱり見てしまうところが、なんとも不思議です。こういう場合、きっとリズムが合っているのです。無意識裡につくり手のリズムのよさを感じているのに、それが意識の表層にのぼらないから、言語化できないのでしょう。
◆ エキゾティカ・ジャポネ ◆◆
七面倒なことはおいておくとして、今回、二十数年ぶりに『浮雲』を見直したのは、音楽がよかったと記憶していたからです。いや、『モスラ』や『マタンゴ』に使ってもオーケイというぐらいのエキゾティカだったはずで(『ゴジラ』のときに書いたが、あの映画は、撮影監督・玉井正夫、照明・大井英史、美術監督補佐に中古智という、成瀬組のスタッフによって製作された)、それをたしかめたかったからです。
まずは斎藤一郎作のメイン・タイトルをどうぞ。
サンプル 『浮雲』メイン・タイトル
ややジャングル寄りではあるものの、アメリカ音楽の文脈におけば、りっぱにエキゾティカとして通用するサウンドです。なぜこういうサウンドになるかというと、もちろん、ストーリーに添わせたからです。
農林省の役人である森雅之は、太平洋戦争中、軍属として仏印(フランス領インドシナ、すなわちヴェトナム)で働いています。そこへタイピストとして高峰秀子がやってきて、二人は恋に落ちるという設定で、『浮雲』は敗戦後、日本に戻ってからの二人の彷徨を描いています。
仏印でのシーンでは、もちろんこのテーマの変奏曲が使われていますし、ほかの場面にも登場します。全部で六、七回は登場するでしょう。そのうちのひとつ、森雅之のアパートを訪れた高峰秀子が、ひとりぽつねんと物思うシーンに流れるヴァリアントをどうぞ。
サンプル 『浮雲』メイン・タイトル変奏曲
◆ 楽しめる「現実音」 ◆◆
二十数年ぶりに『浮雲』を再見して、記憶していたテーマ曲以外にも、なかなか興味深いものがあることに気づきました。
パンパン嬢になってしまった高峰秀子の掘っ立て小屋に(たぶん義兄という設定の)山形勲が訪ねてきて、俺のうちから勝手に持っていった布団を返せ、と迫るシーンで流れる、ハワイアン・スティール・ギターによるジングル・ベルは、ほほう、でした。斎藤一郎音楽監督は、意識的に南方的サウンドを採用したのかもしれません。
サンプル 「ジングル・ベル」
うーん、いまなら、こういうサウンドは注目ですが、昔はどうだったのでしょうか。どちらかというと古臭い音だったのか、それとも、ラジオから流れてくるという設定なのだから、「ひとひねり入った最新のサウンド」だったのでしょうか。いまになると、そのへんのニュアンスがわからなくて、隔靴掻痒の思いをします。
『浮雲』というタイトルが示すとおり、どこへ向かうでもなく、男と女がひとつの浮き輪につかまるようにして、別れるに別れられず、沈みそうになりながら、ドブ川のような世間をかろうじて漂い流れていく話なので、森雅之と高峰秀子は、しばしば連れだって散策し、また、温泉などに出かけたりします。
両方とも死のうかという思いを抱えて行った伊香保温泉で、宿泊費が足りなくなり、森雅之はオメガの時計を売ろうと、料理屋の亭主の加東大介に相談します。その店で(おそらくラジオから)流れている音楽がまた魅力的です。
サンプル アコーディオン・インストロ
これもいまでは「新しい音」に響きますが、昔はどうだったのやら、さっぱり見当がつきません。当てずっぽうを云うなら、すくなくとも斎藤一郎が「当世風のサウンド」とみなしていたものなのでしょう。
◆ ここで死ねれば本望よ ◆◆
こういう重い映画というのは、ふだんは見ないのですが、たまに成瀬巳喜男を見ると、やはりじわじわと引き込まれていき、なんて暗いんだ、と思いつつも、結局、最後まで見てしまいます。これはもう、映像のリズムの魔力以外に考えられません。
森雅之は「まったくどうにもならない、魂のない人間ができちゃったものさ」と自嘲し、まだなにかを期待する高峰秀子を「ぼくって人間はもぬけの殻なんだから」といって突き放します。
高峰秀子のほうも、森雅之を軽蔑し、「見栄坊で、移り気で、そのくせ気が小さくて、酒の力で大胆になって、気取り屋で」となじります。
それでもなお、この二人は別れず、心中もせず、泥水のなかを果てしなく、あっちに流れ、こっちに漂っていく、いやはやなんとも、こいつはたまらん、という映画です。こういう骨がらみ見る者の心を腐蝕させる映画を何本も撮って(『稲妻』『流れる』『女が階段を上る時』)、それで世界的名声を得たっていうのは、考えてみると、驚異ですな。
高峰秀子はこの映画での演技を絶賛されたそうですが、わたしは森雅之に魅了されます。ほかのだれにこの役ができたでしょうか。こんなひどい所業を働きながら、なおかつ、女が思い切ることができず、最後にはすべてを擲って、いっしょに連れてって! と泣き叫んですがりつくほどの奥深い魅力をたたえた男なんて、森雅之にしか造形できません。
この俳優を見て、これはとんでもない人だ、と思ったのは、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(没落貴族の子弟を演じた)とこの『浮雲』の二本です。不健康で投げやりな色男をやらせたら天下一品、古今無双です。
この二本から考えると、60年代の作品、たとえば黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』や市川崑の『太平洋ひとりぼっち』などは、さすがにみごとに演じてはいるものの、いっぽうで、森雅之である必然性もなく、なんだか宝の持ち腐れのような気もします。
だれか、晩年の森雅之に、老いて落魄したジゴロをやらせてみようとは思わなかったのでしょうかね。『浮雲』の十年後を見たかったと思います。いや、わたしが知らないだけで、そういう映画があるのかもしれませんが。
重苦しい映画なので、斎藤一郎のスコアのことを書くにとどめ、一回で終わるつもりだったのですが、せっかく本をもっているのだから、中古智美術監督のコメントを紹介しようと考え直しました。ということで、もう一回だけ延長させていただきます。
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浮雲 原作
浮雲 (新潮文庫)
メイン・タイトル
by 斎藤一郎(東宝映画『浮雲』より)